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Niyatsukuの和ごころ日記

助けられていること、与えられていること、
生かされていることへの感謝をいつも忘れないために。

ケネディの就任演説

2010年11月25日 | 好きな言葉

今日の懐かしカレンダーつながりで、ケネディ元大統領の就任演説より抜粋。

And so,my fellow Americans: ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country.

「祖国があなたのために何ができるかを問うより、あなたが祖国のために何を行うことができるか問うてほしい。」


素晴らしい名言ですね。一国のリーダーが国民に対して、こうしたことをズバッと言えるところが凄い。日本の中にも、そんな総理大臣が出てきてほしいものです。

さて、「祖国」という部分は「家族」「友人」「会社」等の別の言葉に置き換えることができますが、私には何が出来るかな。




アカシデの老木

2010年11月13日 | 好きな言葉

<道TAO>と一緒に漂うこと
<道TAO>と一緒に動くこと
自分だけの目標や
目的地などつくってはならない
<全体>のほうがよく知っている
あなたはただそれに沿ってゆけばよいのだ
あなたをつくったのは<全体>だ
あなたの中で息づいているのは<全体>なのだ
なぜあなたが思い悩む?
責任は<全体>にあずけておくがいい
あなたはただ
それが連れてゆくところへ行けばいいのだ
~「TAO老子の道」より~

このアカシデの老木がなんだか老子のように思えてきた。

宇宙は記憶を持っている

2010年09月12日 | 好きな言葉
 ガイアシンフォニー第5番に、哲学者で物理学者で音楽家でもあるアーヴィン・ラズロという方が出演しています。ラズロ博士は、量子レベルの微細な世界ではすべての存在は繋がっていると考えていて、また、量子レベルのエネルギー場には過去のあらゆる情報が記憶されていると考えています。

 波のない静かな池を想像してください。そこに小さな石を投げ込むと、池中に波紋が広がっていきます。もうひとつ石を投げ込むと、もうひとつの波紋が生まれ、ふたつの波が出会ったとしましょう。ふたつの波が出会ってまったく新しい形の波が生まれるのですが、面白いことに、その新しい形の波の中には、元々に波の形が記憶されているのです。ですから、新しい波の形を分析することによって、前の波はどんな大きさの、どんな重さの石が、どの方向から投げ入れられて出来たのかということが、数学的に読み解くことができるのです。

 別の言い方をするなら、過去に起こった出来事の内容を、今ある波の形から解読できるということです。

 ところで、宇宙全体は目に見えないエネルギーで満たされた池、すなわち、場であると想像してみてください。多くの人が、この宇宙は何もない空っぽな場であると考えていますが、最新の物理学の考え方によれば、真空は超高密度のエネルギーに満たされていることが分かってきました。ある計算によれば、わずか1立方センチメートルの真空の中に、宇宙のすべての物質の中にあるエネルギーより大きなエネルギーが存在すると言われています。すなわち、すべての存在の背後にこのエネルギー場があるのです。そして、この世に起こるすべての出来事がこのエネルギー場に波を起こし、その痕跡を残します。この痕跡が、過去の出来事の情報を保存しているのです。

 ですから、今、私が一番強く主張したい考え方とは、この量子レベルのエネルギー場は、たんにエネルギーを運搬するだけでなく、情報も伝達しているということです。一度生まれた情報は決して消え去らないで、量子エネルギー場に保存される。宇宙で生まれた情報が何一つ消えないとすれば、過去に起こったすべての出来事は今現在もここにあり、その情報にアクセスする方法さえ知っていれば、現在に甦らせることが出来る。過去は今も生きているということです。

 この宇宙観は今までの宇宙観と大きく違います。「宇宙は記憶を持っている」ということです。(アーヴィン・ラズロ)


 私もこの宇宙観には深く共鳴します。
 たまたま最近、家にあったホ・オポノポノの小冊子を何気なく手に取って読んでみました。そこに書かれてある癒しの方法はにわかに信じがたいものですが、ラズロ博士の「量子レベルの微細な世界ではすべての存在は繋がっている」「量子レベルのエネルギー場には過去のあらゆる情報が記憶されている」という仮説を聞いた直後でもあり、ちょっと興味が湧いてきました。

不安に対処する方法

2009年09月09日 | 好きな言葉
不安に対処する有効な方法は、自分のことを考えずに、人のことを考えることです。本当に人の困難を目にすると、自分のそれは大したことではなくなります。(ダライ・ラマ14世『ゆるす言葉』より)


今月から部門異動があり、分からないことだらけ。
不安なことも一杯ありますが、ダライ・ラマのメッセージに勇気をもらいました。

夏休みの宿題

2009年08月14日 | 好きな言葉
ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、
「自分を自由にする手段」です。(ダライ・ラマ14世)


相手を思いやること。
負の感情を手放すこと。
そして自分を自由にすること。
これが、神様が私に与えてくださった夏休みの宿題みたい。

小さくても大きなこと

2009年06月05日 | 好きな言葉
「私の歌でひとりの人間が幸せになれば、それはとてもいい仕事だということがミュータントにはなぜ分からないんだろう? ひとりの役に立てば、それはいい仕事だよ。一度にひとりの役にしか立てないんだからね」 ~『ミュータント・メッセージ』マルロ・モーガン著~

ほんと、そうですよね。
もちろん、大勢の人々の役に立てるなら、それは素晴らしいことですが、今、目の前にいるひとりの人の役に立てるのも十分に素晴らしいことだと思います。

塞翁が馬

2009年05月07日 | 好きな言葉
私の大好きな話をご紹介します。
訳文は『OSHO NEO-TAROT』の「JUDGMENT」の項によるものですが、素晴らしいですね。


村にひとりの老人がいた。
彼は非常に貧しかったが、美しい白馬をもっていたために、王たちでさえ彼を嫉妬した。王たちはその馬に途方もない値をつけたが、その男はいつもこう言った。
「この馬は、私にとっては馬ではない。人だ。どうして人を、友人を売ることができるだろう?」。
男は貧しかったが、けっしてその馬を売ろうとはしなかった。

ある朝、馬が馬小屋からいなくなっていた。
村中が集まって言った。
「じいさん、あんたはばかだよ! いつかは馬が盗まれるということは、俺たちにはわかっていたんだ。あいつは売った方がよかったんだよ。なんて運のないことだ!」
老人は言った。
「そんなに言いすぎてはいけない。馬小屋に馬がいないとだけ言えばいい。それが事実だ。ほかのことはすべて判断だ。それが不幸なのか、それとも祝福なのか、私は知らない。というのも、これは断片にすぎないからだ。その後になにがつづくのかは誰にもわからないだろう?」
人びとは老人を笑った。彼らはいつも、この老人は少し狂っていると思っていたのだ。

だが十五日たって、ある夜突然、馬が帰ってきた。
馬は盗まれたのではなかった。山野に逃げていたのだ。
しかも、それだけではなく、彼は一ダースの野性馬をいっしょに連れてきた。
またしても人びとが集まって言った。
「じいさん、正しかったじゃないか。これは不幸ではなく、祝福だったということが確かに証明されたんだ」
老人は言った。
「またしてもあなた方は行きすぎる。馬が戻ってきたとだけ言えばいい。それが祝福かどうか誰にわかるのかね? それは判断にすぎないのだ。あなた方は文章のひとつのことばしか読まない。それでどうして本全体を判断することができるのかね?」
今度は人びともあまり多くは言えなかった。
だが内側では、彼はまちがっていると知っていた。十二頭の美しい馬が来たのだから。

老人にはひとり息子がいて、その野性馬を馴らし始めた。
ちょうど一週間後、彼は馬から落ちて両足を折った。
人びとはまた集まってきて、再び判断した。
彼らは言った。
「またしてもお前さんが正しいということになったな。不幸だったんだ。お前さんのたったひとりの息子が足を使えなくなってしまった。しかも、お前の歳では彼がたったひとつの支えだったのに。いまやお前さんは前にもまして貧乏だ」
老人は言った。
「あなた方は判断にとりつかれている。そんなに行きすぎてはいけない。私の息子が両足を折ったとだけ言えばいい。これが不幸か、祝福か、誰も知らないのだ。生は断片のままやってきて、それ以上は決して与えられていない」

数週間たつと、その国は戦争に入り、町の若者たちはみな軍隊に取られることになった。
老人の息子だけは残った。歩けなかったからだ。
町中が泣き、すすり泣いていた。それは負け戦で、ほとんどの若者は帰ってこないとわかっていたからだ。
彼らは老人のところに来て言った。
「じいさん、あんたが正しかったよ。これが祝福だったことが証明されたんだ。あんたの息子は歩けないかもしれないが、それでもあんたといっしょにいる。私たちの息子は永遠に逝ってしまった」
老人は再び言った。
「あなた方はいつまでもいつまでも判断しつづける。誰にもわからないのだ! あなた方の息子は軍隊に入るように強制され、私の息子は強制されなかったとだけ言えばいい。とにかく、それが祝福なのか不幸なのか知っているのは神様だけだ」 

自立するということ3

2009年04月28日 | 好きな言葉
ツイアビ酋長は言いました。

~ パパラギは「このヤシはおれのものだ」と言う。なぜかと言うと、ヤシがパパラギの小屋の前に生えているから。まるでヤシの木を、自分で生やしでもしたかのように。ヤシは決して誰のものでもない。決してそうではない。ヤシは、大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。神はたくさんの手を持っておられる。どの木も、どの花も、どの草も、海も空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。私たちにはその手を握って喜ぶことは許される。だがしかし、こう言ってはならない。「神の手はおれの手だ」
(中略)
神がその大いなる住処を造りたもうたのは、みんながそこに喜びの地を持つためだということを、もしパパラギが理解してくれたら。大いなる住処はじゅうぶんに大きく、だれにでも陽だまりと小さな喜びがあり、そしてどの人にも小さなヤシの木の藪と、足をのせて立つ土地がたしかにあるはずだ。それが神の心であり、神の定めたもうたことである。 ~『パパラギ』岡崎照男・訳

さて。
三度、「自立」について。
辞書によると「他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと」と定義されています。これまで、大人になること=自立することと思ってきました。両親や親戚の叔父・叔母や学校の先生たちも、しきりに「自立しろ、自立しろ」と要求してきたように思います。
最近、そのことに何か違和感を感じて仕方がありません。
何だろう?

自立することばっかり強調していると「このヤシはおれのものだ」という人間になりそうな気がするんですよね。何かが間違っているか、あるいは何かが欠けているか・・・・。
何かな?

酋長、散歩中に現る

2009年03月28日 | 好きな言葉
仕事疲れがだいぶ残っているが、少しからだを動かしたほうがよいかも。
身支度をして家を出て、いつもの駅に向かう方向とは反対向けに玉川上水沿いを散歩することにした。

いろんな草や木が緑の新芽を吹き始めている。二羽の小鳥が枝で戯れている。目のまわりが白いからメジロかな。ずっと土の道が続いていて、足の裏が心地よい。至るところに春の気配が感じられてウキウキしてくる。からだもだんだん軽くなってきて、結局、2つ先の玉川上水駅まで小一時間ほど歩いてしまった。

「先週は難件ばかり起きて忙しかったなぁ。仕事が忙しくなると心のゆとりも無くなるなぁ。第一、心のゆとりが無くなっていることも気づかなくなっていたなぁ。」 散歩しながら、そんなことを思い出した。そういえば、ツイアビ酋長にも言われてたっけ。

~ パパラギの生き方は、サバイまで舟で行くのに、岸を離れるとすぐ、サバイへ着くのに時間はどのくらいかかるかと考える男に似ていると言えるだろう。彼は考える。だが、舟旅のあいだじゅう、まわりに広がる美しい景色を見ようとはしない。やがて左の岸に山の背が迫る。それをちらっと見ただけで、もう止まらない-あの山の後ろにはいったい何があるだろう。おそらく湾があるのだろう。深いのかな?狭いのかな?こういう考えのためにもう、若者たちといっしょに歌っていた舟歌どころではなくなってしまう。若い娘たちの冗談も聞こえなくなってしまう。
 湾と山の背が過ぎ去ると、また新しい考えが彼を悩ます。「夕方までに嵐になるのじゃないか」 そう、嵐になるのじゃないか。彼は晴れた空に黒雲を探す。来るかもしれない嵐について思いわずらう。
 嵐は来ずに、無事にサバイに着く。ところがこれでは、旅行はしなかったのと同然だ。なぜなら彼の思いは、いつも彼のからだを離れ、舟を離れて遠くにあったのだから。これならウポルの自分の小屋に寝ていたのと変わらない。 ~『パパラギ』岡崎照男訳

Celebration

2009年03月09日 | 好きな言葉
相方さんへ

「こだわる力」を人への貢献に、物づくりに生かすこと。
とても素敵だと思います。
とてもパワフルな力になると思います。
喧嘩になりかけたけど、こういう話ができてとても良かった。
<真実の人>族だったら「よし、お祝いだ!」と言うでしょう。
髭男爵だったら「ルネッサ~ンス♪」


―バースデー・パーティの話になると彼らは熱心に聞き入った。
私はケーキや歌やプレゼントについて話し、年をとるたびにキャンドルが一本ずつ増えると説明した。
「なぜそんなことをするのか?」彼らは質問した。
「われわれにとって祝いとは特別なことにたいしてするものだ。歳をとることは特別なことではない。なにも努力しなくても自然に歳をとっていくではないか」
「歳をとることを祝わないとしたら、なにを祝うの?」私は言った。
「よくなることに」という答えが返ってきた。
「去年より今年のほうがさらに賢くていい人間になったら、それを祝うんだ。」―

マルロ・モーガン著『ミュータント・メッセージ』より

形なきもの

2009年03月08日 | 好きな言葉
アメリカ人の著者がオーストラリアの先住民族アボリジニ<真実の人>族とともに砂漠の大地を旅をする。

「その日、とてもきれいな娘が雑草の茂みに分け入って長い茎がついた美しい黄色の花を手にして現れた。彼女はその茎を首に結んで花を高価な宝石のように胸に垂れさせた。みんな彼女の周りに集まって口々に彼女の美しさを讃えた。彼女は一日中ずっと讃えられていた。その日は特別に自分がきれいだと彼女が感じていることが私にも分かった。 ~中略~  砂漠の一日が終わると、<真実の人>族の少女は黄色の花を母なる大地に横たえた。その目的は十分に果たされたのだ。彼女は心から花に感謝し、その日みんなから受けた賞賛を記憶にしっかり刻みつけた。それは彼女が魅力的な人間だということの証明だった。でも彼女は花にたいする所有欲を持たなかった。」(マルロ・モーガン著『ミュータント・メッセージ』より)

ほんと、そうだと思います。
花自体が人生を豊かにしてくれるのではなく。
お金や宝石自体が人生を豊かにしてくれるのではなく。

機械の呪い

2009年02月19日 | 好きな言葉
相方さんへ

材料の栽培、手紡ぎ、手織り、草木染め。
そのどれもがとても手間のかかることでしょうが、ひとつひとつ体験する中できっと色々大切なことを学ぶんでしょうね。

手仕事がどんどん機械の仕事にとって代わりました。
そのことの是非については、さまざまな意見があるだろうと思います。
手仕事の意味や機械の意味についても、相方さんには相方さんの考えがあるだろうと思います。

ちなみに私はツイアビ酋長の言葉がとても気に入っています。

「機械が作ったカヌーも棍棒も私にとっては血の通わない、無用のものに過ぎぬ。
それは完成しても、その苦労について語ることもできず、微笑むこともない。
それを父母に捧げて喜ばせることもできない。

機械がもし私の関知しないところで、とめどもなくタノア(四本足の木皿)を作り出すことができるとしたら、私はどのようにして自分のタノアを愛したらよいのか。

機械が何でも即座に作り出すことができるので、パパラギはもはや、どんなものにも愛情を持たなくなった。
そしてそれこそが、機械の持つ大きな呪いなのである。」

~『パパラギ』岡崎照男訳より抜粋~

気が届くところ

2009年02月04日 | 好きな言葉
昔、気功を習っていたときのことです。
腕を前にぐーんと伸ばして指の先から気を出すという動作をしていたとき、先生から「気が指の先で止まっていますね。部屋の向こうの壁まで腕を伸ばすつもりでやってみてください。そうすれば気もそこまで届きます。」と言われたことがありました。そのとき私は、腕をただ単に前に伸ばしていただけでした。そして、気を出しているイメージも正しく指の先っぽくらいまででした。

今は、気の感覚を僅かですがおぼろげに感じられるようになりました。
「気はイメージのとおりに動く。そして、イメージしたとおりにしか動かない。」
そのとき先生に言われたことを、いつも意識しながら気功をするように心がけています。

話は変わりますが、アルフレッド・アドラーは「他人を理解することはできないが、それでもなお、その人の目で見て、その人の耳で聞いて、その人の心で感じることが大切です」と言っています。私のお気に入りの言葉の1つです。

これを拡大適用して、
「この猫の目で見て、この猫の耳で聞いて、この猫の心で感じて」
「この木の目で見て、この木の耳で聞いて、この木の心で感じて」
「この大地の目で見て、この大地の耳で聞いて、この大地の心で感じて」
というように心がけてみるのもよいかなと思いました。

心がけることで、気はその相手まで届くと思うのです。


《参考文献》
『アドラー心理学入門』岸見一郎著

初女さんの祈り

2009年01月17日 | 好きな言葉
地球交響曲(ガイヤ・シンフォニー)第二番』を初めて見たのは、10年以上も前のことかもしれない。ダライ・ラマやジャック・マイヨールといった有名人ともに、名前を聞いたことのない佐藤初女さんという方が出演されているのだが、その暮らし方にとても深く感動した。

次に見たのは、昭島の公民館だったから4年ほど前のことかな。『地球交響曲』は草の根運動のようなかたちで自主上映されいるので、見たいと思っても、時期と場所の折り合いがつかないと見れないのだ。

また見たいなと思って、上映スケジュールをネットで調べてたら、なんとDVDで発売されていたので、さっそく購入してみた。

「私にとっては、生活全てが祈りだと思っているんです。
なにげなくやったことが思わず喜ばれる。
何をそんなにこの人は感謝してくれるんだろうって思って、
ああ、あのときのことかと考えると、いたって些細なことなんです。」

「面倒くさがらずにやることが大事と思います。
ある線までは誰でもやることで、そこを一歩越えるか越えないかが響かせるものにつながると思うんです。」

そう話す初女さんの日々の暮らしは、ほんとにさりげない。
そして、とても美しい。