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「やぶにらみ」政治・経済・社会・生活歳時記

現代の日本の政治・経済・社会・生活全般の動きを追うとともに、日ごろの関心事、旅の経験、飲み屋探訪などを紹介する。

ぶらり生活日記438 久しぶりの京都、大阪への旅

2018年12月13日 | ぶらり生活日記
 11月下旬、久しぶりに京都、大阪を旅することになった。京都へは「アモーレ会」(旧SM会)の行事の一つとして行われた。この会は旧A化成のS氏を中心とした集まりだが、本人の体調が十分ではなく、I氏も不参加になり、結局6人が参加することになった。幹事は大阪勤務が長かったD氏が企画し、「アモーレ会 京都紅葉旅」と名付けられた。当日は正午に「京都駅中央改札口」に集合とのことで、参加者はめいめいが新幹線のチケットをとって京都へ向かう。

 6人のうち4人が65歳を超えており、JR「大人の休日倶楽部」の会員だと割引になるので、それぞれがチケットを購入する手筈になったのだ。私は「のぞみ」で正午前に京都に着く便をとり、改札口に行くとすでにD氏、ジャッキー嬢、M氏、H氏の4人が待っていてくれた。もう一人のS嬢は博多からやって来る。すぐに出会えて、全員集合。駅からタクシー2台に分乗して、嵯峨野嵐山に向かった。観光の前にまずバッグを宿に預けて、身軽になろうという狙いである。





 タクシーが嵯峨野「渡月橋」に近づくと観光客が溢れており、宿に行くのも一苦労だった。40分近くかかったが、何とか「ご清遊の宿らんざん」に到着。「保津川」沿いの寺院に囲まれたホテルで雰囲気がある。紅葉真っ盛りのシーズンによくこの宿が予約できたものだと感心する。さすがはD氏である。荷物をホテルに預けて、まずは「宝厳院」のもみじを撮影する。それから「天龍寺」の境内に入った。紅葉するもみじをバックに和服姿の三人の女性を発見する。





 彼女たちは中国人の女性のようで、和服を着てみたかったのだろう。「竹林の道」に入ると、ここでも中国人観光客が目立つ。何とかD氏オススメの「大河内山荘」に辿りついた。山道を登り、紅葉の絶景ポイントを探す。京都市内が眺望できる見晴台からは紅葉の向こう遠くに「法輪寺」が望める。今年の紅葉は見事で、苔むす庭に落ちたもみじは見ごたえがある。屋外の展示コーナーを覗くと、かつてこの山荘を所有していた映画俳優「大河内伝次郎」氏のコーナーがある。





 彼は戦前を代表する銀幕スターで「丹下左膳」の連作が印象に残る。一息ついて「常寂光寺」へ向かった。この寺は「小倉山」の中腹にあり、安土桃山時代の初めに日蓮宗大本山「本圀寺」十六世「日禎」が隠棲の地として当山を開いたと伝わる。200本あまりのカエデともみじの木が点在し、全山が紅葉に包まれており圧巻だった。一説にはこの風景が「常寂光土」のような風情を醸し出していることから「常寂光寺」という寺名になったといわれる。







 山道の上り下りは結構疲れる。皆途中で休憩を取りながらの観光になってしまった。山門を降りて、次は「落柿舎」を訪ねる。「落柿舎」は江戸元禄期の俳人「向井去来」が京都の住まいとして建てられたもの。彼は三度この地を訪れたという。庭に柿の木が40本植えられ、ある時柿の実が一夜にしてほとんどが落ちてしまったことから「落柿舎」の名前がついた。「柿主や梢はちかきあらし山」という去来の句をはじめ、師匠の芭蕉や西行、高浜虚子などの俳句が庭内に句碑として残っている



 本庵の奥にある「次庵」は今は句会席や茶会などに利用されているそうだ。この日も十数人が集まる句会が開かれていた。庭のベンチでしばし休むが、皆少し疲れがでてきたようなので、ホテルに戻ることにした。「天龍寺」の庭園からのほうが近道なので、中に入ろうとするとここでも金500円の拝観料が取られる。「曹源池」の前の「大方丈」で改めて記念写真を撮り、ホテルに戻った。風呂で疲れを癒やしたりして、午後6時から懐石料理の夕食をいただく。

 夕食後、D氏から提案があり、時間を決めて四条河原町界隈を散策することにした。三条までタクシー2台に分乗して、三条側から「先斗町」を歩く。皆思い出の店があるらしく、ワイワイガヤガヤとかしましい。昔よく行ったワンショットバー「我留慕」もまだあったが、改装したようだ。「四条大橋」を渡って、白川地域に入る。この辺りにD氏昔馴染の店があるらしい。「花見小路」に入ると私の懐かしの店「吉うた」もあった。「八坂神社」を覗くとライティングされており、まだ観光客が多い。



 飲み物を買い、再びタクシーを拾ってホテルに戻る。翌日の朝食の時間を決めて、この日の観光を打ち上げた。翌朝は揃って湯豆腐や鮭焼き、香の物で朝食を済ませ、京都二日目の観光に出発する。まずは京都でもう一泊するというジャッキー嬢の泊まるホテルまでタクシーで行き、皆のバッグなどを預かってもらい、そのまま「哲学の道」まで送ってもらった。まだ朝9時過ぎのせいか琵琶湖疏水脇の趣のある小道に観光客は少なく、歩きやすい。この道の名の由来に思いを馳せる。

 大正期に京都に住んだ哲学者「西田幾多郎」がこの道を毎日のように散策し、哲学的思索にふけっていたことから「哲学の道」といわれるようになった。私たちもそんな気分になってくるから面白い。しかし「永観堂」に近づくにつれて混みあってきた。高齢者や中国人グループに出くわして、おそるおそる「永観堂」に行くと入り口付近は長蛇の列で入場を諦める。「南禅寺」はもっと人出が多く、何とか山門まで行ったが、外から紅葉を撮影するのが精いっぱいだった。



 人いきれに負けて、茶店に入り、そのまま昼食場所に向かう。南禅寺から歩いて数分のところにある「白河院」は閑静な佇まいで、中庭の紅葉が素晴らしいらしい。たしかに見事な紅葉だった。この「白河院」は平安期に「藤原良房」が別荘として建て、「北家藤原氏」が代々所有していたそうだ。そして「藤原師実」の時代に「白河天皇」に献上されたことから「白河院」と呼ばれ、その後「法勝寺」が建立されたという。しかし、地震や火災が続き、衰退して廃寺を余儀なくされた。





 現在は私立学校教職員組合の所有で、彼らのための保養施設になっている。紹介してくれたのはD氏で、彼のネットワークは相当なものだ。紅葉に染まる庭園を満喫して、座敷で「湯豆腐会席」をいただく。ゆったりした中で、心ゆくまで料理を楽しんだ。しばし休憩の後、この旅最後の観光に出発。「寧々の道」から「高台寺」そして「二年坂」、「三年坂(産寧坂)」を訪れる。混みすぎて店に寄る余裕はない。それでM氏が希望をだしていた「清水寺」の参道に行く。

 ここも大変な人出だが本堂「清水の舞台」を目指して階段を上る。しかし、まだ改修工事中のようで、養生の幕が張られており何も見えない。なんだか登って損をした感じだった。皆疲れ果てて、参道を降り、タクシーを拾ってバッグを預けてある平安神宮側のホテルに戻って解散になった。私はこの後大阪へ移動して、昔勤務したテレビ局の後輩たちと懇親会をする予定になっている。皆と別れて、「三条京阪」から「梅田」行の特急に乗り込んだが、思ったよりも混んでいる。

 梅田駅について堂島にあるホテルまでタクシーを飛ばす。チェックインを済ませ、懇親会に向けて準備をしているとすぐに時間が経つ。午後6時を過ぎて、新地の懇親会場を目指して出発する。「新地本通り」は相変わらず人通りが多いが、さすがに中国人観光客はいない。なんだかほっとするのがおかしい。目指す店の看板が目立たず、携帯で招待してくれたI君と連絡をとり迎えに来てもらう。店に入ると、今では二人の子持ちになっているO嬢が満面の笑顔で待っていてくれた。

 鉄板焼きステーキ「パイナップル」という店でこじんまりした感じ。カウンターが10席ほど、私たちは唯一のテーブル席に陣取る。料理はI君にまかせ、まずは生ビールを頼む。料理は凝った突出しからアワビ、牡蠣からステーキと続く。野菜が盛られた大ぶりなサラダが嬉しい。途中ハイボールに代え、久しぶりの鉄板焼きを楽しんだ。新地の常連らしい人たちが集まるようでカウンターは女性をいかにも同伴らしきカップルが多い。締めはガーリックライスと味噌汁でこれも美味い。

 I君は現在東京暮らしだから毎月のように懇親する飲み仲間だ。彼は今回独立して、新会社を立ち上げる予定なので進行状況を聞いた。O嬢は10年ほど前に六本木で会食して以来だから、懐かしさひとしおである。彼女は二人の子育ての真っ最中で、面倒をみるかたわら、自身も自宅でIT関係の仕事をしているそうだ。頑張り屋さんの彼女は今でも溌剌としている。彼女の生き生きした顔が見られるだけでも大阪に来てよかったと思う。彼女も喜んでくれているようで、話は尽きない。

 名残り惜しく、I君は近くのスナック「The grass 」に案内する。小一時間歓談していると時間は午後10時前になり、O嬢と記念写真を取って、別れることにした。彼女は子育てに忙しいから無理には引きとめられない。店を出て、これで終わりにしようと思ったが、I君は私を新地のクラブに誘う。私の大阪時代とは店がずいぶん様変わりして、知っているところは少ない。新地本通りに戻って、彼が最近顔を出しているというクラブ「セ・ラ・ヴィ」を覗いてみた。

 店は多くの客で混みあっており、流行っているようだ。I君の馴染みらしい若い数人のホステスがついて、焼酎の水割りで盛り上がる。10数年前の大阪勤務時代にたまに顔を出したクラブの思い出がデジャブのようによみがえる。I君にとってはこうした遊びが活力源になっているのかもしれない。時間が深夜12時に近づいて、私は一足早く店を後にする。I君はそのあと「カンバン」まで楽しんだのだろう。久しぶりの新地を楽しませてくれたI君に感謝である。

 私はホテルに戻って、ベッドに入る。読書も数ページ進んだだけで眠りに落ちた。翌朝はゆっくり起きて風呂に浸かる。ホテルでの朝食を済ませて、チェックアウト。地下鉄御堂筋線の「梅田駅」まで朝の新地の風景を観察しながら、歩いてみた。その後、新大阪で家族へのお土産を買い求め、新幹線「のぞみ」で帰京。それにしてもこの2日間、京都ではD氏に、大阪ではI君に本当にお世話になった。気の置けない友人はいくつになっても大事なものだとつくづく思う。

 


 





















ぶらり生活日記437 妻の母親が100歳を前にして逝去

2018年12月03日 | ぶらり生活日記
 妻の母親「小口禎子」さんが100歳を前にして旅立った。正確には99年1か月と4日の生涯を終えた。妻にとっては最愛の母だったから、その悲しみの大きさは推し量れないものだ。義母は3年前までは気丈にも大宮・土呂の自宅で一人暮らしを続けていた。それが足を骨折したことから老人施設への入居を奨めたのだ。子供は妻と姉の二人だったから、妻は毎週3回は施設に通い続けていた。私も妻に誘われ見舞いに行ったのは義母の死去の前日だった。

 妻には「虫の知らせ」があったのかもしれない。夕方、施設から危篤との電話が受け、慌てて夫婦二人で施設に出向いた。残念ながら死に目に立ち会うことはできなかった。病院長からは「老衰」との理由を告げられる。急に血圧が下がり、死に至ったそうだ。あと1年弱で100歳を迎えられたと思うといたたまれない気持ちになった。妻は覚悟していたのだろうが、死に直面して涙が止まらない。すぐに姉と連絡をとって、葬儀の仕方や日程を決めなければならない。



 妻のたっての願いは遺体を一度自宅に帰してあげたいという思い。すぐに施設の近くにある葬儀場「彩愛メモリアル」に相談に行く。担当してくれるチーフのM氏はまず遺体をどうするか、葬式のやり方はどうするか親切に対応してくれた。今は「家族葬」が一般的で一日で通夜・葬儀を済ます人もいると言う。遺体も預かってくれるそうだが、妻は遺体を一日は自宅に戻してあげたい、通夜・葬儀は二日にわたって行いたいとの意思が強く、その流れで義母を見送ることになった。

 この日は赤羽の自宅に帰って、翌日早めに義母の土呂の自宅に行くことにした。昼前には旅先から姉夫婦が到着し、しばらくしてM氏が遺体を運んできてくれて、自宅奥の和室に安置する。姉妹がそろって対面を果たし、義母の身体に触れながら言葉をかける。その姿に義兄とともに涙に誘われる。一段落して、姉妹は参列してくれる人たちへの連絡に忙しい。姉の子供たちなど親族へは姉が、長野県岡谷の親戚へは姉妹が訃報を告げる。近所の人たちへは姉妹が直接出向く。

 この日は姉妹が義母のそばでろうそくの火を絶やさないために実家に泊まることになった。私は赤羽に戻り、妻の指図に従い準備をする。翌日は朝早く土呂に出かけ、近くのスーパーで食べものなどを買い求め、彼女たちに差し入れる。昼前にM氏が女性の「おくりびと」二人を伴って現れた。死化粧を済ませてから遺体と対面する。旅立ちの衣装はどうするかと問われ、義母が好んで身に着けていた服を着せる。準備が整って棺に入れるのだが、義母の体は想像していたより軽い。



 通夜を前に義母の人生を振り返ってみた。キッカケは最後の見舞いのときに施設の人たちが贈ってくれた誕生日の寄せ書きだった。多くの人たちのメッセージに共通するのは「笑顔がステキ!」とか「笑顔に癒やされます」とのお褒めの言葉だった。いつも穏やかで、冷静な対応は施設に入ってからも変わらなかったようだ。なんだか自分も褒められている感じになり嬉しかった。そんな義母は長野県雄幸で生まれ、「信州電気」に勤務するなかで結婚を迎えたという。

 義父は同郷の朝日新聞社記者として活躍していた。支局勤務が長く、東京を中心とする「人口衛星記者」だったらしい。私の妻も小中高を通して数回の転校を繰り返していたという。東京勤務になって大宮に居を構える。二人の娘も順調に育ったころ、義母は一念発起して一人で「ハワイ旅行」に出かけたそうだ。これを機会に彼女は水彩画や「鎌倉彫」に熱中する。腕はメキメキ上達して師範の資格をとり、その後は自宅や公民館で講師をつとめるまでになっていた。



 夏休みや冬休みには一緒に旅に出ることが多くなり、甥や姪たちとスキーに行ったこともある。お盆や正月には実家の大宮に大勢で訪れ、義母の信州料理を肴に盛り上がった。この会は義父の死後も続き、義母が施設に入ってからも実施してきたのはよい思い出である。彼女は決して前に出るタイプではないが、静かに皆を見守り、やさしい笑顔で迎えてくれる人だった。本当は芯の強い、考え方のしっかりした人で娘たちにとっては頼れる存在だったのだろう。



 通夜には早めに親族10名が集まり、葬送の準備を整える。義母が作った鎌倉彫や彼女が自ら作った「思い出の写真集」、施設の方々からの「誕生日メッセージ」などをテーブルに配置して、義母を偲んでもらうことにした。ほどなく長野県岡谷から駆けつけてくれた親戚が現れ、姉妹は対応に忙しくなった。式が始まり、ご近所の方たちも次々に参列してくれた。「家族葬」として連絡は控えめだったが、これだけの人たちが来てくれたのは義母の日ごろの精進のたまものだろう。





 翌日の葬儀もしめやかに行われ、義母の鎌倉彫教室の生徒だった人たちも駆けつけてくれた。告別式終了後、納棺に際しては義母が大好きだった花々を入れる「お花入れ」、加えて義母の思い出の品々を入れて最後のお別れになった。親族が棺を運び、出棺の挨拶は長女行った。そのとき彼女の夫が音頭を取り「信濃の国」を合唱する。この歌は義母の生前に彼が施設で歌い、床に伏していた義母も懐かしそうに口を動かしていたそうだ。義母を送るのにふさわしいお別れである。





 火葬場には親族と親戚を中心に20名近くが参列してくれた。棺を火葬炉に収め、収骨までの時間を使って、精進料理の食事。お浄めの挨拶は長女の夫が勤め、「献杯」する。親族と親戚の義母を慕う会話は尽きない。時間はまたたくまに過ぎて再び火葬場におもむく。お骨を「二人挟み」で骨壺に収め、葬儀は無事に終了となった。「四十九日法要」まではお骨を我が家で預かることになり、皆を送り出してから私たちはタクシーを呼んで戻り、急ごしらえの祭壇を設えた。

 

 

 











































 

ぶらり生活日記428 先輩たちとの「三人会」はお盆のはざまでゆっくり

2018年08月24日 | ぶらり生活日記
 M氏、S氏との「三人会」は8月のお盆の週に開催することになった。皆リタイアして時間が自由の身になっているから、どこでも混みあうお盆の最中に予定を入れることは少ない。銀座の蕎麦屋「国定」に当初は15日お盆の中日にするつもりだったが、あいにく夏休みだというので、14日(火)に集まることになった。この夏の猛暑ゆえ蕎麦屋がよいと3人の意見が一致したのだ。時間は開店する午後5時半からで、自宅を小一時間前に出て、「国定」に向かう。

 店に着くとすでにS氏は到着しており「それにしても暑いですね」とこの夏の掛詞のようになったあいさつを交わす。傍らの蕎麦打ち場では店主のM嬢がこの日の蕎麦を打っている。この場面に遭遇するのは久しぶり。「国定」は全国各地の地酒が飲める店なので、私は仙台土産の特別な「浦霞」を持ち込んだ。これは瑞巌寺の修復が完成した記念に発売されたもので、その名も「瑞巌寺」という吟醸酒である。冷蔵庫で冷やしてもらおうと酒を渡すと、M氏が現れて全員集合になった。

 まずは冷やしてもらっていた「瑞巌寺」を開ける。ところが、M氏は体調がすぐれないとのことで、グラスに2センチほどと控え気味だ。健康診断で肝臓の数値が上がったらしく、この数日酒は飲んでいないという。店主のM嬢や手伝いの女性も呼んで、乾杯になった。M嬢によると「辛口だが、飲みやすく、品がよい」というのが彼女の評価だった。つまみをいろいろ頼んで宴が始まった。枝豆から始まって厚揚げ九条ネギ添え、名物「国とん」などを注文して盛り上がる。

 冒頭、体調不良を理由にM氏から9月の旅行、「岩瀬牧場とこけしを訪ねる旅」中止のお詫びを告げられ、私がホテルのキャンセルなど無事に終わったことを報告する。M氏は最年長だから無理はしないほうがよい。この日の話題はM氏から「日本の社会は劣化している」との問題提起があり、政官界の腐敗や相次ぐ企業の不正について真面目な議論になった。私はこのブログで「劣化する日本」についても書いているので我が意を得たりという感じだった。



 もっともその一方で大震災や集中豪雨などの対応で市民がボランティア活動を展開し、新たな社会づくりに向けた萌芽が見られる事実もあげて、希望はあるのではないかと述べた。古希を過ぎても三人の会話は留まることをしらない。M氏、K氏ともに若々しく、元気だ。店おススメの冷酒をお代りして盛り上がった。ついでに店主のM嬢に参加してもらって、久しぶりに記念写真を撮る。締めはうちたてのセイロ蕎麦でのど越しがよく、相変わらず美味かった。

 さて二次会はとなったが、M氏がもう一軒付き合うというので、銀座からタクシーを飛ばして、四谷三丁目「おろく」に向かう。「おろく」に着いて、S氏と私はハイボール、M氏は自制してここもウーロン茶。店主のY嬢にはワインを奨め、乾杯になった。お盆の最中でも平常営業をしている店は私たちにとって貴重な存在だ。M氏から次回は懸案の「ボイストレーニング」をやろうと提案があった。S氏と私は再三の申し出にもう逃げられないと覚悟を決めて、賛同した。

 教えを受けるのは銀座のママさんらしく、その日は彼女のバーに寄ることになりそうだ。楽しみでもあり、ちょっと不安な気持ちもある。小一時間お邪魔して、この日はこれで散会することにした。M氏を送って、まだ飲み足りないS氏と私は荒木町の入り口にある「パインフィールド」に寄って飲み直し。いつものように常連たちで満員だが、何とか席を作ってもらって、カウンターに陣取る。店主M氏の弾き語りワンマンショーの唄に酔いしれて、お開きになった。
















 

ぶらり生活日記427 87回を数える「被災地域の日本酒を飲む会」に参加する

2018年08月17日 | ぶらり生活日記
 8月10日(火)に開催された「被災地域の日本酒を飲む会」に久しぶりに参加した。この会は「東日本大震災」が起きた数か月後からNPO地域交流センターの主催で毎月11日前後に開かれている。8月でなんと87回目になるというから、息の長い取り組みになっている。センター代表のH君の努力に頭が下がる。会場は神田神保町にある「ブックカフェ20世紀」で毎回10数人が参加している。この日は午後6時半過ぎに着いたが、すでに多くの人が集まっていた。

 幹事のH君の挨拶で会が始まる。「西日本豪雨」の影響があってか、テーブルには広島や愛媛の地酒が数本用意されている。まずH君から「愛媛県西予市」が作成した「平成30年7月豪雨による被災状況」の報告があった。7月5日から8日にかけての4日間で535.5mmの降雨量を記録し、6日から7日にかけての24時間に降った雨は347mmで観測史上最大であったという。人的被害は死亡5名、避難指示による避難者は954名を数えたそうだ。

 スライド上映による各地の被災写真がその惨状を物語る。続いて現地が猛暑の中、ボランティア活動に奔走した人たちから明るい話題の提供があった。「農と食女性協会」の代表I嬢が被災者に「ジェラート」を被災者に配って喜ばれた話だ。その経緯を語るとともに、実際に提供されたジェラートの試食をすすめてくれた。果物をふんだんに使ったもので、妙に日本酒にも合う。報告が終わると、H君の音頭で参加者一人一人が自己紹介をかねた、この会恒例の一分間スピーチになった。

 知った顔も多いのだが、参加者の3分の1ぐらいは初めての顔で、そのスピーチが結構面白い。中でも「街路樹を守れ!」との運動を起こしたA嬢の話に好奇心を刺激された。彼女は二年前の7月、非常勤講師をしている「共立女子大学」から自転車で帰宅の途中、「神田警察通り」である光景にぶつかる。時間は午後9時半ごろ、イチョウ並木を伐採するチェーソーの音に驚かされたという。彼女は勇気を出して、工事関係者に直訴。「みんなが親しんできたイチョウ並木をどうして切ってしまうのですか」。

 そして「これは千代田区の財産でしょう」と迫った。駆けつけた区の職員が「今日は切るのをやめます」と約束したのは午前3時になってしまったそうだ。この出来事から彼女は「街路樹伐採計画」を知ることになる。行動派の彼女はネットで「街路樹を守って!」の声を上げた。呼びかけに答えた署名は3日で1万人、6日で3万人規模になったという。調べてみると、ほかに「白山通り」でも同様の事態になっていた。これは大変と彼女は区議会に5件の陳情書を出す。

 その結果、区議会の企画総務委員会は保存の方針を全会一致で決め、東京都にも保存を申し入れることになったそうだ。これを機に大手マスコミもこの問題を取り上げるようになり、街路樹伐採は一時中断される。この伐採事業は都区議会の議員たち多くが知らなかったようだ。環境問題に取り組むとした「エコの小池都知事」に対する批判の声も上がり始めた。ある夕刊紙によると「東京五輪マラソンコース」のための伐採かとか「電線地中化」政策の一環かとも報道されている。



 こうした声を受けてA嬢は「千代田区の街路樹を守る会」を結成し、精力的な活動を展開している。今では「明大通り」のプラタナス伐採反対につながり、都下の調布市駅前の伐採計画反対運動にまで広がりを見せているそうだ。市井の一市民だったA嬢の抗議の一声から始まったこの運動について、彼女は「街路樹はいのち、街路樹はめぐみ」をスローガンに活動を強化していくという。元気で真剣な彼女を見て、こちらのほうが勇気をもらった感じだった。

 自己紹介が一巡して、懇親会でもA嬢の話でもちきりになった。彼女を囲んでイベントのコンサルをしているM氏、建設コンサルを今でも続けているHS氏に加え、数年前に妻を亡くし、この会も「婚活」の一環と話す、にくめないMK氏も集まってきた。皆彼女の活動に共鳴して、手伝うことを約束してしまった。時間は午後9時を回って、そろそろ散会の時間になる。彼女から「もう一軒行きましょう」と誘われたが、初対面なので遠慮する。今日はよい会になった。






















ぶらり生活日記426 7月定例会は西新宿「青ヶ島屋」からスタート

2018年08月10日 | ぶらり生活日記
 7月定例会は下旬に西新宿にある「青ヶ島屋」からスタートした。午後5時半のスタートにしたので、銀座から地下鉄丸ノ内線を使って新宿へ行く。猛暑とあって、出来るだけ太陽の下には出たくないのだが、地下道が通じているのは途中まで。「小滝橋通り」沿いに歩くこと7,8分なのだが、分かりにくい場所で付近をうろつくはめになってしまった。「東宝観光ビル」の二階なのだが、それらしき店が見当たらない。すると二階の窓からS氏、K嬢の顔が覗いた。



 安心して、二階に上がったが、今度は入り口に看板もなく、入るのに躊躇する。店ではS氏、K嬢が笑顔で迎えてくれた。この店は5月の「かめ」ツアーで行った、青ヶ島の民宿「あおがしま屋」が経営しており、息子と娘が采配を振るっているようだ。予約の電話を入れた時、すぐに島の女将に連絡してくれたそうだ。地魚をメインに明日葉など郷土の野菜料理があり、美味しかったことが印象に残っている。席について歓談しているとすぐにH嬢も到着して、全員集合。

 まずは生ビールで乾杯する。枝豆やおひたし、明日葉の天ぷらなどを頼んで一息つく。この日は高温多湿の真夏日で冷えたビールが美味い。刺身の盛り合わせは青ヶ島直送の魚で、カンパチ、尾長鯛、アオリイカなどの大ぶりな切り身が並んでいる。このつまみには冷酒かと思ったが、店主のK君に勧められた地酒の「青酎」の「前割り」を飲むことにした。「前割り焼酎」とは焼酎と水を好みの割合で混ぜ、3日から1週間寝かせたもののことをいうらしい。

 焼酎と水がよく馴染んで、口当たりがまろやかになるそうだ。「青酎 池の沢」はアルコール度35パーセントだが、同量の水で割れば、17.5%になる。ついつい飲みすぎてしまう味のよさで、刺身にもよく合う。続いて、イサキの煮つけやカンパチの兜焼きなどを頼んで、我がチームは勢いがついてきた。特に健啖家のS氏、H嬢の食欲はこの日も旺盛のようだ。隣のテーブルにいたグループはこの店の常連らしいが、「青ヶ島」に行ったことはないそうだ。

 私が青ヶ島の経験談を話すと、羨ましがられてしまった。こんな出会いも面白い。締めには名物の「島ずし」とアラ汁を注文。「島ずし」は島で獲れた魚を醤油漬けにしたもので、この日はイサキを中心にした三種盛で、鮮度の良さが感じられ、絶品だった。上がりのお茶を出してくれたのはK君の妹さんで、私が5月に行った「青ヶ島」での体験を話すと大喜びしてくれた。さて二次会をどこにするか思案していると、S氏から次に寄る店を指定された。

 彼は以前Tガスに勤務しており、「パークタワー」の住人だったので、西新宿界隈はことのほか詳しいようだ。夜な夜な通った店が多くあるらしい。歩いてすぐのイタリアン「ビストロ・サンク」という店で、内装や調度が落ち着いていて、雰囲気がある。彼の顔なじみの女性店主と会話が弾む。皆でシャンパンを飲み、チーズをつまみに再び盛り上がる。酒がなくなり、白ワインをボトルで注文し、海外旅行話に花が咲く。K嬢は10月に姉夫婦と一緒にパリに行くことになったらしい。





 私は9月にロシアに行く予定だが、今でもビザの取得が必要だと苦労話をする。飲んで話し込んでいると、小腹が空いてくるから不思議だ。ホワイトアスパラの和え物、オムレツなどを追加する。S氏の「赤ワインもいきますか」の言葉にどうせならとボトルにしようということになり、つまみで牛肉ステーキサラダ風も追加する。私は途中、チェイサー代わりにハイボールを飲んでいたので、すでにほろ酔い気分。さすがに満腹になり、店を後にすることにした。

 もう勢いは止まらない。三軒目はこれもS氏の案内でダーツバーに立ち寄った。私にとってはダーツは懐かしいゲームだ。昔有栖川公園にあった「1001」という店でで当時「ダーツ」の世界チャンピョンだった女性に手ほどきを受けたことがある。S氏も久しぶりだったらしく、初めは「加点ゲーム」にした。しかし、そればかりでは面白くないので「301」ゲームに変更した。これは最後に残った点数に入れなければ「勝ち」にならない。皆の表情が真剣になる。

 時間が午後10時近くなって、ゲームの途中で熱海に帰らなければならないK嬢はタイムアップ。彼女の代わりはH嬢でなんと自分の番ではなく、K嬢のゲームでピタリ残り点に命中した。数ゲーム楽しんで、この場はお開きになったが、まだ3人は名残惜しさもあり、もう一軒になった。四谷三丁目の「パインフィールド」までタクシーを飛ばし、小一時間過ごして、フィニッシュ。三人は車で帰ることになり、楽しい宴は終了。私は久しぶりに「午前様」の帰宅になってしまった。