身の回りで大きな出来事があって、更新できなかった。とはいえ、この間の関心事の一つが、米の話。日本の経済、社会、政治の縮図が見えるし、米が通貨であった国の話である。今年3月の見立てと違い、5月に入っても、異常な価格は続いていた。元々、米価政策で市場をなしていない米なので、市場経済の抑制機能が働かないのだ。本来はせっかくのデフレ脱却のインフレに、余計な便乗価格で消費の冷え込みを起こしかねない、米価の高騰対して、米価の統制をしている政府、農林大臣、農林省が仕事を放擲していることが問題だったのだが、大臣が小泉氏になってようやく潮目が変わった。本来、随意契約は取ってはいけない選択だが、ある種の暴挙をやってのけた。事の本質は、随意契約にあるのではなく、備蓄米を旧来の事業者に渡さず、小売に渡したことだった。つまり、JAをはじめとする価格を下げたくない、備蓄米を売るつもりのない旧来の米業者に渡さなかったことにあるのだ。あと3ヶ月ほどで、令和7年産の新米が出回る時期になったのも、影響している。600%の関税をかけても「カルローズ」などの輸入米の方がはるかに安いのだ。不当に高い国産米を買う消費者はいないだろう。
住んでいるところを離れて、大阪府内のとあるスーパーで米、5kgを買おうとしたら、5000円に届くぐらい高くてびっくり。たまに買いに行くところなのだが、昨年の6月頃までは単一銘柄でも安ければ2000円を切るぐらいだった。7月半ばからの品薄で、店頭から8月一杯まで売り場から米を見かけなくなったが、新米が出回り出すと3000円台の半ばぐらいで買えるようになった。今までの価格が安すぎた面もあるし、お百姓さんにも利がなければ、大変だろうと思っていた。しかし、生産者からの買取が終わって年明けから今になって価格が上がるのは流通の暴利だろう。政府米の放出もなされたので近々確実に下がる、その前の価格操作だ。そこで提案なのだが、大人ばかりの世帯は、米の不買運動をしたらどうだろう。育ち盛りの子供がいるご家庭はともかく、大人は糖質を控えめの食生活の方が絶対に健康的だ。パンがなければお菓子があるではないが、どうしても炭水化物ならうどんでもソバでもラーメンでもパンでもある。今の時期に米が品薄になるはずはなく、昨秋も収穫量は平年並み。農家さん以外の何者かに暴利をむさぼらせてはいけない。今日は私はお米を買うのを見合わせました。スーパーなどの店頭販売はもちろんだけど、通販やメルカリなんかで買うのは最悪でしょう。特に後者は品質や表示に何の保証もないわけですから。世の大人世帯の皆さん、美容と健康と懐具合と社会の安定のために、価格が正常化するまで、米の不買運動をしませんか。不届きな輩はじきに必ず投げ売りを始めます。
新聞、テレビ、ネット上で様々な議論がなされている。が、時として内容によって議論の射程が短いように思われる。手元に山内昌之、細谷雄一編著「日本近現代史講義」があったので、読んでみている。副題に成功と失敗の歴史に学ぶとあって、日本の憲法、戦争、国際社会、法と政治などが歴史的視点で書いている。講談社現代新書(2019)と、最新の研究と視点が与えられている。ネットに耳を傾けるのも良いが、本に学び思考を巡らすのも良いのではないか。先人の議会制民主主義に至る過程と苦労に思いをいたして、たかが一票、されど一票。あっ、僕は不在者投票を済ませたのでした。
明日は第50回衆議院選挙の公示日だ。ネットにはすでに有象無象の意見で溢れかえっているが、実のある議論になかなか出会えず、関心を払うものは実は少なく、投票率は低いかもしれない。ネットでは、極論や偽説の方が目立ちやすく、旧来マスコミも短思慮で浅薄な意見ばかりだ。僕は自由と民主主義が思想の基盤であり、国家主義や特に全体主義には断固として拒絶したい。
経済は働ける人が働き、価値を生み出したときに成長する。ただこの価値創造は貨幣換算出来るものにその親和力が強く、資本を持つ人間に有利に働く。これを制御する装置が必要だ。失われた30年を単なる停滞ではなく、創造の方向の変容と肯定的に捉えれば、経済の論点は貨幣換算のデフレ脱却ではなく、新たな創造の基軸をつくることにある。迂遠な方法であるが、教育と新事業への投資を促す施策だ。若者中心だろうが、実は60代のセカンドキャリアであっても良いのではないか。幅広く人材と資本の還流ができる。ポピュリズム的施策は創造の起点にはならない。
避けるのは全体主義化の流れへに飲み込まれることだ。AIやITという技術はフェイクニュースなどの人身操作だけでなく、個人の行動や思考の捕捉を可能にするなど、全体主義との親和力が高い。巨大IT企業とそれを擁する国ではなく、中国やロシアといった強権国家は、すでに「1984」のような世界になっている。このような考え方、それに繋がる主張をする政治家や組織は、厳に排除する選択をしたい。
コロナ禍は終息しているが、コロナウイルスと感染症がなくなったわけではない。今もワクチンなどの開発、認可は続いている。
最近、新たにmRNAワクチンの系統であるレプリコンワクチンが認可された。このワクチンについては、すでにたくさん情報が出ているのだが、相変わらず大手メディアは怪しげな惹句をつけた報道をしている。いわく、このワクチンを摂取した人の来店お断りとした店があるだの、日本看護倫理学会なる団体の声明だのといった内容である。このワクチンのユニークさなどは、別に分かりやすい解説がすでにあげられており、一読される価値があると思う。さて、看護学では公益法人日本看護科学学会などがあるが、先の学会は一社法人でホームページなども検索ですぐにたどることが出来る。とある出版社内に事務局があり、所属職員はいないと記載されていた。この声明以外に最近の動きはホームページでは見当たらない。ワクチンに関しての声明が多いわけでもないようだ。レプリコンワクチンの開発元は、同学会への反論とともに、法的手段も構えるようだ。この声明の根拠論文は、インパクトファクターのないピアレビューのない論文誌で、その論文も可能性の指摘にとどまっているという。調べればすぐに判ることを示すことなく、印象に残ることを並べた報道をする、この報道方法はいかがなものだろうか。
アメリカ大リーグ大谷選手の活躍が注目を集めている。それは当然なのだが、動画サイトでは、ご夫人の動画も多数見かける。これは、プライバシー保護の視点から、動画サイトの見識が問われているのではないだろうか。既存のマスコミと一線を画した真摯な対応が望まれる。
先日、茨城県石岡市の総社宮例大祭を見に行く機会があった。三連休に三日間のお祭りがあって、50余万人の人出があるという。市中は通行禁止となって、アクセスにはJR東か周辺の駐車場の利用となる。中でも郊外の県立スポーツセンターの駐車場も開放されており、そこから関東鉄道のBRTでたったの10分で祭りの会場までアクセス出来た。
このBRTは関東鉄道の廃線に伴って出来た交通機関で、とても優れものであった。バス専用道路で信号や渋滞にかからずに、市街地を運用できるもので、初めて利用したが、何よりその便利さを実感できた。普段の利用客だけでなく、石岡商業高の生徒さんや、祭りの見物客で賑わっていた。
鉄道がなくなるのは地域にとって寂しいことだろうが、維持発展出来なければ仕方ない。一方で公共交通機関は渋滞緩和や交通安全だけでなく、CO2排出抑制からも間違いなく有効だろう。
祭りは山車や幌獅子が沢山出て、町中が賑わう素敵なものだった。総社宮の神事もあって、町衆の方々が大切にされてるお祭りなのだろう。BRTは増便されており、関鉄の関係者らしい方々が暑い中、対応にあたられており、スムースな運営だった。そしてくだんの石岡商の生徒さんたちがボランティアらしく、祭りのゴミ拾いにあたられていた。まさに次代につなぐお祭りに相応しいことだと思った次第。たいそうなタイトルにしてしまったが、一市民として出来ることを工夫してやることだろう。
本邦で平和の時代は昭和後半から平成、令和の時代であることは言うまでも無い。しかし、それよりも長いといえば、江戸時代であることは疑いない。鎖国で四民があり、封建時代にくくられるが、日本の文化の豊かさを形作った時代であったことは、もっと評価されるべきだ。これを手近にある文学作品から読み解きたい。
岩波文庫からでている漱石俳句集である。坪内稔典の編で、その437に「詩僧死してただ凩の里なりき」という句が収められている。前書きに「日田にて五岳を憶い」とある。ここで詩僧、五岳とは平野五岳、豊後南画の三絶、大分市立美術館に収蔵が多い。そして五岳が日田で学んだのは広瀬淡窓の開いた私塾、咸宜園(かんぎえん)であった。江戸時代の幕府領は他の地域よりも豊かであった。夏目漱石が日本の文学に残した足跡は計り知れないが、渡英前は友人、正岡子規の影響で句作に励み、子規門の十哲に数えられてた。熊本第五高等学校教授の時は、旅行と句作に勤しんだ。そして、その体験は、草枕や二百十日の下敷きとなっており、それらの作品には、旅行記の風とともに、俳画のような味わいが感ぜられる。旅行の写生だけでなく、五岳の豊後南画も、その心象風景に影響を及ぼしたという見方はうがち過ぎだろうか。してみると、漱石の俳句や小説といった作品には、明治時代の文明のみならず、平和のもとの江戸末期の成熟した文化が下支えになったといっても、過言ではなかろうと思われる。
とある短編小説を読んでいる中に、ゲイを隠している人に廻りの友人がゲイの疑いをかけて、否定する本人に対して女性に告白させる、と言うものがあった。ストーリーは窮地に追い込まれたその人を、主人公が機転を利かせて救うと言うものだ。本筋は何ら異存は無く、面白く読んだ。ただ、気になる設定が一つ、くだんのゲイと友人たちは柔道サークルの仲間だったことだ。
つまりそのゲイがカミングアウト出来ない理由が、柔道を続けたいと言うことにあったというのだ。
LGBTの権利がようやく市民権を得てきているのだが、この問題はことが同じではない。特に身体接触のあるスポーツや武道では、身体のコンディションがフェアと認められる同性で、性的欲求の対象でないことが前提ではないだろうか。
このパリ五輪では、性自認は女性という身体的には男性の選手に対して、相手が対戦を拒否するということがあった。至極当然だ。体重別のスポーツでは、競技の場合はそれを満たさなければ失格である。競技で無ければ、そのスポーツを楽しむことは出来るだろう。
性自認や性嗜好はどうしょうもない意識の問題だ。他者の意識は知ることは出来ない。それを自覚したときに、それを主張することと他者の権利や嗜好に配慮することは同じ程度に重い。
冒頭の小説の例であれば、くだんのゲイは同じ嗜好の人か気にならない人と柔道をすべきであるし、五輪の競技であれば、ルールをより公平に明確にすべきだ。少なくとも試合に臨む選手が納得して臨めるルールが事前に用意されなくてはならない。性自認や性嗜好は、全ての意識の問題と同様、他者でははかれないのだから。
このタイトルは、山際淳司の書名。角川文庫から1985年に出版された。スポーツを題材としたノンフィクション作家の初期の作品集かと思われる。当時の様々な分野の有名、無名のスポーツ選手の一断面を独特の視点と文体で短い掌篇として切り取った。その選手たちの終わらない夏を、あるいは朱夏を乾いた文体で描いた。採り上げられた選手たちは名前は知っていた人でも、この掌篇に書かれた記事は知らないことばかりだ。時期はロサンゼルス五輪が終わったあたりまでのことだ。ハンマー投げの室伏選手といえば、かのスポーツ庁長官ではなく、重信選手のことだったりする。その後はといえば、今はネット検索をすればしれることが多い。当時スポーツグラビア誌が創刊された頃でもあり、彼の文章はその紙面を飾った。そして彼はNHKの初めて手がけたスポーツ番組のキャスターも務めた。その矢先に病をえて降板、帰らぬ人となった。彼のエンドレス・サマーは白秋に向かうことなく、途絶したように思えてしまった。ただ今でも、こうやって彼の文章は人の目に触れて、夏の余韻を伝えている。