新潟自動車学校(新潟ドライビングスクール)のブログ

指定自動車教習所 新潟自動車学校って、どんな学校かな?
このブログを見れば、少しはわかってもらえそうです!

お待たせ致しました!!!

2010年03月21日 | マル得情報☆
3月も後半となり、どんどん暖かくなってきましたね

待ちに待ったバイクシーズン到来ですね

バイクをご希望されている皆様、大変お待たせいたしました

今週末より、当校のバイク(二輪車)教習予約も大変取りやすくなります

今日は、これに先駆け『バイクの歴史』について調べてみました

どうぞご覧下さい

蒸気機関等の初期の熱機関が発明され、それを当時の自転車をベースとする2輪車の形式に取り入れて、新しい移動手段を開発しようとする試みがなされる様になった。 オートバイの原型とされるものは、フランスのエンジニア・発明家のルイ-ギヨーム・ペローが考案し、1868年に特許となった(当時の特許期間は15年)。これは、蒸気機関エンジン搭載のオートバイであり、1873年のウィーン万博に出品された。内燃機関エンジン搭載のオートバイの原型はダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト(現在のダイムラー)により、1885年に作られた。1903年、現代のモペッドの原型となるオートバイをウイリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンが製造した(後にハーレーダビッドソン社を創業)。第一次世界大戦中の進展を経て、1920年代になると、現在のオートバイに似た一般的な構造が確立する様になった。馬車よりも高機動・高性能であったオートバイは社会に浸透し、その後第二次世界大戦において、側車を付けて指揮官の移動手段としてや、偵察部隊などの機動部隊の装備として採用される事になる。

日本でははじめ、オートバイの利用は少なく、1910年頃に輸入車が見られるようになった程度であった。従って国産化も遅れ、1909年の島津楢蔵によるNS号が初の国産車であった。その後、スミス・モーター、インデアン、ハーレーダビッドソン (略称ハーレー)等の輸入が増え、1930年代には宮田製作所(現在の宮田工業)が「アサヒ号」を発売するなど、国産化も進んだ。輸入車の中でも、ハーレーは三共によって陸王として国産化された。

第二次世界大戦終戦後工業に著しい打撃を受け、軍事産業が壊滅した日本に於いては、それまで軍用機や軍用車を製造していた会社が航空機・自動車の製造を禁じられたため、こぞってオートバイを製造販売する様になった。特に有名なのは、陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持つ富士産業(現在の富士重工)のラビット、海軍機で知られる三菱を源流に持つ中日本重工(戦後の財閥解体に伴う三菱重工の分社)のシルバーピジョンというスクーターの両雄である。終戦直前には、陸王一社のみがオートバイ製造を続けていた状態から、雨後の筍の様にメーカが乱立したが、殆どのメーカが技術開発と市場競争で遅れをとり次々脱落していった。中でも目黒製作所のメグロ、東京発動機のトーハツは人気があり、メグロはメーカが倒産した後もカワサキに技術が移転した。

現在でも続くメーカとしては、本田技研工業(商標ホンダ)が日本陸軍払い下げの軍事無線機用小型エンジンを転用し、自転車用の補助動力エンジン(通称バタバタ後に続くカブの前身)を開発し販売した。同社に於ける最初のオートバイ事業であった事は有名な話である。このオートバイの系譜は長く、現在はカブの愛称で親しまれる。