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Niyatsukuの和ごころ日記

助けられていること、与えられていること、
生かされていることへの感謝をいつも忘れないために。

伊豆・修善寺を旅する

2014年08月11日 | 旅の記録
この土日にかけて、伊豆・修善寺を訪ねた。

相方が先週の半ばに「どこかに旅行したい」と言い出したが、お盆の折、どこの地の宿も予約で埋まっている。
相方がいろいろ調べてやっと見出したのが修善寺だった。
そして、奇しくもそこは、私の遠い先祖であるらしい源範頼公が眠る地であった。

範頼は、頼朝の弟、義経の兄であり、平氏討滅の総大将を務めた人物である。

平氏を討滅した頼朝は、ある日、富士で狩りを行った際、曽我兄弟の襲撃にあった。
鎌倉にいた妻・政子は知らせを受け、頼朝の安否に心を痛めた。
そばにいた範頼は「ご心配なさることはありません。私がおそばについておりますから」と政子を励ました。
頼朝は幸いにも無事であったが、鎌倉に戻ってこの話を聞き、「範頼の奴め、私の座を奪おうと企んでおるのか」と疑ったという。
頼朝は範頼を修善寺の地に幽閉し、梶原景時父子に命じて攻め殺した。
このときの様子を「異本盛衰記」では次のように述べている。

「景時父子三人、五百余騎を引率して修善寺に押し寄す。折柄範頼は或る坊に小袖大口ばかりにて御座しけるが、今は遁れぬ所ぞと大童(おおわらは)になりて走り出で、差しつぎ張りつめ散々に射けるに、寄り手の多くは射伏せられ、辟易(へきえき)して進み得ず、矢種皆射尽くし今は是迄なりと坊に火をかけ自害して伏し給う。煙慎まりて後、範頼朝臣(あそん)の焼首を取り持たせ、鎌倉に馳せ帰れば、諸人皆、爪弾きをなして、憎まぬはなし」

なぜ私が殺されねばならぬ、と無念であったろう。


日曜日の朝、台風11号が四国に上陸し、その影響で伊豆にも大雨洪水警報が出されている。
テラス席で朝食をとっているときには、防音ガラス越しに雨音が聞こえるほどのザアザア降りであったが、幸いホテルを出た時分には小降りになった。

修善寺界隈は台風のおかげか、人手は思ったより少なかった。
まずは修善寺を参拝し、そして、町のはずれにある源範頼公の墓に向かった。
持参したお酒を供え、線香をともし、般若心経を唱えてご冥福をお祈りした。
その後、修善寺のほうに引き返し、日枝神社を参拝。
神社の参道には小さな庚申塔がひっそりと立っている。
当時、この場所には信功院というお堂があったらしい。
「異本盛衰記」に書かれた「或る坊」というのが、それである。
つまり、この場所で範頼は非業の死を遂げた。


修善寺駅から帰りの特急に乗り込むと、それまでどうにか持ち堪えていたのが力尽きたように、また土砂降りの雨が降りだした。


掛川と吉野をめぐる旅

2014年05月11日 | 旅の記録
4月26日土曜日、新幹線で静岡県掛川に向かい、事任(ことのまま)八幡宮という素敵な名前の神社を訪ねる。
ことのまま、というと「Let it be」の意味かと思ったが、願いが「言のまま」に叶うということらしい。

参拝後、そこからタクシーで粟ヶ岳の山頂付近にある阿波々(あわわ)神社というひょうきんな名前の神社を訪ねる。
粟ヶ岳、阿波々神社とくれば、当然、それは阿波徳島と縁があって、かの地の祭祀一族・忌部氏と縁がある。
ちなみに事任八幡宮のほうも忌部氏の宮である。

それはさておき、阿波々神社の境内にある磐座群は圧巻であった。
磐座を見ると、どうしようもなく血が騒ぐ。
ここは本当に特別に神聖な場所だ。

もう少しゆっくり見たかったが、このあとの予定もあるので、足早に立ち去る。

そして、奈良県吉野へ。
夜8時、金峯山寺蔵王堂の夜の特別拝観に参加。
お堂の中は、蝋燭の灯りと暗がり、僧たちの声明と静寂につつまれ、そして体長7メートルの3体の巨神、青黒い憤怒の蔵王権現が闇に浮かび上がる。
昨年に続き2回目の参加になるが、やはり格別な心持になる。


安房から阿波へ

2014年03月29日 | 旅の記録
二週間前、房総半島の館山を訪ねた。
古代その地を開いたのは安房・忌部氏である。
彼らは、もとは阿波の国から来た。

今回、仕事で徳島に出張する機会があったのも何かの縁であろうと思い、仕事が終わったあと、忌部氏の祖神を祀った忌部神社と大麻比古神社を訪ねた。

そして、飛行機の出発までにもう少し時間の余裕があったので、徳島市内を一望でき、天気が良ければ淡路島や紀伊水道の向こうの和歌山まで見はるかせるという、眉山に登った。









館山の神社をめぐる

2014年03月17日 | 旅の記録
3月15~16日にかけて房総半島の館山に行ってきた。
東京に住んで二十数年になるが、房総半島は初めて訪れる。
近いようで遠いのだ。
新宿から特急に乗って2時間余り、昼に館山に到着。
そこから今度はバスに乗って安房神社へと向かう。
参拝前にまずは腹ごしらえと、鮨屋に入る。
地魚のにぎりとあらの味噌汁を注文。
これが滅法美味かった。
1貫また1貫と眼前から消えていくのが残念でならない。
幸せ一杯、腹一杯で店を出て、安房神社へと向かう。
ここがまたよかった。
実に清々しい神社であった。
その後、その日の宿泊場所であるオーパヴィラージュへ明るいうちにチェックイン。
南欧風のホテルで、料理にもサービスにも満足した。

翌日、朝一番で岬の突端にある洲崎神社へ向かう。
ここもまた実に清々しい。
体中の細胞のひとつひとつが喜び弾けている。
その後、海南刀切(なたぎり)神社、船越鉈切(なたぎり)神社、六所神社をめぐった。

この2日間、房総半島は春の陽気であった。
しかし、風がかなり強く、帰りの特急はしばらく館山駅で出発を見合わせ、少し風が弱まったところでようやく徐行運転で走り出した。


佐和山へ

2014年03月10日 | 旅の記録
先週の神戸出張につづき、この金曜~土曜には大津に出張があり、仕事が終わった後、今度は彦根に立ち寄った。ご先祖様ゆかりの地、佐和山を訪ねるのが目的である。

佐和山城といえば、石田三成の城というイメージが強いが、三成以前にも何人もの武将がこの城を居城としている。そのうちのひとり、堀秀政という武将が、織田信長が本能寺で殺害された後に佐和山城主となっているが、記録によると、私のご先祖様は「本能寺の変信長薨じて後、堀久太郎秀政に佐和山城に仕え、千石を食む」とある。

佐和山の大手門跡に着くなり、風雪が舞いはじめ、山は白い霞みに覆われてしまった。


彦根城からみた佐和山


石田三成の旗印「大一大万大吉」。
一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる、という意味。

ご先祖様の足跡をたどる旅(2)

2014年03月05日 | 旅の記録
神戸出張のついでに、土日にかけて大阪城と滋賀を訪ねた。

今回の旅の目的は3つ。

1つ目は、先日の奈良・元興寺での「かえる石」の縁により、大阪の陣で自害した淀殿の御魂をふるさとの小谷山の御屋敷までお連れすること。

2つ目は、私のご先祖様の在所・長沢から、ご先祖様が仕えていた主家の在所・箕浦までを徒歩で旅して、距離感を体でつかむこと。

そして、3つ目。
これは、いちばんの重要課題で、最後の最後まで迷い続けた。
今回訪ねるべきか。あるいは、まだ時期尚早か・・・。
数日間、自問自答を繰り返した。
ふとしたきっかけで、手元にあったオラクルカードを引いてみた。

「今、迷っていることはありますか?
選択を先延ばしにしてしまっていることはないでしょうか?
今、アタマに浮かんだことを出来る範囲で、すぐに行動に移してみてください。
とにかく思い切って、一歩を踏み出すこと。
迷ったら、迷わず、まずは一歩前!
そこに、すべての良きことを受け取るためのヒントがあります。」

これで決まった。
ご先祖様の主家のお墓を訪ねるべし。

以下、今回訪れた場所のみ記録する。

・大阪城-大手門、天守閣、秀頼・淀殿自刃の地
・長沢-福田寺、熊野神社、長沢城跡
・飯村-嶋氏館跡(春日神社)、若宮氏館跡、八幡神社
・箕浦-箕浦城跡、井戸村氏館跡、八幡神社
・西円寺-今井氏西円寺館跡、今井一族の墓、八幡神社
・小谷山清水谷-浅井氏とその家臣の屋敷跡
・竹生島


淀ノ方 (2)

2014年03月04日 | 旅の記録
翌朝、北陸本線・河毛駅に降り立つ。
昨日からの曇り空だが、気温は寒くはない。
ここから30分ほど歩いて、小谷山の麓に着いた。
小谷城は峻険な山の上にあり、戦さになればそこを拠点とするのだが、平素は山麓の谷に屋敷を構えて、そこで居住していたのだ。
谷の入り口付近は家臣らの屋敷で固められていたらしく、その跡地を示す碑がぽつり、ぽつりと立っている。
浅井氏の御屋敷跡は谷の最奥部にある。
奥に向かって進むほど、谷が狭まり、薄暗さと静けさを増していく。
自然に足が早まる。
そして、御屋敷跡に着いた。
淀ノ方がまだ茶々であったころ、たしかにここで暮らしていたのだ。
浅井長政とその妻お市の方は、政略結婚といえども、互いに深く愛し合っていたという。
長政が織田信長に反旗を翻す以前は、ここで、家族ともども幸せな日々を暮していただろう。
などと感慨にふけっていると、にわかに周囲が明るくなった。
見上げると、雲間から太陽が顔を覗かせていた。
実家におかえりになられて、喜んでおられるのだろうか。
まったく出来過ぎている。


浅井氏の御屋敷跡


御屋敷跡に日が射した


御屋敷跡から先は山頂に続く山道となっている。
少し分け入ってみると、山を削って空堀とした遺構等が見られた。
さらに登ると。
なんと、そこには「蛙岩」と名付けられた岩が。
元興寺の「かえる石」に導かれて、ここまで来て、最後に「蛙岩」に出会うとは。
まったく出来過ぎている。


蛙岩


淀ノ方 (1)

2014年03月03日 | 旅の記録
神戸出張のついでに、大阪城に立ち寄った。
淀ノ方が自刃した場所を訪ねたかったのだ。

2週間前の奈良出張の折、たまたま訪れた元興寺で「かえる石」に出会った。
大阪城落城の際、亡くなった淀ノ方の遺骸をこの石の下に埋めたとされ、石には淀ノ方の御霊が宿っていると言われる。
その石が、どういうわけか、今は元興寺にある。

私のご先祖様は、淀ノ方とは縁がある。
豊臣秀吉が亡くなる4日前に出した掟書では、ご先祖様は大坂城二ノ丸の表門を守備するよう命じられている。その二ノ丸に居住していたのが淀ノ方だ。
淀ノ方は浅井長政の長女(茶々)だが、ご先祖様はもとは浅井長政に仕えていたので、ご先祖様にとっては、淀ノ方は旧主のお姫様にあたる。

広大な敷地をもつ大阪城には、最寄駅が5つ6つある。
私は谷町4丁目からアクセスし、大手門をくぐった。
ご先祖様が守備していた二ノ丸表門は、この大手門のことだろう。
門の少し先に、修道館という立派な柔剣道場がある。
私は高校生のころ柔道をやっていて、数か月に一度、ここまで練習に来ていた。
これもまた、ご先祖さまとの縁であろうか。


大手門


修道館


桜門を通って本丸に入る。
天守閣は、さすがに大勢の観光客で賑わっている。
私の目的地は、天守閣の裏側にあった。
「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」という石碑がひっそりと立っており、花がお供えしてあった。そこは天守閣の死角になっていて、ここに足を運ぶ人はほとんどいない。


天守閣


豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地


さて、これで元興寺の「かえる石」に宿った淀ノ方の御霊は、大阪城におかえりになられた。
しかし、まだやることが残っている。
明日は淀ノ方の故郷、北近江の小谷山へと向かう。

井戸尻考古館

2013年12月23日 | 旅の記録
小淵沢駅に特急あずさが到着するまで少し時間があったので、観光地図を広げて、どこか近くに見どころはないかと探していると「井戸尻考古館」という文字が目に入った。縄文遺跡にまつわる博物館であるらしい。時間つぶしにと思って、さほど期待もせず行ってみたのだが、これが思いがけず凄かった。不可思議で、奇妙奇天烈で、独創的で、圧倒的なエネルギーを秘めた土器や土偶の一群がずらりと並んでいて、テンション上がりまくりの大興奮!まったく凄すぎる。縄文人、恐るべし。

 

井戸尻の地は、左には八ヶ岳、右には南アルプス、真正面には富士山と、眺めは最高!









徳島旅行

2013年09月17日 | 旅の記録
9月13日~16日にかけて徳島を旅した。


13日(金)
羽田から徳島へ。
徳島空港からはバスを乗り継ぎ、神山温泉で宿泊。
つるつる、すべすべの湯が心地よい。

14日(土)
日の出前に起き、宿にほど近い大粟神社を参拝。
朝食後には、バスに乗って八倉比売神社へ。

続いて府中から電車で穴吹へ向かい、タクシーに乗り換えて、白人神社、神明神社、そしてうだつの町並みを通り抜け、倭大国魂神社、伊射奈美神社を参拝して回る。
神明神社は薄暗い草ぼうぼうの急な階段を登った小山の上にある、古びて苔むした石垣で周囲を覆われた異形の祠だ。前駐日イスラエル大使がイスラエルの失われた十枝族との関係を調べにここを訪れたこともあるという。そして、そのときに大使を車で案内したのが、なんと今回われわれを案内してくれる運転手その人であった。
倭大国魂神社では参道の落ち葉を掃除していた宮司とおぼしき人から「この木を知っているか」と聞かれ、知らないと答えると、その人は枝を折り取ってわれわれに見せながら、これはナギの木ということ、お祓いには榊の木以前にはナギの木を使っていたこと、ナギは左右対称に葉をつけること、葉脈は縦に並んでいるため強く引っ張ってもちぎれないことを教えてくれ、旅のお守りとしてくださった。

一連の参拝を終え、貞光駅から電車に乗って大歩危まで行き、さらにそこからタクシーに乗り換え、運転手の秘湯談義を聞きつつ夜の山道を40分ほど走り、この日は奥祖谷の古民家、築300年という「ちいおり」に宿泊。

15日(日)
朝から雨。
昨夜のタクシーの運転手さんに迎えに来てもらい久保まで行き、そこからバスに乗り換えて、剣山の登り口となる見ノ越で下車。
雨がかなり強くなってきた。
台風18号が近づいている。
山の中腹まで乗っていこうと思っていたリフトが止まっている。
登山は断念するしかないか。
観光センターの人から、リフトは人が来たときに動かすようになっていると聞き、相方が「登ろう!」と即答。
リフトを動かしてもらう。
ただ白いだけの景色の中を2人きり、冷たい雨にされされ15分間運ばれる。
中腹にある大剣神社に到着すると神社には4人の先客がいた。修験者たちだ。
神社のご神体はささくれ立った磐座で、雨にけぶってうっすらと影しか見えないが何とも凄みがある。

風が強まるとリフトが止まるため、山頂は断念し、足早に下山。
観光センターで祖谷そばを食べて、帰りのバスを待つ。
雨は土砂降りになった。
店のご主人が、バスが動かなくなることを心配してくれて、バス会社に必ず迎えに来てくれるよう連絡を入れてくれた。ありがたい。

大歩危までの帰途、枝分かれしたもうひとつの国道が通行止めとなり、ひやひやしたが、無事に大歩危まで行き着くことができて、この日はここで宿泊。

16日(祝)
大歩危から特急で吉野川に沿って徳島駅へ、そして空港へ。
午前中までの便はすべて欠航。
午後には台風は関東を過ぎ、ちょうどわれわれの便から出航可能となった。
定刻より1時間遅れで羽田に到着。
それにしても、ちょうど1年前に徳島旅行したときと全く同じ展開だとは・・・。

台風一過、大気は澄み渡り、黄金色の夕焼け空を背にして富士山のシルエットがくっきりと浮かんでいた。

越木岩神社と神呪寺、そして母校へ

2013年08月04日 | 旅の記録
神戸出張のついでに、六甲山系の東の端にある甲山(かぶとやま)周辺に立ち寄ってみた。

まずは甲陽園駅から越木岩神社へ。
本殿の裏手には「甑岩(こしきいわ)」と呼ばれる周囲約40m、高さ10mの巨大な磐座がある。また、そこから少し小山を登ったところにも「北の磐座」と呼ばれる小ぶりな磐座がある。古代の祭祀場だが、今なお霊域であることが感じられる。

つぎに甲山の中腹にある神呪寺(かんのうじ)へ。
丸っこい稜線が印象的な甲山を背にした神呪寺へとつづく石段を見上げると、なんだか巨大な古墳かピラミッドを思わせる。

本堂の横は展望台になっていて西ノ宮の街や瀬戸内海を見下ろせる。吹く風が肌をなでて心地良い。おやっ、眼下に見える山の上になんと磐座があるではないか!
ということは、その磐座からは甲山がばっちり見えるということだ。甲山はいわゆる神奈備であるから、そこから甲山を遥拝していたのかもしれない。後日調べたところ、目神山(女神山)という山の磐座であるらしい。

参拝を終えて石段を下りたとき、雲間から見事な天使の階段が現れた。というよりは、大きな白蛇が口を開けてブハーッと光線を出しているような感じかな。。。

甲山の麓には関学があるので立ち寄ってみた。
実に二十数年ぶりに訪れる母校である。

    

沖縄の小さなグスクを訪ねる

2013年06月30日 | 旅の記録
沖縄出張のついでに、玉城(タマグスク)城跡とミントングスクを訪ねてみた。観光名所とは全く無縁のところだが、胸の奥深いところで何かが反応しているらしく、なぜだか気になるスポットなのだ。


玉城の城門。冬至と夏至には朝日がまっすぐに差し込むらしい。城は眼下に青い海を見下ろす高台の上にあり、吹き渡る風が実にさわやか。


城内にある「天つぎあまつぎの御嶽」。今回ここを訪ねたきっかけは、実は、この変わった名前の御嶽が気になったから。


ミントングスク。先史時代からの聖地であったらしい。ちなみに、グスクは「城」という漢字が当てられ、首里城や今帰仁城などが有名だが、もともともは軍事拠点としての城ではなく、集落の聖域のことであり、ミントングスクもそうしたごくささやかな場所。


ミントングスクの拝所。妄想か幻想か分からないが、ちょっとした不思議体験があった。