俳句の募集的なものを見たので、わたしにもできるものかと
ちょっと挑戦してみることにしました。
昔とは違い、古文解読で散々短歌を研究したあとです。
俳句も知識の延長でどうにかなるでしょう。
……と思ったのですが、読むのと作るのは大違いどころか、
短歌と俳句は大違いでした。
俳句は短歌や川柳と違う部分が大きすぎて、
わたしはすごく苦手だということを思い知ります。
まず語尾。
俳句は現代語でいくべきか、古語でいくべきかがよくわかりません。
規定文字数に届かない場所は、何か整え文字を入れてごまかすのですが、
整え文字は基本的に古文系です。
それを現代語にすると、すごく微妙な感じになることも多いです。
単語や全体の調子から、整え字はどう使うのか、
何を入れるのかで悩むのが嫌な感じです。
次に字数制限。
十七文字というとても短い制限のために、
詠もうとしたイメージをそのまま言葉に直すことができません。
そこで、どうにか文字内に収めようとすると、
どんどんと元のイメージが崩れていきます。
制限がきつくて嫌な感じです。
そして季語。これが一番の問題です。
昔は、季語をいちいち入れるなんてめんどくさいと思いましたが、
今回よく調べてみたら、季語ではないと思って
使いそうな単語にも、案外季語が設定してありました。
よって、意識せずに季語なしになるよりも、
勝手に季語重ねになって、だめ俳句になるほうが多く、
危ない気がしました。
季語は、現代感覚と季語設定がずれているのも問題です。
そのせいで、俳句の禁則にひっかかるものが出てきます。
たとえば、秋の近づくある日。
川べりを歩いていると、風が吹き。
まわりの草がしゃらしゃらと、ささやくように音を立てます。
何か呼ばれたような気になってふと顔を上げると、
土手にはすすきの穂が揺れ、
その向こうには赤く落ちてゆく太陽と、
燃えるほどのきれいな空が見えたとします。
ああ、空も太陽もこんなに美しかったのか、
もう、夏から秋になっていたのか、
こんな空の前にあっては、すすきは燃えてしまいそうだ……
と心震え、
夕焼けに 燃えるすすきの ささめきか
なんてもれたとしても、これは俳句にはなりません。
なぜなら、
『すすき』の属性は秋で、
『夕焼け』の属性は夏だと
だれかが決めているからです。
よって、季節属性に矛盾を持っている上のものは
『俳句ではない』、『俳句とすら言えないゴミだ』
とされるわけです。
わたしからすれば、これが俳句のくだらないところであり、
一番の欠点だと思います。
目の前に実際に、夕焼けもすすきもあるのに。
その美しい、草木や空気、天気の合わさった風景を詠んだら、
俳句が『季語に矛盾があるからだめだ』と言ってくるなんて。
現実には何の矛盾もなく存在しているものを、
たかが誰か決めたかもわからないルールごときが
『それは矛盾だ』と言ってくるなんて、
俳句とは、季語を決めたものとは、なにさまなんだと思います。
おかしいと言われるべきは、自然ではなく俳句です。
しかもこの、俳句とやら。
一般の人が詠んだら『季語なし』としてゴミにされる俳句も、
どこかの有名人が詠んで、それをみんながもてはやして有名になったら、
その俳句に使われている単語のどれかが季語認定を受け、
その後は季語として使ってよくなるというゴミ仕様。
変な権威主義が見え隠れするのもすごく気持ち悪いものです。
なにを言うのにも、いちいちどこのだれが決めたんだか
わからないものに縛られ、単語にうっかり季語が乗っていないか
全部を確かめてようやく完成するなんて、
すごくばかばかしくて窮屈で、わたしはどうにも苦手です。
ただ単に、こころに止まり、こころ震えたなにかを、
皮肉も入れず、素直に五七五で詠む、『じふなな!』みたいな
形式でいいんじゃないかと思います。
俳句の経験値を稼ぐために、一日のノルマを決めて
ひたすら書き連ねてレベルを上げようとも思っていましたが、
まったく気が乗らなくて、だめでした。
古い和歌はきちんと意味がありますし、
解読・解釈していてもおもしろいので、
わたしは和歌をよむので充分です。