直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
研究のまとめはカテゴリ『自作本』から。

日本資料から探る卑弥呼のお墓の場所

2018年05月01日 | ちょこのひとかけ



●はじめに

卑弥呼の墓所はどこか、という話題は
昔から人々の関心を集めてきました。

初めて現代日本にまで続く国を作り、
外国文献にまで名を残した女性王であるにも関わらず、
いまだ属した都の場所も、墓の場所もわからないというのが
ロマンを掻き立ててるのでしょう。

わからないから惹かれ、わからないから知りたくなる。
これはとても自然なことです。

でも、邪馬台国や卑弥呼がらみのものには、
常に『不自然なもの』がつきまとっているのをご存知でしょうか。


●魏志倭人伝と注意点

現在、邪馬台国や卑弥呼について考える人が
もっとも重視している資料は、『三国志』の一部分、
いわゆる『魏志倭人伝』であることでしょう。
けれど、それ自体がとても危険なことだというのは
あまり認識されていません。

何が危険かというと、実は、この魏志倭人伝、
現代に至ってまで解読が中途半端で、完全解読できていないのです。

中途半端なものを使って内容を述べることは、
裁判で加害者の証言しか聞かずに判決を出すようなもの、
あるいは、半分に引きちぎった六法全書の片方を読んで
日本の法体系について語るようなものと言っても
いいくらいのものです。

魏志倭人伝を参照して述べたものを見る際には
このあぶなさを常に意識しておかなければいけません。


では、なぜ魏志倭人伝が完全解読できないのかと言えば、
書いてから時間が経ちすぎているということがまずひとつ。
書いたときの文法や常識、漢字の読みや意味、単語などが
経年劣化して、現代のわたしたちは元のままに読めなくなっているのです。

それから、書いた人が悪筆だった、というのがもうひとつ。
本来、公文書なら、百人読んだら百人が
同じように読めるような文を書かなければいけません。
でも、魏志倭人伝のいつぞやの書き手はそれをせず、
独自のロジックを用いて書いてしまったのです。

読む際に普通とは違うロジックが必要になる文を『暗号文』と言います。
暗号文は、正しい解読ロジック、解読キーを用いなければ、
内容を復元することができません。

魏志倭人伝はそもそも古すぎて、
単語や文法などが暗号文に近くなっているのに、
それをさらに暗号化してしまっては、
もうまともに読み解くことなどできません。

文脈が文章に影響を与えない部分は読めていても、
文脈が文章に影響を与える部分は、単語以外の解釈が
まったくできていないと言ってもいいくらいです。

その証拠は、
邪馬台国がかつてあった場所をどこと考えるかにおいて、
『畿内にあったと考える派閥』と
『北九州にあったと考える派閥』という
二つの大きな勢力ができているのを見れば充分でしょう。

これは、新薬の臨床試験で言えば、
『主作用と副作用とを比べて、薬として出していいか否か』
で二派ができているというのではなく、
『その薬に薬理作用があるか否か』
で意見が分かれている、と言ったレベルの話です。

もっと言えば、2000年後の人が、東京の紀行文を読んで、
日本の首都東京は、現在で言う四国にあったのか、
北海道にあったのかで意見が分かれているというレベルです。

現在の千葉のどこまでが東京だったのか、
現在の埼玉のどこまでが東京に含まれるかというような、
距離と内容ならともかく、
畿内と九州北部という、思い切り隔たった距離の場所を示すように
読み取れてしまう資料など、
まともに解読できているといえないのがわかるでしょう。

つまり、魏志倭人伝の解読は、場所関係については
まったくできていないといってもいいくらいであり、
何かの場所を述べるための根拠にできるほど
信頼できる資料ではないのです。


●里数問題

邪馬台国があったと考えられる場所が、
なぜ畿内説や北九州説でこれほどの距離の差が出てしまうのかと言えば、
それは『長里・短里の問題』によります。

昔から、国にはそれぞれの大きさ、長さを表す基準がありました。
古い日本は尺法、アメリカはヤード法、イギリスはメートル法と
いった具合です。
古代中国、魏志倭人伝の『魏』では、古代尺法を使っていました。

この、古代尺法の『尺』が、現代換算なら何センチメートルか、
この尺を積み重ねた『里』が、現代換算なら何メートルか、
というところで、いまだ意見が分かれているのです。

料理で言えば、魏志倭人伝が料理のレシピだとすると、
『ここで砂糖10さじ入れる』と書いてあるようなものです。
その『さじ』が『大匙』のことなのか、『小匙』のことなのかで
意見がぶつかっている、と考えるとわかりやすいかもしれません。

料理で言うこの『さじ』を『大匙』と考えるのを、
距離に置き換えると『長里』、
料理で言うこの『さじ』を『小匙』と考えるのを、
距離に置き換えると『短里』と言います。

この『長里』と『短里』のどちらが正しいのかについては、
魏志倭人伝のその他の記述から伺えるのですが、
二派それぞれで問題点などを指摘しあい、議論しあいして、
お互いの考えをまとめ、高いレベルに持っていこうとすることは
基本的には行われていません。

おそらく、自説を有利にしておきたい学者派閥や、
地元を卑弥呼や邪馬台国関連の土地にして
お金儲けをしたい人々などの、さまざまな思惑がからむために、
結論を出すのは先延ばしにしているのでしょう。

その先延ばしの行き着くところが、
『卑弥呼の墓が見つかったとき』です。

でも、卑弥呼の墓の場所は、魏志倭人伝には載っていないのです。
魏志倭人伝の内容を、魏志倭人伝に載っていないもので考える……
これは、魏志倭人伝の内容なんて解釈していない、と
態度で示しているも同じです。

これは、『どうせ魏志倭人伝なんて読んでもわからなかったし、
どこかから卑弥呼の墓が出れば、そこは邪馬台国の近くだし、
その場所から単里・長里の結論も出せるだろう』と
言っているようなものです。

どれだけ魏志倭人伝が読めていないか、
どれだけ卑弥呼がらみのものがふわふわした状況にあるか
ここからもわかるでしょう。

卑弥呼関係の物事には、こういういんちきくさい話が
随所に登場するのです。


●『魏志倭人伝の通り』の危険さ

『魏志倭人伝はちゃんと読まれていないし、考えられてもいない』
という事実をさらに示すのが、卑弥呼の墓の大きさです。
魏志倭人伝には卑弥呼の墓の大きさや形、内部構造については
すこし書かれているものの、場所は書かれていません。

では、卑弥呼の墓の大きさが実際にどれくらいだったのかと
考えるときに注意しなければいけないのは、
これも『長里・短里の問題』です。

魏志倭人伝において、
『邪馬台国までの距離』と『卑弥呼の墓の端から端までの距離』は、
同一基準で述べられています。
そのため、単位の解釈によって邪馬台国の場所だけが変わるのではなく、
卑弥呼のお墓の大きさも、連動して変わってしまうのです。

もし、魏志倭人伝の距離単位を長里として考えるならば、
邪馬台国は対馬から遠い場所にあり、
卑弥呼の墓は巨大墳墓である、となります。

もし、魏志倭人伝の距離単位を短里として考えるならば、
邪馬台国は対馬から近い場所にあり、
卑弥呼の墓は小墳墓である、となります。

長里なら単位が大きいから、二点間の距離も大きく、墳墓も大きい。
短里なら単位が小さいから、二点間の距離も小さく、墳墓も小さい。
どちらが正しいかは別として、それぞれは論理として見る限り、
どちらもきれいで矛盾なく、納得できるでしょう。

でも、世の中には、
『邪馬台国は九州にあり』、かつ、『九州に卑弥呼の巨大墳墓がある』、
とする人がしばしば現れます。
そういう人はそれを、
『まさに魏志倭人伝の記述の通りで、なにも問題がない』
と言いがちであるように感じます。

けれど、九州に邪馬台国があるとできるのは、『短里』計算です。
卑弥呼の墓が巨大であるとできるのは、『長里』計算です。

邪馬台国までの距離を短里で計算するのに、
墳墓の大きさだけはなぜか突然長里で計算するというのは、
どういう論理なのでしょうか?
この矛盾が解消できていない話のどこが
『魏志倭人伝の記述通り』なのか、わたしには理解できません。

そもそも魏志倭人伝は、『魏志倭人伝の記述通り』と言えるほど
解読されていないのは、先述したとおりです。

古墳の大きさを『魏志倭人伝の記述通り』と言うのなら、
まずその前提となる邪馬台国の位置やそこまでの距離を、
根拠を持って述べてみるべきでしょう。
それもせずにお墓の大きさだけを抜き出して、
『魏志倭人伝の記述通り』と言うなんて
うさんくさすぎるにもほどがあります。

そういう、あからさまな疑問が残る話でも、マスメディアは
『専門家が述べている』と伝え、事実のように報道します。
その専門家は本当に専門家なのでしょうか?
何の、専門家なのでしょうか?

でっちあげの専門家、なら納得できますが……
論文でも報道でも、叙述は根拠を明らかにして欲しいものです。


●魏志倭人伝記述者と解読者の齟齬

こういった里数計算の矛盾以外にも、
現在卑弥呼の墓所と考えられているものには、
魏志倭人伝との矛盾や、地元の地名や伝説との齟齬など
さまざまな矛盾が付きまとうのですが、
今はそれらは無視してよいとするのが通例のようです。

自分が欲しいところの記述だけ拾って、
恣意的に曲げたデータで結論を導くというのは、
材料系や医療系の分野で、実験結果からいらないデータは無視し、
欲しいデータだけ抜き出してスポンサーが喜ぶ論文を作る、という
企業などのお抱え研究者もいまだにやる手法です。
現代でもたまに発覚しては問題となっていますが、
邪馬台国研究関連の考古学の場合は
最初からわかっていても問題となりません。

なぜこの態度が放置されているかと言えば、
邪馬台国の研究は出発点が普通の研究とは真逆だから、と
言ってしまっていいでしょう。

普通の研究の場合、

 起:何か謎に思う出来事がある
 ↓
 承:謎はなぜ謎なのかを調べていく
 ↓
 結:謎の答えが見つかる

というような流れになります。

本来であれば、邪馬台国の研究も、

 起:邪馬台国の位置を謎に思う
 ↓
 承:魏志倭人伝の記述を読み、位置を調べていく
 ↓
 結:邪馬台国の場所が見つかる

というような流れをとらなければいけませんでした。

でも、今ある北九州説や畿内説は、

 起:畿内にはヤマトという邪馬台国に似た名前の古代政府があった
 起:北九州には発展具合や伝承から古代政府があったと考えられる
 ↓
 承:魏志倭人伝はおそらくどちらかを述べているのだろうと考える
 ↓
 結:邪馬台国の場所をこじつける

という手段でひねり出されています。
はじめから結論ありきの説なのです。

先に、『魏志倭人伝はまともに解読されていない』
『単里・長里の問題さえ議論がまともに行われていない』
というようなことを述べました。
その原因は、ここにあります。

古代日本において、
畿内にヤマトという邪馬台国に似た名前の古代政府がありました。
また、北九州に古代政府があったと考えられました。
じゃあ、魏志倭人伝はこのうちのどちらかをさしているのだろう、
と考えて、偉い人の派閥がそれぞれ好きなほうを選びました。

……それだけです。

ほとんどの研究者が、魏志倭人伝を本当に読みこんでなどいません。
読もうとしても、当時は結局わからなかったから、
わからないままそれぞれが主張しあっているだけです。

これは、歴史や文献に対しての冒涜であり、
誠実でなく、信義に反する態度だと思います。

このいんちきな態度を修正できない、というところを見ても
今の魏志倭人伝に資料としての価値は認められません。
正しい読法、暗号の解読法がわかれば価値は出るのでしょうが、
今は、魏志倭人伝に資料としての価値なんてないと
言ってしまってもいいでしょう。

読めない、わからないなら、
変にそれを根拠として使うのをやめて、
他の資料を用いて卑弥呼や邪馬台国を考えるべきではないかと
わたしは思います。

----

●邪馬台国の日本側資料について

では、魏志倭人伝を用いずに、どうやって邪馬台国や
卑弥呼のことを調べればよいのでしょうか。

と言えば、もちろん、日本のことなのですから、
日本の資料を用いればよいのです。

でも、現在、歴史的に、日本側には邪馬台国に関する資料は
存在しないという考えが主流です。

――が、わたしには、ここの意味がわかりません。


わたしが調べた限りでは、
『日本側には邪馬台国に関する資料は存在しない』と
考えられている根拠は、
『どの資料を見ても卑弥呼という名前が出てこないから』
程度の、ふんわりしたものでした。

この、

 『どの資料を見ても卑弥呼という名前が出てこないから』、
 『日本側には邪馬台国に関する資料は存在しない』

という理屈は正しいでしょうか?
だれが、正しいと考えるのでしょうか。


わたしは古い神道の研究者で、
神様やその周辺のことは詳しく調べてきました。

それにより、
 『どの資料を見ても卑弥呼という名前が出てこないから』、
 『日本側には邪馬台国に関する資料は存在しない』
という理屈は誤りであると断言できます。

なぜか、といえば、神名の問題です。

古代神道において、人は――
と説明したくなりますが、なじみのない人のためにまず説明を。

神道には、大きく分けて三つの形があります。

一つ、明治期に作られた『明治神道』。現在の主流の神道がこれです。
一つ、西暦600年あたりに作られた『旧神道』。明治神道はこれを改造しました。
一つ、西暦200年ごろに作られた『古代神道』。

旧神道と明治神道は似たようなものですが、
古代神道はまったく違います。

さて。話をもどして、進めます。


古代神道において、人は、
『恒常的に生きているときと
恒常的に生きていなくなったときとで名前を変える』
という大原則があります。

仏教で、戒名をつけるのと同じようなものだと
述べたほうがわかりやすいかもしれません。

生前に大きなことをなして、死後に神として祀られる、
すなわち神上がりする際には、神名が与えられます。
そして、後にその人が語られるときは、
変更後の名前が使われるのです。

たとえば、『米 好子(こめ すきこ)』という女王がいて、
この人が火山の噴火で溶岩が都に流れてくるのを
インチキではなく、本当に念動力で防いだとしましょう。

すると、この女王やこの女王の功績が後に語られる場合、
『米 好子(こめ すきこ)が怒れる山から京を守った』
という記述は絶対にされません。

後の世においては『米 好子』には、
たとえば『京守ヒメ(みやこもりのひめ)』などの送り名が与えられ、
『京守ヒメが怒れる山から京を守った』
などと語られることでしょう。

卑弥呼もこれと同様です。

いわゆる魏志倭人伝に出てくる、
卑弥呼の『卑弥呼』という呼び方は、生きている間の名称です。
あれほど有名で、大きな力を持った卑弥呼は、
死後は神としてまつられないわけがありません。
卑弥呼が神にならなかったら、ほかの誰が神になるのか、
というような人物ですから。

よって、死後に卑弥呼が語られる場合、
生前の行為も、死後の神名が使われます。

だから、日本側資料には『卑弥呼』などの名称は出ないのです。


では、卑弥呼は死んだあと、
何という名前になったと考えられるでしょうか。

これは、古代神道か、
神社の由来、縁起、神様の話などを調べていけばわかります。

いわゆる卑弥呼は、現代日本ではまったく違う発音の
神様になっています。


●卑弥呼の神名と邪馬台国

卑弥呼の神名がわかると、神社などの伝承から、
卑弥呼の本拠地はどこだったのか、がわかりますから、
自動的に邪馬台国がどこにあったのかというのもわかります。

邪馬台国の場所がわかった上で、
魏志倭人伝の記述を逆算して読んでみると、
どの文をどう読むべきだったか、いつぞやの筆者は
どういうロジックを用いて場所を記述していたのかもわかります。

現代翻訳とされているものが、かなり誤っていることも
示すことができます。


そこにいたり、ふと、
これまでに正しいロジックで魏志倭人伝を
読んでいた人はいたのだろうかと、
簡単にネットを調べてみたところ、
一人いるのを見つけました。

わたしが、魏志倭人伝を読むのをあきらめて、
日本側資料を調べてようやく邪馬台国の位置を見つけ、
そこから逆算して魏志倭人伝のロジックがわかったというのに、
その人は中国側資料からきちんと読み解いて、
邪馬台国のだいたいの位置をすでに示していたのです。

中国側資料と日本側資料が、邪馬台国の位置として
同じ場所を指していた――
というのはおもしろく思いましたが、
逆に言えば少数しかその読み方ができていないので
認められるものではないのだろうとも思ってがっかりしました。


主流派の力が強いものには、弱小が何を言っても届きません。
どうしたものかと思ったら、
みんなが大好き卑弥呼のお墓を思い出しました。

そもそも主流研究者は資料の解読を投げ捨て、
卑弥呼のお墓が見つかったところが邪馬台国のそば、
というような態度をしているのですから、
卑弥呼のお墓の場所を示せれば、
卑弥呼の神道での姿も納得されるかもしれません。


そこで、古代神道研究者のわたしも、
神道の記述から卑弥呼の墓所を探せるか、というのを
試してみることにしました。

----

●日本側資料における卑弥呼の墓所伝説・伝承

魏志倭人伝にはない卑弥呼の墓の場所ですが、
古代神道の資料には、いくつか叙述を見つけることができました。

そのうちのひとつは、
『卑弥呼の墓は、本拠地から遠い場所に作られた』
と述べていて、あとの二つは古語・古代地名で場所を示しています。

根拠の文は、今は省略します。
できるなら、まともなところで発表したいからです。


調べたら、はっきりわかるような場所が示されるのではないか、とも
思っていましたが、
伝承・伝説が示したのは小さな範囲ではなく、結構広い範囲でした。
しかも、ぼちぼち見かけてなんとなく場所はわかるものの、
まだはっきりとは示せない広い地域でした。

そこで、地図を見ながら斟酌し、最大限両方の伝説・伝承が重なるように
現代場所に当てはめてみたのが、下図の赤い部分です。


◆◆画像18-05-01a◆◆



日本にある神道の伝説・伝承をわたしが解釈した限りでは、
卑弥呼の墓所は福岡県朝倉市杷木あたり、
山を含めたこの赤い範囲にある、となりました。

資料を読んだだけでは、これが限界です。



●日本側資料解釈からの、個人的な卑弥呼の墓所の位置

この先は、わたしの現在の考えです。

先の場所のうち、どこにお墓があるのかは、
資料からではわかりませんでした。

地図を見ていけばわかるのではないかと、
航空写真を端から端までひたすらにらみましたが、
見つけることはできませんでした。

……が。
逆転の発想をひらめきます。

『伝説・伝承は大雑把過ぎて古墳の場所がわからない』
と考えるのではなく、
『古墳の場所はすぐわかるから、
伝説・伝承は大雑把にしか書かなかった』
と仮定してみたらどうでしょうか。

墓所を隠したいのであれば、場所の伝説など残さないはずです。
それをせず、わざわざ墓所についての話を残すのですから、
昔の人は、後世に墓所を伝えたかった、と考えられます。

そこから、もし、卑弥呼の墓所がほかの古墳などに紛れて
わかりにくい場所にあったなら、たとえば
『○○山のふもとの大岩の右から四番目の墓』など、
詳細に伝えたことでしょう。
でも、そんな描写はありません。
それは、そんなことを言わなくても
この赤い範囲にくればすぐにわかるものだったからだ、と
考えることができます。

そこで、この赤範囲にある古墳について調べてみたところ、
現在、ひとつも見つかっていないようでした。
筑後川の向こう岸には結構あるのに、
こちら側には古墳がほとんどないのです。

この事実は、『卑弥呼の古墳の場所はすぐわかるから、
伝説・伝承は大雑把にしか書かなかった』
という仮定を強めます。
もしかしたら、伝説の範囲には古墳がひとつしかない可能性さえあります。
この赤い範囲の中で古墳を見つけられたら、
それが卑弥呼のものだということも充分ありえるのです。

では、どこにありそうでしょうか?
赤い範囲の中で、あるとしたらどこでしょうか?

もちろん、これだけではわかりません。


なにか手がかりはないのかと、俯瞰にした地図をぼんやり眺めていたら、
赤い範囲の形が風水地形だということに気づきました。

風水とは、地に建築物を作る際に指針となる道理で、
都や墓所などの場所決めによく用いられます。
風水の起源は結構古く、卑弥呼の時代にはすでに中国では
これにのっとって都が作られたと考えられますから、
その知識が日本に伝わっていたと考えることはできます。

実際、古墳は、古墳自体が同一線上に並んでいることもあれば、
古墳の向きが一定方向を指していることもあります。
古代人が、何かしらの法則に基づいて古墳を作ったという仮定は
即座に否定できるものではありません。

ならば、その法則のひとつに、風水が関わったと
ひとまず仮定してみることはできるでしょう。

では、卑弥呼の古墳も風水を用いて建てられたのだと仮定してみると、
どうなるでしょうか?
別の言い方をすると、もし、風水条件でお墓が建設されていたとしたら、
赤い範囲内ではどこらへんが一番よさそうな場所と言えるでしょうか。


三方向を山に囲まれ、下が水という、風水としては結構いい形の中の、
さらに好地と思われる場所。
わたしがよさそうと思ったのが、下図の黄色い丸あたりです。


◆◆画像18-05-01b◆◆



この黄色い部分にもし古墳があれば、
・日本資料が伝える卑弥呼の墓伝説・伝承上の地にあり、
・詳細を書かなくてもこの場所に来ればすぐわかる場所にあり、
・風水的観点で良い地域の中にあり、
・風水的観点で良い地域の中の、さらに良い場所にあり、
・好地の中の唯一の古墳である
ということになります。

こんなにも好条件を持つ古墳なら、
それは誰か無名の地方の有力者のものであるというよりも、
卑弥呼のものであるというほうが格段に説得力があります。

そこで、地図をためつすがめつして探してみたら、
見つかったのが須賀神社です。

これまでの経験上、古墳の上に神社が作られるというのは、案外ある話です。
たとえば、わかりやすい事例だと忍陵神社の忍岡古墳があります。

日本人は基本的にお墓を大事にするので、
そこがお墓だとわからなくなっても、
その場所は神聖な場所だと話や意識に残ることがあります。
その結果、後の時代に、神聖な場所なら神社を建ててしまおう、
とする人が出るのもめずらしくないのです。

もしかしたらこの場所が、と思ったものの、
地図を見ていてもよくわかりません。
どうしたものかと結構悩みましたが、
そのうちふと、ストリートビューで近くから見られることに気づきました。
そこで、横から見てみたところ、神社には階段がありました。
この神社は平地にあるのではなく、塚状の盛りあがりの上にあるのです。

では、大きさは、と見てみると、
境界がわかりにくかったのですが、おそらく30m程度です。
これは、短里計算なら、魏志倭人伝の記述とも矛盾しません。


●まとめ

というところから、結論です。

魏志倭人伝などの中国資料ではなく、
神社やその他の伝説・伝承という日本資料からすると、
卑弥呼の墓所は福岡県朝倉市杷木あたり、図の赤い部分のどこかです。
これについては根拠となる資料も、
それをどう解釈してその場所と考えたのかも提示できます。

それ以上は資料からはわかりませんが、
あえてこの中のどこにあるかとわたしが個人的に述べるならば、
風水的観点、伝説・伝承の書き方からの推測に基づいて、
福岡県朝倉市杷木の須賀神社であるとしておきます。
須賀神社の土台部分が実は古墳で、
それが卑弥呼の墓であるという考えです。

筑後川の南の山のふちには古墳はたくさんあるのに、
なぜ筑後川の北の山のふちには数個しかないのかと言えば、
卑弥呼の墓所があったから、という仮説も出しておきましょう。

----

●おわりに

一応ネットを調べてみたら、ここらへんに
卑弥呼の墓所があると考えているのはわたしだけでした。

見つからなければ、
魏志倭人伝の誤訳、年代の誤り、本来の正しい姿、など
わたしが正しく訳した資料など提示しますので
神社の底を調査してほしいものです。


わたしの研究は正しかったのか、そうでないのか。
日本の伝承・伝説は事実を伝えているのかいないのか。
いっそ発掘済みの古墳を指してくれたほうがこころ穏やかでしたが、
開封済みどころか未発見の場所を指していたというのは、
それはそれで、夢が残ってよかったとも思えます。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« レビュー:家福ゆべし くるみ餅 | トップ | スクナヒコの神と眷属 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ちょこのひとかけ」カテゴリの最新記事