11月下旬、久しぶりに京都、大阪を旅することになった。京都へは「アモーレ会」(旧SM会)の行事の一つとして行われた。この会は旧A化成のS氏を中心とした集まりだが、本人の体調が十分ではなく、I氏も不参加になり、結局6人が参加することになった。幹事は大阪勤務が長かったD氏が企画し、「アモーレ会 京都紅葉旅」と名付けられた。当日は正午に「京都駅中央改札口」に集合とのことで、参加者はめいめいが新幹線のチケットをとって京都へ向かう。
6人のうち4人が65歳を超えており、JR「大人の休日倶楽部」の会員だと割引になるので、それぞれがチケットを購入する手筈になったのだ。私は「のぞみ」で正午前に京都に着く便をとり、改札口に行くとすでにD氏、ジャッキー嬢、M氏、H氏の4人が待っていてくれた。もう一人のS嬢は博多からやって来る。すぐに出会えて、全員集合。駅からタクシー2台に分乗して、嵯峨野嵐山に向かった。観光の前にまずバッグを宿に預けて、身軽になろうという狙いである。


タクシーが嵯峨野「渡月橋」に近づくと観光客が溢れており、宿に行くのも一苦労だった。40分近くかかったが、何とか「ご清遊の宿らんざん」に到着。「保津川」沿いの寺院に囲まれたホテルで雰囲気がある。紅葉真っ盛りのシーズンによくこの宿が予約できたものだと感心する。さすがはD氏である。荷物をホテルに預けて、まずは「宝厳院」のもみじを撮影する。それから「天龍寺」の境内に入った。紅葉するもみじをバックに和服姿の三人の女性を発見する。


彼女たちは中国人の女性のようで、和服を着てみたかったのだろう。「竹林の道」に入ると、ここでも中国人観光客が目立つ。何とかD氏オススメの「大河内山荘」に辿りついた。山道を登り、紅葉の絶景ポイントを探す。京都市内が眺望できる見晴台からは紅葉の向こう遠くに「法輪寺」が望める。今年の紅葉は見事で、苔むす庭に落ちたもみじは見ごたえがある。屋外の展示コーナーを覗くと、かつてこの山荘を所有していた映画俳優「大河内伝次郎」氏のコーナーがある。


彼は戦前を代表する銀幕スターで「丹下左膳」の連作が印象に残る。一息ついて「常寂光寺」へ向かった。この寺は「小倉山」の中腹にあり、安土桃山時代の初めに日蓮宗大本山「本圀寺」十六世「日禎」が隠棲の地として当山を開いたと伝わる。200本あまりのカエデともみじの木が点在し、全山が紅葉に包まれており圧巻だった。一説にはこの風景が「常寂光土」のような風情を醸し出していることから「常寂光寺」という寺名になったといわれる。



山道の上り下りは結構疲れる。皆途中で休憩を取りながらの観光になってしまった。山門を降りて、次は「落柿舎」を訪ねる。「落柿舎」は江戸元禄期の俳人「向井去来」が京都の住まいとして建てられたもの。彼は三度この地を訪れたという。庭に柿の木が40本植えられ、ある時柿の実が一夜にしてほとんどが落ちてしまったことから「落柿舎」の名前がついた。「柿主や梢はちかきあらし山」という去来の句をはじめ、師匠の芭蕉や西行、高浜虚子などの俳句が庭内に句碑として残っている

本庵の奥にある「次庵」は今は句会席や茶会などに利用されているそうだ。この日も十数人が集まる句会が開かれていた。庭のベンチでしばし休むが、皆少し疲れがでてきたようなので、ホテルに戻ることにした。「天龍寺」の庭園からのほうが近道なので、中に入ろうとするとここでも金500円の拝観料が取られる。「曹源池」の前の「大方丈」で改めて記念写真を撮り、ホテルに戻った。風呂で疲れを癒やしたりして、午後6時から懐石料理の夕食をいただく。
夕食後、D氏から提案があり、時間を決めて四条河原町界隈を散策することにした。三条までタクシー2台に分乗して、三条側から「先斗町」を歩く。皆思い出の店があるらしく、ワイワイガヤガヤとかしましい。昔よく行ったワンショットバー「我留慕」もまだあったが、改装したようだ。「四条大橋」を渡って、白川地域に入る。この辺りにD氏昔馴染の店があるらしい。「花見小路」に入ると私の懐かしの店「吉うた」もあった。「八坂神社」を覗くとライティングされており、まだ観光客が多い。

飲み物を買い、再びタクシーを拾ってホテルに戻る。翌日の朝食の時間を決めて、この日の観光を打ち上げた。翌朝は揃って湯豆腐や鮭焼き、香の物で朝食を済ませ、京都二日目の観光に出発する。まずは京都でもう一泊するというジャッキー嬢の泊まるホテルまでタクシーで行き、皆のバッグなどを預かってもらい、そのまま「哲学の道」まで送ってもらった。まだ朝9時過ぎのせいか琵琶湖疏水脇の趣のある小道に観光客は少なく、歩きやすい。この道の名の由来に思いを馳せる。
大正期に京都に住んだ哲学者「西田幾多郎」がこの道を毎日のように散策し、哲学的思索にふけっていたことから「哲学の道」といわれるようになった。私たちもそんな気分になってくるから面白い。しかし「永観堂」に近づくにつれて混みあってきた。高齢者や中国人グループに出くわして、おそるおそる「永観堂」に行くと入り口付近は長蛇の列で入場を諦める。「南禅寺」はもっと人出が多く、何とか山門まで行ったが、外から紅葉を撮影するのが精いっぱいだった。

人いきれに負けて、茶店に入り、そのまま昼食場所に向かう。南禅寺から歩いて数分のところにある「白河院」は閑静な佇まいで、中庭の紅葉が素晴らしいらしい。たしかに見事な紅葉だった。この「白河院」は平安期に「藤原良房」が別荘として建て、「北家藤原氏」が代々所有していたそうだ。そして「藤原師実」の時代に「白河天皇」に献上されたことから「白河院」と呼ばれ、その後「法勝寺」が建立されたという。しかし、地震や火災が続き、衰退して廃寺を余儀なくされた。


現在は私立学校教職員組合の所有で、彼らのための保養施設になっている。紹介してくれたのはD氏で、彼のネットワークは相当なものだ。紅葉に染まる庭園を満喫して、座敷で「湯豆腐会席」をいただく。ゆったりした中で、心ゆくまで料理を楽しんだ。しばし休憩の後、この旅最後の観光に出発。「寧々の道」から「高台寺」そして「二年坂」、「三年坂(産寧坂)」を訪れる。混みすぎて店に寄る余裕はない。それでM氏が希望をだしていた「清水寺」の参道に行く。
ここも大変な人出だが本堂「清水の舞台」を目指して階段を上る。しかし、まだ改修工事中のようで、養生の幕が張られており何も見えない。なんだか登って損をした感じだった。皆疲れ果てて、参道を降り、タクシーを拾ってバッグを預けてある平安神宮側のホテルに戻って解散になった。私はこの後大阪へ移動して、昔勤務したテレビ局の後輩たちと懇親会をする予定になっている。皆と別れて、「三条京阪」から「梅田」行の特急に乗り込んだが、思ったよりも混んでいる。
梅田駅について堂島にあるホテルまでタクシーを飛ばす。チェックインを済ませ、懇親会に向けて準備をしているとすぐに時間が経つ。午後6時を過ぎて、新地の懇親会場を目指して出発する。「新地本通り」は相変わらず人通りが多いが、さすがに中国人観光客はいない。なんだかほっとするのがおかしい。目指す店の看板が目立たず、携帯で招待してくれたI君と連絡をとり迎えに来てもらう。店に入ると、今では二人の子持ちになっているO嬢が満面の笑顔で待っていてくれた。
鉄板焼きステーキ「パイナップル」という店でこじんまりした感じ。カウンターが10席ほど、私たちは唯一のテーブル席に陣取る。料理はI君にまかせ、まずは生ビールを頼む。料理は凝った突出しからアワビ、牡蠣からステーキと続く。野菜が盛られた大ぶりなサラダが嬉しい。途中ハイボールに代え、久しぶりの鉄板焼きを楽しんだ。新地の常連らしい人たちが集まるようでカウンターは女性をいかにも同伴らしきカップルが多い。締めはガーリックライスと味噌汁でこれも美味い。
I君は現在東京暮らしだから毎月のように懇親する飲み仲間だ。彼は今回独立して、新会社を立ち上げる予定なので進行状況を聞いた。O嬢は10年ほど前に六本木で会食して以来だから、懐かしさひとしおである。彼女は二人の子育ての真っ最中で、面倒をみるかたわら、自身も自宅でIT関係の仕事をしているそうだ。頑張り屋さんの彼女は今でも溌剌としている。彼女の生き生きした顔が見られるだけでも大阪に来てよかったと思う。彼女も喜んでくれているようで、話は尽きない。
名残り惜しく、I君は近くのスナック「The grass 」に案内する。小一時間歓談していると時間は午後10時前になり、O嬢と記念写真を取って、別れることにした。彼女は子育てに忙しいから無理には引きとめられない。店を出て、これで終わりにしようと思ったが、I君は私を新地のクラブに誘う。私の大阪時代とは店がずいぶん様変わりして、知っているところは少ない。新地本通りに戻って、彼が最近顔を出しているというクラブ「セ・ラ・ヴィ」を覗いてみた。
店は多くの客で混みあっており、流行っているようだ。I君の馴染みらしい若い数人のホステスがついて、焼酎の水割りで盛り上がる。10数年前の大阪勤務時代にたまに顔を出したクラブの思い出がデジャブのようによみがえる。I君にとってはこうした遊びが活力源になっているのかもしれない。時間が深夜12時に近づいて、私は一足早く店を後にする。I君はそのあと「カンバン」まで楽しんだのだろう。久しぶりの新地を楽しませてくれたI君に感謝である。
私はホテルに戻って、ベッドに入る。読書も数ページ進んだだけで眠りに落ちた。翌朝はゆっくり起きて風呂に浸かる。ホテルでの朝食を済ませて、チェックアウト。地下鉄御堂筋線の「梅田駅」まで朝の新地の風景を観察しながら、歩いてみた。その後、新大阪で家族へのお土産を買い求め、新幹線「のぞみ」で帰京。それにしてもこの2日間、京都ではD氏に、大阪ではI君に本当にお世話になった。気の置けない友人はいくつになっても大事なものだとつくづく思う。
6人のうち4人が65歳を超えており、JR「大人の休日倶楽部」の会員だと割引になるので、それぞれがチケットを購入する手筈になったのだ。私は「のぞみ」で正午前に京都に着く便をとり、改札口に行くとすでにD氏、ジャッキー嬢、M氏、H氏の4人が待っていてくれた。もう一人のS嬢は博多からやって来る。すぐに出会えて、全員集合。駅からタクシー2台に分乗して、嵯峨野嵐山に向かった。観光の前にまずバッグを宿に預けて、身軽になろうという狙いである。


タクシーが嵯峨野「渡月橋」に近づくと観光客が溢れており、宿に行くのも一苦労だった。40分近くかかったが、何とか「ご清遊の宿らんざん」に到着。「保津川」沿いの寺院に囲まれたホテルで雰囲気がある。紅葉真っ盛りのシーズンによくこの宿が予約できたものだと感心する。さすがはD氏である。荷物をホテルに預けて、まずは「宝厳院」のもみじを撮影する。それから「天龍寺」の境内に入った。紅葉するもみじをバックに和服姿の三人の女性を発見する。


彼女たちは中国人の女性のようで、和服を着てみたかったのだろう。「竹林の道」に入ると、ここでも中国人観光客が目立つ。何とかD氏オススメの「大河内山荘」に辿りついた。山道を登り、紅葉の絶景ポイントを探す。京都市内が眺望できる見晴台からは紅葉の向こう遠くに「法輪寺」が望める。今年の紅葉は見事で、苔むす庭に落ちたもみじは見ごたえがある。屋外の展示コーナーを覗くと、かつてこの山荘を所有していた映画俳優「大河内伝次郎」氏のコーナーがある。


彼は戦前を代表する銀幕スターで「丹下左膳」の連作が印象に残る。一息ついて「常寂光寺」へ向かった。この寺は「小倉山」の中腹にあり、安土桃山時代の初めに日蓮宗大本山「本圀寺」十六世「日禎」が隠棲の地として当山を開いたと伝わる。200本あまりのカエデともみじの木が点在し、全山が紅葉に包まれており圧巻だった。一説にはこの風景が「常寂光土」のような風情を醸し出していることから「常寂光寺」という寺名になったといわれる。



山道の上り下りは結構疲れる。皆途中で休憩を取りながらの観光になってしまった。山門を降りて、次は「落柿舎」を訪ねる。「落柿舎」は江戸元禄期の俳人「向井去来」が京都の住まいとして建てられたもの。彼は三度この地を訪れたという。庭に柿の木が40本植えられ、ある時柿の実が一夜にしてほとんどが落ちてしまったことから「落柿舎」の名前がついた。「柿主や梢はちかきあらし山」という去来の句をはじめ、師匠の芭蕉や西行、高浜虚子などの俳句が庭内に句碑として残っている

本庵の奥にある「次庵」は今は句会席や茶会などに利用されているそうだ。この日も十数人が集まる句会が開かれていた。庭のベンチでしばし休むが、皆少し疲れがでてきたようなので、ホテルに戻ることにした。「天龍寺」の庭園からのほうが近道なので、中に入ろうとするとここでも金500円の拝観料が取られる。「曹源池」の前の「大方丈」で改めて記念写真を撮り、ホテルに戻った。風呂で疲れを癒やしたりして、午後6時から懐石料理の夕食をいただく。
夕食後、D氏から提案があり、時間を決めて四条河原町界隈を散策することにした。三条までタクシー2台に分乗して、三条側から「先斗町」を歩く。皆思い出の店があるらしく、ワイワイガヤガヤとかしましい。昔よく行ったワンショットバー「我留慕」もまだあったが、改装したようだ。「四条大橋」を渡って、白川地域に入る。この辺りにD氏昔馴染の店があるらしい。「花見小路」に入ると私の懐かしの店「吉うた」もあった。「八坂神社」を覗くとライティングされており、まだ観光客が多い。

飲み物を買い、再びタクシーを拾ってホテルに戻る。翌日の朝食の時間を決めて、この日の観光を打ち上げた。翌朝は揃って湯豆腐や鮭焼き、香の物で朝食を済ませ、京都二日目の観光に出発する。まずは京都でもう一泊するというジャッキー嬢の泊まるホテルまでタクシーで行き、皆のバッグなどを預かってもらい、そのまま「哲学の道」まで送ってもらった。まだ朝9時過ぎのせいか琵琶湖疏水脇の趣のある小道に観光客は少なく、歩きやすい。この道の名の由来に思いを馳せる。
大正期に京都に住んだ哲学者「西田幾多郎」がこの道を毎日のように散策し、哲学的思索にふけっていたことから「哲学の道」といわれるようになった。私たちもそんな気分になってくるから面白い。しかし「永観堂」に近づくにつれて混みあってきた。高齢者や中国人グループに出くわして、おそるおそる「永観堂」に行くと入り口付近は長蛇の列で入場を諦める。「南禅寺」はもっと人出が多く、何とか山門まで行ったが、外から紅葉を撮影するのが精いっぱいだった。

人いきれに負けて、茶店に入り、そのまま昼食場所に向かう。南禅寺から歩いて数分のところにある「白河院」は閑静な佇まいで、中庭の紅葉が素晴らしいらしい。たしかに見事な紅葉だった。この「白河院」は平安期に「藤原良房」が別荘として建て、「北家藤原氏」が代々所有していたそうだ。そして「藤原師実」の時代に「白河天皇」に献上されたことから「白河院」と呼ばれ、その後「法勝寺」が建立されたという。しかし、地震や火災が続き、衰退して廃寺を余儀なくされた。


現在は私立学校教職員組合の所有で、彼らのための保養施設になっている。紹介してくれたのはD氏で、彼のネットワークは相当なものだ。紅葉に染まる庭園を満喫して、座敷で「湯豆腐会席」をいただく。ゆったりした中で、心ゆくまで料理を楽しんだ。しばし休憩の後、この旅最後の観光に出発。「寧々の道」から「高台寺」そして「二年坂」、「三年坂(産寧坂)」を訪れる。混みすぎて店に寄る余裕はない。それでM氏が希望をだしていた「清水寺」の参道に行く。
ここも大変な人出だが本堂「清水の舞台」を目指して階段を上る。しかし、まだ改修工事中のようで、養生の幕が張られており何も見えない。なんだか登って損をした感じだった。皆疲れ果てて、参道を降り、タクシーを拾ってバッグを預けてある平安神宮側のホテルに戻って解散になった。私はこの後大阪へ移動して、昔勤務したテレビ局の後輩たちと懇親会をする予定になっている。皆と別れて、「三条京阪」から「梅田」行の特急に乗り込んだが、思ったよりも混んでいる。
梅田駅について堂島にあるホテルまでタクシーを飛ばす。チェックインを済ませ、懇親会に向けて準備をしているとすぐに時間が経つ。午後6時を過ぎて、新地の懇親会場を目指して出発する。「新地本通り」は相変わらず人通りが多いが、さすがに中国人観光客はいない。なんだかほっとするのがおかしい。目指す店の看板が目立たず、携帯で招待してくれたI君と連絡をとり迎えに来てもらう。店に入ると、今では二人の子持ちになっているO嬢が満面の笑顔で待っていてくれた。
鉄板焼きステーキ「パイナップル」という店でこじんまりした感じ。カウンターが10席ほど、私たちは唯一のテーブル席に陣取る。料理はI君にまかせ、まずは生ビールを頼む。料理は凝った突出しからアワビ、牡蠣からステーキと続く。野菜が盛られた大ぶりなサラダが嬉しい。途中ハイボールに代え、久しぶりの鉄板焼きを楽しんだ。新地の常連らしい人たちが集まるようでカウンターは女性をいかにも同伴らしきカップルが多い。締めはガーリックライスと味噌汁でこれも美味い。
I君は現在東京暮らしだから毎月のように懇親する飲み仲間だ。彼は今回独立して、新会社を立ち上げる予定なので進行状況を聞いた。O嬢は10年ほど前に六本木で会食して以来だから、懐かしさひとしおである。彼女は二人の子育ての真っ最中で、面倒をみるかたわら、自身も自宅でIT関係の仕事をしているそうだ。頑張り屋さんの彼女は今でも溌剌としている。彼女の生き生きした顔が見られるだけでも大阪に来てよかったと思う。彼女も喜んでくれているようで、話は尽きない。
名残り惜しく、I君は近くのスナック「The grass 」に案内する。小一時間歓談していると時間は午後10時前になり、O嬢と記念写真を取って、別れることにした。彼女は子育てに忙しいから無理には引きとめられない。店を出て、これで終わりにしようと思ったが、I君は私を新地のクラブに誘う。私の大阪時代とは店がずいぶん様変わりして、知っているところは少ない。新地本通りに戻って、彼が最近顔を出しているというクラブ「セ・ラ・ヴィ」を覗いてみた。
店は多くの客で混みあっており、流行っているようだ。I君の馴染みらしい若い数人のホステスがついて、焼酎の水割りで盛り上がる。10数年前の大阪勤務時代にたまに顔を出したクラブの思い出がデジャブのようによみがえる。I君にとってはこうした遊びが活力源になっているのかもしれない。時間が深夜12時に近づいて、私は一足早く店を後にする。I君はそのあと「カンバン」まで楽しんだのだろう。久しぶりの新地を楽しませてくれたI君に感謝である。
私はホテルに戻って、ベッドに入る。読書も数ページ進んだだけで眠りに落ちた。翌朝はゆっくり起きて風呂に浸かる。ホテルでの朝食を済ませて、チェックアウト。地下鉄御堂筋線の「梅田駅」まで朝の新地の風景を観察しながら、歩いてみた。その後、新大阪で家族へのお土産を買い求め、新幹線「のぞみ」で帰京。それにしてもこの2日間、京都ではD氏に、大阪ではI君に本当にお世話になった。気の置けない友人はいくつになっても大事なものだとつくづく思う。