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いろはにぴあの(Ver.3)

ピアノを趣味で弾いています。なかなか進歩しませんが少しでもうまくなりたいと思っています。ときどき小さな絵を描きます。

再び耳とテクニックについて少々

2012年02月14日 | ピアノ・音楽

 ピアノと耳について、再び考えてみました。レッスン後の頭を整理するためでもあります。独り言にちかい、まとまっていない文章のうえに、理屈っぽくて息苦しい面もあると思います。読まれる方はそこらへんをご理解ください。

 ピアノを再開したとき、この曲が好き、だから曲への思いをしっかり持って感情豊かに盛り上げて弾きたい、と思っていました。感情に任せて弾いていて、思いがあればかならず演奏に伝わるんだ、と信じていました。リハビリにはハノンをひたすらやっていました。指さえ動けばピアノが弾けるんだと信じていたのです。弾きたい曲がたくさんあって、指さえ動けば弾けるようになるんだと思っていました。希望に満ち溢れていました。

 しかし、実際に演奏したものを聴いて、そういう発想に限界を感じました。思いがあっても、思いを伝える手立てと、思いを感じる裏付けがしっかりしていないと、そうありたいと思えるようには弾けないんだな、と。指は確かに回っているのですが、こう弾いていたという思いからはるかにかけ離れた癖のある演奏が聴こえてきました。これはなんとかしたい、と思いました。

 そうなんです、耳。自分が演奏しているときの場合と、他の人の演奏の場合とでは、驚くほど違うように聴こえることが多いです。先ほどの耳の記事では、他の人の演奏の場合を主体として書いていましたが、自分が演奏している場合のケースもあげる必要があると思いました。(さらにソロの時とそうでない時、などを入れたりしたら、さらに複雑なことになりそうですが、ここでは割愛します)

 そこで必要だと感じたのが、テクニックをちゃんと身に着けることと、曲の仕組みを理解できるようになることでした。

 テクニックというのは、非常に奥が深いです。まず、耳から。こういう音を出したい、と思い、弾いた瞬間それができているかそして次はどういう方向へと持っていくかというモニタリングをしないといけません。先ほどの記事では、自分の演奏についての瞬間的なモニタリングについてはほとんど言及しませんでしたが、ピアノの演奏においては不可欠なものです。いい感じで出た(または出なかった)、次はこういう方向へ持っていこう、という瞬間的なチェックです。この、いい感じで出た、というチェック、その勘、自分の演奏については、私の場合現時点では甘いようであります。甘くしようと思っているわけではないのですが、感覚が鈍いので甘くなってしまっています。どこまでその甘さから克服し、自分の演奏について瞬間的にモニタリングできるようになれるか、ということが課題となります。それこそ耳を鍛える、ということなのかもしれません。

 先ほどの記事では、強弱を認識できる、と書いていたのですが、強弱という書き方はおおざっぱすぎる基準だと思いました。強弱というのも、タイプによって分けられると思います。第一に、f、p、クレッシェンドのような、デューナミクの記号であらわされる分野があります。(そして、実はそのデューナミクの記号も、実をいうと強弱という単一の基準で済ませてしまってはいけないのですが。)そして、第二にフレーズ内での一音一音の位置づけのために必要な「強弱」があります。この音よりはこの音が「強く」なる、そしてここで「弱く」なる、そうなることによってまとまったフレーズとなる、というような。ちなみに前者のデューナミク記号については、はっきりとあらわされていたら、聴き取れると思います。しかし後者のフレーズ内での一音一音の位置づけについては、普段曲を聴くときはほとんど意識しないでいました。また、強弱、というのは、物理的な現象のように思えますが、単にデジベルのような単位だけですませるものではなく、色など質的なものもからんできます。また、方向性というのもからんできます。この方向性、というのが、非常に奥が深く、面白いのですが。

 あと、テクニックの場合、実は耳だけではなくて、その耳に答えるだけの反射神経が必要となります。音がしっかり鳴らせるとか、指が回るとか。前者の音が鳴ったか、という判断、自分が弾いているときは難しいです。鳴らした、と思っていたら押し込んでいたりたたいていたりしただけで鳴ってなかった、と。鳴った時と鳴らなかった時は、物理的にあきらかに違うことが起こっているのですが、その判断が、鍵盤の前にいるときには難しい。本当に奥が深いです。指が回ったか回ってないか、というのは、正しいキーを鳴らしているか、という判断はできると思いますが、そのキーの鳴らされ方離され方が自然か、という判断はできているときとできていないときとがあるのが現状。スローペースで耳をそばだてながらやったらできますが、速くしたり難しいところがあったりすると、判断放棄という状態も多いです。

 それから反射神経の一つに跳躍。正しいキーを鳴らすのに一番私が最も難しいと感じている分野です。これこそ運動神経が必要。音が本当に飛んでいる場合と、飛んでいるようで実は関連性があってつながっているという場合(そちらが多い)とがあるのでそこらへんを気を付けながら、音をはずさないようにというのがポイントです。運動神経のいりそうな分野、他にもありそうですが。。。これこそ取り出して時間をかけてやるしかないのかも。

 曲の仕組みを理解、となると、理論になるのだと思います。でもこの理論、たとえば一例として和音記号が分かるのが、確かに助けになることもあるのですが、実際に感じとってこうひきたいという思いがあってのものに思えてきました。和音記号がわかったからおしまい、というわけではなくて、ここはこう感じるきっかけはこういう和音記号になっているからかもしれない、その響きへのイメージを思い浮かべ、その響きに十分心を配りながら弾こう、というものなのだと感じました。

 ちなみに感性、というのは、ややこしいですが、面白いです。たとえば、この部分は水色の雰囲気で弾きたいと思い、水色を思い浮かべながら弾いたところ、、聴いた人にとっては桃色で聴こえてくるケースも多いと思うし、それが弾き手の望み通り水色として伝わらなかったとしても、けっしてまずいものではないケースも多いので。なので、感性については、まずしっかり感じ取ることが出来たら、実はかなりのびやかになれる分野だと思いました。


フォルテ

2012年02月14日 | ピアノ・音楽
フォルテは「強く」弾けばいいのはない、ということを改めて思い出した今日のレッスン。いつの間にかデシベルの頭になっていてまずいと思いました。そしてやっぱり耳が勝負。想像力と瞬時の判断力が大切。弾くときは耳と頭(心も!)と体がうまくつながることも大切。
油が絞られたところで、急いで、でも急がずに、練習しようと思います。

2012年02月14日 | ピアノ・音楽

 友人がブログで、耳について書いていた。私も耳については気になっている。まことに図々しい話なのだが、子供のころは、自分の耳は結構よいと思っていたのだ(爆)ソルフェージュで楽譜を見て大体の音程で歌ったり、ピアノの単音を聴きとって「ド」とか「ミ」とか言ったりするのはピアノを弾くのよりもできていたので、そのような気分になっていたのだが、実は音楽の耳の世界は、はるかに広くて深いものだった。 2音以上の音程や和音を聴きとりその中身を瞬時で判断したり、それを楽譜に書きとったり再現したり、この曲のこの部分は和声音か非和声音かというのを判断したり、音程がずれていないかを判断したり、さらに広くなるとこの曲はなんという曲か、使われている楽器は何か、何人で演奏しているかを判定したり、等といろいろあるのだった。

 ここで、仮に作った基準から自分の耳判定をしてみようと思う。未分化で中途半端なものなのですが大目に見てください。

強弱:相対的な強弱は分かると思う。ただきわめて弱い音は聴き取れないと思う。

速度:分かると思う。しかしこの速度はメトロノームでどのくらいとかいうのは判定できない。速度記号で示すというのもしたことがない。速いのでアレグロ、プレストとか、遅いのでレント、ラルゴとかぐらい。

拍感:変拍子だったり、判定が難しいようなものでないかぎり、分かると思うが、聴くときちゃんと意識して聴いているかというと謎。

ピアノの単音の音程や高低:その音だけ鳴らした場合は聴き取れると思っていたが、低い・または高い順にカデンツで鳴らされたりすると混乱することがある。先日の歌の発声練習のときは、シとドの区別がつかなかった。ただ、音同士の高低については、判別できると思う。和音になったり音が増えたりするとあやしくなる。この音は音程がずれている、というような音律についてはさっぱり。

歌の音の音程や高低:CDや歌の教室やコンサートで試してみます。かなり怪しそうな気がする。

楽器の音の音程や高低:管楽器は試してみます。リコーダーは大体は聴き取れそうだが、穴の開き具合や息の入れ方によって微妙になることがあり、そういうときは判別不能になることもある。弦楽器は怪しい。音同士の高低については高い低いなどと判別できると思うのだが、それがドとかミであるとかいうのは分からない。それからこれは、聴き取りとは関係ないのかもしれないが、なんだか弦楽器の音は、音自体がフロートしていたり反り返っていたりするように感じることがある。弦をこすっているからだろうか。ちなみにモスキート音などはさっぱり。

聴いている曲からどの楽器が使われているかを判定:ソロやデュオなら、特殊な楽器でなければ分かると思うが、人数が増えると分からなくなる。しかし曲の中でソロで登場する部分のある楽器があるとその楽器については分かると思う。

 そして、音楽を聴くうえでは、さらに呼吸とか流れとか勢いとか音色とか音質とかがとらえられる。そして、これは聴き取った結果だが視覚、触覚、味覚、回想や物語などに基づく言葉など他の要素に関連した言葉と結び付け比喩の形となって出てくることもある。コンサートのレビューがそうだし、この曲のこの部分は何色か?という問いかけもある。そう言いながらも、どうも最近、自分の感想の表現が画一化されてきているような気がしてきている。文芸書を読まなくては(汗)それらの言葉が登場する基準にも、上の未分化の基準が絡んでいるのと思う。耳は心ともつながっている。