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移ろいゆく日々

移ろいゆく日々
気にとめたことを忘れぬうちに

ものの価値

2012-05-02 10:53:28 | 社会・エコロジー
 家人はGWの間も暦どおりに出勤する。薄給の割には責任の重い仕事で、なかなか大変だと身内ながら思う。確かに仕事を始めるにあたっては、「給与よりも仕事のやりがい」、「お小遣い稼ぎぐらいだったら僕の給料をやりくりする方が得」などと分かったことを言ったような記憶がある。が、こちらが朝寝している間も、早朝から家事洗濯、身支度を整え、起き抜けでぼんやりとしている僕をおいて家を出る様子には頭が下がる。
 さて起き抜けの僕に、普段にはない指令が一つ。新聞紙などの資源ごみを車で10分ほどの資源リサイクルセンターに出すことであった。家内が働くようになってからは、資源ごみの日に新聞紙などを出すことがままならない。だから階段下の押入に一杯になったら、平日休みに件のリサイクルセンターに持っていくことになった。ちなみに指令と言っても命令口調ではなく、ちょっとお願いがあるんだけど調、人を動かす基本である。
 このリサイクルセンターは、余りレイアウトが良いとは思えないのだが、奥まった入り口で車ごと計量を受けた後、識別用のパンチカードをもって資源ごみの新聞紙反故紙置き場に、ぐるっと回って同じ入り口に戻って再計量を受けるというシステム。今日などは同じ事を考える市民が多く、通常の収集車の業務を阻害するぐらいの大渋滞となっていた。大渋滞で消費されるガソリンと、収拾で得られる資源とを思わず考えてしまうほど。とはいえ、我が家が少しでも片づくのであればそれに越したことはない。
 さて資源ごみ置き場は通常は十分に収容力があるのだが、見たこともないぐらいで大扉からはみ出さんばかりの量であった。その中には少なからず書籍、文庫の類があった。たとえば全巻通しのこれとか。いや十分に綺麗なんだ。我が家にある古本なんかよりも。前にも英和辞書なんかが捨ててあったりして、その辞書は僕がまだ使っていて、とても美麗だったりして。
 いろんな事情があって処分せざるをえない訳だろうが、どうも活字媒体となるとやや偏狭な執着をもつ僕にとっては、持ち出したい衝動に駆られる、ものの価値を考えてしまう。ちなみに、資源ごみとして出されたものを黙って持ち出すのは立派な犯罪になる。人によっては確実に処分したいがために、ごみに出すこともある。古書店に持ち込むめば新たな流通に乗ることもあるが。そうやって書籍も処分されるから新たな新刊も生まれ、それもまた経済活動だ。
 このような紙形式の活字媒体はいずれは無くなるのだろう。今自室に溢れているくず本の類もCDも、僕がこの世を去るよりも前に処分することになるのだろう。値段はつかないから、ごみになるより他はない。行き着く先が見えると、何となくむなしさを感じてしまう。

震災から一年

2012-03-11 11:01:05 | 社会・エコロジー
 多くのBlogがこの題を挙げるだろう。報道もこのような題で一色である。それも当然のこと、2万余の人命が失われ、なお数十万人の人が避難生活を送り、福島原発事故の道筋も、ひいては日本のエネルギー政策が混迷を深めている。
 政治政策の無策、遅滞もさることながら、科学技術への過信への反省、被災者の忍耐をとおしての日本人の価値、倫理観の再評価 など第二次世界大戦から高度経済成長、そしてバブル崩壊以降の新たな時代の端緒にこの震災が位置することは間違いない。
 この震災が今後の日本の起点ととなることは疑いようもなく、私達がそらしてきた課題をも突きつけている。この東日本大震災の復興は、日本の象徴的課題であって、失われた命が帰らないものであるのだから新たな価値を生み出すしかそれに報いるものはない。福島原発事故も震災が引き金とはいえ、核廃棄物問題などを隠蔽・先送りにしてきた原子力政策の綻びであるとの理解にたって、その根本を問う必要がある。当事者である東京電力の責任は重いが、全てをそこに問うては問題を矮小化し、新たな過誤を生む。
 2011年3月11日午後2時46分、失われた命に黙祷を捧げたい。

自殺の問題

2012-03-10 11:33:52 | 社会・エコロジー
 自殺は人間の特徴的行動かもしれない。
 生を受けた生き物が死を自覚すること、自らを死に至らしめること、この精神活動を持つことが人の特徴とも言える。
 詩歌の多くは、自然の賛美、恋愛の喜びそして老いと死への恐れと悲しみに通じる。人は必ず死ぬ、どのような栄達を遂げようと、未だかつて生き残った人はいない。
 自殺をする人は、死についてどのように考えているのだろう。今、直ちに死ななくても、死は必ず訪れる。もっと言えば、生を受けた瞬間から死への道程が始まる。言い換えれば生き物は死ぬために生きる。そしてそのことを人は自覚するのである。
 いずれ訪れるのだから、死を焦ることはない。人は心も体も弱いものであるので、容易に死は訪れる。遺伝子の配列が少し変われば誕生には至らないし、生まれ落ちても容易に病気にかかるし、命を維持できるのは摂氏100度の範囲も満たない。そもそも生きることが苦しいのは、それが生きることそのものだからといえる。
 自殺を考える人は、実は「良い人生」を望む、希望の人なのかもしれない。求めることと実際との乖離に苦しむのが自殺の動機の一つと思える。「良い人生」などたまさかの僥倖に過ぎず、必ず訪れる死に抗って生きることは苦しい、そのことを当然と受け入れるてはどうであろうか。苦しいのが当たり前であるのに、時に人は些細なことに喜びを感じる、その一瞬を死に至るまでの生きる糧にはできないであろうか。
 今度の震災では2万人余の人々の命が失われ、数十万人の人々の人生が変わった。影響を受けたという点ではもっと多くの人たちにおよぶ。亡くなった人の中で、死を望んだ人はいなかったと思う。
 いずれ訪れるのだから、死を焦ることはない。

所得格差は問題か

2012-03-04 14:26:29 | 社会・エコロジー
 物議をかもす表題かも知れません。この一文を書く動機は、「変わらぬ所得格差、減少する「格差感」 マスコミ報道の減少が原因か」というnetの一文でした。リンクしてもそのうちに切れてしまうかもしれません。要旨は、「所得格差が大きすぎる」という回答した人が2007年では75%にも及ぶのに、2012年現在では61%弱。一方ジニ係数の推移は、2007年の0.290、2011年も0.291と変化しておらず経済格差は変化がない、この格差感現象はマスコミ報道が不十分であることが一因である というものです。
 この記事に違和感がある点がいくつかあります。「格差感」はそもそも感覚的なもの、大学のアンケート調査で明らかになるものですから、それを増進するような報道と相関があるのは当然。一方ジニ係数は政府自治体の社会保障政策の影響を受けるもので、格差感とは直接関係はない。せいぜい所得の再分配に社会保障政策がどのぐらい寄与しているかをみる指標に過ぎない。文面もそのような記載にとれるのですが、印象としては「格差が厳然として存在」するにもかかわらず「報道の縮小」で大衆が意識をしなくなっている、これは問題だという印象付けがあります。
 所得格差を論じるのであれば、年代別収入や支出差あたりの数字を議論しても良いようだが、そのような記載にはなっていません。格差を論じるのであれば、そもそも労働量、所得そして所有資産などの多寡が大きく影響するはずで、その比較ということでしょう。
 マスコミが”煽るだけ”の存在に成り下がったことを検証したい記事なのでしょうか。良くわかりません。

原発再稼働を容認すべきか

2012-02-11 12:50:18 | 社会・エコロジー
 この小文の結論は、原発再稼働を認めるべきというものである。以下にその私見を述べようと思う。
 残念ながら福島第一原発事故で、日本が原発立地に適さないことが明らかになった。新設分のうち着工して経済原理に見合う程度のものは竣工まで行い、着手済みであっても中止できるものは中止する。八場ダムの例もみても、あらかた出来上がったものを壊す愚は避ける。これから30年程度をかけて原発を全廃するという大方針を立てる。
 全廃には、三つの要素を満足する必要がある。(1)国民生活・経済に必要な代替エネルギーを確保する、(2)原発運転時の事故リスクを最小にする(完全に安全な原発はあり得ない)、(3)原子力技術と技術者は原発運転と停止、核廃棄物管理に不可欠でこれを日本人の手で運営する、そして原子力発電所の海外移転は認める の三点だ。
 原発再稼働を認めるべきだという理由は、(1)に依る。日本のエネルギーを賄う代替エネルギーはない。化石エネルギーの浪費も許されない。現存する原発は、(2)を満足するように運営せざるをえない。エネルギー問題を解決するには、日本の技術革新と日本人の意識変化が一つの可能性を与える。例えば、今民生エネルギー消費は約50%を占めるから、生活のあり方を変えることでこれを1/4、つまり全エネルギーの12.5%を減らす。原発依存分の1/2~1/3を充てることができる。民生エネルギーの30%程度は冷暖房だ。低熱源は工場廃熱など無駄になっているものが少なくない。都市部の一戸建てをやめて集合住宅にして、工場廃熱で冷暖房を賄う余地は大きい。農村部は一部をバイオエネルギー、つまり薪炭の類に求める。何よりエネルギー消費に対する国民の意識の変換が必要だ。
 今、原発再稼働をしないと、国民生活・経済への影響は計り知れない。一方で原発は現存し続け、廃炉には多大なコストを払う。このコストに耐える財政状態に日本国はない。無い袖は振れない。大江健三郎氏などが「原発再稼働を認めないように国・自治体に働きかける」としているが、戦う相手を間違っている。要はエネルギー問題で、この解決なくして原発全廃は実現できない。
 原発を止める、廃炉するにも、そして廃棄物を管理維持するにも、その技術者は絶対に必要だ。これを日本および日本人で進める、その覚悟が必要でで、それには技術者育成は不可欠だ。反対を唱えれば誰かが止めてくれる、止めれば問題は解消される訳でなく、理想を支えるには現実に対する手段が必要である。世界への原子力技術の輸出も認める。世界には極めて低リスクで原子力発電を行える場所はある。地震や津波のない、紛争などのリスクも少ない国や地域は普通に存在する。そこで誠実な運営管理を進めてもらうことはできる。自国で廃する技術を他国に売るのかという苦渋であるが、全世界でのエネルギー需要を考えたときに原子力は一つの選択であり続ける。
 以上に述べた選択は実は最も厳しい。リスクを抱えながら原発再稼働を認め、かつ30年で国内の原発を全廃する、たやすい道程ではない。

机の中の小銭

2012-01-29 14:36:32 | 社会・エコロジー
 単純な私の経済への理解がある。お金は信用であり、この信用のやり取りが経済である。ここに100円の貨幣があったとして、100円の価値という信用を硬貨という形で表したに過ぎない。
 貨幣の難点は物であるので、ある場所で動かないこと。新たな価値は生まないことだ。例えば、今私の机の中には、十万円程の貨幣が入っている。円は、旧貨幣や当座の分。ドルや元は海外出張などのときに手にしたもので、またの機会小額貨幣として取ってある。後者は価値を産むことなく死蔵されている、浪費に等しい。机の中には小額の硬貨がある。合計で100円ばかりもあるだろうか。何かのおつりでもらって嵩張るので財布からだしたものだ。これも同様に死蔵であり、久しく価値は生み出さない。
 ここで話はさらに矮小化するが、各家庭にもあるであろうこの死蔵された100円ほどをもう一度経済の流通に戻せないか。方法は簡単で、これを使ってしまうことだ。面倒であればコンビにに持って行って募金すればよい。僅かな額だが、日本全体で四千万世帯であれば40億円になる。1年間800人ほどの雇用ができるお金だ。この所得でさらに同額の消費が生まれるはずだ。
 今直面している経済問題は、雇用がないこと。日本の失業率は世界的には低いが、それは表面的なもので、求職活動をあきらめてしまった人が統計に載ってこない。特に東日本大震災の被災地では失業は深刻な問題で、これは地域経済全体に大きく影響する。
 机の中の小銭がほんの少しだけど、良いことをもたらす、はずだ。

連合の今春闘の要求は

2012-01-28 12:29:01 | 社会・エコロジー
 給与所得者なので、勤務する会社の業績とともに、春闘の影響もまた給与に”うっすらと”影響する。
 経団連の米倉会長が早々と「ベアなし」発言をして、それは各社、各業種によって状況があるわけで些か不適当だろうと思っていたわけだが、連合の古賀会長が景気浮揚の名の下に「1%ベア」の春闘要求を行ってさらにびっくりした。
 日本の景況感の悪化は大きく三つの理由がある。一つはギリシャ国債から始まった欧州危機、日本が抱える老齢化と財政悪化による先行き不透明感、それに東日本大震災だ。とりわけ大震災の復旧復興には、何よりも雇用創出、働ける人の雇用が挙げられる。雇用があれば、所得が発生して、地域経済が動き出す。何よりも復興の優先されるべき道筋だ。
 であるならば、連合が今経営者に要求すべきは、雇用の創出であるはず。つまり連合に参加できる労働者を増やすことではないか。被災地に雇用を創出すべく、経営者団体にその断行を要求するぐらいであってよい。賃金交渉は個別の単組、業種別でも良い。
 経営者と労働者の建設的な議論をお願いしたい。政治家、国会そして議事録すら作れぬ官僚に既に期待はできないのだから、せめて理性のある両者がこの国の困難を克服するものであってほしい。震災被災地の経済状況の好転は、大きく日本の経済の好転にも繋がるものだ。そしてその手段は、公共投資だけに頼らず、民間投資でありたい。それが日本の良いところであるはずだ。

「当たり前」は多くの人の働きで支えられている

2012-01-15 15:56:14 | 社会・エコロジー
 比較的近いのですが、公共交通の便が悪い場所なので前日移動の宿泊出張になりました。移動日まで何かと忙しかったものですから、あまり移動手段の下調べをせずにいました。
 さて、当日の仕事の終わり懇親会があって先方と飲食をすることに。帰宅のためには早めのお開きが必要だったのですが、時間どおりという訳にいかず、タクシーを呼んでもらっても予定の高速バスに乗り遅れました。
 少し途方に暮れたのですが、別の場所に出張する同僚が気をきかせて、JRでの移動を携帯で検索。すると、乗り遅れたバスに変わらないぐらいの時間で移動できるルートが見つかりました。普通だと乗り換えが多くて、とても時間がかかるのですが、そのルートだけは乗り換え時間が短く、かつ乗り換えの少ないもの。最寄りの駅からはタクシーを使えばその日のうちに帰宅することができました。
 考えてみると、タクシーは呼べば時間どおりに。高速バスは時間通りなので乗り遅れましたが、携帯サイトのサービスでルート検索。その後はJRでこれまた時間通りに移動。夜遅く客待ちをしていたタクシーにすぐ乗れました。
 ここでは交通機関にまつわる話題を取り上げましたが、そこに働く人達は、必要なサービス提供のためにを時間どおりに当たり前に仕事をしています。おかげで、困ったことにもならず、翌日の仕事にも差し支えませんでした。
「当たり前」は多くの人の働きで支えられている、そう感じた一日でした。

大阪市長選と府知事選の得票率

2011-11-28 21:11:08 | 社会・エコロジー
 衆目を集めた大阪市長選と府知事選の投票率を調べてみました。読売新聞によれば、大阪市長選は、60・92%で、前回(2007年11月)から17・31ポイントの大幅アップ、大阪府知事選の投票率は52・88%と、前回(2008年1月)から3・93ポイント上昇だったという。
 一言で言えば、低すぎ。市長選は実に1971年以来40年ぶりの60%越え。府知事選は04年に過去最低の40・49%まで下がったが、08年は持ち直して、さらに4%程度の上昇になったらしい。
 それでもざっくり言えば、二人に一人は投票に行かない地域なのだ。大阪の地盤沈下を嘆く市民、府民の声が聞かれるが、もともと地盤沈下している地域と思わなければいけない。「民度」という単語は大嫌いなのだが、大阪市民、大阪府民は、この得票率の低さ、地方政治に対する意識の低さを再認識してほしいものだ。
 この大阪の体たらくは、日本の縮図でもある。この閉塞感を低迷を直ちに脱却する、急回復する処方箋はない。真摯に取り組む地道な取り組みしかないのではないか。

発言とその裏側

2011-11-13 15:47:53 | 社会・エコロジー
 人が何かを話す時、必ずしも真意を話しているとは限りません。少なくとも政治家たるもの、簡単にその言質を取られては、その発言に縛られることになり、真意でなければ発言と異なる行動や結果を引き起こすことになります。ただ政治家はその一方で、自身の発言を平気で反故にする態度も時に必要なのでしょう。つまりは、より上位の、大事であれば、小事にかかる発言はなかったことにするのです。
 ことは大臣の発言であれば、さらにその点を考えさせられます。細野環境・原発事故担当大臣が、福島県での除染作業に参加し、「贖罪の気持ちがある」との発言が報道されました。罪を贖うということですが、罪とは公人の発言の中では、法を犯したとのことでしょう。一般人はもちろん文学者や法学者、宗教学者も含めて、様々な場面で罪という言葉を使いますが、他者を害する行為が一般的なことでしょうし、その行為を、世間一般の規範や道徳感か、法律で定めたものか、あるいは神の前のものであるか、によって決まるものでしょう。いずれにせよ、細野大臣は、「罪」と認識して、それを「贖う」ことと発言しているのです。一国の大臣が、公人として国の「罪」として、それを国が「贖う」必要性を認識している訳で、このことは重い発言と受け止めなければなりません。
 きっと、国が原発事故に対してどのような罪を犯したのかを今後詳らかにしていただけるものと確信しました。しかし、この発言は、大臣が「スコップをもって作業服姿で除染作業」をしている姿と重ねられると、どうやら「大事と小事」という割り切りが透けて見えてくる気がします。大臣が「作業服姿で除染する作業」は単なるパフォーマンスです。大臣の除染作業は、大臣室で官僚を通じて各関係省庁に予算をつけて指示を出すことであり、まさにこれこそが大臣にしかできない真の除染作業です。
 この作業は「贖罪との思いがある」ということは、「罪を認識している」ということで、まず第一には法律を犯したとの認識なのでしょう。誰がどのような法を犯したのか、罪を犯したのか、大臣が公人として贖罪をすることの意味を考えたいし、問いたい。しかし、この発言自体は、大事の前の小事、「大臣の作業服姿での除染パフォーマンス」と重なってしまいます。
 この発言には、こうした裏側があるとすれば、実はこの発言の真意、裏側には、発言してそれを反故にすることによって、責任の「所在」を曖昧にする効果を狙ったと思われます。巧妙で、したたかな発言と思われます。仮に原発事故で政治家で罪に問われることがあっても、自身は蚊帳の外ですし、賠償は国家=国民がするわけですから、彼自身が痛むわけではありません。