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「やぶにらみ」政治・経済・社会・生活歳時記

現代の日本の政治・経済・社会・生活全般の動きを追うとともに、日ごろの関心事、旅の経験、飲み屋探訪などを紹介する。

ぶらり生活日記443 S氏が主宰する「成城学園会」に参加する

2019年02月27日 | ぶらり生活日記
 2月に入って、元A化成勤務のS氏が主宰する懇親会に参加した。メンバーはS氏の遠戚にあたるF氏、東北・仙台にあるGMSの幹部R嬢に加え、「アモーレ会」の幹事であるD氏の4人で、私は三度目の参加になる。この会は数年前から開催されているらしいが、F氏も元Sスーパー出身なので新聞社時代に流通・サービス業を長く担当していた私に声がかかったようだ。ただし開催場所は皆小田急沿線なので、S氏の家が近い成城学園駅そばの飲食店で開催されるのが常らしい。

 この日の懇親会の場所は成城学園駅前の中華料理店「桂花」。昔、現役時代にも何回か訪れたことがある店で懐かしい。JR赤羽駅から新宿を経由して、小田急線に乗り換え、成城学園前駅北口からすぐの雑居ビルの2階だからわかりやすい。S氏からのショートメールで午後5時集合とあったので、早めに自宅を出た。店に着くと、すでにS氏は来ており、まずは生ビールで乾杯だが、彼はいきなり熱燗にする。前菜盛り合わせを頼んで皆を待つことにした。

 ところがなかなか参加者が現れない。30分ほど経って、F氏が現れ、続いてR嬢、D氏が登場した。彼らによると集合時間は午後5時半からということだったらしい。皆が揃って、改めて乾杯になった。さっそく海老チリソース、名物の麻婆豆腐などを頼んで盛り上がる。F氏はS氏の遠戚に当たる人物で、親戚の法事などで会う機会が多くなり、飲み仲間として縁が復活したという。彼はSスーパー勤務時代、企画、販促部門などで活躍し、GMS全盛期をよく知っている。



 当時は流通・サービス業の成長期だったから、いろいろ新事業に取り組むことができたようだ。新業態の開発はもちろんのこと、他社との提携や買収業務にも関わったという。彼は充実した会社人生を送ったのだろう。私もSグループにはいろいろな思い出があり、彼と共通の知人が多かったので話題が尽きることはない。彼はグループ会社出向を含めて60歳で定年退職し、今では悠悠自適の生活を送っているそうだ。奥さまを亡くしてから一人で毎年クルーズツアーに参加しているという。

 ヨーロッパを中心に世界を旅して、異郷の歴史文化や食事そして市民たちとのふれあいを楽しんでいるという。クルーズ旅は今では夫婦参加よりも女性のグループ客が多くなっているそうだ。そうした人たちとディナーを共にして歓談すること船内のイベントではとくに社交ダンスで相方志願の女性が多いらしい。羨ましいほどの活動ぶりである。彼は博識の上に愛される人物だから自然と友達が増えていくのだろう。彼にとってクルーズ旅は自己実現のための糧になっているといえそうだ。

 R嬢の経歴も面白い。彼女は大学卒業後、東京で広告会社IK社に就職し、マーケッターとして活躍していたそうだ。その後縁あって社内結婚し、二人の息子をもうけたという。子育てが一段落してからは父君の経営するEスーパーに入社、現在では役員として活動の場を広げている。ここに至るまでにはそれなりの苦労があったのだろうが、快活で明るく、物おじしない女性だ。上背があり、スタイル抜群でとても50代には見えない。どこへ行っても人気者のようだ。

 D氏はこの場では彼女圧倒され、翻弄されている感じだ。締めにチャーハンと焼きそばを頼んでこの場を切り上げた。二次会は駅前のカラオケバー「ジョイ」に決まっている。S氏が常連の店なので、皆にとっても居心地がよい。R嬢は歌謡曲からポピュラーまでレパートリーが広いから歌いだすと簡単には終わらない。マイクを放さず、他のグループから声をかけられるとデュエット曲まで披露する。見ていて気持ちがよい。負けじとF氏、D氏も参戦し歌合戦が始まった。

 S氏と私はあいまをぬって、歌う機会をもらう。S氏は肺気腫の持病もちだが、本来はカラオケ好き。昔のような激しい曲はだめだが、石原裕次郎などのムード歌謡を歌う。2時間弱歌いまくって、お開きになった。カラオケで声を出すことは健康に良いし、ボケ防止にも有効という説もある。S氏のおかげで、また気の置けない友達が増えた。再会を約束して駅で別れたが、別れ際にR嬢は全員にハグをプレゼント。元気なおじさん、おばさんの姿を見せられるのは嬉しいものだ。



















ぶらり生活日記442 友人S氏と鎌倉散歩から鎌倉芸術館へ

2019年02月22日 | ぶらり生活日記
 友人S氏からお誘いがあり、1月下旬に午後から鎌倉方面に繰り出した。彼は落語家「立川談春」の大ファンらしく、今回は私にお誘いがかかったのだ。快諾すると彼からせっかくの機会なので「鎌倉散歩」でもしませんかと声をかけられた。当日は午後1時過ぎの「湘南新宿ライン」のグリーン車で待ち合わせることにして、私は赤羽から、彼は渋谷から乗ることになった。平日の午後だから混雑していない。携帯で連絡を取り、座席で落ち合うことができた。

 席に着くと、S氏はいきなり缶ビールとつまみを差し出す。私は受け取ったものの、近年は昼から酒を飲むことは控えている。昼から飲みだすと肝心の夜の席でのビールが美味く感じられないからだ。渋谷から小一時間でJR「鎌倉駅」に着いた。まずは「小町通り」を抜けて久しぶりに「鶴岡八幡宮」に行ってみた。ここでも中国人観光客の団体が目立つ。「三の鳥居」前の信号もすぐには渡れないほどの混みあいだ。「若宮小路」を背にして、境内に入り素早く参拝をすませる。

 八幡宮裏から「鎌倉街道」に出て、「北鎌倉駅」まで散策することにした。途中「建長寺」があり、覗いてみる。臨済宗建長寺派の大本山で鎌倉五山第一位の寺院とされる。開山は中国「宋」の禅僧だった「蘭渓道隆」が起こしたと伝えられる。鎌倉時代中期に権勢を振るった「北条氏」の本拠地であったことから、隆盛を極めたという。北鎌倉側の外門には「天下禅林」の掲額がある。その意味は「人材を広く天下に求め育成する禅寺」でありたいとの願いからきている。





 続いて北鎌倉で梅の名所として名高いという「東慶寺」に立ち寄った。しかし、梅はまだ開花したばかりのようで、ちらほらと紅梅、白梅が咲きだした感じ。奥までS氏と歩いてみたが、山の上に向かって墓所が広がっている。少し疲れが出てきたので、ベンチに腰かけて寺のパンフレットを見る。この寺の歴史は知らなかったので好奇心を刺激された。開基は鎌倉時代に「時宗」の子で第九代執権を勤めた「北条貞時」で、当時の時代背景がよく分かる。

 「後醍醐天皇」の皇女が「護良親王」の菩提を弔うために建てられた寺で、鎌倉五山第二位の格式の高い「尼寺」だそうだ。そんな歴史から、明治に至る六百年に渡って、「縁切寺法」を守り「駆け込み寺」として存続してきたという。しかし、明治35年に「廃仏毀釈」が実施され尼寺としての歴史が終わった。その後、建長寺、円覚寺両派の管長だった「釈宗演」が入寺し、再興されたという。現在では彼を慕った哲学者「鈴木大拙」をはじめ、著名人の墓が多いそうだ。





 せっかく鎌倉に来たのだから「円覚寺」を訪ねないわけにはいかない。鎌倉時代の1282年、北条時宗が宋の高僧「無学祖元禅師」を招いて開山したと伝わる。目的は国家の鎮護、禅の普及、そして何よりも「蒙古襲来」での戦没者を敵味方の区別なく弔うことだったようだ。正式な寺名は「瑞鹿山円覚興聖禅寺」といい、「円覚」は「えんがく」と読むのが正しいそうだ。人々の宗教教育を狙いにしていたことから、市民を巻き込んで「座禅会」を開くことが常であった。



 明治期からは文人「夏目漱石」や「島崎藤村」、そして哲学者「三木清」など多くの著名人が顔を出していたそうだ。現在でもその伝統は引き継がれており、学生や一般向けの「座禅会」が催されている。ここで一服することにして、S氏がネットで事前に調べてきた喫茶店に立ち寄ってみた。街道に面した民家で木造の建物と庭の雰囲気がいかにも鎌倉らしい。中に入り、S氏はいつものシャンパンとワイン、私はビールを頼み、名物だというピロシキを頼んで休息の時間にした。



 木造の店舗の中は芥川龍之介や坂口安吾、太宰治などの書籍があり、「文芸喫茶」という感じだった。小一時間ほどで店を後にして、北鎌倉駅から「大船駅」に向かった。駅に着いたのは午後6時前で軽く夕食をということになり、近くの焼き鳥屋に入った。まずは生ビールで乾杯して、焼き鳥、煮込みを注文。S氏は調子が出てきたようで、赤ワインをボトルで頼んでいる。S氏の健啖家ぶりにはいつも驚かされる。会計をお願いすると、値段は至極リーズナブルだった。

 いよいよ「立川談春 独演会」の時間が迫って「鎌倉芸術館」へ。会場は小ホールで、満員の盛況だ。「立川談春」は「立川談志」門下で52歳になる。テレビ番組「下町ロケット」や多くの映画や舞台作品にも出演しており、知名度は全国クラスの人物。独演会は全国ツアーで開催しており、落語家のステージでは最もチケットが手に入りにくい噺家の一人だそうだ。前振りの話はテレビ、映画出演の際の役者に関する人となりや社会評論でそれほど面白くはなかったが、会場は大受けだ。

 会場の暖房が心地よく、ついついうとうとしてしまう。本題の古典落語はさすがの出来栄えで、上手い。立川流は談志時代の破門経験があり、今でも落語の「定席」には出演できないというから、彼は一門の存続のために地道な精進を重ね、独自の境地を切り開いたのだろう。彼の人気もさもありなんである。午後9時に閉演して、駅に向かったが、S氏から飲み直しに誘われ、まだ営業しているピザハウスに入った。30分ほど飲みなおして、最終の「新宿湘南ライン」に飛び乗り、帰途に着いた。

 


















ぶらり生活日記441 正月の歌舞伎鑑賞は浅草から

2019年01月30日 | ぶらり生活日記
 正月の歌舞伎鑑賞は「浅草公会堂」での「新春浅草歌舞伎」からスタートした。浅草は江戸期では随一の繁華街として栄え、天保年間以降は「江戸三座」と呼ばれる幕府公認の芝居小屋が立ち並び、歌舞伎が大いに発展した街。そうした流れを受けて、昭和55年(1980年)に「初春花形歌舞伎」として復活し、今年で38回目の公演になるそうだ。近年は若手俳優が芸を磨き、大役に挑む登竜門として定着し、浅草の正月の賑わいを彩るメインの催しになっている。



 午前11時開演の「昼の部」なので、妻とともに赤羽の自宅を午前10時前に出発した。上野から地下鉄銀座線に乗り換えて、浅草まで行くのだが、30分強しかかからない。雷門前も松の明けの平日とあって、それほど混みあってはいない。和服に着替えた中国人カップルが目立つ程度だった。公会堂の前はさすがに人だかりがしていて、ここでも和服姿の女性が多いのが正月らしい風景だ。館内の一階は歌舞伎関連の縁起物を売る店があり、買い物客で賑わっている。



 席は一階の中央部で見やすそうだ。11時になり、始まりは恒例の若手役者による年始のあいさつ。例年だとちょっとした歌舞伎鑑賞の手ほどきがあるのだが、今年は舞台運営の設定がタイトらしく、すぐに引っ込んでしまった。昼の部の皮切りは常盤津連中による「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」。 京の郊外にある紫野が舞台で、桜と菜の花が咲き乱れる春景色のなか、駕籠かきが客を乗せて登場する。登場人物はこの三人。常盤津の演奏にのって舞踏を繰り広げる。

 先棒を担ぐ次郎作実は「石川五右衛門」に「中村歌昇」、もう一人与四郎実は「真柴久吉」役は「中村種之助」が勤める。二人は客を乗せたまま一服することにして、互いに大坂と江戸のお国自慢を始める。踊りを舞いながら、面白おかしく競い合うが、どちらが良いか結論は出ない。ここで、駕籠の客も出てきて、三人の語りになる。客は島原の「傾城 小車太夫」の禿(かむろ)たより(中村梅丸)で大坂、京、江戸の郭話が始まり、それぞれの自慢を踊りながら語りだす。

 次郎作は男伊達になったつもりで傾城買いの様子、たよりはクドキを聞かせながら、島原の郭の様子を踊って見せる。続いて与四郎が江戸吉原の中でも下級の「鉄砲見世」の様子を踊る。盛り上がって男二人が息の合った踊りを見せると、次郎作の懐から連判状が、与四郎の懐からは「千鳥の高炉」が落ちる。互いの持ち物から実は次郎作は大盗賊の「石川五右衛門」、与四郎は「真柴秀吉」であることが発覚する。軽妙洒脱な踊りっぷりは正月の舞台にふさわしい。

 二つ目は「源平布引滝 義賢最後」。江戸期に人形浄瑠璃として初演され、二段目に当たる本作は木曽義仲の父 義賢(尾上松也)を主人公にした物語だ。舞台は琵琶湖近くにある「木曽先生義賢」の館から始まる。「平治の乱」で平清盛に敗れた義賢の兄 源義朝は東国へ逃れる途中で自らの家臣に討たれ、源氏の勢力は衰えていた。義賢は今は仕方なく清盛に仕える身だが、まだ信用されておらず、病と称して館に引きこもっていた。

 そんな時、百姓の九郎助とその娘小万(板東新悟)が行方不明になっている夫 折平(中村隼人)を探して館に訪ねてくる。しかし、折平は義賢に仕える中で娘の待宵姫(中村梅丸)と恋仲になっていた。事情を知る義賢の後妻 葵御前(中村鶴松)は困ってしまう。ここへ折平が戻ってくる。実は彼は源氏一族の「多田行綱」で源氏再興の機会をうかがっていた。いよいよ義賢が登場し、折平に使いの首尾を尋ねるが、要領を得ない。事情を察した義賢は折平に本心を打ち明ける。

 義賢は源氏の白旗を持ち出し、自らも源氏再興を願っていることを語りだす。舞台前半のみどころで松也の台詞が聞かせる。後半は義賢への不信を募らせる清盛配下の使者から詮議を受ける場面になる。使者は首桶から亡き義朝の髑髏を取り出して、義賢に二心がないならばこの髑髏を足蹴にするよう迫る。もはやここまでと観念した義賢は折平とともに使者たちを撃退することを決意する。使者の一人は討ち捨てるが、もう一人には逃げ出されてしまう。

 折平は義賢に落ち延びるように促すが、義賢は平家につかまって恥をさらすよりはここで潔く討死する覚悟であると告げる。折平には待宵姫と身重の葵御前を連れて逃げ延び、源氏の旗揚げをするよう命じる。やがて平家の軍勢が近づき、義賢は素襖という武家の礼服に着替え、大立ち廻りを演じる。しかし多数の軍勢を前に、歌舞伎特有の表現である戦いの場面、「戸板倒し」や「仏倒し」という見せ場を作り、「白旗」を口にくわえ、自らの腹に刀を突き突き刺し、壮絶な最期を遂げる。

 油が乗ってきた松也の演技は目を見張るものがある。三つ目は「芋掘長者」。常盤津の名家でもある十世 板東三津五郎の振付で2005年に歌舞伎座で45年ぶりに復活上演された作品だそうだ。物語は松ケ枝家の息女緑御前(板東新吾)の婿選びとして、「舞の宴」が開かれる。舞の名手二人が待つ中、本編の主人公「芋掘藤五郎(板東巳之助)」と友人「治六郎(中村橋之助)」が現れる。藤五郎は一目見たときからひそかに緑御前に思いを寄せている設定だ。

 藤五郎は舞の名人と偽って、何とかこの場に招待された人物で、舞の名手である治六郎と一計を案じたのだ。実は挨拶の後、衝立の後ろで面をつけた治六郎と入れ替わることにしていた。彼は見事な舞を披露して緑御前を感動させたものの、彼女から面をとって舞ってほしいと懇願される。仕方なく二人で舞うことにして、藤五郎は治六郎の振りをまねて踊るが、どうしても一拍遅れになってしまう。緑御前も舞に参加して三人で踊ることになったが、二人の振りに藤五郎はついていけない。

 観念した藤五郎は自らの得意な、常日頃歌い踊っている「芋掘り」に切り替えることを提案。この舞を見た松ヶ枝家後室や名手の二人は今までに見たことがない日本一の舞だとほめたたえる。藤五郎は自らを山一つ隔てた場所に住む芋掘りであることを明かす。さて緑御前の思いはと想像しながらも華やかな連舞は続き、幕となった。初春らしい出しもので、豊かな時間を過ごすことができた。松也、新悟、歌昇、巳之助など中堅・若手の斬新な意気込みが感じられ、楽しい舞台になった。





 終演後、余韻に浸りながら「浅草寺」で初詣。想像はしていたが、仲見世通りは大混雑で歩くのも容易ではない。国内の上京した人たち、修学旅行の中学生、欧米系の観光客そしてここでも中国人の団体客が押し寄せ、賑わいを見せている。車夫たちも稼ぎ時とばかり大声を張り上げている。何とか本堂に辿りついて、参拝する。帰りは仲見世通り脇の小道を歩き混雑を避けた。江戸期の賑わいから数世紀が経っているが、浅草が東京でも指折りの観光地であることは変わらないようだ。

 

 











































 

ぶらり生活日記440 新年は三度の新年会からスタート

2019年01月15日 | ぶらり生活日記
 2019年は平成最後の年になる。大して感慨はないが、天皇のあり方と平成時代の日本の総括が問われる年になるかもしれない。そんな思いを抱きながら元旦を迎えた。しかしこの日は妻と姉親族が開く恒例の新年会の準備でで忙しい。昨年、妻の母が百歳を前に亡くなり、義母の住んでいた大宮の家で開催する意味がなくなっていた。年末から妻は姉と相談を重ね、姉の三女K子ちゃんの家で新年会を実施することを決めたから、様変わりの元旦新年会になった。

 K子ちゃんは昨年11月に横浜・鶴ヶ峰の一戸建てを購入して、住み始めたばかり。彼女たちは新居で初めて正月を迎えることになったから、新築祝いを兼ねることにしたのだ。姉夫婦の子供たちは皆横浜近辺に住んでいるので、赤羽から行く私たちにとってはかなり遠い地でもある。逆に昨年までは彼らのほうが大変だったろう。妻と姉は正月料理の準備も綿密に検討しており、「鯉のうま煮」をどうするか話し合ったようだ。亡き義母の出身地、長野県岡谷では正月に欠かせない一品である。

 妻は年末29日に赤羽の鮮魚店で鯉のぶつ切り三尾分を買い、姉の家へ届けることになった。この料理は煮込むのに丸一日以上かかる。私は妻に指定された食材の買い出しに御徒町の「吉池」などに出かける。アナゴの干物やフグ皮、煮凝りなどを仕入れた。元旦当日は年賀状をちらっと見ただけで、お雑煮も食べずに出かける準備をしなければならない。持参するものを急いで妻とともに確認して、午前10時半には赤羽の自宅を出て、横浜・鶴ヶ峰に向かった。

 この日は例年好評だった「おでん」は持参しなくてよいから、保冷バックは重くない。赤羽から「上野東京ライン」で横浜まで45分、相模鉄道線に乗り換え快速だと「鶴ヶ峰駅」まで15分で思っていたより時間はかからない。鶴ヶ峰駅からバスで10分ほどなので、乗り換え時間を入れても1時間半で新築のK子ちゃん宅に到着することができた。すでに姉夫婦、長男夫婦と子供一人、長女のY子ちゃんは着いており、風邪で欠席の次女Mちゃんを除いて全員集合になった。

 まずは新築の住宅内を案内される。リビングが吹き抜けになっており、広々とした感じで、陽射しがこころよい。最近の戸建て住宅はよくできている。続いて、キッチンに入って料理の準備に取り掛かる。カニは三種あり、タラバに包丁を入れる。「ふるさと納税」で姉が北海道から入手したという「毛がに」は鮮度がよく、ミソの質がよいので美味しそうだ。刺身は中トロ、赤身にスルメイカ、タコを切り分けて二皿に盛り合わせ。甘海老も乗せると結構豪華な感じだ。

 フグ皮のもみじおろしポン酢和えを作り、アナゴは焼く準備を整えた。ローストビーフはこの家の主人K君が調理したもので、切り口がきれいだ。これに「三越」のおせち料理をセットして食卓が完成だ。三日がかりの「鯉のうま煮」は乗せるスペースがない。全員がテーブルに集合して、義兄Y氏の年始のあいさつで宴が始まる。皆食欲は旺盛で、喜んでくれたようだ。締めはアナゴとエビの焼き物、握りずしで大いに食べまくったがなかなか「鯉のうま煮」までは行きつかない。

 酒をビールからシャンパン、赤白ワインに代え、それに義兄と私は熱燗で新年のお祝いを楽しんだ。三時間ほどで、宴席を切り上げる。せっかくの「鯉のうま煮」はそれぞれの家族に持ち帰ってもらうことにした。今年は亡くなった義母を偲んで、よい新年会になっとと思う。義母も草葉の陰から喜んでくれたに違いない。午後6時前には散会になり、それぞれ帰途に着く。私たち夫婦は来た時と同じコースで帰ったが、想像以上に早く自宅に戻ることができた。妻と姉に感謝である。

 2回目の新年会は8日で、この日は学生時代の友人たちと埼玉県大宮で開催。ゴルフ仲間であり、昨年は1月にマレーシアKLでお世話になったA君夫婦を囲む会だった。冬場のゴルフはパスさせてもらっているので、飲み会にしたのだ。KLに同行してくれたN君を加えた4人のささやかな新年会で、幹事はA君夫妻がつとめる。彼らは埼玉県熊谷在住なので、帰るのに都合がよい大宮にしたらしい。夫婦でよく行く飲み屋やカラオケ店があるようだ。

 私がたまには美味い焼き鳥が食べたいと言ったこともあり、鶏に特徴がある店「鳥良」を選んでくれたようだ。夕方5時に集合だから、早めに地図を頼りに店に出向いた。大宮駅東口を出て、右に入るとすぐに飲み屋街になる。「南銀座通り」というらしい。2分ほど歩くと、店の前にすでに到着していたA君夫妻と出会う。午後5時の開店までまだ15分ほどあるので、昔から興味があった裏道のバー街を散歩すると、怪しそうなガールズバーがあったりして面白い。

 午後5時を回ったのでA君夫婦に先に店内に行ってもらい、店の前からN君の携帯に電話を入れる。少し迷っていたようだが、人通りの多い中彼を発見して、宴が始まった。この店は「手羽先唐揚げ専門店」の名前から分かるように鳥が売りの店だ。個室に案内され、A君は2時間5,000円の飲み放題コースを頼んで、生ビールからスタート。刺身の盛り合わせから名物だという「鳥の唐揚げ」やフォアグラの茶碗蒸しなどが出て、生ビールを冷酒に代えて、料理を満喫する。

 素材がよく、美味い。A君夫婦は今年の1,2月はKLには行かないらしく、悠悠自適の日々を送ることにしたらしい。毎年恒例だったから、たまには休むのもよいかもしれない。仕上げは二種類の鶏のしゃぶしゃぶでいろいろな味を楽しめる。締めの雑炊もいただいて、時間を見ると、ちょうど2時間を経過して打ち上げる。まだ午後7時過ぎだから、「認知症」対策になるという「カラオケ」タイムにすることにした。店を出るとすぐそこがカラオケ「ビッグエコー」だった。

 ここも2時間縛りにして、ハイボールを頼み、歌合戦に突入した。それぞれ持ち歌が違うからそれなりに楽しめる。A君夫婦は毎週のように歌っているらしく、声が通る。奥さんは鍛錬のせいか、レパートリーが広い。旦那が絶叫調なのに比べて、しみじみと歌い上げる。N君とは久しぶりのカラオケだが、ニューミュージック系の歌手「浜田省吾」が歌う曲が多いのには驚かされた。時間が迫ってもなかなか曲が尽きないほどこの日は皆で歌いまくり、新年会を終えた。

 11日は小舟町「かめ」で常連たちが集まり、新年会を開催した。この会の代表幹事を務めるK氏が音頭をとって実現したもの。彼は今でも現役で海外出張が多く、台湾から「からすみ」と「紹興酒」を仕入れ、この場で味わおうとのオマケ付きで、多くの常連たちに呼びかけた。K氏の肝いり企画なので、10名を超える参加者が集まった。顔なじみのS氏、KG氏、SO氏、M嬢、T氏、最年少のI君をはじめ、久しぶりのF氏、KR氏、K嬢そして落語家のU師匠の顔も見える。

 店のママとR嬢も満員の盛況で、気合を入れて料理を準備したようだ。カウンターには十種類ほどの中華や和食が並んでいる。まずは「白酒」と「紹興酒」で乾杯になった。生ビールはチェイサー代わりの感じで喉を潤す。K氏が持ち込んでくれた「からすみ」は大根の輪切りが添えられ、つまみには絶品。私も台湾製のからすみを何度か食べたことがあるが、柔らかめで塩分が適度だから食べやすい。それに紹興酒にもよく合う。皆の笑顔がはじける。

 10人を超えると、挨拶の後どうしても数人ごとに話題が分かれる。私は少し遅れたので、K氏とKG氏、U師匠との会話が弾む。KG氏は奈良から今年初めて上京したらしく、お互いに近況報告。師匠からは年賀にと名入りの手ぬぐいをいただいて恐縮した。冷酒も頼んで、宴は最高潮になる。席を移動して、S氏と久しぶりに政治、社会談義。「韓国問題」を巡って議論を展開した。「かめ」で再婚のお祝いをしたF氏はその後も奥さまと仲良くやっているようだ。

 I君は若くして金融会社を退職、仲間と共に投資顧問会社を立ち上げるという。いかにも現代の若者らしく、自らリスクをとって将来へ向かうのは頼もしい。M嬢は私が新聞社時代に常連だった神田の寿司屋「吉亀」によく行くというから、次回は彼女と一緒に店に顔を見せることになった。遅れてN氏も到着して、「カラオケ」タイム、U師匠の「三題噺」を楽しんで、お開きの時間になった。この店で知り合い、気の置けない仲間になった人たちとの会合はいつでも嬉しいものだ。

 




















 






















 

 

ぶらり生活日記439 大学時代の友人たちと「夏目漱石」を訪ねる街歩き

2018年12月18日 | ぶらり生活日記
 秋の深まりを感じる頃、学生時代の友人たちと「夏目漱石」の足跡を中心に都内の旧跡を訪ねる街歩きに出かけた。メンバーはI君、M君、K君、T君に一年後輩のO君で6名が参加した。今回もO君が行程をアレンジしてくれた街歩きなので期待できる。集合は午後1時半に地下鉄丸ノ内線「後楽園」駅改札口。M君とは数十年ぶりの出会いなので楽しみにしていた。いざ会ってみると、昔の面影そのままで少しも変わっていない。もちろん白髪や顔のしわが増えているのだが。



 参加者全員が揃って、まずは「伝通院」まで歩く。ここは漱石の著作「それから」のヒロイン「三千代」の実家があった辺りだそうだ。
伝通院は江戸初期に家康の生母「於大の方」の遺言に従い、その霊を弔うために家康がこの地に徳川家菩提寺の一つとして建立したもの。寺名は「於大の方」の法名「傳通院殿」にちなんでつけられたという。幕末には「新撰組」の前身である「浪士組」が結成されたゆかりの地でもあり、浪士「清河八郎」の墓が残っている。

 続いて、漱石が一時下宿していた「法蔵院」に立ち寄り、「金剛坂」に向かう。この辺りは「それから」の「代助」が「神楽坂」から三千代の家に通った道らしい。途中、この日は欠席となったOZ氏が勤務していた「TOPPAN小石川ビル」の「印刷博物館」を見学する。企業博物館で「コミュニケーション・メディアとしての『印刷』の価値や可能性を紹介し、印刷への理解と関心を高める」ことを目的として、印刷の「過去・現在・未来」のゾーン展示を行っている。



 「ラスコーの洞窟壁画」や「ロゼッタストーン」など古代を「前印刷期」、宗教の法典などの「黎明期」から、「グーテンベルグ」以降の活字印刷開始と図版の登場、そして「デジタル時代」の印刷の変化まで網羅的に展示されており、興味深い。印刷工房では来年のカレンダーを活版印刷するなど面白い体験だった。小一時間滞在して、街歩きを再開。神楽坂界隈の「地蔵坂」は「代助」の家があった辺りだ。坂を下りると「漱石」が愛用したという文具店「相馬屋」がある。



 「相馬屋」は現在でも健在で、O君たちは小石川や神楽坂などの街歩きを紹介する小冊子を買い求めた。それから新宿区指定史跡になっている「芸術倶楽部跡・島村抱月終焉の地」を訪ねる。この芸術倶楽部は坪内逍遥とともに「文芸協会」を立ち上げた島村抱月が出資し建設したもので、文士たちの集いの場だったようだ。路地を抜け、「漱石」の妻「鏡子」の実家があった場所の近くにある「新潮社」の前を通って早稲田南町にある「新宿区立 漱石山房記念館」に向かった。



 この地は「漱石」が40歳の時、朝日新聞社に入社し、妻子と共に居を構えたところだそうだ。彼の代表作「三四郎」や「それから」、「道草」、「明暗」などはここで執筆された。この山房には「漱石」を慕う門下生たちが集まり、「木曜会」が開催された場所としても知られている。しかし、建物は昭和20年5月の大空襲で焼失しその後は一部が「漱石公園」、残りは区営住宅になっていたそうだ。区は区営住宅の移転を機に、この地に記念館設立を思い立ったようだ。





 区は市民から浄財の提供を広く呼びかけ、2017年9月に「漱石山房記念館」としてオープンする運びになったそうだ。まだ設立一年強で私も全く知らなかった。館内は展示室のほか二階には「漱石」の書斎が再現され、多くの書籍に囲まれて、執筆にいそしんだ状況がうかがえる。まだ発展途上のようだが、今後の充実に期待したいものだ。最後の目的地は早稲田大学構内にある「坪内逍遥記念館」。早稲田通りに出ると大きな鳥居が見える懐かしい「穴八幡宮神社」のようだ。



 商店街を抜けて、大学の正門脇の道から校内に入り、「坪内逍遥記念館」まで坂道を登る。すでに夕暮れで、校舎から漏れる灯りがたよりに昔を思い出しながら進む。やっとそれらしき建物を発見して、閉館間際の館内に滑り込む。この記念館は英文学者であった坪内逍遥の古希とシェークスピア全集全40巻の翻訳完成を記念して1928年に建設された。建物はイギリスの名劇場「フォーチュン座」を模して設計されたもので、改築されても当時の面影を残している。



 私は早大時代一回も中に入ったことがないので、実は初めての訪問だった。解説によると、日本で初めての「演劇博物館」でもあるそうだ。坪内逍遥の演劇に対する志や業績のほか、早大出身の演劇人の活動紹介とともに、過去から現在にいたる公演ポスターが所せましと並べられているが、よく知らない人もいる。午後5時の閉館時間が迫り、駆け足で見学を終えることになった。懇親会は5時半からというので、皆で先ほどの「穴八幡宮神社」にも寄ってみた。



 昔とは様変わりで、交番脇にはなかった大鳥居が聳え、灯りとともに階段が整備されている。登りきると立派な社殿に生まれ変わっている。まだ工事中のようだが、本殿や社務所は朱色に彩られ、灯りに浮かび上がる。元来「商売繁盛」や「開運」「出世」を叶える神社だから、企業や商人の氏子たちが、多額の寄進をしているのかもしれない。何度か訪れた学生時代の寂れた雰囲気とは大違いだった。あの頃のほうが情緒があったようで、何となくさびしい感じになる。

 そんな感慨を抱きながら懇親会場に戻る。O君が手配してくれたのは、あの懐かしい「高田牧舎」。私たちの学生時代は大学正門前の洋食店として活況を呈していた。その歴史は古く、明治時代に遡るという。初代は「穴八幡宮神社」近くで牧場を経営しており、日露戦争の1905年に「ミルクホール」として開業した。当時はあの「大隈重信」邸に新鮮なミルクを届けていたらしい。戦災後につたのからまる洋食店になり、私たちの学生当時は高級店だったと記憶している。

 チーズカツレツやポタージュスープが印象に残っている。2016年から4代目が仕切って、石釜に薪を燃やしてピザを焼くイタリアンレストランとして再出発したという。店内に入るとさすがに学生や教職員が多いようだ。私たちは食べ放題、飲み放題のコースにして、前菜、サラダからパスタ、ピザまでを楽しみ、酒は生ビールから赤白ワイン、ハイボールなどを頼んで盛り上がる。友人たちが学生時代に戻ったように怪気炎を上げるところは昔のままだった。