ムツ兄の、てげてげ人生日記

シマッチュ(奄美人)のムツ兄が、奄美での「テゲテゲ」(気まま)な暮しを記します。

U2 / 18SINGLES+DVD

2006年12月02日 23時00分00秒 | 音楽
まずは、DVDを観ました。ミラノのサンシーロ・スタジアム(サッカーのACミランとインテル・ミラノの本拠地)に会場いっぱいの観衆を前に、ボノ(U2のヴォーカル)が次々彼らのヒット曲を歌っていきました。MCでイタリア語もちょっとありました。さすがラテン民族だからでしょうか、観衆はとても盛り上がっていました。その後、CDを聴きました。シングルカットされた曲だけに皆聞き覚えのある曲の連続でした。新曲も2曲入っています。梱包の中に、『一緒に「国境」を越えてください』という、国境なき医師団への1日50円キャンペーンの振込用紙も入っていました。U2ならではのことだと思いました。

デビュー・アルバム 『ボーイ』 (1980)から最新作 『原子爆弾解体新書~ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』 (2004)までの25年間のキャリアにおいて、世界中のロック・ファンから圧倒的に支持されてきたヒット・シングルを16曲収録した、完全・最強のベスト・アルバム。今年レコーディングの新曲も2曲収録!通常盤(UICI-1051)のみボーナス・トラック1曲収録。またCD+DVD限定盤のDVDにはヴァーティゴ・ツア- ミラノ公演のライヴ映像を10曲収録!

【アーティストについて】
ダブリンのマウント・テンプル・ハイスクールの掲示板に貼られた一枚の募集広告。そんなラリー・マレンの呼びかけで集まった4人の男たちが、1978年の結成以来築き上げた、あまりに偉大な歴史。22年の歳月と1億万枚を超えるアルバム・セールスを経た今、現代を代表するロックンロール・バンドとして極めたU2の地位と、名声と、その影響力を否定する要因は、まず、見つからない。彼らは実に柔軟な姿勢を持って、この長い年月を乗り越えてきた。共に喜びを分かち合い、ごく稀に失敗も体験した。そして、何よりも特出すべき事実は、20年以上経った今も、同じ4人が一緒にいること。U2を去った者はなく、加わった者もいない。

結成当時の彼らは、70年代後期の伝統にのっとり、演奏以前にバンドという形にこだわった。とはいえ、4人の間に生じた一種の化学反応は、稀に見る生々しさとユニークさとを放っていた。その源にあるものはパンクの精神とエネルギー。当時、世間にはびこりつつあった、暗い表情で、常にレインコートを着ているような"ニューウェーヴ"な同世代たちに対抗するかのように、U2は純真な希望を持って、世の中に乗り込んでいったのだ。

1979年には母国アイルランドで初のEP「U23」をリリース。それに伴う自費ツアーも決行。そこに居合わせた人々は、U2の非凡な才能を確信していた。その後ロンドンでショウケースを行なうが、彼らの手元にはまだ、メジャー・レーベルからのオファーは届かず。それでも、ダブリン公演には2,000人のファンが押し掛け、完全ソールドアウト。契約前のバンドとしては偉業を成し遂げた。1980年1月、アイルランドのロック雑誌Hot Pressの読者投票で、5部門を制覇するという、これまた偉業を達成。もちろん、こうなればレコード会社も放っておくはずはなく、1980年4月、ついにアイランド・レーベルと契約。5月にはデビュー・シングル「11 O'Clock Tick Tock」をリリースする。

それからの3年間の活躍ぶりは目を見張るばかり。それは主に精力的なライヴ活動に担うところが大きい。特にボノのオーディエンスの想像力をはるかに超えるパフォーマンス――例えば安全ネットのないPAタワーによじ登ったり、2階席の縁を歩いてみたり、いきなり人々に背を向けたかと思ったらそのまま待ちかまえる人々の中に背中から飛び込んでみたり――は、まさに、驚異といえた。1stアルバム『ボーイ(Boy)』('80)、続く『アイリッシュ・オクトーバー(October)』('81)、そして『WAR(闘)(War)』('83)の3作はすべてスティーヴ・リリーホワイトのプロデュースによるもので、U2の音楽が実に多様で無限であることを証明するには十分だった。特に3rdアルバム『WAR(闘)』は初の全英No.1に輝き、「ユー・イヤーズ・デイ」「トゥー・ハーツ・ビート・アズ・ワン」という二大ヒット・シングルが、バンドにとって大きなブレイクのきっかけとなった。

またこの頃になると、彼らはクラッシュ以来最も"政治的"なバンドと形容されるようになっていた。ベルファストで行われたコンサートの最中にも、メッセージ色の濃い「ブラディ・サンデー」を初めて人前で披露する段になって、ボノは「俺たちのこと、嫌いなら、はっきり言ってみろ!」と高らかと宣言。しかしバンドと人々の絆は、音楽的な面からも、政治的な面からも、よりいっそう強まるばかりで、その波は確実に、全世界へと広まっていった。1983年、アメリカ・コロラド州レッド・ロック・アンフィシアターで収録された記念すべきライヴ・ドキュメント『ブラッド・レッド・スカイ=四騎=(Under A Blood Red Sky)』がリリースされる直前、Rollig Stone誌のライターたちはU2をベスト・バンドに選出。

1984年に入ると、彼らは突然のメッセージを発表し、次のスタジオ・アルバムは、実験主義者として有名なブライアン・イーノ(デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ)と、彼の弟子であるダニエル・ラノワがプロデュースすると宣言。ダブリン近郊のスレイン・キャッスルにある、まるで洞穴みたいな大部屋でレコーディングされた『焔(ほのお)(The Unforgettable Fire)』('84)は、これまでにない斬新さと、壮大さと、視覚的要素を持った作品に仕上がっていた。それが顕著に表れたシングル「プライド」は、イギリス、アメリカ両サイドで大ヒット。その後行われた相変わらず長丁場なツアーでは、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを満杯にしたのをはじめ、'85年には歴史に残るライヴ・エイドに出演。'86年にはアムネスティ・インターナショナルが主催するConspiracy Of Hopeツアーでヘッドライナーを務める。

1987年、あのTIME誌がU2を表紙に掲げ、"ロック界で最もホットなヤツら"と絶賛。その直後、いよいよ5thアルバム『ヨシュア・トゥリー (The Joshua Tree)』がリリース。なんと、発売後48時間でプラチナ・アルバムに認定されるという、イギリスのアルバムとしては史上最速記録を達成。この記録は未だ破られていない。その後、「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー(終りなき旅)」「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム(約束の地)」などヒット・シングルの勢いにも後押しされ、このアルバムの成功はバンド・メンバーの期待をもはるかに上回った。世界22ヶ国でNo.1を獲得。総売上は1,500万枚を突破し、この年のグラミー賞でAlbum of the YearとBest Rock Performanceを受賞。U2は文字通り世界最大のロック・バンドとなった。

1988年10月には『魂の叫び(Rattle And Hum)』を発表。これは『ヨシュア・トゥリー』ツアーの記録映画で、監督はフィル・ジョアノウ。また、これに伴う2枚組(LP、CDは1枚)サウンドトラック・アルバム(スタジオ収録の新曲を含む)はジミー・アイオヴィンのプロデュースによる。映画では、U2のルーツであるブルースやロックンロールへの傾倒、そして回帰が見られ、「ラヴ・カムズ・トゥ・タウン」でのBBキングとのコラボレーションや、彼らにとって初の全英No.1シングルとなる「ディザイアー」は、まさに、ルーツ賛歌といえるだろう。

しかし、80年代もそろそろ終わりに近づく頃、彼らは過去への探求に終止符を打ち、未来へと目を向け始めた。オーストラリア、ニュージーランド、日本でのツアーを大盛況のうちに終え、ツアーの締めくくりとして地元ダブリンで4回の凱旋コンサートを行なった彼らは、その最終日(1989年大晦日)に、次は大きな変革が待ちうけていることを示唆。ボノはBBCラジオとRTEラジオを通して聴いているであろう推定5億人のオーディエンスに向かってこう言い放った。
「これはあくまで、何か一つの終わりであって、そんなに大したことじゃない。ただ、もう一度一から夢を描き直す必要があるってだけのことさ」

しかし80年代が終わり、90年代に突入して、まさか彼らがここまで変貌しようとは、いったい誰が予想したろう。しばらくベルリンのハンザ・スタジオにこもっていた彼らは、1991年になって待望の『アクトン・ベイビー(Achtung Baby)』をリリース。ただちにZoo TVと銘打った"ライヴ体験"を開始。"ロック界のサージェント・ペッパー"との異名をもとったこのツアーは、2年かけて地球を2周し、その勢いのままに、次作『ズーロッパ(Zooropa)』が誕生する。このアイディアはもともと、ツアーの合間に録音するシングルとして始まり、徐々にEPへと発展。最終的には8枚目のアルバムとなって1993年に発表された。

そして1997年には9枚目のアルバム『POP(Pop)』をリリース。27ヶ国でチャート1位。「ディスコティック」は彼らにとって2枚目の全英 No.1シングルとなる。このアルバムに伴うPopMartワールド・ツアーは、まるでレモンの香り漂うSFディスコ・スーパーマーケットのごとく、人々魅了し、途中Zoo TVの時から念願だったサラエボ公演も実現させている。

1998年にはグレイテスト・ヒッツ集『ザ・ベスト・オブU2 1980 ? 1990 (U2: The Best of 1980 - 1990)』をリリース。アイランド・レコード史上、最も速いペースで売れたアルバムである。

そして今現在、彼らはダブリンで、再びブライアン・イーノ、ダニエル・ラノワと共にレコーディングを行なっている。果たしてどんなサプライズを用意してくれているのか。タイトルも『All That You Can't Leave Behind』に決まり、いよいよ2000年秋にはその全貌を現す。心して、待とう。


内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)

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