引っ越した先でいろいろあって、
少女は一歩成長しました。
――という概要に落ちてしまうアニメでした。
細かく見れば、すごく興味をひく設定もあるし、
それを使ってもいました。
たとえば全編通じてキーアイテムとなるのが、
『めがね』と俗に呼ばれる代物です。
これはパソコンの携帯端末を
ヘッドマウント化したような装置です。
おおまかな機能はパソコンとおなじですが、
何より違うのは回りの社会環境です。
たとえば、今のネット環境では、
人はアバター(化身)というものを使って
ネットの中で人格を持つように振舞うことができます。
もっと簡単に言えば、ネットゲームに参加していることを
想像してみるとわかりやすいでしょう。
自分がキャラとして存在できるのは、ネットの中だけです。
そのため、現実で本体を見られれば、
ネットゲーム中の人間は、
ネットゲーム中のキャラとは関係なく、
本物の、実体をもった人間として他人の目には写ります。
でも電脳コイルの世界では、
現実の世界をリアルタイムに3D化し、
その視覚情報を世界中に垂れ流しています。
それをめがねで受信すれば、実際の視覚と
ほとんど変わらない景色が見えるのです。
というところで、めがねを通して見えるのは、
データ化されて視覚情報として作られた、
今の世の中で言えばディスプレイの中の映像です。
でもそれがリアルタイムで更新されているので、
今ならばモニターの中で平面でしか見えないペットが、
実際にいるような立体映像として見ることができます。
たぶん、やろうとすればネットゲームを
現実でやるようなことはできる仕組みです。
たとえば、モニタ越しに見る人物の服装を変えたり、
といったことです。
わたしにとってはそのような理解だったので、
めがねによって見える世界は、
どこかにある巨大マシンか、
擬似巨大マシンとして構築された、
分散情報処理ネットワークによって瞬時に作られている、
擬似視覚情報でしかないように思っていたのですが、
途中からそうでもないような描きかたがされていきます。
たとえば車についているカーナビの
画像を思うとわかりやすいと思いますが、
都心の情報などはわりとすぐに
あたらしいものに書き換えられていきます。
でも、地方の道路は手付かずで、
古い情報のままだったりします。
そういう道に入ると、自分の車が山を突っ切ったり
海を飛んだりと、道路か自分かの座標が
ずれてしまうことはよくあるでしょう。
でもそれは、画像としての自分が、
本物の自分とずれただけのものです。
けれど、このお話の中では、
そうしたずれが人間に起こった場合、
実際の人間と擬似視覚情報としての人間がずれて見えた場合、
擬似視覚情報としての人間がまるで魂のように振舞うのです。
ずれた情報のほうが意識を持ち、
それが乖離した人間のほうは意識を失います。
それまでも、擬似視覚情報と思っていたものを、
つかんだり投げたりするシーンはありましたが、
それは使用者の心情を投影したものだと思っていました。
でも、どうやらそうではなく、
本当に何がしかの触感や質量を感じさせるような
ものであるようです。
そこを理解するまでに結構時間がかかりました。
それを理解した目で電脳コイルの世界を見直すと、
結局はSFぶりながらも、
実はオカルトの世界観だということがわかります。
というところで、陰陽っぽい観点に変更して
世界観を述べるとこんな感じです。
現世の街の裏には、あの世があり、
あの世にはこの世そっくりの街があります。
最近こどもたちの間では
手軽に第三の目を開いて、
この世の中であの世の街を見る、という
方法がはやっていました。
あの世を通して気を送り、
遠くにいる相手と会話すること、
念によって遠くの相手を見ること、
呪術を用いて相手を攻撃することも
もはや日常茶飯事です。
また、あの世に作った式神を
従えながら歩くというのももはや普通でした。
(式神とは、呪術や気によって作る、
術者の命令によって動く擬似生命体のようなものです)
あの世(=幽世・かくりよ)と
この世(=顕世・うつしよ)の間には多少の時差があり、
顕世で工事が行われて街の形が変わっても、
あの世にすぐには反映されません。
第三の目では建物がある場所でも、
実際には道だったりするわけです。
そういった齟齬がある場所は、
二つの世界の境界があいまいになり、
顕世から幽世へと迷い込んでしまうこともあります。
――と、こんな感じの世界観です。
そんな街で、事件が起こります。
主役の小学六年生の女の子が引っ越して来た街は、
特に呪術が盛んなところでした。
しかもそこでは、最近悪霊がよく出没するとのことです。
主役はそれにからまれます。
でもその悪霊は、うまく利用すれば
呪術者には有用な呪力を手に入れられるので、
怖がられるとともに獲物でもありました。
すぐに出てくる準主役の女の子も、
悪霊を狩ろうとしている一人です。
一方、悪霊を封印し、呪術も禁止しようとする、
陰陽寮のような組織は、強大な式神によって街を監視し、
あの世とこの世の境目のような場所や
その他の式神たちも排除して封印しようと
やっきになっています。
なぜそこまで必死に封印しようとするのか、
なぜ悪霊がでてくるのか、
悪霊とはなんなのか、
準主役は悪霊をどうしようとするのか。
その謎が、見ようとする意欲をかきたてます。
……が、です。
中盤までは呪術のやりとりや、死んだ女の子が
本当に悪霊によって殺されたのかの調査など
興味深く話が進行していきますが……。
終盤になって謎が明かされてくると、
話は一気にスケールダウンしていきます。
街全体、社会全体の話にまで及んだのに、
実はそれすべて、主役と準主役という
なんの変哲もない女の子二人の世界というものに
すべてが収束していきます。
わたしの分類で行けば、
『近似セカイ系』とでも言うべきお話です。
簡単に言えば、箱庭の中のできごとです。
たとえばこの地球が、
世界戦争の危機を迎えているとしましょう。
どこの国のトップも、核の発射ボタンに
指を伸ばしている状況です。
これをどうにかしなければと主役は解決方法を探します。
なぜ国同士憎むのかとトップに訊いても
「わからない」と言われます。
主役はその原因を下に探っていきます。
国の中での派閥の争い、派閥の中での派閥の争い、
街同士の争い、町内会同士のあらそい、そして個人の争い。
たどってたどって行き着いた先は――
自分のうちと、お隣のうちとの、いさかいでした。
なにを争っていたんだろうと主役と隣の家の主人が
和解の握手をすると、全世界の戦争の危機も解消されました。
……こんな構図です。
『どんな大きな世界でも、
それを作っているのは小さな【わたし】だけ。
そしてその世界の命運を決めるのは、
【わたし】の存在一つ』
それがわたしに言う、『近似セカイ系』です。
電脳コイルも結局はそんな構図です。
そしてお話ですが、
まず、十年ほど昔のこと、
第三の目を開く奥儀が ある集団によって開発されます。
その後、一件の交通事故に小さな女の子と
その兄がまきこまれ、兄は死亡し、
女の子は意識不明となります。
この女の子が準主役です。
女の子はいったん目を覚ましますが、
兄が死んだとわかると自ら意識を封印してしまいます。
これをどうにかしようと考えたのが、
医者でもあった主役の祖父です。
その主役の祖父は、編み出されたばかりの第三の目の奥儀、
略して『めがね』という、この世にいながらにして
あの世を見る技を女の子に伝授します。
それによって女の子はあの世で兄と再会することができました。
魂の傷を癒すには、魂の交流が必要で、
女の子の具合はだいぶよくなります。
そしてあの世からこの世へと意識の主体を移そうとしたときに、
運悪くこども時代の主役が霊体として、
その場に迷い込んできました。
主役は準主役の兄に淡い恋心を抱きキスをして、
それを見た準主役は意識をあの世側に強く残します。
嫉妬や愛情の感情はあの世の空間をゆがませ、
そこに一つの人格を作ってしまいました。
それが、悪霊の元になったのです。
また、それが原因であの世の理が狂い、
準主役も魂を戻せなくなりかけます。
主役もあの世に魂を持っていかれそうになりますが、
そこで祖父と出会います。
祖父は第三の目の奥儀を使い、あの世に自分の患者であった
準主役の魂を探しに来ていたのです。
でも奥儀を使ったことで肉体に負荷がかかり、
肉体の方は命をたもてなくなりました。
もはや霊魂だけの存在となっていたのです。
祖父は自分の式神に主役の魂を顕世へ戻すように命じ、
自分は準主役の魂をまた探しに行ってしまいます。
その後、準主役は現世で意識を取り戻します。
それも含め、驚いたのは奥儀の開発者たちです。
第三の目を開くことによって、
魂が抜けてしまうことがあるなどとは言えません。
そこで必死に式神や顕世と幽世の境界を消そうと
やっきになっていたのです。
その後に奥儀を使って何人ものこどもが
一時的に魂を失ってしまったことも隠し続けました。
その元となったものを開発した人も家族も、
ひたすらに隠され、疎外されました。
その男のこども、つりあがった目の少年が
今回のすべての黒幕です。
少年はそれから8年くらいのち、
あの世とこの世の境界の門を開き、
奥儀を使っているこどもたちの魂を黄泉送りにし、
結果的にすべてを殺して、
その責任を今の組織にとらせて
憂さ晴らししようとしました。
その儀式中、そばを通りかかったひとりの女の子が、
霊と肉体に分離してしまいます。
さらに悪いことに、その脇を通っていた、
式神が引いていた車は霊魂のほうを避けようとして、
肉体のほうにつっこんしまったのです。
肉体を失って、女の子はこの世での命を失いました。
途中で出てくる男の子は、この女の子が好きだったのです。
それから一年後、主役がこの街に引っ越してきて
お話は始まります。
準主役は悪霊からエネルギーを吸収して、
あの世への扉を開けようとしています。
目的は、死んでしまった兄の魂を取り戻し、
また人間として復活させるためです。
初期の時点では体が残っているとだまされていますが、
実際の兄は事故のときに死亡していて、体はありません。
それを操っているのが黒幕の猫目の男です。
ずいぶん大人なのかと思いますが、
実際は高校生くらいのようです。
男の目的は霊界の門を開けて、
第三の目の奥儀を使う人の魂を一つでも多く
黄泉送りにして殺すことです。
それを阻止しようと陰陽寮のようなところもでてきますが、
実は黒幕の男が裏から手を回しているので、
いつも失敗に終わります。
主役は記憶を失っていますが事件に巻き込まれているうちに
自分の祖父や祖母がその奥儀や事件に関係していると
わかってきます。
最後は自分と準主役が、悪霊を生み出した原因とわかります。
あの世に心ひかれて、籠もってしまった男の子や
準主役をこの世に連れ戻し、悪霊は消滅します。
悪霊は主役と準主役が生み出した強い思念が
元になっていたのですが、その後はそれに引かれるように、
さまざまな他人の思念も悪霊と化していたようです。
そんな事件を乗り越えて、
少女たちはすこし大人に近づいたのでした……
というお話です。
絵も荒くはなく、話も背景がきちんとあるせいか、
安心して見ていられました。
ただ、言葉づかいがいやに文語的なのは気になります。
「~~かしら」「~~だわ」「~~わね」
などといった、男性が女性の言葉を書くときに
やりたくなる言葉遣いがてんこもりです。
適当に例を作るならこんな感じです。
「あら、いやだわ。やけに雲が出てるわね。
今夜は雨かしら」
こんな口調で、近未来の小学6年生の女の子が
会話するでしょうか?
……まあ、放送が国営なので配慮したのかもしれませんけど。
あとは、話がなんだかすごくゲーム的だと思いました。
魔法のようなものを使って攻撃しあったり、
巡回する式神から逃げたり避けたり、
アイテムを拾って合成したりです。
どこかのRPGにでも普通に使えそうな設定です。
また、主役が記憶を失っている、というのも
すごくそれっぽくて、悪い意味で気になりました。
記憶を失っていて、それが事件の鍵になっている、
それをあかすことで話が進んで行く、というのは
もはやお約束になってしまった感じがあります。
そして残念なことに、話が進むに連れて、
簡単に記憶の断片がぼろぼろと出てきます。
どちらかといえば、ご都合主義の流れです。
話を盛り上げるのではなく、話をまとめるため、
流してしまうためのような、
適当さと言うか、性急さと言うかが
前面にですぎてしまい、興ざめしてしまいました。
これがハリウッド映画なら、
途中で奥儀の開発者集団に気づかれて、
ひたすら追われて逃げるはめになるか、
反撃して会社をビルごと破壊するかに
なるところだと思うので、そうならなくて
よかったとは思いますけど……。
前半は、世界と人物、設定がうまくからんで
おもしろかったと思います。
でも後半は世界も人物も失われて、
主役と準主役の内面が世界だ、というような
『心情=世界』という『近似セカイ系』の描写に
入っていってしまったのがおもしろさを
減速させてしまった気がして残念でした。
全体として見れば、悪くないと思います。
でも、どこをどうすればとは言えませんが、
もっともっと面白くなってよかったお話だと思うので、
残念だというのが正直な感想です。
また、見ていてそれなりに気になったのは、
関係のあること以外の視点・視界が
まったくと言っていいほどないことです。
たとえば現実のめがねをかけたことがある人は
わかると思いますが、通常の形のめがねなら、
かけていても上下はレンズがないために
常に通常空間が見えているはずです。
スポーツ用めがねや、スキーゴーグルのような
視界を全部覆うタイプでなければ、
めがねの視界だけに壁が見えていても、
その上下には壁がないことはすぐにわかるはずです。
でもだれも、そんなことはしませんし、
そんな描写もありません。
途中で出てくる、『めがねをはずしてはだめな状態』
のときも、レンズがない部分で見たらどうなるかなんて
ためしもしません。
それよりも気になるのが、
めがねをしていない人には、している人の振る舞いは
どう映るのか、です。
たとえばめがねの人が、仮想ペットを抱き上げたとします。
それに声をかけている場面などは、
かけていない人から見たら、
なにもない空間に手を回し、話しかけているという
とてつもなく不気味で気持ち悪いことに
なっているのではないでしょうか?
でも、そんな記述も一切出てはきません。
なにもない空間をにらんでこどもたちがいっせいに叫び、
逃げたり転んだりダメージを受けたりなど、
見えない人から見たら
霊的な存在と向き合っているようにしか
見えないような状態も普通に過ぎていきます。
『視覚情報格差』とも言うべき状態が
世界の中でどう扱われているのかが
示されないことが、話を軽くしてしまったように思います。
それは言い換えれば、『一般人』があまりに少ない
ということです。
こどもたちが街に出て、現実世界の中に
共通の空想世界を持ち出して遊んでいます。
でも、そこですれ違う大人は一切いません。
めがねをかけない普通の主婦、普通のおばちゃんが
その姿を見ることもまったくありません。
こどもたちが話を動かしている間、
街には大人などいないかのように描かれます。
あの街には、日中歩く大人はいないのでしょうか?
それとも、大人のいない場所で遊んでいるのでしょうか。
その選択があることすらも描かれないのが気になりました。
その他、残念なのは、
電脳コイルは純然たるSFではないことです。
それは舞台装置、世界設定を
違うものに簡単に変更できても
話が通じてしまう、ということにあらわされます。
むしろ、たとえば前述のように、
陰陽道ちっくな呪術合戦のある街、としたほうが
概念としても理解としても簡単なくらいです。
俗な意味でのオカルト(=霊魂・死者などの不思議話系)なのに
SF(=未来っぽい機械文明がらみの話系)の
仮面をつけたことが変な違和感を生んでしまったのだと思います。
たとえば、電脳コイルを見ながら、
すこし似ていると思ったのは、『攻殻機動隊』というお話。
攻殻機動隊は近未来の高度ネット化社会の中、
精密な人工知能が作られているような時代のお話です。
機械の体に生体の脳だけを入れて、それは人間なのでしょうか。
機械の体に脳が入っているというけれど、
それは自分では見ることができません。
もし脳が入っていなくて、実は人工知能だとしたら、
考えている自分は本当に『存在する』のでしょうか。
目で見ていると思っているものも、
機械の目を通して電気信号に変換された
『データ』でしかありません。
そのデータは本当に『存在する』のでしょうか、
それとも偽物なのでしょうか。
データを見て世界を見たつもりでいるけれど、
それはどういうことなのでしょうか。
偽物の体、偽物の脳があったとして、
考える主体の中に魂があるかないか、
どうやってわかるのでしょうか。
魂とは一体なんなのでしょうか。
そういった、見ている人の現実世界にも通じる、
根本的な問いが、攻殻機動隊では描かれます。
語弊を恐れずにあえて言うならば、
「魂のある生き物を食べるのは残酷と言うけれど、
どこまでが『生き物』なの?」
という問いにまでつながるものです。
「クジラを食べるのは残酷だというけれど、
クラゲは食べていいの?」
「動物を食べるのが残酷という人はいるけれど、
植物はいいの? 本当に魂はないの?」
そういうところにも通じるものがある気がします。
でも、電脳コイルはその段階を飛ばしています。
めがねをかけたときに見える世界(=電脳の世界)で、
自分の体(=電脳のからだ)が
肉体から分離すると、実際の体から意識がなくなる
ということはめがねの開発初期段階からわかっています。
それは初期の段階でも視聴者に情報として与えられます。
後に主役もそれを知ることになりますが、
その現象が起こるのは『なぜだか』で片付けられ、
意識が喪失するのはただの話ではなく、
現実だ、ということも確かになります。
つまり、そこで『電脳というものはただのデータではなく、
魂のようなものそのものであるか、または同等のものである』
というメタ情報がすでに提示されているのです。
なのにお話中では、
『電脳の仮想ペットが死ぬのはデータの損失だけか』
『手に触れられるものだけが確かなものか』
という問いかけが投げかけられます。
そんなもの、その質問自体が矛盾しています。
すでに、電脳には魂のようなものがあると
なぜだか設定されてしまっているので、
逆に電脳だけの存在にも魂はある、と
答えは示されてしまっているからです。
それに、触れられるものだけが真実だとしたら、
人間には体内なんてないことになってしまいます。
たとえば、自分では触れられない脳もないことに
なってしまうはずです。
生きている人と死んでいる人の差異も、
動くのか動かないかだけの違いであって、
そもそも生きていること、死んでいることは
問題ではなくなってしまい、
話の筋自体と矛盾してしまいます。
もしかすると電脳コイルに感じた残念な感じは、
前半がSF寄りで話が進んでいたのに、
後半ではオカルトに移行してしまったことに
よるのかもしれません。
へたに魂っぽい流れにもっていかず、
そのままSFの流れで話の解決が導かれたら、
望むべくおもしろい結末になっていたのかもしれないと
いま書きながら思いました。
・その他。
話の中で出てきた、『4423』ですが、
絶対これは『ヨシフミ』と呼んで
準主役の兄の名前だと思っていました。
同様に、優子を『ヤサコ』、
勇子を『イサコ』と呼ばせるのも、
『835』と『135』で暗号化するためだと
思っていたのに、まったく関係ありませんでした。
意味のない大外れで、個人的に結構悔しかったです。






