経済あたりでは、よく特化という考え方がでてきます。
特化。綿花が作りやすいところでは綿花だけを作って
安く生産量を上げ、米が作りやすいところでは
米だけを作って安く生産量を上げる、というあれです。
人にもそういう考え方は適用できて、
洗脳がうまい人は営業をやっていればいいし、
入力がうまい人は入力だけをやっていたほうが
全体としての仕事量はあがります。
最終的にはすべてを特化したら、
貨幣をはさまなくても物々交換ができるくらい、
すべての価値が等しくなるのではないかとちょっと思っていたので、
特化こそ望ましい方向であるとなんとなく感じていましたが――
今回の地震で、特化は最高の状態ではないのだと思い知らされました。
特化とはいいかげんに言うならば、オール オア ナッシング。
最高の状態ではオールですが、最低の状態ではナッシングです。
効率の面で考えるならば最高の状態と言えるでしょうが、
危機管理の面で考えるならば、最低の状態でした。
たとえば発電所を作るのに最適ということで
どこかの地方にすべての電力設備を集めたら、
そこが壊れたら国中の電気が止まります。
お米を作るのに最適だからと一地方ですべてを作るようにしたら
そこが天候不順などになったら全滅してしまいます。
人もおなじ。
会社の資料に詳しいだれだれ、という一人が
すべての資料にあたれるのであればそれは手早いですが
その一人がいなくなったら、一切たどれなくなるとなっては
リスクもかなり大きくなってしまいます。
そういうことを考えると、すべては結局バランスというところに
落ち着くんだなあと思います。
どんなに栄養があるものでも、それだけ食べていては、
それだけを食べることに特化しては、健康は保てません。
いろんなものをちょびちょびと種類多く、
バランスよく食べなくてはいけないのです。
世界の構造も人の仕組みも、なんだかそんなものみたいです。
程度の大小こそあれ、中身は意外と似たものなんだと
しみじみ思いました。
そしてそう考えると、権力が一人に特化される
社会主義や独裁政権の国も不健康だし、
一部に権力が握られるだけのいまの
いわゆる民主主義っぽい日本などの国もまた、
まだまだ不健康だと思います。
20世紀のころから、21世紀は変革の世紀で、
人類は物質から精神へと目を向ける方向を変えられる、
なんて言われていましたが、
そのことを最近すこし考えます。
電源供給断で思えば、意外と必要な電力なんて
そう多いものではなかったし、
地震で食べ物もまともに食べられない人を思えば、
大量に作って余った分は捨てる、
ホテルの料理やコンビニの食べ物や、
ケーキ屋さんのケーキなどは悲しすぎます。
大量生産、大量消費という経済モデルそのものが
はじめからゆがんでいたのだとすら思えます。
必要なものを必要なだけ流通させて、
それでも経済が回るようなモデルが
この先必要になってくるとは思いますが、
それがどういうもので、どうやったら実現するのかは
わたしにはわかりません。
人間が多すぎるせい、とは考えたくありません。
普段は気にしていないけれど、
平穏の裏側にはいつも危機が潜んでいて、
そんな危険が、とにかく恐ろしいです。
人生はとても、恐ろしいです。