私の「舞踏会の手帖」30年間会わなかった知人の家のベルを押してみた。どのように変わったのか、を確かめてみた。

このブログは新しい投稿を古い日付に設定しています。
新しい投稿は下のほうになりますのでご注意下さい。

卒業50周年の中学校の同窓会。

2017-09-24 20:08:25 | 思い出

 私が65歳になったとき、中学校の卒業50周年を記念した同窓会を開催する内容の案内状が届いた。地元山形に在住する知人が発起人となって、卒業以来初めての同窓会を開催することになったようだ。久しぶりの田舎での会合であることから、出席することにした。
 私が卒業した中学校は市内でも郡部に近い位置にあり、周囲には田畑が広がっている環境にあった。純然たる農村ではないが、さりとて駅前のように商店街がある賑やかな場所でもなかった。全国のどこの地方でも見かけられる、平凡過ぎるほど平凡な地域であった。
 都会と違って私立中学校は存在しない地方であることから、在学していたのは公立中学校であった。従って、同級生は学校を中心として半径数キロメートルの範囲に居住していた全ての同年代の生徒となる。親の学歴、職業とは無関係であり、本人の学力とも関係なく、入学していた。すると、生徒の貧富の差、学力の差は大きいものである。高校、大学であれば、入学するための学力はほぼ均質化されていて、学資を支払える親の経済力もほぼ似通ったものとなる。しかし、公立中学校であっては生活環境が千差万別の生徒が入学してくるため、卒業後の生活も高校、大学を卒業した者とはバラツキが大きいはずである。同級生の卒業後の人生を観察するには絶好の機会と判断した。
 私の通った中学校について簡単に説明してみる。1学年の生徒は約300名であり、県立の普通高校、工業高校、商業高校、農業高校にそれぞれ約40名が進学し、100名近くが山形市内の私立高校に進学し、残った40名ほどが中学校を卒業して就職したと記憶している。成績の順に振り分けられたようなものだった。現在はどのようになっているか分からないが、当時は私立高校に進学する生徒はどちらかと言えば落ちこぼれだった。山形市内の私立高校に電車で通学していた彼ら彼女らを横目にして、県立高校進学組は自転車で通学していた。
【出席者の名簿】
 50年ぶりの同窓会には約90名が出席した。当日に渡された全同級生の名簿を眺めると、2割程度の同級生は市外か県外に住んでいて、8割は地元に住んでいて、意外に移動が少ないと思われた。地元に住んでいる者は、農家を継いだり、農家に嫁に行った人達であった。専業農家は少なく、山形市内の企業に勤めたり、役場や農協に勤めていて、半農半サラリーマンといった生活を続けていたのであろう。普通高校に進学し、大学を卒業した者の大半は県外に就職していた。地元では大学の学歴が通用するような就職先が無かったからであろう。
 名簿を眺めてみると、住所と電話番号の欄が空白となっている同級生が約1割いて、名簿は歯抜けのような模様となっていた。連絡先が空白である同級生は死亡したのでは無かった。空白となっている同級生の半分は行方不明であるが、残りの半分については住所は判明しているのだが、本人が掲載を拒否したのだった。狭い農村地帯であり、誰がどこに住んでいるかなどは地元の住民には知れ渡っていることである。しかし、そんな農村地帯であっても、近隣の知人や同級生などとの交流を断ち切っている人が存在していることに驚かされた。ある同級生は親戚との付き合いも絶ち、妹一人だけしか交際していない、という話を聞いた。集落の寄り合いにも欠席し、孤立しているらしいが、田舎でもこのような人が実際に存在しているのだった。
【同級生の現在】
 同窓会に出席した男性の経歴には2つのタイプがあった。1つは大学などに進学し、サラリーマンとなって県外に住んだ人であり、他の1つは地元に住みつづけた人である。サラリーマンとなった同級生の殆どは定年となり、年金生活に入っていた。サラリーマン時代にはそれぞれ役職があったはずだが、そんな肩書は一切無くなっていて、おとなしく参加していた。
 さらに、地元に住み続けた同級生は2つのタイプに分けられた。1つは親の職業を継ぎ、地元で何らかの商売を続けている人達であり、他の1つは農地は少なく半農半サラリーマンをしてきた人達であった。半農半サラリーマンの同級生では、多少の農地はあってもそれだけで生計を立てることはできず、少ない年金で何とか生活を続けているようだ。今回の同窓会で幹事役をした同級生の多くは、地元で何らかの商売を続けている人達で、この人達は元気が良く、会場内で目立っていた。彼らは、ガソリンスタンド、土建屋、料理屋、町工場、アパート、自動車修理工場の経営者などであった。サラリーマンが定年となった年代でもまだ現役で働いていて、それなりの現金収入を確保できているのであった。
 現在も現役で働いている同級生の職業を観察すると、それらは全て親と同じなのである。親の資本、地盤をそのまま受け継ぎ、地元では利権のようにして仕事を続けているのであった。外部から地元に新たに参入してくる企業は無く、これからも小さいながら商売を続けることができるのである。彼らの中学校時代の成績はそれほど良いものではなく、職業高校に進んでいた。しかし、親の設定した路線を忠実に守っていけば、一生安定した生活が確保されるのである。その息子も同じ路線を歩むことができることになる。これは学力とか努力といった自己研鑽などとは無関係であり、生まれついてきた家庭による幸運でしかあり得ないものであった。
 もう少し深く観察してみると、彼らの先祖は地元の地主、庄屋といった戦前の特権階級なのである。戦前の身分制度がそのまま復活し、地方でも格差社会が確立していたのだった。
【同級生の女性達】
 公立中学校であるため、クラスの半分は女性であった。同窓会にも半分は女性が参加してくれた。50年ぶりに再会した女性の中には、昔の面影が残っていて、名前をすぐに思い出す人もいたがこれは稀であった。大半の女性には面影は殆どなく、首からぶら下げた氏名カードを読まなければ名前と顔が一致しないくらいに変わっていた。
 半世紀の歳月が経過しているので、老化現象により女性の顔つきが変わるのは当然なのであるが、悪い方に変わっていた。皆、深い皺ができ、65歳であるというのに老女のようであった。孫がいる女性が大半なので、「お婆さん」と呼ばれても別に奇怪しいこともない。しかし、両頬がこけて貧相な顔つきとなった女性を見ると、どのような人生を歩んできたのであろうか。稼ぎの少ない亭主の給与をやり繰りしてきたのか、それとも、農村に特有の近所との濃厚な付き合いに疲れ果てたのか、嫁いだ農家の姑との気遣いが大変だったのだろうか。何れにせよ、都会で生活してきた女性と比べると、老化が激しいのではないかと感じられた。少数であるが、頬がフックラとし、あまり年齢を感じさせない女性もいたが、彼女たちは教員や公務員であり、地元ではエリートに属する女性達であった。
 彼女達の服装なのであるが、東京の都心部で毎日見慣れている同年代の女性のものと比べると違和感が激しいものであった。先ず、デザインがダサイことである。東京での感覚からすれば20年前にデザインされたような服装であった。もしかすると、20年前に買った洋服をそのまま着用してきたかもしれない。タンスの中にしまってあった洋服の内で、一番良いものを選んできたのであろうが、悲しくなるほど質素なものばかりであった。また、洋服の色彩からも特徴が見られた。紺色やベージュ色を主体にした柄が多いのである。しかし、このようなデザイン、色彩の洋服を着てきた同級生を批判してはいけない。同窓会にダサい洋服を着てきたのは、彼女たちの保身があるからである。農家の多い地方都市なので、ピンクや赤色の派手な色彩の洋服を着て町を歩くことはできない。周囲から浮いたような洋服を着ているだけでその行為が町中に伝わり、変な噂となってしまうからである。封建的な環境では、ダサい洋服は自分の身を守るための保護服なのである。多分、彼女たちも、女性雑誌に掲載されている最新流行の洋服までとは言わないが、明るくて垢抜けたデザインの洋服を着てみた、と思っているのであろう。しかし、そこまでの勇気が彼女たちには無いのである。
 同級生の女性の多くは、近隣の集落に住む2、3歳年上の男性と結婚し、地元に住みつづけていた。多分、結婚した相手しか男性体験をしていないのではなかろうか。恋愛も不倫もせず、今の生活にどっぷりとつかって65年も生きてきて、これからも同じ生活を続けることになるはずである。彼女たちの顔つきを観察していると、不満というものは感じられず、ほぼ人生を諦めた、という表情であった。
【目立っていた女性】
 頬がこけて貧相な顔つきをしたり、食べることしか楽しみがなくて丸々と太った体型をしたりして、見るも無残な同級の女性達の中で一人だけ目立つ女性がいた。晴美(仮名)は同級生の中で輝くように目立っていた。会場に着用してきた洋服は淡いピンクを下地にして赤いバラを印刷した明るいデザインのワンピースで、素材はシルクと思われた。地元では売っているような洋品店は無く、山形市か仙台市のデパートで購入したものではなかろうか。同級生の大半の服装は、木綿のズボンに木綿かポリエステルのブラウスという組み合わせであり、紺色かグレーのくすんだ色彩のデザインであった。晴美の服装とは正反対の地味なものであった。周囲の同級生からは浮き上がるような存在であり、晴美が会場のどこにいても、そこだけが華やかに輝いていた。
 アクセサリーでは、ネックレスは13ミリ程度の大きさの南洋真珠であり、60万円前後ではないかと推測された。指輪には大粒の真珠と0.3キャラットのダイヤを組み合わせたデザインで、50万円前後と推測された。ネールショップで手入れしているのだろうか、両手の爪は丁寧にはパール色にマニュキュアされていた。服装、持ち物などの全てが豪華であった。
 晴美は特に美人の範疇には入らなかったが、中学生の時は可愛い顔をしていて、同級の男子生徒に人気があった。65歳となった現在では、目尻や口許に年齢相応の皺が現れていたが、顔全体は崩れておらず、昔の面影が残っていた。年齢を感じさせない明るさがあり、愛くるしい顔つきであった。
 中学校での晴美の成績はそれほど高いものではなく、公立の商業高校に進学していた。どこの中学校でも同じであるが、同級生では成績順に交流するグループができあがっていて、晴美は普通高校への進学組には参加しなかった。私は普通高校の進学組に参加していたため、晴美とは接触することもなく、中学生時代の晴美についてはそれほど深い印象は持ち合わせていなかった。しかし、50年後に現れた晴美は垢抜けており、くたびれたような顔つきをした同級生と比較すると生活状況が遙に違っていた。
 知人から晴美の中学卒業後の経過をそれとなく探ってみた。中学卒業後は3年ほど山形市内にある金融機関に勤めた後、地元の土建会社の社長の息子と結婚したという。その土建会社は山形県内では上位5社に入る規模であり、官公庁からの公共工事を主に受注している企業であった。地方であっては公共工事は安定した収入源であり、それなりの利益を確保してきたようだった。
 土建会社の社長の息子がどのようなキッカケで晴美と出会ったのかは不明であるが、社長の息子が見初めたのは晴美の美貌であったことは間違いないであろう。地元の中堅会社の社長婦人として結婚生活を開始してから、毎日の生活で経済的な悩みを持つことは無かったはずである。女性が結婚してから直面する問題には、生活費をやり繰りする経済的なもの、子供の学力を高めるための教育に関するもの、婚家における舅、姑などとの人間関係に関するものなどがある。その中で、経済的な問題は女性にとっては最大の悩みであろう。貧乏な婚家に嫁した女性では、1円2円の支払いに頭を悩ますことになる。金銭的な困難さでは、女性の顔つきにもろに影響してくる。毎日のやり繰りに困っていると、顔つきに現れて、貧相になってくる。同級の女性の殆どはこの金銭的な問題で頬がこけていったのであろう。晴美は結婚した時から、充分過ぎるほどの生活費を与えられていたのであった。金銭的な悩みが解消された生活を40年以上続けてきたのではなかろうか。
 女性にとって結婚した亭主により人生が決まってしまう、とは昔から言われてきたことである。晴美の明るく輝いた顔つきは、亭主の稼ぐ力によって形成されたものに間違いはない。学力がそれほど高かったわけでもなく、実家の家柄が良かったわけでもない女性が幸せを掴むことができたのは「美貌」という武器だけだった事例を目の前にしたようであった。