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「やぶにらみ」政治・経済・社会・生活歳時記

現代の日本の政治・経済・社会・生活全般の動きを追うとともに、日ごろの関心事、旅の経験、飲み屋探訪などを紹介する。

ぶらり生活日記448 亡き「水落寛」ちゃんの墓参り

2019年04月12日 | ぶらり生活日記
 6月初旬の平日に亡き「水落寛」ちゃんの墓参に出かけた。きっかけは彼の奥さまから誘いの封書を受け取ったことだった。彼は2013年に亡くなったから、今年は七回忌の節目にあたる。通夜、葬儀以来何となく疎遠になっていたから、二つ返事で参加することを決め、この日になった。菩提寺は勝どきにある「東陽院」。この寺は江戸期に日蓮宗の「浄源院日隆上人」によって「丸の内」で開山され、徳川三代将軍家光の時代に浅草に移転した。

 その後大正12年の関東大震災で類焼し、15年にこの地月島(当時)に寺を構えることになったそうだ。門前で奥さまと午後3時に待ち合わせると、彼女は二女と笑顔で迎えてくれた。昔、寛ちゃんに頼まれて就職の手伝いをした娘かと思ったが、そうではなかった。ほどなく長女が自家用車で到着して参拝になった。しかし境内には墓地らしものがまったくない。奥さまに案内され、寺の中にに入ると棟続きの庫裡に数百の墓石が並び、ここが墓地になっているようだ。

 それぞれの墓石の下に納骨スペースがあり、安置されているそうだ。仏像の脇でろうそくに火をつけ、線香を灯して墓前に立ちお詣りする。私は今まで数多くの墓参りを重ねてきたが、このやり方は初めてだった。庫裡の建物の中なので、雨や風など天候を気にする必要がないのは合理的かもしれない。水落夫婦は東京・文京区生まれで中学、高校と一緒だったというから、ここに墓を建てることを奥さまが望んだのだろう。言い方は悪いが便利で、いつでも気軽に訪ねられる。

 20分ほど庫裡にいて、墓参を終え、私は外に出て一服。すると傍らに「十返舎一九」の墓碑が見える。「一九」は江戸期にあの「東海道中膝栗毛」を著した作家だが、死後当時は浅草にあった「東陽院」に葬られた。墓碑には辞世の句「此世をば どりゃお暇に 線香の 煙と共に はい左様なら」という川柳が刻まれている。いかにも「一九」らしい作で不謹慎ながら笑いに誘われる。住職への挨拶を終えた三人と共に寺を後にして、偲ぶ会として用意した会場へ向かう。

 だが時間はまだ午後4時過ぎ。長女の車に乗って、月島から佃方面を散策することにした。月島の「もんじゃ通り」は平日のせいか思ったほど混みあってはいない。続いて佃に向かって歩き、船溜まりを見る。工事中とあって、堀の水は抜かれており風情はない。近くの佃煮屋さん「天安」に立ち寄ると水落家族は興味をもったらしく、それぞれが買い求める。価格は高めだが思い出の一つにはなるだろう。神輿蔵にある「千貫神輿」の大きさにも驚いたようだ。

 隅田川沿いの道から「住吉神社」に向かう。「佃島」の時代は川から参詣したので最初の鳥居は川べりにあるのだ。二番目の鳥居にも一礼して境内にはいり、改めて参拝した。三人にとっては初めてということで、興味津々のようだ。江戸の風情が色濃く残っている。再び車に戻って、銀座の蕎麦屋「国定」へ行く。この蕎麦屋はかつて寛ちゃんと寺さん、M嬢と私の4人で何回か例会を開いた場所だ。馴染の店主ME嬢に奥の4人席に案内され、早めの夕食会が始まった。

 私と二女は生ビール、奥さまと車の運転をする長女はウーロン茶にして、亡き寛ちゃんに献杯の杯を上げる。手作りの温かい寄せ豆腐、ソラマメをを注文して偲ぶ会を始める。続いて、厚揚げの九条ネギ添え、玉子焼き、味噌漬けの「国とん」を頼み、私から「寛ちゃんはいつも美味しそうに食べていた」という話を出すと、奥さまから「料理のことは聞いていなかったわ」といかにも残念そうな一言。ここで子育てに奮闘中の次女は帰る時間になってしまった。

 私は店名物の手打ちそばを一人前だけ早めにとお願いして、彼女に食べてもらう。彼女が帰ってすぐに「アナゴの白焼き」がやってきた。奥さまに後から聞くと、次女は羨ましかったようだ。残った三人もそばを食べながら、亡き寛ちゃんの思い出話。娘たちにとって本当によき父親だったようだ。彼の優しさを、気配りを受け継いで、本当によい娘に育ったと私も思う。午後8時には偲ぶ会を打ち上げて、私は奥さまと有楽町から帰途につく。「寛ちゃん、よかったね。」














 




















ぶらり生活日記447 仲間達の訃報が相次ぐ

2019年04月10日 | ぶらり生活日記
 先週からいろいろな仲間達の訃報が相次いだ。新聞社時代の先輩「梅田重秋」氏が亡くなったというメールを後輩たちから受け取り、6日土曜日の通夜に出向いた。会場は上大岡にある「葬儀の板橋・ほうさい殿」で私は午後6時の開式前に到着するように早めに自宅を出発した。京浜急行「上大岡駅」に着くと、案内をしている後輩たちから場所を教えられ、会場に開式15分ほど前に到着。署名を済ませて通夜会場に行くと、見知った顔の人たちに迎えられた。

 関係者席に案内され、開式を待つ。ここでも先輩や後輩たち知己の人たちが多い。A4の案内を見ると「梅田重秋さん 旅立ちの会(対話葬)」とある。「対話葬」とは今まで聞いたことがないやり方なので、どんなものか好奇心がわく。6時になり開式の冒頭、まずは「高橋卓志」氏がマイクを握り、対話葬について説明を始めた。彼は臨済宗の僧侶で、龍谷大学を卒業後、修業を重ね浅間温泉にある「神宮寺」の住職を勤める革新的な僧侶らしい。

 NPOの代表やケアタウン浅間温泉の代表理事のほか龍谷大学の客員教授でもあるそうだ。故人とは「松本深志高校」の同窓で、故人の奥さまとも学生時代から交流があったようだ。対話葬のテーマは「You may Go!」。皮切りは高橋氏と奥さまの対話で、「あなたの行く朝」という加藤登紀子の歌が流れる中、故人の人となりを高橋氏が奥さまに質問する。故人が苦学生だったこと、結構生真面目な学生だったことなどを会葬者の前に披露した。

 続いて「水の歌 森の眠り」のメロディーが流れる中、高橋氏の読経が始まり、親族の人たちから焼香する。私たち会葬者の番になり、霊前に向かうとそこには故人とともに彼らの息子の写真が飾られている。息子の「耕太郎」君は昨年6月に起きた「新幹線殺傷事件」の被害者であったから、奥さまとしても二人を改めて見送りたい気持ちがあったのだろう。故人が好きだったという加藤登紀子の「琵琶湖周航の歌」や「知床旅情」などの歌には思わず涙をそそられる。

 会葬を終え、式次第を見ると「ご縁ある皆さんの見送り ご自由なお別れを」と記されている。故人との関係を振り返ると走馬灯のようにいろいろな思い出が甦ってくる。私が広告部門に異動してすぐに麻雀に誘われ、毎日のように牌を握ったこと。職場ではやり手だったが、部下には厳しい一面があり金尺で追い回していたことが懐かしい。夏には広告会社のI氏と故人が幹事になり、皆家族で旅行に行き親交を深めたことも忘れられない。故人の奥さまともその場で知り合った。

 故人は剛毅な反面、繊細な面を併せ持つ愛すべき人物だった。心からご冥福を祈りたい。焼香を終え、通夜ぶるまいの席に移動する。懐かしい顔ばかりで、話題は尽きない。流通時代に部下だったT君、H君は元気そうだ。故人の不動産担当時代部下だったI君は今や関連会社の社長になっている。元D広告会社のK氏、S氏も営業仲間だが、今は飲み歩き仲間だそうで、今度は誘ってよとK氏にお願いした。会場を出ると今は常務執行役員になっているY嬢と出会い、旧交を温める。

 自宅に戻ると、大学時代の友人の死去を知らせるハガキが届いていた。「新道昭夫」君逝去の挨拶状で事前に知らされていたとはいえ、悲しい気持ちになった。彼とは学生闘争時に「学費値上げ反対」を旗印に「クラス連合」を組織して以来の友人である。一緒に「立て看板」を書いたり、飲みに出かけたりと親しい関係だった。年賀状のやりとりは続けているのだが、最後に会ったのは数年前で建て替えてすぐの新名古屋駅ビル内にある居酒屋での懇親会だった。

 奥さまの挨拶状によると、3月28日に「左下葉肺腺癌」で亡くなったという。故人が亡くなる直前に言ったという彼の言葉「七十年の人生自身まずまず納得のいく人生だったと思う。ありがとう。」は彼らしくもあり、彼らしくない発言ともいえる。バンカラな性格で学生時代は「女にもてたい」というのが口癖だったが、岡山での会社人生は納得のいくものだったに違いない。見かけとは裏腹に、内面は正義感が強く、気配りができるやさしい人柄だった。

 その翌々日、今度は当時の仲間から別の訃報をメールで受け取った。学生時代の友人「大野幸則」君の逝去を知らせるもので、彼は4月6日に「胃がん」で亡くなったという。彼は今も歌声喫茶「新宿ともしび」の社長をしていたから、突然の知らせに驚いた。2,3年前に懐かしさが募って、仲間たち6人と「ともしび」を訪れ、共に歌い、酒を酌み交わしたのが最後の出会いになってしまった。その時は満員の盛況で午後4時の開店からひっきりなしに客が詰め掛けていた。

 客は60代の男女が中心だが、歌本の活字が小さいのでパソコン持参の客も多かった。歌は歌謡曲やフォークソングが多く、彼に労働歌やロシア民謡はないのかと尋ねた場面があった。仲間内で「ワルシャワ労働歌」をリクエストすると奏者を説得するのに思いのほか時間がかかってしまった。そんな要求に真面目に対応してくれた大野君は快活で世話好きな好人物だった。その笑顔はいまだに頭のなかに鮮明に残っている。享年70歳。人ごとではないかもしれない。

 

















ぶらり生活日記446 三人会でボイストレーニングに励む

2019年03月27日 | ぶらり生活日記
 3月末のとある日は月に一回の「ボイストレーニング」。M氏の紹介で始まった会合だが、ようやく慣れてきた感じだ。講師はM氏が発掘してくれたN嬢が勤めてくれる。彼女は新潟県柏崎の出身で、お茶の水女子大学で作曲、ピアノを学んだそうだ。現在は東京音楽学院でピアノ講師を勤めるかたわら、銀座のクラブ「シャンティイ」専属として活躍している。トレーニングは発声の基本から楽曲の演習がメインだが、かなり厳しく指導されるが、明るい笑顔に引き込まれてしまう。

 この日は午後4時からで銀座の「シャンティイ」に集合する。4時前に行くとビルの1階でS氏と鉢合わせ。8階の店に入り雑談していると、すぐにこの会の幹事であるM氏が現れた。三人が揃って、授業が始まる。まずは発声練習。胸を開いて大きく息を吸うと、自然にお腹に力が入る。2オクターブの音階で15分ほど発声練習するのだが、私は高い音域が出しづらい。M氏は低音のほうが出にくいらしいが、S氏は高音、低音ともによく声が出る。

 この日の課題曲は私が提案した「死んだ男の残したものは」だが、曲に入る前に前2回の課題曲を復習する。課題曲はS氏の提案で3カ月に一回3人がそれぞれ出すことになっている。2か月前の第1回はM氏で、選んだ曲は「アフトンの流れ」。原曲はスコットランド民謡で「J・E スピルマン」が作曲し、日本語の歌詞は「山崎紀一郎」が書いたものだという。テノール歌手「錦織健」が歌っている曲だが、息継ぎの仕方が難しく思うようにはならない。



 「アプトンのなーがれ しずーかに・・・」と歌いだすのだが、音符を追いかけるだけで一苦労だ。同時に譜面の音譜記号を理解しなければならないから、なかなか上手くは歌えない一回目の演習だった。2回目はS氏が選んだ「A Fool Such I」。1952年に「ハンク・スノウ」が歌い、その後何人かの歌手がカバーしたが、もっともヒットしたのは1959年に出た「エルヴィス・プレスリー」版。私たちが記憶しているのもプレスリーの歌声だ。

 メロディーは何とか思い出せるのだが、譜面の音譜と英語の歌詞を同時に追いかけるのは私たちにとって困難な作業だ。音域が結構広く、四分音符二つで英単語が切り分けられると、どう発声してよいか分からない。高低の変化に追い付いていくのも大変で、途中♯記号が出てくるので考えてしまい、すぐに曲の流れについていけなくなる。N嬢の丁寧な指導でこの日は何回も何回も練習を繰り返したが、上手く歌えないので、次回からは歌詞を暗記してきたほうがよいようだ。

 この二つの曲の復習を終えて、いよいよ今回の課題曲「死んだ男の残したものは」になった。この曲は私の学生時代に新宿駅西口地下でフォーク歌手「高石友也」が歌っていたから印象に残っている。この曲の由来を調べるとその意外性に驚かされる。ベトナム戦争最中の1965年に詩人の「谷川俊太郎」が作詞、クラシック作曲家の「武満徹」が作ったものだった。谷川氏は当時の「ベトナムの平和を願う市民の集会」のために書き起したものらしい。

 谷川氏は曲を武満氏に依頼し、「無伴奏合唱曲」として世の中に出ることになったようだ。日本発の反戦歌としての歴史をもっている。私は馴染のカラオケバーでよく歌っていたのだが、寡聞にして経緯は今まで知らなかった。音域が広く、お腹の底から歌う曲で、オペラ歌手の「錦織健」などが今でもコンサートで歌い上げているという。確かに歌ってみると、なかなか難しい。高音部が上手く歌えず、声がすぐには出ない。三人で情感豊かに歌うことに限界を感じるほどの曲だった。

 歌詞は6番まであり、5番の「死んだかれらの残したものは・・・・」と6番の「死んだ歴史の残したものは・・・・」は詞自体を知らなかったので、新鮮な感じだった。1時間半ほどで演習を終え、この日の放課後はN嬢を囲んで、日ごろのお礼をかねた懇親会が予定されている。場所は近くの寿司割烹「佃屋」で彼女の希望に応えた店だ。常連のM氏が予約してくれていたのだが、私は久しぶりの訪問になる。店に入ると、顔なじみの主人と女将が笑顔で迎えてくれた。

 体調を気にするM氏はウーロン茶、三人は生ビールを頼んで乾杯だ。差配はM氏に任せ、まずは旬の走りの「ソラマメ」と「たけのこ焼き」を頼む。殻ごと蒸し焼きにしたソラマメとタケノコが美味い。続いて刺身の盛り合わせ。新鮮なネタが大皿にそれぞれ4人分が食べやすく盛られている。続いてこの店名物のアナゴのかば焼き。千切りしたキュウリとともに一人添えられた海苔に巻いて食べる。絶品の味だった。酒を青森の「豊盃」に代え、料理を楽しむ。N嬢は結構いける口らしい。

 仕上げはお好みの寿司を女将に頼んで、握ってもらう。男たちは3種類ほどだったが、彼女はさらに追加で注文。なかなかの健啖家ぶりである。香の物としじみ椀を頼んでフィニッシュした。まだ飲み足りない感じだったので、次は「銀座9丁目」実は新橋のワンショットバーに立ち寄る。バー「T・O」は時間が早いせいか、私たちで店を独占する。彼女はスコッチウイスキーが好みのようで、店内のボトルを物色するが、数百のボトルがありなかなか決められない。

 店主のO氏にまかせ、彼女が飲んだことがないスコッチを出してもらう。彼女は本当にお酒が好きらしく、次々にいろいろなスコッチを飲む。S氏もつられてよく飲む。私はジャックソーダからバーボンのストレートに代えて、ウイスキーの話で盛り上がった。彼女は美味しい料理と酒には眼がないらしい。それに美人で屈託のない笑顔が素敵な女性だから、S氏はすっかり魅了されたようだ。帰り際にS氏から「また機会を作りましょうよ」の一言で散会になった。

 


































ぶらり生活日記445 元「地域交流センター代表 田中栄治氏」の訃報を受け取る

2019年03月08日 | ぶらり生活日記
 今週、「地域交流センター」代表の橋本正法氏からメールを受け取った。2月末に元「地域交流センター」代表だった「田中栄治」氏が亡くなったという知らせだった。すでに葬儀も地元の山口県で済ませたという。9年前に彼は「脳梗塞」で倒れ、意識が戻らぬまま病院生活を過ごし、そのまま帰らぬ人になってしまった。彼とは30年来の交友を重ねてきたから、数々の思い出がある。彼のご冥福を祈るとともに、感謝の気持ちを込めて交友の一端を書き綴ってみたい。

 「田中栄治」氏との出会いは私の新聞社時代に遡る。私が基幹産業を担当していた時代、私の直属の上司だったS氏から田中氏を紹介され交流が始まった。センターはいろいろなテーマでの研究会を組織しており、私は「インフラックス研究会」という国づくりとインフラの将来を検討する部会に入ることになった。初めは月に一回程度の開催で、田中氏とはそれなりの付き合いだったかと思う。それが変わったのは研究会の後に新橋の酒場で二人で酒を酌み交わす仲になってからだ。

 彼の事務所があったのは虎の門で、向かいのビルの一室を借りて「都市小屋 集&YOU」を開き、研究会後は酒を飲むのが常だった。気が合って、徐々に彼と私の交流は深まっていく。「インフラックス研究会」は建設省(現 国土交通省)の幹部や関連民間企業の有志が集まり将来の国土像や在り方を語り合う。S上司としてはネットワークを広げたいという思いもあったのだろう。田中氏にとってはセンターの名の通り「地域の活性化」がライフワークだったといってよい。

 議論の中で「社会実験」の一つとして取り組んだのが「道の駅」だった。地域の活性化のためには何より人々の交流が大事だと考え、「若者、バカ者、ヨソ者」が集まる拠点を作ろうということになった。メッセージを伝えるために、彼は全国の首長を訪ね歩く。彼の主張に賛同して生まれたのが「全国首長連携会議」だ。年に一回、数百の首長が集まって会議を開く。すると国の考え方に対して地域の特性を活かす訴えが数多く出るようになり、毎年「提言」をまとめる場になった。

 一方、「道の駅」は国交省が事業として取り込んだため、国道沿いにしか建設できなくなった。これに限界を感じた田中氏は運動をもっと広げるために何ができるかを考えた。それが「まちの駅」構想である。再び地方行脚に取り組み、全国の市町村の中に交流拠点を作ろうと行動するようになった。彼に連れられて私は富山・黒部市や鹿児島・南さつま市に同行したことがある。市民とともに郷土の名物料理を肴に地元の日本酒や焼酎を飲み、盛り上がったのは懐かしい思い出である。

 地域のそれぞれの魅力を再発見して「まちの駅」は「農の駅」や「観光の駅」、「川の駅」、「福祉の駅」などが生まれる。新たに建設するのではなく、既存の施設を活かして駅にするのだ。私も同行した福島県・会津では旅館や土産店、飲食店などが「まちの駅」になっていた。観光マップや役所、病院の情報提供、無料でのお茶の提供など日本人観光客だけでなく訪日外国人にも便利な施設になっている。その数は全国で2,000に及ぶスケールなるという。

 ここで余談を一つ。田中氏は長州の出身だから会津での経験をもとにして両者の手打ち、仲直りを思いつく。明治維新以来、正式な手打ちはしていない。こんな発想が次々に出てくるのがいかにも彼らしい。彼亡き後も、こうした発想を引き継ぐ人たちが続々と現れることが望まれる。新橋の寿司屋で飲みながらアイデアの交換をしている中で、外国の「Iステーション」を紹介すると彼は早速行動をを起こす。運輸省(現 国交省)を訪ねると当時はピンとこなかったようだ。

 今は観光庁ができ、日本経済にとっても訪日外国人への対応は重要な案件だから風向きが変わってきた。田中氏の先見の明には改めて驚かされる。そんな交流を重ねる中で私に持ち込まれたのが「環境広告コンクール」企画だった。初めは彼がなぜという感じだったが、彼も公害関係の活動をしており、環境庁(現 環境省)への提案の中で出てきたものらしい。これには私もすぐに賛同して、ゴーサインを出した。おりしもボルボの環境をテーマにした広告が話題を集めていた時期だった。

 その広告のヘッドコピーは「私たちは毎日産業廃棄物を出しています」というもので、広告関係者には驚愕ものだった。新聞社主催として「環境広告コンクール」を立ち上げ、田中氏と私も審査委員として参加し、数年にわたって実施した。この企画は反響が大きく、あるときDE広告会社の社長だったW女史から環境広告について出版化できないかと相談があった。良い機会だと考え、私も一部を執筆して新聞社から「環境広告入門」という書籍を上辞することができた。

 田中氏との交流の一部を紹介したが、彼との関係はこれで言い尽くせるものではない。新橋の飲み屋で、社会に良いことをするのに官公庁も企業もどうしてわかってくれないのかと嘆かれたこともある。企画やイベントを実現するには金がかかるし、当該社の内部を説得するのはよけいに大変だ。彼はその中でもめげずに提案し続けた稀有な人物である。彼の思いを残された人たちが受け継ぎ、発展させることが期待される。「栄ちゃん」ご苦労様でした。ゆっくりお眠りください。













ぶらり生活日記444 白山の名店「満津美」82年の歴史に幕

2019年03月07日 | ぶらり生活日記
 40年近く通った白山の寿司屋「満津美」が82年の歴史に幕を下ろすことになった。店主のシンちゃんが昨年末に「膀胱がん」を再発して、手術を受けた。手術は成功したものの、彼は体力、気力に限界を感じたようだ。3月いっぱいで閉店することを決めたが、それを知った常連客からの予約が相次いでいるという。私も何回か予約を入れ、会合をもつことにした。2月下旬は新聞社時代の後輩たちを集め、「満津美」の寿司の味を楽しむことにした。



 メンバーはW君とC嬢、W嬢、M嬢の5人。カウンター席を確保してもらい、午後6時過ぎから宴席を始める。私は少し早く行き、シンちゃん、コウちゃんと記念撮影。女将と娘のM嬢もカメラに収める。午後6時過ぎにはC嬢、M嬢が顔を出した。W嬢が珍しく遅れていたが、ほどなく現れると店に贈る洋菓子を買っていたらしい。店主のシンちゃんは感激してくれたようだ。6時半を過ぎると店は満員になり、やっとW君も登場して私たちグループも顔をそろえることができた。



 「満津美」は私の新聞社時代の中でとりわけ印象の深い店である。紹介してもらったのはF電機の寺さんで寿司が美味しく、店の人たちともすぐに仲良くなった。彼のおかげでスーパーバッグ卸のT氏を始め、今は亡き鶏肉メーカーのS氏、珍味のN氏、ラベルのO氏、ジャムメーカーのS氏など交友の輪が広がった。この店を紹介してくれたルーツは前述のT氏で、彼のネットワーク力には頭が下がる。私も月に何度か利用させてもらうようになってからすでに30有余年になる。

 私の取引先の中ではD広告会社のK君をよく連れて行ったが、その後彼がこの店で一番の顔になった。私は取引先だけでなく、新聞社の先輩や同僚も誘ってよく繰り出した。余談だが、後楽園ホールで女子プロレスを観戦し、その後選手たちを10人ほど連れて、二階の大広間で大宴会を催したこともある。この日のメンバーはそんな時代を共有した仲間たちで、当時は皆若く、この店の後によく六本木に出かけ、深夜までカラオケバーで盛り上がっていたものだ。

 昔は二階の座敷を使うことが多く、内緒話もできる。W嬢はある時、寿司屋だというのに刺身の盛り合わせが出ないことに気が付いた。私は当時からマグロの刺身が苦手だったので、店が気を遣ってくれていたのだ。ある時、一階にいた寺さんから刺身の盛り合わせの差し入れがあった。「どうせあいつは頼んでいないだろうから、刺身を持っていってあげて」とコウちゃんは頼まれたらしい。これに味をしめたW嬢は次回からはお刺身をかならず頼んでと注文をつけられてしまった。

 そんなことがあってから、一階のカウンターで飲むことが多くなった。まずは前菜の小鉢をアテにビールで乾杯。名物のイカゲソの和え物と鮭のハラス焼き、刺身の盛り合わせを二皿を食べて皆満足そうだ。酒を焼酎のお湯割りに代えて、食べる体制を整える。いよいよ握りを好みで頼むことにする。するとW嬢はカウンターのショーケースを一巡して目当てのサカナを確認する。私からは「塩イカ」を5カン指定して、後はそれぞれの好みにまかせるのがいつものやり方だ。

 みんな調子が出てきて、新聞社の人事情報や今後の展開などを話題にする。さすがに今の流れは私にはよく分からない。思い出話にも花が咲く。「満津美」だけでなく、そのころは新潟・大湯温泉でのスキーや箱根・宮ノ下温泉の「佳むら」を貸し切っての宴会旅行など多くの地域に共に出かけた。トロや青肴、貝類、アナゴなどをそれぞれ注文し、お腹が膨れる。盛り上がったせいか、焼酎「吉四六」をボトル二本空けてしまった。締めのシジミ汁と上がりの緑茶が美味い。

 「満津美」への名残は尽きないが、お開きにすることにしてシンちゃん、コウちゃん、女将、M嬢に別れを告げた。このメンバーでは久しぶりの会合なので、近くの「カフェ カウダ」に立ち寄り、二次会にする。ベルギービールを中心にビールの品揃えが豊富な店なので、私とW君は「ホットビール」にする。チェリーの香り豊かな味わいである。再び「満津美」での思い出で盛り上がったが、さて今後この会はどこで開催したものか。本当に「満津美」にはお世話になりました。感謝!