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「やぶにらみ」政治・経済・社会・生活歳時記

現代の日本の政治・経済・社会・生活全般の動きを追うとともに、日ごろの関心事、旅の経験、飲み屋探訪などを紹介する。

ぶらり生活日記425 新聞社時代の仲間と「シルバー青年婦人部」懇親会を開催

2018年07月26日 | ぶらり生活日記
 7月10日(火)午後5時半から銀座で新聞社時代の組合活動仲間たちと久しぶりに懇親会の席をもった。キッカケは5月に開かれた「社友会」の席上で懐かしい顔ぶれと会ったことに始まる。毎年1回この時期に開催され、パレスホテルに400人ほどが集まる。O社長の乾杯のあいさつが終わると、パーティになる。ウーロン茶を片手にホール内を巡回して、それぞれの近況などを話題に花が咲く。その中で出版部門にいたK氏から懇親会開催の申し出を受けた。

 その場で幹事役のT氏とも会えて、7月の開催を決める。場所は私が考えると伝えたが、会費は5千円前後というので皆が満足できそうな店を探す。結局、皆の便がよい銀座界隈にする。たまには牛肉料理も良いと思い、「牛肉居酒屋 四方善(よんぽうよし)」を予約した。T氏の精力的な連絡のおかげで9人が集まることになった。残念ながらNI氏夫妻は親の介護のため欠席になった。メンバーは皆「古希」を過ぎているから、「老老介護」の時代になっている。

 店に人数の連絡を入れがてら、料理の大まかな注文を済ませた。当日は打ち合わせをしたいと思い、5時15分ごろ妻とともに店に行った。妻とは同じ経理局の職場で彼女も労働組合青年婦人部の副部長をした経歴をもっている。店に着くと、T氏、K氏はすでに到着していた。5時半近くなったのでとりあえず生ビールを頼む。その後、N氏、F氏、O氏、I氏が現れ、最後に登場したのはS氏で全員が集合した。改めて生ビールで乾杯して二年ぶりの懇親会が始まった。

 牛肉居酒屋だから前菜はローストビーフ、この店評判のカルビやハラミ、ロースのセットが生野菜とともに供される。サラダは二種類でグリーンサラダとシーザーサラダ。皆年を重ねているから野菜を取ることが大事だ。ビールの後は店の主人が探したというチリの赤、白ワインをボトルで二本づつ頼んだ。ボトルはそれぞれ1,800円という安さだが、結構いける。私たちの労働組合時代は活動が活発で、賃金・一時金闘争や「男女別賃金格差」撤廃などに取り組んだ。

 「支部書記長選挙」は忘れがたい思い出の一つである。また青年婦人部活動として、夏場には高原で、冬場にはスキー旅行など多彩な文化・スポーツ催事も実施した。皆にとって懐かしい思い出だが、あれからすでに50年近くが経過している。T氏が音頭を取って、それぞれの近況報告をすることになった。皮切りはT氏で、孫の世話を毎日楽しくやっていることを楽しそうに話す。K氏は出版局の出身だが、今でも週に数回出版業務を手伝っているという。「自由人」の風格は変わらない。

 製作分野で「鉛中毒」という職業病の経験者であるN氏は相変わらず飄々としており、日々の生活を楽しんでいるようだ。I氏は体調がすぐれず、この日はノンアルコールで通した。それでも仲間と会えて嬉しそうだ。世話役的な役割が得意なO氏は皆を気遣って、話に耳を傾ける。いくつになっても性格は変わらない。私の青年婦人部時代に部長を務めた印刷のF氏は若々しく当時の面影を色濃く残している。持ち前の元気で大きな声は変わらず、前向きに生きているようだ。



 最後に現れたS氏は退職後、ボランティア活動に目覚め、東日本大震災から西日本豪雨などに積極的に参加しているという。この日も活動してきたというからえらい。それぞれがそれなりの活動を継続して、人生を謳歌しているのかもしれない。メニューは「牛筋の煮込み」、「牛かつ」などが続き、締めは「ソバメシ」でフィニッシュ。二時間半が過ぎて、そろそろ散会しようと思ったが、話題が盛り上がって、皆名残惜しそうだ。参加できるメンバーで二次会に行くことにした。

 場所は私も久しぶりのバー「サンボア」銀座店だ。まだ時間が午後9時前なので、奥のテーブル席を確保できた。皆にはこの店名物の氷なしの「ハイボール」を奨める。サントリーの角瓶を冷凍庫で冷やし、冷えた炭酸をグラスぎりぎりまで注ぐ。改めて再会を祝して乾杯する。調子が出てきたF氏をはじめ喧々諤々の議論になり、周りの迷惑になったようで、店長から「もう少し会話のトーンを下げて」と注意されてしまった。皆元気すぎる懇親会になった。























 

ぶらり生活日記424 後輩の親友K君の息子G君の就職祝いをかねて仙台へ(2)

2018年07月21日 | ぶらり生活日記
 二日目は朝7時に出発なので、早起きして朝風呂に浸かり、妻と共に支度を整える。昨日G君の就職内定を聞き、嬉しくて飲みすぎたようだ。年を取ると回復には時間がかかる。ホテルのフロントに降りるとすぐにK君夫妻が迎えに来てくれた。早速、乗り込んで観光地へ向かう。日曜日のせいか道は空いており、40分ほどで「塩釜」の市場に着いた。名物の「朝市」でまずは朝食、いろいろな店で食材を物色して、市場奥にある朝市食堂でごはんと味噌汁を買う。

 刺身はイカやタコ、白身などとシラス、ごはんはアサリ飯にして、味噌汁はアラ汁という朝食。K君が買ったメカブも朝のつまみとしては健康的だった。食事を終えて、もう一度市場内を回る。朝採れの新ものワカメやふかひれスープ、K君おススメの鯖の缶詰などをお土産にする。再び観光に出発しようとすると、傍らに「豆腐屋」がある。「玉こんにゃく」に眼が行って、小ぶりの子供用ではなく一粒が大きめの「大人用」と書かれた玉こんにゃくも買ってしまった。



 車に戻って、「塩釜神社」を目指す。山門から行くと数百段の石段を登らなければならないとのことで、K君に本殿近くまで車を回してもらった。鳥居に一礼して、神社に入り、格式ある本殿に参拝した。「塩釜神社」の歴史は古い。神話の時代、二神が東北を平定した際にその先導役を務めた「塩土老翁神」がこの地に留まり、地域の人たちに「製塩」を教えたことに始まるという。中世では奥州藤原家が影響力を持ち、鎌倉時代に「一宮」として位置づけられたそうだ。





 近世以来明治までは「伊達氏」がこの地を支配して、歴史ある神社として特別な計らいを続けた。神社内にはもう一つ「志波彦神社」が同一の境内に鎮座している。この神社は「延喜式」によると「志波彦大神」を祀り、陸奥国百社の「名神大社」として朝廷の尊信が厚かったようだ。明治に入って「国幣中社」となりこの地に移った。近くには塩釜神社の末社の人として「御釜神社」がある。ご神体は「神釜」で製塩事業が開始された発祥の地らしい。





 この二枚の写真は使用前、使用後ではないが、石段を登ったふりと門前から登るぞという情景を再現したもの。「いかにも大変」というように見えるだろうか。冗談はこれくらいにして、次はK君がお手伝いして親しくなったという「蒲鉾 水野」に行った。ここのさつま揚げは形が悪かったり、揚げすぎたものを「はね天」として現地では売っており、安くて美味いと言うので立ち寄ったのだが、残念ながらまだ開店前だった。仕方なく、塩釜港へ向かい「松島湾遊覧」の観光船に乗ることにした。

 K君とはここで別れる。彼は車で松島へ行き、先回りしてくれるようだ。「水野」の「はね天」も購入するつもりらしい。私たち夫婦とN美嬢の三人は「マリンゲート塩釜」にあるチケット売り場で「島めぐり芭蕉コース」の片道券を買ったが、出発までは30分以上時間がある。建物内にはお土産店があり、私は東北の銘酒「浦霞」を見つけて、季節限定の夏酒や純米吟醸「瑞巌寺」など4本買ってお土産にすることにした。遊覧船は定刻に出発したがそれほど混んではいない。





 松島湾内には260を超える島々があるそうだ。それぞれに特徴的な名前が付けられ、大きな島から小さな島まで、独特な形状をしている。先の「東日本大震災」では津波の力が島にぶつかって弱められ、東松島などに比べれば被害が少なくて済んだそうだ。それでも島々は削られたり、変形したものも多いから津波の力を改めて感じさせる。30分強で「松島」に到着するとK君が桟橋まで向かえに出てくれていた。合流して、名刹「青龍山 瑞巌寺」を訪ねる。

 正式には「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は「臨済宗妙心寺派」の禅寺だ。寺歴を遡ると、平安時代に慈覚大師が開創した「天台宗 延福寺」が前身で、13世紀半ば時の執権「北条時頼」が「円福寺」と改め、「臨済宗建長寺派」の禅寺になった。戦国時代の戦いで寺勢が衰え、江戸時代になって仙台六十二万石の藩主となった「伊達政宗」が現在の大伽藍を完成させたという。寺に入り、K君が手配してくれたボランティアガイドの女性の指示に従う。





 すると山門から参道を行かずに向かって右側の道に入る。岩山には数々の石窟があり、荒廃期に臨済宗の門徒が岩山を掘り、削って修業していた場所だそうだ。志半ばで亡くなった門徒も多かったから、多くの墓がここに建てられている。本堂に入ると、唐戸や欄間の彫刻が素晴らしく、10ある部屋の襖絵は「長谷川等伯」一門の「長谷川等胤」が手掛けたもので、藩主御成りの間である「上段の間」とともに絢爛たる趣がある。続いて「青龍殿(宝物館」)を覗いた。

 伊達家に伝わる「舎利」や大脇差など政宗時代の遺品が展示されているが、その中で目立つのは「伊達政宗甲冑倚像」だった。17回忌に当たって、妻「陽徳院」の発願で作られたものだそうだが、「政宗」の両目が開いている。そういえば「瑞鳳殿」の像もそうだった。ガイドさんの説明によると政宗は幼少時に天然痘を患い右目を失明しているはずだ。実はこれも政宗の遺言で死後自らを描くときは必ず両目を開けたものにするようにとの遺命があったそうだ。



 参拝を終えて、今度は参道から出ることにする。すると途中に「3.11津波到達地点」という掲示がある。そこはちょうど杉の大木と新しく植えられた杉との境目の場所だった。津波による塩害で大木が朽ち果て、新たに植え直したものだが、10メートル以上の大木になるには長い歳月がかかるに違いない。それにしても津波がここで止まったということは御仏の加護があったのかもしれない。山門を出て、次はK君おススメの庭園「円通院」に立ち寄った。









 「円通院」は「伊達政宗」の嫡孫である「光宗」公を祀る菩提寺で墓所は「三慧殿」と言われる。ここでもK君の顔見知りだというガイドI氏の説明を受ける。「七福神庭園」は須弥山を中心に松島湾に実在する七福神を表しているという。「三慧殿」の厨子にあるバラはあの「支倉常長」が西欧から持ち帰ったものだそうだ。別名「バラ寺」ともいわれ、市民の憩いの場になっているという。また厨子に描かれたバラやガーベラから「白華峰西洋の庭」とも呼ばれるそうだ。



 そんな説明を本堂脇の建物で聞いていたのだが、縁側の私たち夫婦が座っている場所はあの音楽グループ「嵐」の二人が座って休んだ場所だとガイドのI氏は説明する。「嵐」は震災支援のコンサートを毎年松島近辺で開催しており、その時は必ずここに立ち寄るそうだ。これで午前中の観光を終え、昼食をとることにした。私は「アナゴ丼」が食べたくなって、K君の案内で港周辺の食堂街をブラつく。意外に鰻を扱う料理屋が多い。ちょっと不思議な感じだった。



 海岸の近くで、「アナゴ丼」が看板だという「さんとり茶屋」を見つけた。もう午後1時を回っていたが、満員の盛況でこれは間違いないだろうと思い、三人がアナゴ丼を注文、K君はメカブがたっぷり入った「シラス丼」を頼む。待たされること15分ほどで配膳されたが、油が乗っている割にはさっぱりしたアナゴで美味い。その後「五大堂」などを見学して、旅を終える。帰りは仙石線の「松島海岸駅」まで送ってもらい、仙台駅から新幹線に乗ることにした。

 別れ際に「はね天」のお土産までもらって、K君の気配りと思いやりに感謝である。最近大人でもこうした配慮ができる人は少なくなった。彼らは「三陸自動車道」から大宮に帰るという。30分ほど海岸脇を走る「仙石線」は初めての乗車で興味津々。「仙台駅」に着いて、再び土産ものを探す。そういえば仙台名物の牛タンを食べていなかったので、牛タン弁当を購入して自宅での夕食にすることを思いついた。一泊二日の旅だったが、本当にK君にはお世話になりました。ありがとう!

 

 






































 



 

 

ぶらり生活日記423 後輩の親友K君の息子G君の就職祝いをかねて仙台へ(1)

2018年07月18日 | ぶらり生活日記
 7月初めの週末、D広告会社の後輩K君の息子G君がM化学に就職が決まり、お祝いをかねて仙台へ妻とともに出向いた。G君は東北大学経済部に在学中なので、仙台で実施することになったのだ。当日妻と共に午前11時過ぎの東北新幹線に乗る。大宮からの乗車なので1時間10分ほどで仙台に着く。仙台駅南口改札口でK君、N美夫妻が笑顔で迎えてくれた。彼らは車で仙台に来たそうだが、予定通り着いたという。まずはランチにしましょうとK君から誘われた。

 車を10分ほど走らせて、店に着くとそこはなんと和菓子屋だった。「藤や」というその店はウインドウに大福やだんごなどが並べられている。不思議に思ったが、中に入るといろいろなメニューがあった。とくに「冷やし中華」がおススメだというので、4人とも同じものにする。すでに午後1時を回っていたが、店はお客で満員の盛況。隣を見ると大きな中華丼ぶりに盛られており、100円増しで麺が二玉入っているという。ちょっと安心して、普通盛が出てくるのを待った。

 ここの冷やし中華は細身のストレート麺、醤油とお酢ベースのたれが絶妙で、のど越しがよく美味い。「藤や」は創業100年の歴史をもつ和菓子店で、戦後冷やし中華を始めたそうだ。仙台が「冷やし中華」発祥の地だそうだが、私は知らなかった。それも夏場だけではなく、一年を通して供されるという。近くには官庁街や仙台を拠点とする企業が多く、ビジネスマンたちが好んで食べにくるようだ。人気があるようで午後1時半を過ぎても続々と客が押しかける。



 いよいよ観光に出発。市内にある伊達家の御霊屋である「瑞鳳殿」に向かった。この建物は伊達政宗の死後、その遺命により造営された霊屋で、伊達三代の墓所になっている。K君の知り合いのボランティアガイドS氏から丁寧な解説を受ける。「瑞鳳殿」は桃山文化の粋を尽くした豪華絢爛の廟建築だが、1945年の空襲で焼失し、現在の建物は1979年に再建されたものだそうだ。その後民間からの篤志も集め、獅子頭の彫刻や竜頭瓦など創建当時の姿を再現したという。







 「瑞鳳殿」に入る「涅槃門」も青森ヒバを用いて、豪華な飾り彫刻が見事だ。再建に当たっては社に祀られていた「伊達政宗」の墓の発掘が行われた。当時は土葬だったから、政宗の頭蓋骨や骨格とともに武具や文具などの副葬品が出土した。その後の研究で政宗の身長は159センチメートル、血液型はB型だったそうだ。死因は食道噴門がん及び腹膜炎と分かったというから現代の科学研究は進んでいる。政宗と二代忠宗、三代綱宗の復元容貌像も史料館に展示されている。

 続いて私から希望を出して、G君が在学している「東北大学」を訪ねた。「東北大学」の前身は1907年(明治40年)に創設された「東北帝国大学」で旧青葉城の跡地に建てられた。市内にある「片平キャンパス」が発祥の地らしい。戦後、大学は拡大を続け、経済学部を始めとした文系学部が集中する「川内キャンパス」、山側に工学部など理系学部がある「青葉山キャンパス」があり、10の学部がある。車で周遊し、教養課程を学ぶ「片平キャンパス」に立ち寄ってみた。





 広々としていて、本部事務所や交流のための諸施設があり、掲示板にはサークルへの勧誘を呼び掛けるポスターや催事のお知らせなどが貼られていた。私の学生時代は50年も前だがなぜか懐かしさを感じさせる。もともと「広瀬川」の河川敷にあり、古代から「川内(せんだい)」という地名ができ、そこから「仙台」となったそうだ。午後4時過ぎになって、私たち夫婦はK君が手配してくれた、宿泊する駅前のホテルまで送ってもらい、部屋で一息つく。

 K君夫婦はG君の下宿先に泊まるというので、夕飯の場所にはタクシーで直接伺うと伝える。車を拾い10分ほどで「居酒屋 ちょーちょ」に着いた。G君が去年までアルバイトをしていた店である。紹介は父親のK君で仙台市の市役所から地元活性化の依頼を受け、活動する中で出会った店らしい。テーブル席に案内されると、すでにG君をはじめ家族三人が揃っていた。まずは生ビールを注文して、G君の就職内定を祝って乾杯だ。この時期G君は卒論のまとめに忙しいという。



 この店はテーブル席を中心に50名ほどが入れる。G君の後輩の大学生や女性たちが働いていて、皆顔見知り。見る見るうちに客席が満杯になり、女性同士で来ている客が多い。なかなかの繁盛店で、鮮度の良い料理が自慢だそうだ。まずはK君のすすめで刺身の盛り合わせを頼む。塩釜や気仙沼の地の魚で確かに鮮度がよい。酒を地酒の「浦霞」など冷酒に代えて、K君好みの焼き魚、アジフライ、ポテトサラダなど頼んだが、どれも美味い。とくに「ピーマンの煮びたし」は絶品だった。

 満足して外に出ると、浴衣姿の白人男性と日本人女性のカップルが暖簾をバックに記念撮影している。K君によるとここの若き経営者は仲間を育て、暖簾分けさせることに熱心らしい。確かに若い店員たちの生き生きした表情を見るとうなずけるものがある。二次会もK君が用意した近くの「昭和歌謡酒場 プレイバック」に案内された。店内はレコードのカバーが貼りつくされ、昭和30年代からの歌謡曲を楽しむことができる。モットーは「昭和歌謡と全体乾杯!」とある。

 翌日はK君が塩釜、松島近辺を案内してくれることになったので、小一時間ほどいてホテルに戻ることにした。G君の卒論の件もあるのでそう長居はできない。それに翌日は「塩釜朝市」で朝食という予定になったから、早めに切り上げる。ホテルまで歩いても20分ほどで戻れると言うので「国分町」の飲み屋街を散策しながら帰ることにした。しかし、途中で迷ってしまい、近くの市営地下鉄駅を利用する。何とかホテルに辿りつき、この日は早めに就寝して明日に備える。

 

























 

ぶらり生活日記422 久しぶりに大学時代のクラス会を開催

2018年07月16日 | ぶらり生活日記
 6月23日(土)午後2時半から久しぶりの大学クラス会を開いた。今回はN君が総合幹事で午後2時半からという設定がユニークだ。場所は新宿エルタワービル地下2階にある「銀座ライオン」で、懐かしい名前の店である。この店は(株)サッポロライオンが展開するレストランチェーンで新宿には5店舗あるという。住所とビル名を確認してからでないと間違えてしまう。新宿西口地下街を歩いて、10分ほど前に店に着くと、N君が予約した個室に案内された。



 部屋に入るとすでにA君、F君の顔が見える。ほどなくY君、KO君、S君が現れたが、幹事役のN君がまだなので飲み物を注文してよいか分からない。2時を過ぎてやっとN君が登場して宴席を始めることにした。N君に他の参加メンバーはと聞くと「たしか9人だった」と言う。クラス会を開くのは数年ぶりということもあるし、歳を重ねて順調に思い出すのが難儀になっているから、なかなか答えが出ない。少しして、M君、MK君が顔を見せ、全員集合になった。

 まずは生ビールで乾杯して、友人が元気に参加してくれたことを喜ぶ。N君によると2時間飲み放題のコースなので、皆飲むピッチが速い。料理はオードブルから唐揚げ、ソーセージなどのいかにも「ライオン」らしいメニューが続々運ばれる。落ち着いたところで、N君からメンバー一人ひとりの近況報告の提案になった。Y君は心臓に持病を抱えているが、だましだまし旅行に出かけたりしているそうだ。近々ゴルフも復活するというから元気になったのだろう。

 S君は商社を退職後茨木県笠間市に居を移し、夫婦と猫数匹の生活を楽しんでいるようだ。F君はいまだに現役で、税理士業務を続けている。私も姉の相続問題でお世話になったことがある。合気道に対する情熱は今でも盛んで、会の内情についても話してくれた。KO君は銀行を退職後、悠悠自適の生活らしいが、この日は風邪気味とあってお酒が進まないようだ。相変わらず年寄りの特権を行使して、美術展や映画演劇鑑賞に忙しいという。今でも青年の雰囲気を持っている。

 M君は長崎県平戸の出身で、百貨店に定年まで勤めた。彼はこうした会合に参加するのが楽しいようで、皆に感謝の言葉を述べる。生ビールが好みのようで、飲みだしたら止まらない。愛すべき人物である。A君は建設会社を退職し、二人の子供を社会に出してゴルフ三昧の日々を送っている。埼玉県熊谷在住なので、年に2回4カ月ほどマレーシアのクアラルンプールのコンドミニアムで夫婦生活を楽しんでいる。今年初めN君と私が訪問し、お世話になった。

 次に私の番になって、クアラルプールの話から始めた。とくにマラッカでの得難い経験を披露したりした。今は仕事を辞めて、夫婦で旅行や観劇などで自適な生活を報告。MK君は素材産業を退職して、今は保育園に勤務して子供たちと楽しくやっているという。彼は社会性がある人だから、いろいろな接点を持ち続けているのだろう。幹事のN君は卒業後親の工場を継いだが、今は新宿区落合でビル経営をしている。私とは高校時代からの友人なので親しい人だ。

 一巡して、全員で討論になったのは二つの話題。一つは「健康」の話で、皆「古希」前後だから病気については人一倍関心があるようだ。心臓病やがんの経験者もいて、健康づくり、食生活など一家言もっている。私たちの年代にとっては健康維持が大きなテーマだ。誰しも「ピンピンコロリ」がよいと思っている。元気でいつまで健康に生活し続けられるかは私たちにとっては最大の関心事なのだ。クラスメイトではすでに何人か亡くなった人もいる。

 二つめは今後いかにして生活できる「資産」を確保できるか。低金利時代だから皆資産運用にも関心がある。A君は海外に投資しているから「為替」の問題が心配なようだ。商社で資金を運用していたS君は為替の難しさを指摘する。株式投資、商品投資なども大きな課題を抱えている。そして年金制度の在り方は今後どうなっていくのか、ほとんどの友人が受給しているので関心はひときわ高い。団塊世代の私たちは「勝組み」と言われてきたがそうでもないのかもしれない。



 終わりの時間が近づいて、次回のクラス会を巡って議論になった。私から「元気なうちにどこかに皆で旅行でもしたいね」と提案する。
するとM君の故郷である長崎県の五島列島はどうかという案が出た。実現できるかどうかは分からないが、私たちにとって楽しみな企画であることは間違いない。時間がきてお開きにする。せっかくなので、店の前で皆の記念写真を撮った。あいにく他に約束があるといって、いち早く立ち去ったM君が入っていないのが残念。

 時間はまだ午後5時前だが、A君から二次会のお誘いがあった。それではと居酒屋を探すのだが、ほとんどがオープン前でなかなか見つからない。イタリアンの店で紹介された居酒屋に立ち寄る。メンバーは帰った友人を除く5名。日本酒やハイボールを傾けて、小一時間の
宴席になった。もうお腹がいっぱいなので、枝豆など簡単なつまみにする。F君とI君を中心に「合気道」の世界の話などで盛り上がった。午後6時過ぎには解散したがたまにはこんな段取りもよい。


















 

 

 

ぶらり生活日記421 再び「かめ」の旅、米沢でゴルフと落語

2018年07月02日 | ぶらり生活日記
 6月は再び「かめ」の旅。「金原亭馬治」師匠の追っかけをかねて山形県米沢を訪ねた。一日目は東京から出発してゴルフをし、翌日は米沢観光から夕方に馬治師匠の落語を聞くというスケジュール。「かめ」旅行は相変わらずの強行軍である。当日、私は午前7時半の山形新幹線に大宮から乗車した。見慣れた顔がひとかたまりの席にいた。KG氏、T氏夫妻、N氏、若手のI君とママ、娘のR嬢と全員が揃っている。KG氏は朝から缶ビールを飲み、ご機嫌そうだ。

 米沢駅に定刻に到着、駅前でママが手配した大型のタクシーに乗って、一路「山形南カントリークラブ」に向かった。去年もここでプレーした記憶がある。10時半過ぎのスタートだが、ゴルフ場に着いてからそれほど余裕はない。大急ぎでゴルフバックを開け、準備もそこそこに開始だ。高原にあるローカルなゴルフ場で空気がさわやか、上々のゴルフ日和である。ゴルフはR嬢を除いた7名、二組でラウンドする。私は一組目でN氏、I君、ママの4人で回る。

 ここは高原とはいえアップダウンが厳しいゴルフ場だ。とくに左はほとんどのホールが崖になっており、下に落とすと辛い状況になる。それでも何とかプレーを終えた。成績表の提出など多少のトラブルはあったが、なんとか宿泊するホテルまで行った。ところがこの日はホテルが混みあっているようで総勢8人は二つのホテルに分かれるようだ。私はビジネスホテルに着いて、チェックインを済ませ、部屋に行こうとするとエレベーターが動いていない。

 なんでも大浴場の漏水事故で動かなくなり、バックは学生らしき若者に持ってもらったが、非常階段を利用しなければならない。部屋は3階だからまだよかった。最上階の9階に宿泊する人は大変に違いない。やっと部屋について、バッグを置き、シャワーを浴びて着替えをする。素早く準備を済ませ、フロントに集合。ただタクシーは二か所のホテルを回らなければならないから、夕食会場に辿りつくのも一苦労だ。午後6時からの予約には間に合いそうもない。

 合流して、昨年も訪れた米沢牛の焼肉レストラン「金剛閣」まで車を走らせる。ゴルフの表彰式も合わせて発表する手筈になっている。6時半ごろ店に到着したが、予約の確認に戸惑って、フロントでしばし待つことに。T氏夫妻は米沢牛商品の物色、私はエントランス外の喫煙所で一服した。やっと話が通って、2階の席に案内されると、これも去年と同じだった。まずは生ビールを頼んで乾杯だ。料理は「米沢牛焼肉コース」を頼んで宴席が始まった。



 乾杯の後、「かめコンペ」恒例の表彰式。賞品はゴルフをしないR嬢が米沢の銘品を選りすぐったもので、気が利いている。優勝は腕前通りでN氏が獲得した。コースはキムチ三種から米沢牛のロース、カルビ、ハラミなどを焼肉で食べる。お酒を角ハイボールに代え、ボトルで頼む。皆食欲旺盛で、KG氏たちはレバーやミノなど内臓肉を追加する。満足して、一階のフロントに出ると、遅れて来る予定のK氏から電話が入ったが、すでに食事は終わっている。

 そこでホテルで合流することにしたが、肝心の迎えのタクシーがなかなか現れない。結局30分ほどフロントで待つことになってしまった。遅れてホテルに着くと、K氏はフロントでしびれを切らしていたようだ。彼は車中でお弁当しか食べていないので、米沢の夜の町に行くことにしたのだが、時間はすでに午後9時半を回っており、良い店は閉店している。仕方なく、近くの食品スーパーでつまみとサントリーの角瓶を買って、私の部屋で飲むことにした。

 K氏は自らが経営する商社の会長をしており、この日は抜けられない全体会議があったそうだ。それでもやっ来たのは「かめ」と飲み仲間に対する気配りがあったのだろう。結局KG氏、I君、私を加え4人で午後12時過ぎまで酒を酌み交わすことになった。K氏はあまり飲んでいなかったこともあり、角瓶のボトルを空けるまで延々と続いた。さすがに酔いが回って、風呂に入らずに寝てしまった。翌日は朝早くから観光なので、ゆっくり寝たほうがよい。





 朝9時に迎えの大型タクシーが来て、観光に出発した。まずは「堂森善光寺」へ行った。この寺は「善光寺阿弥陀堂」の別当として建立されたもので、長い歴史を持っている。鎌倉、室町、江戸期には領民の阿弥陀信仰の拠点になったそうだ。上杉家が城主になってからは戦国の世の中。「最上家」との戦いでは前田藩出身の「前田慶次」が「直江兼続」の紹介により「上杉景勝」に仕え、大いなる戦功をあげたという。その縁でこの寺には「前田慶次郎利貞殿」と書かれた供養塔がある。



 慶次は老後この地にある「無苦庵」に70歳で亡くなるまで住んだという。続いて「笹野観音堂」を訪ねる。由緒書きによると、古代に東北出征した「坂上田村麻呂」が国家安泰を願って建立されたそうだ。本尊は「千手観音」、位牌堂には平安末期と伝えられる「木造釈迦如来像」がある。別名「あじさい堂」と呼ばれているらしいが、まだ山間に咲き誇っているはずの花は見られなかった。次は米沢藩の歴代藩主が祀られている「上杉家廟所」へ向かった。





 初代「上杉謙信」、二代「景勝」から十二代「斉定」までの十二名が祀られている。1984年には「米沢藩上杉家墓所」として国の史跡認定を受けた。地元では「御霊屋」といわれ、今でも訪れる人が多いそうだ。墓所は「謙信」を中心にして豊臣時代「五大老」の一人になった二代「景勝」からは左右に順番に配置されている。ただ、謙信から遠くなるほどお堂が小さくなり、その地所も狭くなっている。時代的、経済的にも華美には出来なかったのかもしれない。



 それから「かめツアー」定番の酒造り所「東光」を訪ねる。「酒造博物館 東光の酒蔵」では酒造りの行程を係の男性から説明を受けたが、私は昨年すでに聞いているので、途中庭で一服する。説明が終わると皆待望の「試飲コーナー」になった。清酒10種類以上が飲めるからいろいろ味わうことができる。一巡して、4種類の銘柄を買い、お土産にする。出口の傍らの一室で「上杉鷹山公展」があり覗いてみた。鷹山公の着物、武具などが展示されているが面白いのは彼の歴史だ。



 日向国高鍋藩秋月家の二男として生まれた彼は10歳の時に「上杉重定」の養子となり、17歳で10代目の藩主を継いだ。当時は財政困難により危機に瀕していた。彼は藩政改革と復興に力を注ぐ。巷間よく知られている「なせばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の歌だけではなく、領主就任の際には「受次て国の司の身となれば 忘るまじきは 民の父母」と詠んでいる。養子であることを自覚していたのだろう。

 彼の「君主道」や産業開発、人材登用、教育重視の姿勢こそが成功への道だったのかもしれない。いよいよお楽しみにランチの時間になった。大型タクシーに乗って、「上杉神社」の一角にある「上杉伯爵邸」に行く。庭がよく見える座敷に案内されて、郷土料理「献善」をいただく。塩引き鮭の握りと「うこぎごはん」が美味しかった。この後夕方からの落語会までは自由行動。私は上杉神社の「稽照殿」を覗いてみた。この神社には数回来ているが、ここは初めてだ。



 上杉神社再建とともに宝物殿として創設されたもので、御祭神上杉謙信以来の遺品が飾られている。目立つのは中興の祖といわれる「鷹山公」の遺品、遺墨など。平安から江戸に至る絵画や武具、仏器、服飾品などがあり、上杉家の繁栄を物語る。一休みしようと思い、神社外の「伝国の杜 米沢市上杉博物館」に立ち寄った。するとソファーでK氏が足を伸ばして眠りに落ちている。傍らに座って館内を見るとKG氏が2階のソファーで寝ている姿が見える。皆疲れが出たのだろう。

 やっと迎えの大型タクシーがやってきて、乗り込む。落語会場の「そばや 伝右エ門」に着くと、玄関脇に「第六回 伝右エ門落語会」とある。中に入ると、年々人気が出てきたようで、50人を超える参加者が集まっている。この日は「馬治師匠」が二席ということで、落語に聞き入った。数年前に比べると語り口も間のとりかたも数段上手くなっている。彼は我々の帰京を考えて、早めに切り上げてくれたようだ。終わって名物の蕎麦をいただき、帰途に着いた。

 途中、K氏が米沢牛弁当を買いたいと言い出す。私が「牛肉弁当 どまん中」を薦めると、彼はその弁当屋さんに電話を入れ、駅で受け取れるように手配した。私も一口乗って、駅の売店で受け取る。帰りの新幹線の時間がきて乗車すると、出発した途端に昨日遅れてきて米沢牛にありつけなかったK氏は弁当をあけてむしゃぶりつく。蕎麦の夕食の後だというのにさすがは健啖家だ。二日目は時間に余裕があり、「かめツアー」としては期待を裏切るものだったが、こんな旅もよい。