カトリック教徒11億人の信仰の頂点に立つローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ボイチワ)が2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、死去した。84歳だった。
キリスト教各派との和解や「異なる宗教との対話」を促進、平和の尊さを説き続けた。旧ソ連や東欧の民主化、平和外交に大きな足跡を残した。
1920年5月18日、ポーランド・クラクフ近郊で生まれた。78年10月16日、264代教皇に選出された。ローマ法王庁によると、在位期間は26年以上に及び歴代3位。次期教皇は、枢機卿による選挙で選ばれる。
在位中に歴代最多の104回の外遊で130カ国以上を訪問、「空飛ぶ聖座」と呼ばれた。81年2月には日本を訪れた。
86年にローマのシナゴーク(ユダヤ教会堂)を法王として初めて訪問。2000年3月にはキリスト教会の分裂や異端審問などを罪として挙げ、神に許しを求めた。
パレスチナ紛争、イラク戦争で積極的なバチカン外交を展開、平和のメッセージを訴え続けた。
80歳を過ぎても精力的活動を続けたが、最近はパーキンソン病を患って歩行が不自由になり「退位説」も出ていた。(共同)
◇
≪鳴り響く鐘、静寂の広場≫
バチカンの夜空に鐘の音が鳴り響き、数万の群衆が祈りの言葉を繰り返した。ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が死去した2日夜、サンピエトロ広場を埋め尽くした信者らは、静寂の中で悲しみをかみしめた。
「われらの教皇は父なる神の下へとお帰りになられました」。午後9時37分に教皇が死去したことを聖職者が厳かに告げると、広場では、白髪の女性もジーンズ姿の少年も、教皇が最期を迎えた居室の窓を見つめ、立ち尽くしたまま一様に沈痛な表情。瞳が涙でぬれている。
賛美歌の調べが流れる中、教皇の出身国であるポーランドの白と赤の国旗に黒いリボンが結び付けられ、広場の一角でゆっくりと左右に揺れた。
祈りをささげるため、同広場に向かう途中だった女性は「教皇は素晴らしい方でした。もう苦しむこともないのです」と語った。(共同)
(04/03 08:29)
我々、カトリック教徒は、教皇のことを親愛を込めて『パパ様』を呼んでいる。この、ポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世には、私には特別な思い出がある。81年に来日された時、同じポーランド人神父が創設者(聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父)である、私の母校の長崎市の修道院・教会を訪れてくださり、私も他の多くの信者、群集と一緒に手を差し出して、その時に『パパ様』の手に触れることができ、とても興奮したのを思い出します。寒い冬でしたが、手がとても温かかったですね。
長崎市内の陸上競技場で、大雪の中ミサも行われましたが、ミサが行われたら晴れ間が現れて本当に不思議でした。奄美からも、カトリック信者が客船をチャーターして、長崎に向かい。私の両親や妹も来ました。
今は、ただ『パパ様』のご冥福をお祈りします。
Good by pope!
キリスト教各派との和解や「異なる宗教との対話」を促進、平和の尊さを説き続けた。旧ソ連や東欧の民主化、平和外交に大きな足跡を残した。
1920年5月18日、ポーランド・クラクフ近郊で生まれた。78年10月16日、264代教皇に選出された。ローマ法王庁によると、在位期間は26年以上に及び歴代3位。次期教皇は、枢機卿による選挙で選ばれる。
在位中に歴代最多の104回の外遊で130カ国以上を訪問、「空飛ぶ聖座」と呼ばれた。81年2月には日本を訪れた。
86年にローマのシナゴーク(ユダヤ教会堂)を法王として初めて訪問。2000年3月にはキリスト教会の分裂や異端審問などを罪として挙げ、神に許しを求めた。
パレスチナ紛争、イラク戦争で積極的なバチカン外交を展開、平和のメッセージを訴え続けた。
80歳を過ぎても精力的活動を続けたが、最近はパーキンソン病を患って歩行が不自由になり「退位説」も出ていた。(共同)
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≪鳴り響く鐘、静寂の広場≫
バチカンの夜空に鐘の音が鳴り響き、数万の群衆が祈りの言葉を繰り返した。ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が死去した2日夜、サンピエトロ広場を埋め尽くした信者らは、静寂の中で悲しみをかみしめた。
「われらの教皇は父なる神の下へとお帰りになられました」。午後9時37分に教皇が死去したことを聖職者が厳かに告げると、広場では、白髪の女性もジーンズ姿の少年も、教皇が最期を迎えた居室の窓を見つめ、立ち尽くしたまま一様に沈痛な表情。瞳が涙でぬれている。
賛美歌の調べが流れる中、教皇の出身国であるポーランドの白と赤の国旗に黒いリボンが結び付けられ、広場の一角でゆっくりと左右に揺れた。
祈りをささげるため、同広場に向かう途中だった女性は「教皇は素晴らしい方でした。もう苦しむこともないのです」と語った。(共同)
(04/03 08:29)
我々、カトリック教徒は、教皇のことを親愛を込めて『パパ様』を呼んでいる。この、ポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世には、私には特別な思い出がある。81年に来日された時、同じポーランド人神父が創設者(聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父)である、私の母校の長崎市の修道院・教会を訪れてくださり、私も他の多くの信者、群集と一緒に手を差し出して、その時に『パパ様』の手に触れることができ、とても興奮したのを思い出します。寒い冬でしたが、手がとても温かかったですね。
長崎市内の陸上競技場で、大雪の中ミサも行われましたが、ミサが行われたら晴れ間が現れて本当に不思議でした。奄美からも、カトリック信者が客船をチャーターして、長崎に向かい。私の両親や妹も来ました。
今は、ただ『パパ様』のご冥福をお祈りします。
Good by pope!
パパ様はイエスさまの元へ逝かれましたね。
悲しいけどゆっくりイエスさまに元でお休みなさっていることでしょう。
それでは。
こちらからも、TBさせていただきました。
私と同じカトリックの方なのでしょうか?
私は、マザー・テレサが帰天された時、もうこの世界で心から会いたい人はパパ様だけだと思ったものです。
プロテスタントや、東方教会、ユダヤ教、イスラム教、仏教、その他、諸宗教とも融和を図り、9.11や、アフガン戦争、イラク戦争にも心を砕かれた事と思います。今は、きっとイエス様と安らかな時をお過ごしでしょう。
パパ様は本当に長い間世界を飛び回り、世界平和のために働かれました。私も長崎で、パパ様の手に触れることができた時、涙が出そうなくらい感動しました。大雪の中の陸上競技場でのミサだったのに晴れましたよね。本当にすごいオーラを持ったパパ様でした。
わが母校であの当時在校していた者にとって教皇ヨハネ・パウロ2世の訪問はなによりも印象に残った出来事だったと思います。陸上競技場でミサが終わった後、大雪のなか学校まで歩いて帰ったので、足が凍傷みたいになったことを思い出します。
首を長くしてまっていましたよ。
陸上競技場でのミサの後、学校までの帰路は確かに大変でしたね。
でも、世界の偉人に身近で会えたのは、とても良い思い出になりました。
コメントありがとうございました。
はい、私もカソリックですよ。
ところで、ムツ兄さんが言っていたマザーテレサに私はインドでお会いすることが出来たのです。少しだけそのことを書いてあるのでよかったら覗いてください。 http://www.priere-world.com/overview/india.html
またあそびに来ます。
HPも拝見させていただきました。
実際にマザーにお会いできたなんて、素晴らしいですね。羨ましいです。経済的に豊でありながら、心が貧しくなっていく一方の日本や欧米に暮らしていると、マザーのような人がいてくれるだけで、まだまだ世界は大丈夫と思ってました。本当に偉大な方でしたね。