6月初旬の平日に亡き「水落寛」ちゃんの墓参に出かけた。きっかけは彼の奥さまから誘いの封書を受け取ったことだった。彼は2013年に亡くなったから、今年は七回忌の節目にあたる。通夜、葬儀以来何となく疎遠になっていたから、二つ返事で参加することを決め、この日になった。菩提寺は勝どきにある「東陽院」。この寺は江戸期に日蓮宗の「浄源院日隆上人」によって「丸の内」で開山され、徳川三代将軍家光の時代に浅草に移転した。
その後大正12年の関東大震災で類焼し、15年にこの地月島(当時)に寺を構えることになったそうだ。門前で奥さまと午後3時に待ち合わせると、彼女は二女と笑顔で迎えてくれた。昔、寛ちゃんに頼まれて就職の手伝いをした娘かと思ったが、そうではなかった。ほどなく長女が自家用車で到着して参拝になった。しかし境内には墓地らしものがまったくない。奥さまに案内され、寺の中にに入ると棟続きの庫裡に数百の墓石が並び、ここが墓地になっているようだ。
それぞれの墓石の下に納骨スペースがあり、安置されているそうだ。仏像の脇でろうそくに火をつけ、線香を灯して墓前に立ちお詣りする。私は今まで数多くの墓参りを重ねてきたが、このやり方は初めてだった。庫裡の建物の中なので、雨や風など天候を気にする必要がないのは合理的かもしれない。水落夫婦は東京・文京区生まれで中学、高校と一緒だったというから、ここに墓を建てることを奥さまが望んだのだろう。言い方は悪いが便利で、いつでも気軽に訪ねられる。
20分ほど庫裡にいて、墓参を終え、私は外に出て一服。すると傍らに「十返舎一九」の墓碑が見える。「一九」は江戸期にあの「東海道中膝栗毛」を著した作家だが、死後当時は浅草にあった「東陽院」に葬られた。墓碑には辞世の句「此世をば どりゃお暇に 線香の 煙と共に はい左様なら」という川柳が刻まれている。いかにも「一九」らしい作で不謹慎ながら笑いに誘われる。住職への挨拶を終えた三人と共に寺を後にして、偲ぶ会として用意した会場へ向かう。
だが時間はまだ午後4時過ぎ。長女の車に乗って、月島から佃方面を散策することにした。月島の「もんじゃ通り」は平日のせいか思ったほど混みあってはいない。続いて佃に向かって歩き、船溜まりを見る。工事中とあって、堀の水は抜かれており風情はない。近くの佃煮屋さん「天安」に立ち寄ると水落家族は興味をもったらしく、それぞれが買い求める。価格は高めだが思い出の一つにはなるだろう。神輿蔵にある「千貫神輿」の大きさにも驚いたようだ。
隅田川沿いの道から「住吉神社」に向かう。「佃島」の時代は川から参詣したので最初の鳥居は川べりにあるのだ。二番目の鳥居にも一礼して境内にはいり、改めて参拝した。三人にとっては初めてということで、興味津々のようだ。江戸の風情が色濃く残っている。再び車に戻って、銀座の蕎麦屋「国定」へ行く。この蕎麦屋はかつて寛ちゃんと寺さん、M嬢と私の4人で何回か例会を開いた場所だ。馴染の店主ME嬢に奥の4人席に案内され、早めの夕食会が始まった。
私と二女は生ビール、奥さまと車の運転をする長女はウーロン茶にして、亡き寛ちゃんに献杯の杯を上げる。手作りの温かい寄せ豆腐、ソラマメをを注文して偲ぶ会を始める。続いて、厚揚げの九条ネギ添え、玉子焼き、味噌漬けの「国とん」を頼み、私から「寛ちゃんはいつも美味しそうに食べていた」という話を出すと、奥さまから「料理のことは聞いていなかったわ」といかにも残念そうな一言。ここで子育てに奮闘中の次女は帰る時間になってしまった。
私は店名物の手打ちそばを一人前だけ早めにとお願いして、彼女に食べてもらう。彼女が帰ってすぐに「アナゴの白焼き」がやってきた。奥さまに後から聞くと、次女は羨ましかったようだ。残った三人もそばを食べながら、亡き寛ちゃんの思い出話。娘たちにとって本当によき父親だったようだ。彼の優しさを、気配りを受け継いで、本当によい娘に育ったと私も思う。午後8時には偲ぶ会を打ち上げて、私は奥さまと有楽町から帰途につく。「寛ちゃん、よかったね。」
その後大正12年の関東大震災で類焼し、15年にこの地月島(当時)に寺を構えることになったそうだ。門前で奥さまと午後3時に待ち合わせると、彼女は二女と笑顔で迎えてくれた。昔、寛ちゃんに頼まれて就職の手伝いをした娘かと思ったが、そうではなかった。ほどなく長女が自家用車で到着して参拝になった。しかし境内には墓地らしものがまったくない。奥さまに案内され、寺の中にに入ると棟続きの庫裡に数百の墓石が並び、ここが墓地になっているようだ。
それぞれの墓石の下に納骨スペースがあり、安置されているそうだ。仏像の脇でろうそくに火をつけ、線香を灯して墓前に立ちお詣りする。私は今まで数多くの墓参りを重ねてきたが、このやり方は初めてだった。庫裡の建物の中なので、雨や風など天候を気にする必要がないのは合理的かもしれない。水落夫婦は東京・文京区生まれで中学、高校と一緒だったというから、ここに墓を建てることを奥さまが望んだのだろう。言い方は悪いが便利で、いつでも気軽に訪ねられる。
20分ほど庫裡にいて、墓参を終え、私は外に出て一服。すると傍らに「十返舎一九」の墓碑が見える。「一九」は江戸期にあの「東海道中膝栗毛」を著した作家だが、死後当時は浅草にあった「東陽院」に葬られた。墓碑には辞世の句「此世をば どりゃお暇に 線香の 煙と共に はい左様なら」という川柳が刻まれている。いかにも「一九」らしい作で不謹慎ながら笑いに誘われる。住職への挨拶を終えた三人と共に寺を後にして、偲ぶ会として用意した会場へ向かう。
だが時間はまだ午後4時過ぎ。長女の車に乗って、月島から佃方面を散策することにした。月島の「もんじゃ通り」は平日のせいか思ったほど混みあってはいない。続いて佃に向かって歩き、船溜まりを見る。工事中とあって、堀の水は抜かれており風情はない。近くの佃煮屋さん「天安」に立ち寄ると水落家族は興味をもったらしく、それぞれが買い求める。価格は高めだが思い出の一つにはなるだろう。神輿蔵にある「千貫神輿」の大きさにも驚いたようだ。
隅田川沿いの道から「住吉神社」に向かう。「佃島」の時代は川から参詣したので最初の鳥居は川べりにあるのだ。二番目の鳥居にも一礼して境内にはいり、改めて参拝した。三人にとっては初めてということで、興味津々のようだ。江戸の風情が色濃く残っている。再び車に戻って、銀座の蕎麦屋「国定」へ行く。この蕎麦屋はかつて寛ちゃんと寺さん、M嬢と私の4人で何回か例会を開いた場所だ。馴染の店主ME嬢に奥の4人席に案内され、早めの夕食会が始まった。
私と二女は生ビール、奥さまと車の運転をする長女はウーロン茶にして、亡き寛ちゃんに献杯の杯を上げる。手作りの温かい寄せ豆腐、ソラマメをを注文して偲ぶ会を始める。続いて、厚揚げの九条ネギ添え、玉子焼き、味噌漬けの「国とん」を頼み、私から「寛ちゃんはいつも美味しそうに食べていた」という話を出すと、奥さまから「料理のことは聞いていなかったわ」といかにも残念そうな一言。ここで子育てに奮闘中の次女は帰る時間になってしまった。
私は店名物の手打ちそばを一人前だけ早めにとお願いして、彼女に食べてもらう。彼女が帰ってすぐに「アナゴの白焼き」がやってきた。奥さまに後から聞くと、次女は羨ましかったようだ。残った三人もそばを食べながら、亡き寛ちゃんの思い出話。娘たちにとって本当によき父親だったようだ。彼の優しさを、気配りを受け継いで、本当によい娘に育ったと私も思う。午後8時には偲ぶ会を打ち上げて、私は奥さまと有楽町から帰途につく。「寛ちゃん、よかったね。」