西浦の時間≪Nishiura no Time≫

思いつくこと全てやってしまいたい。
しかし、それには時間が足りなさ過ぎる。
時間を自分のものにせねば。

泥だらけの少年は嘲笑の煩さに目覚める。

2009-06-30 | 実験(よく分からない面白さ)
うふふふ。
大切な「何か」?
「何か」ってなんなのよ。
カギカッコでくくって、
それでおしまい。
ぷふふっ。
なに熱くなってるの?
何の根拠もなく、
自分の妄想を押し付けて、
それでおしまい。
日記じゃないんだから。
あーあ、恥ずかし。
うふふふふ。
ぷふふふふふ。
へへへへ。
ははは。
むふふふふふふ。
んふんふんふ。
ぼくらの「世界」?
なんなのよ、「世界」って。
玉乗りでもする?
素敵な女の子がいて、
無条件に「ぼく」を愛してくれて、
「世界」は平和を取り戻す。
いやいや、そんな腐った図式を、
揶揄したいんじゃない。今さら。
ふ、ふふふ。
はははは。
んへへへへへへへ。
はははははは。
ぶふっ。
コミュニケーションだよ、コミュニケーション。
文字に話しかけるんじゃないんだ。
そこにはちゃんと人間が座っている。
相手がどんな人間かも理解しようとしないで、
自分の意見を披露したところで、なんの効果がある?
おまえに、なにがわかる?
んふ、んふふふふ。
ははは。
へへへへへ。
ぷぷぷ。
一生、自分の布団で寝てたらいい。
誰も邪魔なんかしないさ。

ココロヅモリするコウモリ。

2009-06-29 | 日常(ふつうの面白さ)
芥川龍之介の晩年の作品を読んでみたら、
自分が何をすべきなのか分からなくなってしまった。
けど、分からないからこそ、
何か形にして分かりたい。自分が何をすべきなのか。

けど、もちろん、
「人間コピー機」に成り下がるのは御免だし、
じゃあ「今の自分」に、
何が出来るのかを考えなくちゃいけない。
少なくとも、
出来ないことはやらないとゆうことだけは、
いつも心がけてたいと思う。

とりあえず、何かやりたい。
龍之介以外の、何かが。
気持ちばかりがパンパンに張ってます。

もらいもの。

2009-06-29 | 実験(よく分からない面白さ)
風邪ひいた風邪ひいた風邪ひいた

誰からもらった誰からもらった誰からもらった

風邪っぴきはいねがぁ風邪っぴきはいねがぁ風邪っぴきはいねがぁ

だるさだるさだるさ

ノドの痛みノドの痛みノドの痛み

眠いのは寝なかったから眠いのは寝なかったから眠いのは寝なかったから

治ったら覚えとけよ

打ち上げる。

2009-06-28 | 音楽(音楽的な面白さ)
昨日の一日だけで、
3人の方と約束ができました、
ピアノ伴奏をしてくれるとゆう。
こんなに嬉しいことはありません。
さっそく演奏する曲を探してます。
この作業が一番ウキウキする。

ところで、楽譜とゆうのは、
「読み物」ではありません。
期待の熱に高まる人たちの前で、
音楽になることが、その役目です。
それは「サナギ」に似てますね。
サナギをサナギとして楽しむのは、
西浦にはよく理解できません。
蝶になって生き生きと飛んでる姿こそ、
そのあるべき姿ではないでしょうか。

あるいは、
紙に印刷された音符は、
花火の「玉」とも言えますね。
まだ打ち上がってない状態の、
打ち上げてみないと分からないドキドキが、
そこにはあります。
「玉」の構造を細かく読み込んでみたって、
そんなことは分かるはずがないのです。

作曲家とゆう「花火職人」が、
空にどんな模様を広げたかったのか想像する、
「楽譜」を広げてて楽しいのは、
まさにそうゆう時。
それは小説なんかを読む時とは、
全く違う喜びです。

3人の人たちと、
それぞれどんなことが出来るのか、
今から楽しみで仕方ないです。
時間がどれくらい掛かろうと、
全て、ちゃんと実現させていきたいです。

「MW」の試写会。

2009-06-25 | 映画・映像(ビジュアルな面白さ)
映画「MW(ムウ)」の試写会に行く。
手塚治虫の禁断の傑作をベースにしたらしく、
そのうたい文句に恥じず、暴力性が極めて高く、
残虐なシーンが多々含まれていた。

主演の玉木宏の演技が凄まじく、
撮影のために7キロ減量したという、
その意気込みが画面に反映されていて、
彼の存在感だけでお腹いっぱいになった。

作品全体を見て、
一般的な「手塚治虫」のイメージをぶち壊す一方で、
もしかすると手塚治虫のやりたかったことが、
一番盛り込まれてる作品なのかもしれないと思った。
「ピカレスク・ロマン(悪漢小説)」
と言うのは違う気がするけど、
「正義が勝つ」とか、
そんな簡単に言ってんじゃねぇよ、
みたいなメッセージが感じられて、気持ちよかった。
まあ、原作がどうゆうものか読んでないから、
実際はどうなのか分からないけど。

紙から変わるとき。

2009-06-24 | ひとりごと・ぼやき(モノローグな面白さ)
それはただの紙とインク。
実在感のない、単なる素材。
そこには文章があって文字があって記号があって、
つまりは感情が盛り込まれていて、
けど、それを受け取る受信機は不足してる。
地デジなんかより、ぜんぜん足りてない。

人から笑顔が消えたのは、
思い出せないからではなく、
笑ったことがないからだ。
受信機を持たないで、
紙から流れてくる感情を受け止められず、
文字を読んでは楽しいと言い、
物語を聞いては面白いと言う。
言葉のシャワーを浴びて、
バカみたいに気持ちよさそうにしてる。

けどそんなんだったら、
紙なんていらない。
インクもいらない、文字もいらない。
いったい誰が、必要とするの?
そんな世界を。

同じ曲を三度続けて。

2009-06-21 | 映画・映像(ビジュアルな面白さ)
悪名高い動画サイトNで削除されたらしい。
こんなスゴイものを削除対象に出来るんだから、
見上げた根性だと思う。
ぜひHDモードでご覧あれ。







ちなみに正式PVはこちら。





当時、ストロングマシン2号は10歳。
人間の身体性を感じさせない奇怪な動きが、
すさまじいインパクトを与えてくれる。
(ちなみにストロングマシン1号は彼女の父で、
お寺の住職だそうな)

けど、確かに、
こうした映像は面白いけど、
逆に言えば、
曲自体の面白さが薄れてしまってる。
POLYSICSのライヴはかなりカッコいい。






ここまで楽しくやられたら言うことないだろううな。

昔の話を蒸し返す。

2009-06-21 | 徒然なるままに(頭をくすぐる面白さ)
文法的には、
「お前気持ち悪いよ」も「キモいよ」も、
意味するところは一緒。

けど、実際のところ、
音として考えてみると、
たとえば「キモいよ」はセンテンスが短い。
逆に、「お前気持ち悪いよ」は長い分、具体性がある。
つまり「お前」という身体が受け手には感じられて、
確かな実感を与える効果が期待できる。

しかし、この「お前」が何を指すのか、
「お前」とは「イコール顔」なのか、
それとも「イコールこころ」なのか、
「イコール性格(内面)」なのか、
それは人によってだいぶ違う。

だから、もし仮に自分が、
相手の「全体」をイメージして、
「お前気持ち悪いよ」と言ったとしても、
相手の思う「お前(=自分)」のイメージが違えば、
正確には伝わってないことになる。

しばしば「伝えられない難しさ」とか言うけれど、
反対に「受け取れない難しさ」が、
あまり考えられてない気がするのはなぜだろう。
コミュニケーションの問題は、
まるで伝える側に責任があるかのようだ。
ひとつの言葉に持ってるイメージが、
人によって違うのは当たり前で、
そこをどう考えるかってことはすごく重要なのに。

「イヌ」と書くのと、
「犬」と書くのでも、
イメージは人によってかなり違ってくる。
ダックスフンドをイメージして、
「イヌ」と書いたとしても、
受けては秋田犬みたいなものを、
イメージするかもしれない。

けど、じゃあ、
それって、伝え手がちゃんと、
漢字で書かなかったから悪いの?
まあ、当然違うわけだけれど。

何が言いたいかって、
受け取る側はボーっと待ってるだけで、
情報を「受け取る」だけでいいと思ってたら、
それは大間違いだという話だ。
そもそもこの「受け取る側」という言い方がマズイ。
そんな受身な姿勢で何が得られるのだろうか。
「取る」とか「つかむ」とか、
その方が、よっぽど良い。
そこには、
響きとしての圧倒的な違いがある。

ノート&。

2009-06-20 | 徒然なるままに(頭をくすぐる面白さ)
「爆笑問題のニッポンの教養」を見た。
今回の教授は東京大学で、
障害学を専門としてる福島智先生。
全盲、全ろうという障害を持ってて、
相手の言ってることを知るためには、
側にいるスタッフに「指点字」で通訳をしてもらう。


・能力 と 存在
「障害」に対して健常者が思うことは様々だ。
「かわいそう」とか「助けてあげなきゃ」とか。
しかし、当たり前だけど、
誰も「うらやましい」とは思わない。
むしろそれは不謹慎な印象さえ与えかねない。

しかし、爆笑問題との対談を聞いてると、
むしろ「障害」を抱えてるのは、
健常者の側なのではないかとふと思った。
普通の人間ってのは、
面白いくらい、まったく目が見えてない

ある規格からはみ出す人、
つまり一定の身体的な条件に満たない人を、
社会は障害者と位置づけてきた。
そこにはもちろん、
「背が高い低い」は入らない。
言ってみれば、
「能力」があるどうかで、
人を振り分けるシステムが、
凝縮した形で現れてる集団が、
今の「障害」という定義には当てはまる。


・私は、ここに いる。
番組の中で福島先生が、
経済的に生産能力のない障害者はたくさんいるけど、
じゃあ、その人たちは生きる価値がないのか

と話していたのが印象的だった。
社会の穀潰し」とも言い換えてて、
実際、心の中ではそう思ってる人も少なくないことを、
先生は実感しているようだった。

社会は「能力」で、
障害か障害じゃないかを決める。
そこには個々の「存在」について、
十分な考えがなされてない。
「障害」という現象を通して、
何を考えるべきか、
つまり「障害」とは何かということが、
重要なのだと先生は言う。


・障害者の中には天才がいる。
番組の中で引き合いに出された、
ホーキング博士、スティービー・ワンダー
けど、天才は健常者の中にもいるわけで、
障害があるから「天才」なんて言えるわけがない。
しかも実際のところ、
たとえば「全盲のピアニスト」というのは、
「その豊かな音楽性とか才能」ではなく、
目が見えないのに・・・!」という驚きだけで、
メディアに取り上げられて見世物にされてる。

たとえば辻井伸行さんの演奏を、
キチンと放送した番組はどれだけあるのだろうか?
そんなことで、
彼の「天才」が正しく伝わると思ってるのか。
(メディアはただ「天才」が好きなだけに過ぎない)

しかし、天才がいるから、
能力的に健常者より上だという議論を、
先生はあまり好んでないようだった。
「天才がいるからどっちが障害か分からないとか、
そんな甘いもんじゃない」
という言葉にドキッとした。

そうした先生の考えも合わせてみると、
人々の「認識の低さ」が、
「障害そのもの」につながってて、
バリアフリー」という名のバリアで、
社会全体を包んでしまっているのは、
ホントにどうしようもない状況だと思う。
「障害者だから・・・」という取り扱いをすることが、
何よりの障害なのだろう。


・絶望、孤独、苦悩
けど、福島先生は、
別にメディアがどうこうなんてものではなく、
もっと切実で、実際的な問題意識がある。
自身が18歳の時に音も光も完全に失くして、
宇宙の中にほっぽり出されたような気分になって、
その時のことを「すごく孤独、絶望を感じました」
と表現したのにハッとした。

たとえばくだらない文学少年が、
ノートに書きつけた詩の中の、
「孤独」とか「絶望」とかいう文字と、
先生が発した「孤独」「絶望」には圧倒的な差がある。
「言葉」って、なんて軽々しいんだろうって思った。

番組終盤、
「生きる意味」に対して、
太田さんが「幸せかどうか」なんじゃないか、
と言ったのに対して、
先生がヴィクトール・フランクルの本にあった、
ある公式を引用した。
(※アウシュヴィッツに収監された心理学者)

絶望=苦悩-意味

つまり、苦悩から意味がなくなると、
絶望が生まれるという公式。
意味が見出せれば、
(それは苦悩かもしれないが)
少なくとも絶望ではなくて、
幸せかどうかだけじゃ、
生きるの意味は見出せないという、
その言葉には、自らの確信がこもっていた。


・「人の存在」を渇望する。
先生が求めてるのは、
実際のコミュニケーションであって、
人と触れ合いたい、
何も見えない聞こえないこの「牢獄」から、
一秒でも抜け出ていたい、
とゆう切望が、根源的にある気がした。
現に、爆笑問題と話している先生は、
言いようもなく楽しそうで、幸せそうだった。
(収録の日、先生は体調があまり良くなかったそうだが、
テレビで見る限り、そんな印象は全く感じられなかった)

しかし、
それはあくまで「指点字」の通訳があるおかげで、
それがなくなってしまえば、
たとえ目の前にどれだけ人がいても、
先生はひとりぼっちだ。
そうゆう世界は想像してみると、
非常に不思議なもので、
そこには「社会」とか、
「集団」の本質があるように思えた。


映画「靖国‐YASUKUNI‐」の、目に見えてないところ。

2009-06-19 | 映画・映像(ビジュアルな面白さ)
映画「靖国‐YASUKUNI‐」を見ました。
まあ、やはりその存在を知りながらも、
なぜあんなに問題視されてるのか、
いまいち理解できないところがあって、
映画を見て少し勉強してみようと思ったのですが、
結局のところ、
その作品的な魅力に見入ってしまいましたね。
良い映画です。見るべし。

靖国神社のご神体は一振りの日本刀で、
この「靖国刀」を今なお作り続ける刀匠がおりまして、
映画はこの刈谷直治さんのインタビューを中心に、
ヤスクニ」という状況をえぐり出します。
正直、見ていて不愉快になるシーンが多々ありました。
日本人として。
(※この映画は中国人の監督が製作した事で話題になった)
それくらい「痛い所」を突いてるわけですよね、見事に。

ただ、最初のうちは神社の境内で、
軍服を着て合掌する時代錯誤な団体や、
「テンノーヘイカバンザーイ!」
と叫んでる人がとても滑稽で、
苦笑いが絶えなかったのですが、
最後になるにつれて、
いや、これはシャレにならないな・・・
ということがジワジワと分かってきて、
今まで笑っていたシーンを思い出してみても、
全く笑えなくなってくる。
笑いたくても、笑えないんです。
もはや「コスプレ」じゃないかとバカにしていた、
軍服の集団がとても怖ろしいものに見えてくる。

そこでようやく、
自分は凄まじい「映画体験」をしたんだ、
ということに気付きました。
つまり、ある意味で、
モノの見方を180度ひっくり返された。
かなり巧妙な、映画的なトリックによって。

「戦争反対!」とか「靖国参拝をやめろ!」とか、
まあ、そうゆうジャーナリスティックな問題も大事ですが、
この映画でより重要になってくるのは、


「靖国のご神体」

 ↓

「靖国刀」(240万以上の「英霊」が宿る神聖な象徴)

 ↓

「刈谷さんが作った日本刀」

 ↓

「刈谷直治という日本人」

 ↓

「日本人とは?」

 ↓

「日本という国の本質」


という、まあ、長ったらしい図式で、
映画ではこの「本質」という部分は語ってないのですが、
実はそれこそが一番大切な要素なんじゃないかと、
西浦は感じました。
まあ、中国人によって、
「日本人性」が問われるってのは確かに、
なんだかなぁ・・・って感じですがね。

ところで作中に流れる、
グレツキの「交響曲第3番」から染み出てくる悲哀は、
「かわいそうなニッポン・・・」
という皮肉が込められてるみたいで、
これまた見てて(聞いてて)かなり胸に応えました。
曲としてはとても美しいのに、
こんな奥行きのある意味付けが出来るのは、
監督のなせる業だなぁと思いました。

単に思うこと。

2009-06-18 | 音楽(音楽的な面白さ)




変な工夫をしてない。
音楽的な面白さではなく、
そのパワーだけで、
通りゆく人の足を止めてしまう。
「これぞ音楽」という気がして、
目が覚める思いだった。
「まきちゃんぐ」という名前はどうなんだろう、
って感じがしますが、まあ、
埋もれてしまわないよう頑張ってほしいですね。