僕が入団後、思わぬ「事件」があったんです。56年前のことになります。この事件には、「藤村排斥事件」と名前がついています。昭和31年11月上旬に、僕ら選手12名とマネージャー兼スカウトをされていた青木一三さんが「藤村監督退陣要求書」という書面を阪神の野田誠三社長に提出したんです。
この書面は、この年の藤村富美男監督の指揮に納得いかず、藤村監督を退陣させてくれなければ、僕らは来季の契約はしないと主張するものです。
これをスポーツ新聞が、「内紛」と騒ぎ出し、本来、内々で収まった問題が、公になったんです。今で言うリークを、球団内部の者がマスコミにしたんでしょう。
当時、球団上層部が、米大リーグ・ドジャースの教書を参考にしたと言って、「敗戦につながる50カ条」を勉強する時間がありました。
例えば
1、外野手が間違った塁に送球し、次の走者に余分な塁を与える。
2、犠牲打を打てない
3、相手の投手に四球を与える
4、後に強打者がいるのに、弱い打者を歩かせる
5、外野のフライに対し、外野手が大きな声を出さない
6、スコアを考えずに走塁する
7、進塁する時、先行走者に注意しない
8、投手が正しくベースカバー、バックアップをしない
この50カ条の定義は、もちろん、「これらの行為をすると、敗戦につながるから、行わないように努力しましょう」ということですが、これらの行為をすると、負けることができるということを、簡単に箇条書きしたものでもあるわけです。
プロ野球は、昭和25年に2リーグ制に移行しました。阪神の監督には、戦時中にチームを離れていた松木謙冶郎さんが復帰して、監督に就任されました。松木監督は、プロ野球再編問題の際に、主力選手の移籍で弱体化した阪神のチームの再建に尽力されたんです。僕が、昭和26年に入団テストを受けて、阪神に入団できたのは、松木監督の一声があったお陰です。
松木監督は、昭和29年オフに辞任され、昭和30年から岸一郎さんが後任監督に起用されました。岸監督は、それまで、プロ野球界での経験が全くなかった方でした。選手起用は、ベテランも若手も分け隔てなく行われ、これに、ベテランの藤村さんらが、激しく反発されたんです。結局、その反発の激しさから岸監督が辞任されました。
昭和31年から、藤村さんが選手兼任のまま正式に監督に就任されました。このシーズンは、7月から8月にかけて勝ち進みました。
8月10日には、巨人に3.5ゲーム差をつけ首位に立ち、優勝できる意気込みでした。
ところが、9月になって巨人から4.5ゲーム差の2位という結果に終わりました。
シーズン終了後の11月に入って、僕ら12人の選手が集まって「藤村監督退陣要求書」を作成し、会社に提出したんです。
僕らが、そんな強行な態度に出たものですから、戸沢球団代表は、こりゃ大変だということで、これ以上事態を悪化させないように、選手一人一人と話し合い、事態の収拾に必死でした。マネージャ兼スカウトの青木一三さんも、僕らと同じような意見もあり、同時期に、同じような動きをされていました。
球団側は、11月中ごろ、その青木さんに、まず、解雇通告したんです。当時、僕、小山(小山正明)、大崎(大崎三男)が、阪神のエース・トリオと言われていました。マスコミが、この問題について、僕らに取材を求めてきたんです。昭和31年11月20日ごろのことです。(以下、昭和31年11月20日付け「スポーツニッポン」記事より)
記者
「今度の青木スカウト解職は、君たちには大きな打撃であったと思うが」
大崎
「青木さんが解職された理由が我々をそそのかした首謀者であるということだけなら、それは大間違いだ。青木さんの場合、あくまでも青木さん個人の球団に対する言い分を主張されたことだし、すでに7月に辞表まで出している。せっかく獲った選手も入団後契約当時の条件と全く違うというのだから、青木さんにしても不満はあるでしょう。その点を会社側が考えて欲しいと思う」
小山
「今度の我々の行動が、青木さんに扇動されてやったんだとみられることは心外だ。もちろん青木さんが反主流派の一人に名を連ねていたからそう見られるんだろうが・・・」
渡辺「青木さんの場合と我々の場合と、その目的こそ同じだけど、行動はあくまでも別なんだから」
記者
「青木氏が、戸沢専務に解職を申し渡されたとき、両成敗という意味で、下林常務もそれによって退陣すれば、それで所期の目的は達することができるんだから・・といっていた」
大崎
「それでなければ、青木さんも、ここまでやった甲斐がないでしょう」
渡辺
「会社のやり方があまりにも一方的すぎる」
小山
「青木さんの解職によって、一応、会社側の出方が判る気がするし、藤村さんの留任という見方が非常に濃いとみていいだろう」
大崎
「それならそれで僕たちの信念はあくまでも、押し通すまでだ。鈴木会長が来阪して、その目的が今度の問題のあっせんということでなかったにしても、社長や下林さんと会っただけで、円満解決とか何とか、意見を述べられるのも一方的だ」
小山
「我々の言い分も聞いてほしかった」
渡辺
「一年の監督生活で、結果を出すということは間違っているという声もあるが、昨年だってほとんど藤村さんが采配を振ったんだし、以前にも代理監督をやったことがある」
大崎
「要するに監督としては、あまりにも感情的すぎる。プレや―としての立場ならそれでいいけど、監督としては不満を買うだけだ」
小山
「僕たちの言いたいことは、藤村さん一人を攻撃するんじゃない。我々が明るい気持ちで、真剣にプレーと取り組めるチームを作るということが最大の目的なんだ」
渡辺
「その目的を達成するためには、監督を代えなければということになってくる」
◆◆◆
マスコミは、野田社長に解決策について、取材しています。(以下、昭和31年11月20日付け「スポーツニッポン」記事より)
記者
「青木スカウトの解職で、反主流派の選手たちの態度が硬化しているが、こういう措置は紛糾解決のためには、良策だったと思われるか」
野田社長
「青木スカウトを解職したのは、結果的に見てよかったのではないか、少なくとも現段階においてはね」
記者
「今夏、青木自身が退職を希望しているのを、社長が引きとめながら、突如解職するというのは、辻褄の合わない話だと思うが・・・」
野田社長
「先に退社を申し出たのは、給与の点で、他社へ移った方が多いということなので、スカウトをしておれば、いろいろの点で金も入用だと思って、給与をよくしてやった。これで青木君が思いとどまったのだ。その時、球団の改革を約束したなどというのは、とんでもないデマだ。しかし、新代表が就任して以来、いろいろと調査した結果、どうも青木君が各選手の間をまわって、面白くない工作をしているということがハッキリしたし、このうえは、百害あって一利なしという結論を得たので解職した」
記者
「ところで、先に鈴木セリーグ会長と会われたが、鈴木会長は、この紛糾について、どういう示唆を与えたのか」
野田社長
「鈴木会長は、監督忌避という問題だけで、12人もの選手が集団で脱退するというのはよくないことだ。もしこういうことが許されるなら、プロ球界にとっては由々しい問題だから、万全を期してもらいたいと言っていた」
記者
「会社側は藤村留任の線を打ち出している模様だが・・」
野田社長
「それはまだ判らない。今後調査を十分にしてみなければ、留任するかどうかはわからない」
記者
「では、藤村監督を留任させないことも考えられるのか」
野田社長
「今は、藤村君をどうするということは、考えていない。しかし、藤村君自身にも問題があるので、例え留まったとしても、いままで通りではすまされない」
記者
「岸技術顧問を、監督に復帰させるというウワサがあるが・・・」
野田社長
「そういうことはない」
記者
「松木大映監督や、藤本前大映監督に交渉したとも言われているが・・」
野田社長
「全然、そういう交渉をしたことはない。とくに松木君の場合は大映に移ったのだし、これから彼の大映における責任も重いのだから、むしろ迷惑だろう。藤本さんにも、タイガースを引き受けてくれというような接渉は全然していない」
記者
「それでは、タイガースは、監督を外に求めるというような考えは全くないと考えて差し支えないのだろうか」
野田社長
「いまのところは、他から監督を持ってくるという交渉は全然やっていない」
記者
「しかし、紛糾の原因は、監督問題なのだから、これが解決しなければ、どうにもならないのではないか」
野田社長
「どんな困難な問題でも、人間の社会で起こった問題なのだから、絶対解決できないというようなことはない。私は、今度の問題も解決する自信はある」
記者
「それでは解決の具体策だが、監督留任の場合、金田主将の退団を要求するのか」
野田社長
「そういうことはない。金田君に退団を要求するということは考えていない」
記者
「では、双方無傷で解決するという自信を持っておられるわけですね」
野田社長
「そういけばよいのだが・・」
記者
「では、解決のためには反主流派の選手の中から、整理される人が出るというのか」
野田社長
「整理選手は、例年やっていることだ。今年も例外ではない。今年も整理する選手は整理する方針に変わりない」
記者
「監督も、主将も傷つけないようにして、解決できるとして、球団の再編のために、外部から潤滑油の役割を果たすような人を求めることは考えられないのか」
野田社長
「それはいい方法だが・・とにかくファンの方々のためにも、できるだけ早く解決したい。契約も例年通り、来月15日ごろまでに、すましたいと思っている」
◆
12月1日から、契約更改がはじまりました。この日は、僕、小山、吉田、大崎、田宮さんが、戸沢代表と下林常務に、大阪梅田の球団事務所に呼び出されました。外には新聞記者が待ち受けていました。会社側は僕ら選手を一人ずつ呼び、「藤村監督の引際を何とか飾らしてやってくれ」と、説得されたんです。藤村監督を退任させるという言質なしに、引際を何とか飾らしてやってくれと言われても、快諾できるわけありません。僕は、「会社側がはっきりとした方針を示さない以上、契約に応じることはできない」ときっぱりと会社側の申し入れを拒否しました。
会談を終えて、球団事務所を出ると、新聞記者が待ち受けていました。その時、僕ら5人は、こんな風にインタビューに答えました。
僕
「僕は結婚のため2日から帰省する。会社は「結婚式の前にきれいに契約しようじゃないか」と言ったが、藤村監督が辞めなければ僕は絶対契約しない」
大崎投手
「藤村監督が留任するのなら、僕はタイガースを退団してノン・プロに行く。僕はまだ若いんだから使ってくれる会社もあると思う。ノン・プロで一から野球をやり直すのもいいことだ」
小山投手
「僕も大崎君と同じ意見だ。会社側は「野球が出来なくなるぞ」と言ったが、藤村監督が留任するのなら、僕はプロ野球から足を洗うときっぱりいっておいた」
吉田遊撃手
「表彰式だけかと思っていたのに、会社が契約更新の話を持ち出したので、びっくりした。むろん会社の方針が決まるまで契約しない。会社があくまで藤村監督留任の線でくるのなら自分の正しいと信じる道を進むだけだ」
田宮外野手
「会社は僕らが徒党を組んでいると非難したが、考え違いもはなはだしい。一般の会社でも社長の命令が一足飛びに社員のもとにきたりしない。やはり部長から課長、課長から係長と順次伝えられるものだ。僕もキャプテンであるカネさんを通じ監督―代表―社長と順序を踏んだまでだ。かつ僕は、藤村監督退陣というはっきりした要求を出しているのだから、会社もそれに対する態度を明らかにすべきだろう。問題が片付くまで契約には応じない」
戸沢代表談
「徒党を組んで監督を排斥するというようなことはなんとしても好ましくない。藤村監督はタイガースにとって、最大の功労者だから、なんとかして引際を飾らしてやりたかったが、5選手の決意は予想外に堅かった。まだ、何回も会って説得するが、事態の円満な収拾は非情に困難となってきた」
◆◆◆
僕は、このインタビューでも答えているように、このころ、結婚式を控えている時期でした。入団前の職場、倉敷レーヨンで知り合った妻と、12月8日に郷里の愛媛県西条市の伊曽乃神社で結婚式を挙げることになっていたんです。戸沢代表に呼ばれた翌日の12月2日、僕は郷里の愛媛県西条市に帰省しました。僕としては、本心、結婚式前にきれいに契約したいという思いが強かったのですが、藤村監督を辞めさせるという言質がなければ、いくら結婚式前でも、契約書に署名することはできませんでした。
僕が帰郷した後の12月4日、球団は、藤村監督の留任と、金田正泰さん・真田重蔵さんと来季の契約を結ばないことを発表しました。12月8日の挙式当日には、内紛問題で大変な中、小山がわざわざ愛媛県まで来てくれて、挙式に列席してくれたんです。小山と僕は、よきライバルでもありましたが、一番、気心の知れたチームメイトでした。僕と妻は、挙式が終了後、一週間の予定で雲仙へ新婚旅行に向かいました。小山は、西条駅まで、見送りに来てくれました。
僕が新婚旅行に行っている間に、この問題で、セントラルリーグの鈴木会長の要請を受け、巨人の水原茂監督や川上哲治さんらが、仲介役として来阪されたようです。その結果、戸沢代表がすでに解雇した金田さんを呼んで「一切を白紙に戻す」と伝え、結局、再び来季の契約を結ぶことになったようです。金田さんの復帰で、僕らは対応を迫られることになりました。そこに、阪神ファンの神風正一さんが仲介に入ってくれ、「条件を付けて会社と折り合う」という話にまとまったんです。
僕らは、それぞれ個別に会社に条件を付けました。僕は、いろいろ考えた末、「体が続く限り、阪神で仕事がしたい。そうさせてくれるなら、藤村監督が辞任しなくても、僕は来季の契約を結びます」と条件を付けたんです。というのは、選手生命は短く、せいぜい10年~15年です。怪我をすれば、それまでです。僕は、その時、阪神のエースとしてプロ野球界で活躍していましたが、選手生命が終わったときには、仕事が無くなることが目に見えていました。転職するとしても、中学しか出ていない学歴のない僕に、自分に合った仕事が見つかるわけがない。一生、元気な限り、阪神にお世話になりたい。そうであれば、食いっぱくれはない。そう思ったんです。戸沢代表は、「わかった。渡辺君の条件を受け入れる」と快諾してくれ、覚書を交わしました。
契約は、僕が入団した時から、1年毎に年俸の契約書が交わされました。この時以降も、同じです。僕は昭和40年に550試合登板を機に、13年の現役選手を引退しました。「藤村排斥問題」の際の契約通り、球団は、翌年からコーチ職を与えてくれ、次にスカウト職を与えてくれました。
スカウト歴25年目の平成10年2月26日、僕は65歳の誕生日を迎えました。一般企業では、通常、60歳で定年を迎えます。60歳からは、嘱託の立場で、会社の仕事に携わる場合がありますが、それも、65歳を機に、契約解除になるのが通例でしょう。僕は、65歳になったんですが、さらに、阪神と契約を交わせたんです。それは、体が元気だったので、阪神で仕事をさせてもらうことができる状況にあったからです。それが、42年前の阪神球団との約束でした。
65歳ということで、契約金は、それまでの1千万円(年俸)から半減し、500万円になりました。僕は、65歳までの契約金で、土地を買い、家を建てました。
子供の時から苦労を共にしてきた親父と親父一家を、愛媛県から甲子園に呼び寄せ、同じ敷地内で暮らし始めました。僕がプロ野球に入った目的は、「プロになってお金設けをして、親孝行したい」「着の身着のままで、平壌から引き揚げてきて、住む家もなかった。親父に家でも買ってあげることができれば」そんな思いでした。甲子園に呼び寄せてからは、平壌から引き揚げ後、定職がなかった親父に、パン屋をしてみてはどうかと提案し、渡辺商店というパン屋を始めました。今でいうコンビニのようなお店です。
その後、3階建てビルも建てました。
2人の娘も成長し、娘らの教育費も必要ありません。3階建てビルの家賃収入がありましたので、金銭面では何不自由ありませんでした。65歳になっても契約金500万円で契約を交わしてくれた、阪神タイガースに、感謝の念でいっぱいです。この年、高校野球、社会人野球で、松坂大輔選手、二岡智宏選手が注目されていました。僕は、さらに、阪神のために、有能な選手を獲得したいと闘志を燃やしました。ところが、この年の夏、僕はどういうわけか、ビルから転落して、突如、天国に来ることになったんです。(文責:渡辺直子)
参考文献:「タイガースの生いたち」(松木謙冶郎著)
「牛若丸の履歴書」(吉田義男著)
「捜査報告書」(平成17年6月30日付け)(宮本健志検事から大坪弘道部長への報告書)
「日刊オールスポーツ」(昭和31年7月20日付け)(昭和31年8月4日付け)
「スポーツニッポン」(昭和31年11月20日付け)
「デイリースポーツ」(昭和31年12月2日付け)
TBS「HEARTに聞け」(阪神亀山を発掘した男)(平成4年8月22日放送・VTR)
この書面は、この年の藤村富美男監督の指揮に納得いかず、藤村監督を退陣させてくれなければ、僕らは来季の契約はしないと主張するものです。
これをスポーツ新聞が、「内紛」と騒ぎ出し、本来、内々で収まった問題が、公になったんです。今で言うリークを、球団内部の者がマスコミにしたんでしょう。
当時、球団上層部が、米大リーグ・ドジャースの教書を参考にしたと言って、「敗戦につながる50カ条」を勉強する時間がありました。
例えば
1、外野手が間違った塁に送球し、次の走者に余分な塁を与える。
2、犠牲打を打てない
3、相手の投手に四球を与える
4、後に強打者がいるのに、弱い打者を歩かせる
5、外野のフライに対し、外野手が大きな声を出さない
6、スコアを考えずに走塁する
7、進塁する時、先行走者に注意しない
8、投手が正しくベースカバー、バックアップをしない
この50カ条の定義は、もちろん、「これらの行為をすると、敗戦につながるから、行わないように努力しましょう」ということですが、これらの行為をすると、負けることができるということを、簡単に箇条書きしたものでもあるわけです。
プロ野球は、昭和25年に2リーグ制に移行しました。阪神の監督には、戦時中にチームを離れていた松木謙冶郎さんが復帰して、監督に就任されました。松木監督は、プロ野球再編問題の際に、主力選手の移籍で弱体化した阪神のチームの再建に尽力されたんです。僕が、昭和26年に入団テストを受けて、阪神に入団できたのは、松木監督の一声があったお陰です。
松木監督は、昭和29年オフに辞任され、昭和30年から岸一郎さんが後任監督に起用されました。岸監督は、それまで、プロ野球界での経験が全くなかった方でした。選手起用は、ベテランも若手も分け隔てなく行われ、これに、ベテランの藤村さんらが、激しく反発されたんです。結局、その反発の激しさから岸監督が辞任されました。
昭和31年から、藤村さんが選手兼任のまま正式に監督に就任されました。このシーズンは、7月から8月にかけて勝ち進みました。
8月10日には、巨人に3.5ゲーム差をつけ首位に立ち、優勝できる意気込みでした。
ところが、9月になって巨人から4.5ゲーム差の2位という結果に終わりました。
シーズン終了後の11月に入って、僕ら12人の選手が集まって「藤村監督退陣要求書」を作成し、会社に提出したんです。
僕らが、そんな強行な態度に出たものですから、戸沢球団代表は、こりゃ大変だということで、これ以上事態を悪化させないように、選手一人一人と話し合い、事態の収拾に必死でした。マネージャ兼スカウトの青木一三さんも、僕らと同じような意見もあり、同時期に、同じような動きをされていました。
球団側は、11月中ごろ、その青木さんに、まず、解雇通告したんです。当時、僕、小山(小山正明)、大崎(大崎三男)が、阪神のエース・トリオと言われていました。マスコミが、この問題について、僕らに取材を求めてきたんです。昭和31年11月20日ごろのことです。(以下、昭和31年11月20日付け「スポーツニッポン」記事より)
記者
「今度の青木スカウト解職は、君たちには大きな打撃であったと思うが」
大崎
「青木さんが解職された理由が我々をそそのかした首謀者であるということだけなら、それは大間違いだ。青木さんの場合、あくまでも青木さん個人の球団に対する言い分を主張されたことだし、すでに7月に辞表まで出している。せっかく獲った選手も入団後契約当時の条件と全く違うというのだから、青木さんにしても不満はあるでしょう。その点を会社側が考えて欲しいと思う」
小山
「今度の我々の行動が、青木さんに扇動されてやったんだとみられることは心外だ。もちろん青木さんが反主流派の一人に名を連ねていたからそう見られるんだろうが・・・」
渡辺「青木さんの場合と我々の場合と、その目的こそ同じだけど、行動はあくまでも別なんだから」
記者
「青木氏が、戸沢専務に解職を申し渡されたとき、両成敗という意味で、下林常務もそれによって退陣すれば、それで所期の目的は達することができるんだから・・といっていた」
大崎
「それでなければ、青木さんも、ここまでやった甲斐がないでしょう」
渡辺
「会社のやり方があまりにも一方的すぎる」
小山
「青木さんの解職によって、一応、会社側の出方が判る気がするし、藤村さんの留任という見方が非常に濃いとみていいだろう」
大崎
「それならそれで僕たちの信念はあくまでも、押し通すまでだ。鈴木会長が来阪して、その目的が今度の問題のあっせんということでなかったにしても、社長や下林さんと会っただけで、円満解決とか何とか、意見を述べられるのも一方的だ」
小山
「我々の言い分も聞いてほしかった」
渡辺
「一年の監督生活で、結果を出すということは間違っているという声もあるが、昨年だってほとんど藤村さんが采配を振ったんだし、以前にも代理監督をやったことがある」
大崎
「要するに監督としては、あまりにも感情的すぎる。プレや―としての立場ならそれでいいけど、監督としては不満を買うだけだ」
小山
「僕たちの言いたいことは、藤村さん一人を攻撃するんじゃない。我々が明るい気持ちで、真剣にプレーと取り組めるチームを作るということが最大の目的なんだ」
渡辺
「その目的を達成するためには、監督を代えなければということになってくる」
◆◆◆
マスコミは、野田社長に解決策について、取材しています。(以下、昭和31年11月20日付け「スポーツニッポン」記事より)
記者
「青木スカウトの解職で、反主流派の選手たちの態度が硬化しているが、こういう措置は紛糾解決のためには、良策だったと思われるか」
野田社長
「青木スカウトを解職したのは、結果的に見てよかったのではないか、少なくとも現段階においてはね」
記者
「今夏、青木自身が退職を希望しているのを、社長が引きとめながら、突如解職するというのは、辻褄の合わない話だと思うが・・・」
野田社長
「先に退社を申し出たのは、給与の点で、他社へ移った方が多いということなので、スカウトをしておれば、いろいろの点で金も入用だと思って、給与をよくしてやった。これで青木君が思いとどまったのだ。その時、球団の改革を約束したなどというのは、とんでもないデマだ。しかし、新代表が就任して以来、いろいろと調査した結果、どうも青木君が各選手の間をまわって、面白くない工作をしているということがハッキリしたし、このうえは、百害あって一利なしという結論を得たので解職した」
記者
「ところで、先に鈴木セリーグ会長と会われたが、鈴木会長は、この紛糾について、どういう示唆を与えたのか」
野田社長
「鈴木会長は、監督忌避という問題だけで、12人もの選手が集団で脱退するというのはよくないことだ。もしこういうことが許されるなら、プロ球界にとっては由々しい問題だから、万全を期してもらいたいと言っていた」
記者
「会社側は藤村留任の線を打ち出している模様だが・・」
野田社長
「それはまだ判らない。今後調査を十分にしてみなければ、留任するかどうかはわからない」
記者
「では、藤村監督を留任させないことも考えられるのか」
野田社長
「今は、藤村君をどうするということは、考えていない。しかし、藤村君自身にも問題があるので、例え留まったとしても、いままで通りではすまされない」
記者
「岸技術顧問を、監督に復帰させるというウワサがあるが・・・」
野田社長
「そういうことはない」
記者
「松木大映監督や、藤本前大映監督に交渉したとも言われているが・・」
野田社長
「全然、そういう交渉をしたことはない。とくに松木君の場合は大映に移ったのだし、これから彼の大映における責任も重いのだから、むしろ迷惑だろう。藤本さんにも、タイガースを引き受けてくれというような接渉は全然していない」
記者
「それでは、タイガースは、監督を外に求めるというような考えは全くないと考えて差し支えないのだろうか」
野田社長
「いまのところは、他から監督を持ってくるという交渉は全然やっていない」
記者
「しかし、紛糾の原因は、監督問題なのだから、これが解決しなければ、どうにもならないのではないか」
野田社長
「どんな困難な問題でも、人間の社会で起こった問題なのだから、絶対解決できないというようなことはない。私は、今度の問題も解決する自信はある」
記者
「それでは解決の具体策だが、監督留任の場合、金田主将の退団を要求するのか」
野田社長
「そういうことはない。金田君に退団を要求するということは考えていない」
記者
「では、双方無傷で解決するという自信を持っておられるわけですね」
野田社長
「そういけばよいのだが・・」
記者
「では、解決のためには反主流派の選手の中から、整理される人が出るというのか」
野田社長
「整理選手は、例年やっていることだ。今年も例外ではない。今年も整理する選手は整理する方針に変わりない」
記者
「監督も、主将も傷つけないようにして、解決できるとして、球団の再編のために、外部から潤滑油の役割を果たすような人を求めることは考えられないのか」
野田社長
「それはいい方法だが・・とにかくファンの方々のためにも、できるだけ早く解決したい。契約も例年通り、来月15日ごろまでに、すましたいと思っている」
◆
12月1日から、契約更改がはじまりました。この日は、僕、小山、吉田、大崎、田宮さんが、戸沢代表と下林常務に、大阪梅田の球団事務所に呼び出されました。外には新聞記者が待ち受けていました。会社側は僕ら選手を一人ずつ呼び、「藤村監督の引際を何とか飾らしてやってくれ」と、説得されたんです。藤村監督を退任させるという言質なしに、引際を何とか飾らしてやってくれと言われても、快諾できるわけありません。僕は、「会社側がはっきりとした方針を示さない以上、契約に応じることはできない」ときっぱりと会社側の申し入れを拒否しました。
会談を終えて、球団事務所を出ると、新聞記者が待ち受けていました。その時、僕ら5人は、こんな風にインタビューに答えました。
僕
「僕は結婚のため2日から帰省する。会社は「結婚式の前にきれいに契約しようじゃないか」と言ったが、藤村監督が辞めなければ僕は絶対契約しない」
大崎投手
「藤村監督が留任するのなら、僕はタイガースを退団してノン・プロに行く。僕はまだ若いんだから使ってくれる会社もあると思う。ノン・プロで一から野球をやり直すのもいいことだ」
小山投手
「僕も大崎君と同じ意見だ。会社側は「野球が出来なくなるぞ」と言ったが、藤村監督が留任するのなら、僕はプロ野球から足を洗うときっぱりいっておいた」
吉田遊撃手
「表彰式だけかと思っていたのに、会社が契約更新の話を持ち出したので、びっくりした。むろん会社の方針が決まるまで契約しない。会社があくまで藤村監督留任の線でくるのなら自分の正しいと信じる道を進むだけだ」
田宮外野手
「会社は僕らが徒党を組んでいると非難したが、考え違いもはなはだしい。一般の会社でも社長の命令が一足飛びに社員のもとにきたりしない。やはり部長から課長、課長から係長と順次伝えられるものだ。僕もキャプテンであるカネさんを通じ監督―代表―社長と順序を踏んだまでだ。かつ僕は、藤村監督退陣というはっきりした要求を出しているのだから、会社もそれに対する態度を明らかにすべきだろう。問題が片付くまで契約には応じない」
戸沢代表談
「徒党を組んで監督を排斥するというようなことはなんとしても好ましくない。藤村監督はタイガースにとって、最大の功労者だから、なんとかして引際を飾らしてやりたかったが、5選手の決意は予想外に堅かった。まだ、何回も会って説得するが、事態の円満な収拾は非情に困難となってきた」
◆◆◆
僕は、このインタビューでも答えているように、このころ、結婚式を控えている時期でした。入団前の職場、倉敷レーヨンで知り合った妻と、12月8日に郷里の愛媛県西条市の伊曽乃神社で結婚式を挙げることになっていたんです。戸沢代表に呼ばれた翌日の12月2日、僕は郷里の愛媛県西条市に帰省しました。僕としては、本心、結婚式前にきれいに契約したいという思いが強かったのですが、藤村監督を辞めさせるという言質がなければ、いくら結婚式前でも、契約書に署名することはできませんでした。
僕が帰郷した後の12月4日、球団は、藤村監督の留任と、金田正泰さん・真田重蔵さんと来季の契約を結ばないことを発表しました。12月8日の挙式当日には、内紛問題で大変な中、小山がわざわざ愛媛県まで来てくれて、挙式に列席してくれたんです。小山と僕は、よきライバルでもありましたが、一番、気心の知れたチームメイトでした。僕と妻は、挙式が終了後、一週間の予定で雲仙へ新婚旅行に向かいました。小山は、西条駅まで、見送りに来てくれました。
僕が新婚旅行に行っている間に、この問題で、セントラルリーグの鈴木会長の要請を受け、巨人の水原茂監督や川上哲治さんらが、仲介役として来阪されたようです。その結果、戸沢代表がすでに解雇した金田さんを呼んで「一切を白紙に戻す」と伝え、結局、再び来季の契約を結ぶことになったようです。金田さんの復帰で、僕らは対応を迫られることになりました。そこに、阪神ファンの神風正一さんが仲介に入ってくれ、「条件を付けて会社と折り合う」という話にまとまったんです。
僕らは、それぞれ個別に会社に条件を付けました。僕は、いろいろ考えた末、「体が続く限り、阪神で仕事がしたい。そうさせてくれるなら、藤村監督が辞任しなくても、僕は来季の契約を結びます」と条件を付けたんです。というのは、選手生命は短く、せいぜい10年~15年です。怪我をすれば、それまでです。僕は、その時、阪神のエースとしてプロ野球界で活躍していましたが、選手生命が終わったときには、仕事が無くなることが目に見えていました。転職するとしても、中学しか出ていない学歴のない僕に、自分に合った仕事が見つかるわけがない。一生、元気な限り、阪神にお世話になりたい。そうであれば、食いっぱくれはない。そう思ったんです。戸沢代表は、「わかった。渡辺君の条件を受け入れる」と快諾してくれ、覚書を交わしました。
契約は、僕が入団した時から、1年毎に年俸の契約書が交わされました。この時以降も、同じです。僕は昭和40年に550試合登板を機に、13年の現役選手を引退しました。「藤村排斥問題」の際の契約通り、球団は、翌年からコーチ職を与えてくれ、次にスカウト職を与えてくれました。
スカウト歴25年目の平成10年2月26日、僕は65歳の誕生日を迎えました。一般企業では、通常、60歳で定年を迎えます。60歳からは、嘱託の立場で、会社の仕事に携わる場合がありますが、それも、65歳を機に、契約解除になるのが通例でしょう。僕は、65歳になったんですが、さらに、阪神と契約を交わせたんです。それは、体が元気だったので、阪神で仕事をさせてもらうことができる状況にあったからです。それが、42年前の阪神球団との約束でした。
65歳ということで、契約金は、それまでの1千万円(年俸)から半減し、500万円になりました。僕は、65歳までの契約金で、土地を買い、家を建てました。
子供の時から苦労を共にしてきた親父と親父一家を、愛媛県から甲子園に呼び寄せ、同じ敷地内で暮らし始めました。僕がプロ野球に入った目的は、「プロになってお金設けをして、親孝行したい」「着の身着のままで、平壌から引き揚げてきて、住む家もなかった。親父に家でも買ってあげることができれば」そんな思いでした。甲子園に呼び寄せてからは、平壌から引き揚げ後、定職がなかった親父に、パン屋をしてみてはどうかと提案し、渡辺商店というパン屋を始めました。今でいうコンビニのようなお店です。
その後、3階建てビルも建てました。
2人の娘も成長し、娘らの教育費も必要ありません。3階建てビルの家賃収入がありましたので、金銭面では何不自由ありませんでした。65歳になっても契約金500万円で契約を交わしてくれた、阪神タイガースに、感謝の念でいっぱいです。この年、高校野球、社会人野球で、松坂大輔選手、二岡智宏選手が注目されていました。僕は、さらに、阪神のために、有能な選手を獲得したいと闘志を燃やしました。ところが、この年の夏、僕はどういうわけか、ビルから転落して、突如、天国に来ることになったんです。(文責:渡辺直子)
参考文献:「タイガースの生いたち」(松木謙冶郎著)
「牛若丸の履歴書」(吉田義男著)
「捜査報告書」(平成17年6月30日付け)(宮本健志検事から大坪弘道部長への報告書)
「日刊オールスポーツ」(昭和31年7月20日付け)(昭和31年8月4日付け)
「スポーツニッポン」(昭和31年11月20日付け)
「デイリースポーツ」(昭和31年12月2日付け)
TBS「HEARTに聞け」(阪神亀山を発掘した男)(平成4年8月22日放送・VTR)