私の「舞踏会の手帖」30年間会わなかった知人の家のベルを押してみた。どのように変わったのか、を確かめてみた。

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突然の訪問を目的にして散歩を続けた体験から。

2017-09-21 19:24:38 | 思い出

【訪問してみた結果から】
 30年近く会ったことのない友人の自宅を突然訪問する、という奇妙な散歩を62歳から始めて3年が経過した。この間に訪問できた友人は80名以上となった。これだけの人数の自宅を一軒一軒尋ねるとなると、大変だった。友人、知人、旧友といっても、一か所にまとまって住んでいるのではなく、関東圏のあちこちにちらばっているからだ。片道を1時間以上かけて最寄りの駅に到着し、駅から30分ほどかけて歩かなければ到着できない場所もあった。しかし、昔の友人を尋ねるという散歩では色々な出来事に会い、それまでの人生では得ることができなかった体験をすることができた。そんな体験と感想をまとめてみよう。
【自宅のある場所】
 私が訪れた友人の自宅は戸建て、マンションを問わず、ほぼ全員が自宅を自己所有していた。知人の多くは地方出身者であり、関東圏にある大学に入学するため、或いは他県の大学を卒業して就職するために上京してきた。このため、学生時代、新婚時代には賃貸住宅に住むのは当然のことである。中年になって頭金を工面して自宅を購入し、定年になる前にローンを完済していた。年金生活になったときに負担を軽くするためであり、常識のある人であれば当たり前のことである。皆、教科書通りのライフプランを実現されてみえ、堅実な人生を歩まれていた。
 しかし、友人達の自宅の場所が都心からは離れて過ぎているのが問題である。我々が住宅を購入しようとしたときは40歳前後であり、バブルが始まった時期と重なっていた。毎年のように地価が高騰していた時代であった。生活環境の良い広い住宅を購入しようとするなら、都心から遙に離れた場所しか選ぶことができなかった。当時は、新宿から快速電車で1時間20分かかる上野原付近でも分譲地が販売されていた時代だった。バブル時代に高額な価格で購入した住宅は、これからは資産価値が下がり続けることになるはず。ローンは終わったが、価値の薄くなった住宅に住みつづける友人達はどんな気持ちでいるのだろうか。
【住宅で生活が分かる】
 私の訪問では、友人の自宅に到着したなら、先ずは住宅の周囲を一周して環境を観察している。環境と住宅の外観を観察しただけで、ほぼ、その友人の現在の生活状態を判断できる。どの住宅でも、玄関先や庭などは掃除していて、ゴミなどが散らかっていることは稀である。地域に住む人達と協力をするための最低限のマナーであるからだ。
 ただ、玄関先などの掃除が行き届いていても、壁や窓などの汚れや傷からメンテナンスが不足しているのがありありと分かる住宅もあった。知人が経済的に苦しくて、補修や修繕にまで手が廻らないからと判断された。また、建物の補修もせずにそのまま放置して住み続けているのは、個人的な理由も考えられた。跡継ぎがいなくて、その住宅に住むのは友人一代限りと結論したような場合である。老い先が長くなければ、補修に手間隙かけるよりも、そのまま朽ち果てさせても良いと考えたのであろう。
 また、極めて劣悪な環境の住宅に住んでいた友人もいた。その住宅の前には道路が無く、長い階段の途中に玄関口が向けられていた。自宅に出入りするには、必ず階段を昇り降りしなければならず、どうしてこんな不便が住宅を購入したのか疑問であった。その他にも、袋小路の奥の20坪以下の土地に建てられた狭小住宅に住む友人もいた。しかし、そのような住宅に住む友人を笑うことはできない。彼らの経済力では精一杯の購入金額であったからである。その彼らが働いていた企業は中小企業ではなく、上場している有名な企業ばかりなのである。バブルによる地価の暴騰により、快適な住環境を得ることができなかったのであり、サラリーマンの給与の上昇が追いついて行かなかったのであった。
【ベルを押さなかった家】
 遠路を尋ねて知人の自宅に到着したが、ベルを押さなかった家もあった。知人とはそれほど深い縁があったわけでなく、単に住所を把握していただけという関係であった人物である。また、仕事や遊びで何度も出会ったことはあり、学歴や経歴などは良く把握しているのだが、何となくソリが会わず、気にくわない性格の人物も含まれる。再会しみたいとは思わないが、どんな住宅に住んでいるのかを確認したかったからである。
 彼らの住宅や環境は千差万別であったが、建物の意匠や飾り付けなどを観察すると知人の性格がそのまま現れていた。ずぼらな性格の知人の住宅では、玄関は綺麗に掃除してあるが、裏側は埃だらけという状況であった。或る知人の住宅では、塀に何やら看板が掲げられたいたのには驚かされた。新聞紙程度の大きさの紙に本人の不満が書き綴られていた。どうも、隣家と敷地の境界のことでトラブルとなり、裁判となったが敗訴したらしい。裁判には敗けたが、なおも自分の言い分に正当性がある、と恨めしいような内容が事細かく書かれてた。彼の性格は自己中心が顕著なものであり、自分に利益が出なければ一切協力しないという偏執的なところがあった。彼からは仕事の上での相談事は遠慮なく頼んでくるが、こちらから頼むと如実に嫌な顔をしていた。そんな性格のためか、自宅の塀に裁判の不満を平気で掲げることができるのであった。
【転居していた知人】
 私の田舎である山形でもそうであるが、地方都市での人の流動は極めて少ない。数十年前、或いは3百年も前から先祖伝来の同じ場所に住宅を構えている人は珍しいことではない。むしろ、最近になって地方都市に転入するする人の方が珍しいくらいである。地方に住む人が転居するとなれば、転居先は比較的簡単に知ることができる。元の住宅の近隣の人達には転居先を知らせてあるからである。また、元の住宅の付近には親戚縁者が住んでいることが多いため、それらの人達から転居先、勤務先を知ることができる。
 しかし、関東圏であっては人の移動が激しく、同じ場所に永住するということは無い。知人の自宅を訪問してみるとすでに転居していて、行き先が不明な人も多かった。隣家などに尋ねてみても、転居先は全く不明であり、手掛かりとなるような情報も無い。隣人関係が極めて希薄であり、それが大都会の特徴ともいえる。特に、マンションのような密閉された居住ではなおさらであり、隣の部屋に住む家族であっても転居先を把握していなかった。今までの縁を全て断ち切って知らない土地に移住したのであろう。何だか侘しい気持ちになるが、本人にとっては全く新しい環境で気分を一新して生活を始めたのであろう。
【病気になった知人】
 訪問した知人は私と同年輩の人達ばかりで、65歳前後であった。この年代ではまだ老境には達しておらず、30歳代に比べれば体力は落ちるが元気そのものである。しかし、数名は病気に罹っていた。一番多い病名は脳梗塞であった。
 自宅を尋ねてみると脳梗塞で既に亡くなっていたり、或いは、脳梗塞の後遺症で治療中であった。昔に比べると治療技術が発達してきているので、脳梗塞を発病しても意外と簡単に治るらしい。しかし、運悪く重い後遺症になると、家族が面倒を見なければならなくなる。数年の間、或いはもっと長い間、病人の看護を続けなければならなくなり、家族の負担は大変なことである。或る知人の自宅を訪れた時、その知人は半年前に脳梗塞で死亡していた。妻から経過を聞くと、発病してから1年間程は自宅と病院で治療を続けていたとのことだった。妻からは、「1年くらいの短期間の介護で助かりましたよ」と、サバサバとした話し方であった。家族であっても何時まで続くか分からない病人の看護を続けたくなかったのであろう。それが本音であった。
 これだけ多くの知人が脳梗塞に罹っているとは気がつかなかった。私も日常の生活に気を付けて、健康に注意しなければならない動機づけにはなった。
【突然の再会での知人の反応】
 ある日、突然に30年近くも出会ったことのない知人の自宅を訪問するのであるから、相手は驚くであろう。しかし、意外にも多くの知人達は嫌な顔もせず、「懐かしいね」とか、「よく尋ねてきてくれたね」と半ば歓迎して出迎えてくれた。嬉しい再会になった知人には共通する点がある。
 先ずは、30年間出会ったことはなかったが、その間には年賀状のやり取りを続けていたことが上げられる。年賀状を交換していれば、相手の動静は分かっている。また、年賀状を発送するということは、相手に対しては不快感を持っておらず友好関係にあります、という意思表示であるからである。
 次に、年賀状の交換はしていなくとも、30年前の最後に別れるまでの付き合いで嫌な思い出やシコリが無かった人達が該当する。このような人達は再会してからも、また以前と同じような気持ちの良い付き合いができる、と判断したからであろう。
 しかし、中には再会を拒否する知人もいた。拒否した人は少なかったが、共通するのは女性ということであった。昔の職場の同僚であったり、趣味の仲間であったりしている。彼女達に多く共通する点は「独身者」ということである。60歳を越しても未だ独身だったことが知人に知られるのを嫌がっているのでなかろうか。或いは、若い時に私に語っていた夢のような豪華な生活ではなく、普通の生活であることを恥じているのかもしれない。普通の生活であるため落ちぶれているとは思われないのだが。彼女達からすれば、目標するような理想の生活を私に見せることができないのは一番大きな恥であると考えているのかもしれない。
【事件のあった住宅】
 百人近くも色々な知人の自宅を訪問していると、予想もしていない事件と出会うことになった。私の最初の職場の同僚であった知人の自宅を訪問したことがあった。同僚と言っても年齢は私より十数歳上の女性であった。ある閑寂な住宅街に自宅があり、敷地は百坪近くある大きな建物であった。ただ、周囲の住宅に比べるとなんとも奇妙な住宅であった。庭木は伸び放題で、木造の建物には蔦などが絡んでいて全く手が入れられていない。ガラス窓や入口には埃やゴミが溜まっていて、家人が住んでいるとは思えないような雰囲気であった。ベルを押したが全く反応はなかった。
 近所の住民に尋ねてみると、思いもかけない事件があったことを聞かされた。その住宅は私の知人の自宅ではなく、知人の親戚の所有であり、知人は間借りしていたのだった。その知人はかなり前に転出していていた。最近まで、知人の叔父とその娘の二人だけが住んでいたのだった。叔父の妻はすでに亡くなっていて、娘は障害のある人で、叔父が娘の生活の面倒を見ていたらしい。しかし、叔父は90歳近くになり痴呆症となっていた。そのため、娘の面倒を見ることができず、娘は死亡してしまった。近所の人達が不審に思い、警察を呼んで調べさせたところ、娘は3か月以上前に亡くなっていたことが判ったらのだった。痴呆になった叔父は娘の死亡を理解できなかったらしい。警察が強制的に住宅に入り、事件が判ったのは、私が訪問するよりも1週間前のことであった。どうりで、近所の人達は、私がベルを押している姿を遠くで胡散臭く眺めていた理由が判った。
 数多くの知人の住宅を尋ねていると、こんな事件にも出会うのであった。

【平凡な老後を送っている人達は】
 私が、2、30年間出会ったことのない知人の自宅を突然に訪問し、その感想をそれぞれ説明してきた。幸運な知人もいれば不運な知人もいた。どちらかと言えば、不運な知人の老後を取り上げて説明した方が多い。このため、私は、わざと不運な知人のみを取り上げて、その生活ぶりを批評しているように思われる。しかし、実際には適正な金額の年金を受け取り、老夫婦で穏やかに毎日を過ごしている知人の方がはるかに多いのである。それらの知人の生活を取り上げなかったのは、それらの人達とは現在でも音信があり、生活状況を把握しているからである。高校、大学、職場などで知り合った人達で、当たり前の生活をしている人達からは毎年のように年賀状があり、近況を知らせてくれるのである。また、同窓会や会合があれば必ず出席してくれていて、元気な顔を見せているのである。健全な老後を送っている知人達とはどこかで繋がりができているはずである。2、30年の間、音信が無かったり、途中から離れていった知人達は、私との交流を拒むような後ろめたさをもっているのではなかろうか。
 高校、大学、職場で、私が知り合った人達は数百人以上になるであろう(一説によれば、平凡な人でもその約60年間の人生で1万人の人達と何らかの繋がりがあると言われている)。その人達の大部分は平均的な金額の年金を受け取っていて、多少の不満はあるかもしれないが、小さな趣味や楽しみを持ちながら生活しているのが事実である。しかし、一部の高齢者では、年金額が少なかったり、或いは、年金が無かったりしているのも事実である。ことさら、私はそのような不運な人達だけを取り上げたつもりはないのであるが、長い間音信の途絶えていた人達は結果として不運な人達の区分に入ってしまったのである。私の体験からすると、これが本当のところであろう。


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