kakaaの徒然な日記

日記がわりにときどき、ふと思いついたことをつぶやきます。

世界史 16話 中世ヨーロッパ ゲルマン人の移動、フランク王国、神聖ローマ帝国、ノルマン征服

2019-02-10 12:30:25 | 歴史
世界史 16話 中世ヨーロッパ ゲルマン人の移動、フランク王国、神聖ローマ帝国、ノルマン征服


【ヨーロッパの地形】 ヨーロッパの地形で、大きな川は黒海から流れ出るドナウ川です。それからドイツの西部を流れるライン川です。今までイスラム世界をやったのと比べると600年ぐらいまた過去に戻ります。
 イスラム世界は13世紀、1200年代まで行ったんですけど、そこが実は一番世界で進んでいる地域です。それを先にやりました。
 それからみると今ヨーロッパというと、ここがイギリスだったり、フランスだったり、イタリアだったりして進んでいるように見えるけれども、この当時は田舎です。ド田舎なんです。
 ではなんでこんなド田舎のことをやるのかというと、これから1000年後に圧倒的にここが発展して、日本でもペリーが大砲を向けてくるような、脅されるまでになる。ここの文明、ヨーロッパ文明が発展してくるからなんです。
 今の段階でここが進んでいるとは思わないでください。今までヨーロッパをやったときに中心はどこかというと、ローマだった。ではこの時ヨーロッパの中ではローマが中心かというと、でもローマはもう捨てられた。
 どこに移ったか。ここの今のイスタンブール、この時にはコンスタンティノープルといいますが、ここに中心が移った。ヨーロッパでは、ここが中心です。

 ローマ帝国は二つに分裂しました。そして東の帝国だけが生き残る。これが何帝国だったか。東ローマ帝国です。ヨーロッパではここが中心です。
 しかしここからはその西の田舎をします。人があまり住まないような、オオカミが出るようなところです。ヨーロッパで有名な話に、「赤ずきんちゃん」のお話がある。赤ずきんちゃんは、なにに食べられるのか、森のオオカミです。オオカミが出るような、森がうっそうと茂っている地域です。
 そこにお姫様がいたら、何ヶ月も森をかき分けて行かないといけないようなところです。「眠れる森の美女」とかの話もあります。ここはそういう森に覆われた地域なんです。こんな田舎のことを今からやっていきます。
 中心はここの東ローマ帝国です。でも本当はもっと東のイスラーム世界。ヨーロッパでは東ローマ。
 ここに昔あったローマ帝国が分裂し、西半分の西ローマ帝国は滅亡したんです。それで田舎になりました。

 ローマは地中海側です。しかしローマの北のアルプス山脈を越えたら田舎です。険しくてなかなか越えられない山脈です。太陽の光が降り注ぐローマから見てアルプスの北側は、森に覆われた別世界です。今はそこがヨーロッパの中心ですけど、フランス・ドイツはもともと、アルプスの北の森の世界です。その田舎から見て、海の向こうにあるイギリスは、さらにとんでもない田舎です。
 フランス人は今でも、英語を田舎言葉だとして、使いたがりません。でもそのイギリスから、ずっとのち産業革命と近代社会が出現します。
 なぜそんなことになったのか。この地域は今の社会をひもとく鍵なのです。


【ヨーロッパの言語分布】 それが今の民族分布を見ていくと、ここはライン川。その西側が西ローマ帝国があった地域で、まずその帝国が滅んでいる。ここはまだ森に覆われた田舎のイメージです。
 発展したあとの民族分布をみると、もともとのローマ帝国のローマ人は、これはラテン系の人々です。彼らが住んでいるところは、イタリアから、フランスから、スペイン、こういったところがラテン系の人々が住む地域です。ヨーロッパを西と東に分ける目印は、さっき言ったライン川です。ドイツとフランスの間にあります。

 今からいう主役はこの田舎側に住んでいた人たちです。彼らをゲルマン人という。彼らが押し寄せて、ライン川を渡る。
 昔、橋がない時代には、大きな川は人はなかなか渡れなかった。それを何百人・何千人という人たちが大挙してライン川を渡って、そこに国を作っていく。そのゲルマン人の地域が、だいたいドイツからオーストリアです。こういった領域をこれからやるいうことです。
 それから北のスウェーデンとノルウェー、ここもゲルマン人です。
 これからこのゲルマン人の動きを見ていきます。


【ゲルマン人の登場】 主役はゲルマン人です。西ローマ帝国が滅ぼうとしているときに、まず東のゲルマン人を押し出すのが、さらに東の方から西側のヨーロッパ側に進んできたフン族です。多分これは中国史でやった匈奴またはその一派だろうといわれる。それが東から西にどんどん進んで、そこに住んでいた人間を押し出すような形で、押し出されたのがゲルマン人です。
 彼らが大移動を始める。旧ローマ帝国の領域は、ライン川の西側まで、今のフランスまでだった。そこにゲルマン人が入ってきたものだから、ついに476年に西ローマ帝国は滅んだ。

 しかしすでに東に引っ越していたもう一つの東ローマ帝国は生き残った。栄えたのはそっちが中心です。
 もう一つ生き残ったのが、この帝国の宗教です。国教になった宗教は何だったか。キリスト教ですね。これは総本山が今でもローマにある。そのまま生き残ったんです。これがローマ教会です。西ローマ帝国は滅んでも、そこにあったローマ教会は生き残ったということです。
 これが一つの隠し味、ヨーロッパの底流を流れる伏線です。このあとのヨーロッパはこのあと新しく出てくるゲルマン人の国と、昔からあるローマ教会のライバル競争です。オレが偉いんだ、オレが偉いんだ、とケンカし出す。宗教と王様が。


【ゲルマン諸国】 ではゲルマン人が作った国、これは10近くいっぱいつくる。西はスペインから、さらにジブラルタル海峡を南に渡って、アフリカの北岸まで。ゲルマン人が何千キロと移動して国を作ります。


【フランク王国】
【メロヴィング朝】 しかし、それを全部省略して、一つだけ代表的なものとしてずっと残っていくのが、フランスを中心に彼らが作った国、これをフランク王国という。これは481年にメロヴィンク家のクローヴィスが、フランク諸部族を統一して建てた国です。クローヴィス一族の王朝をメロヴィング朝といいます。フランスという国の名前はここから出てくる。フランクが訛ってフランスになっていきます。


【クローヴィスの改宗】 ローマ人から見るとゲルマン人というのは野蛮人だったんです。それがどうにかキリスト教の教えには従った。キリスト教徒にはなったんだけれども、ローマ教会の教えとは違ったキリスト教の教えに従っていた。これを異端といいます。キリスト教にもいろんな宗派がある。
 ただこのフランクの王様、クローヴィスというのは、キリスト教にも何種類かある、どうせならこの生き残ったローマ教会の教えに変わったほうが何かと得だぞ、と考えた。この正式な教えをカトリック、本当はアタナシウス派という。これに改宗した。
 ここからうまくいく。ゲルマン人はローマ教会と手を組むことによって、野蛮人であったゲルマン人の国のフランク王国が発展していくんです。


【聖像禁止令】 ただ忘れてならないことは東ローマ帝国が中心であった。そこにもまた別の教会があるんです。国も二つになっていた。教会も二つになっていた。それぞれ教会の教えが違っていくようになる。
 西のローマ教会はゲルマン人にキリスト教を教えるときに、キリストさんの像、またはマリアさんの像を見せて、これを拝みなさいといっていた。
 日本人は仏像を拝むからそんなこと当たり前ですけど、一神教の世界では禁止です。偶像を、神様の像を彫ってはならない。人間の形を神様はしてない。それを拝むなんてとんでもない。そういう教えです。
 これを東ローマ帝国のキリスト教会が守って命令をだした。それを何というか。聖像崇拝禁止令という。726年です。
 しかし、これを出されたら、字が読めないゲルマン人に絵もみせられない、像も見せられない。それだったら難しいキリスト教の教えを伝えられない、とローマ教会は反発していく。
 教会も、西と東で仲が悪くなっていくんです。ローマ教会と対立するようになります。


【ツール・ポワティエ間の戦い】 世界の中心はイスラム世界です。イスラム帝国のウマイヤ朝は、昔のメソポタミア、今のイラクあたりを征服し、北アフリカに軍隊を広げて国がどんどん大きくなっています。さらに地中海の出口のジブラルタル海峡を越えて、ヨーロッパに攻め込んできた。ヨーロッパのスペインからフランスに攻め込もうとする。しかしこれ以上攻め込まれたらとても耐えられないということで、ゲルマン人たちは戦った。そしてヨーロッパがイスラム軍になんとか勝った。あのイスラム世界に。
 この戦いが732年のツール・ポワチエ間の戦いです。これでヨーロッパはどうにか潰れなくて済んだ。ゲルマン人の国のフランク王国がここで生き残りました。もし負けていたら、ヨーロッパはキリスト教国ではなく、イスラム教国になっていたと思いますね。このあともヨーロッパはイスラム教徒の脅威におびえます。


【カロリング朝】 そこからまた息をふき返したゲルマン人の国は、ツール・ポワティエ間の戦いで手柄を立てたカール・マルテルの一族であるカロリング家に実権が移り、王家が変わります。カール・マルテルは、メロヴィング朝の宮宰です。宮宰とは日本でいえば、大名家の家老のようなものです。8世紀の751年にはメロヴィング朝からカロリング朝に変わります。


【カール大帝の戴冠】 この家から出た王様がカール大帝です。もともとカールというただの王様だった。これで説明するのが非常に難しいことが起こります。
 ちょうど800年のこと、たんなるフランク王のカール王が、ここでローマに出向いていくと、そのローマ教皇から、「おまえを皇帝にする」といって冠をかぶせられるんです。ローマにはローマ教会の教皇が生き残っているんです。
 日本の天皇は冠とか別に要らないけれども、ヨーロッパは王の印は頭にかぶる冠です。こういうのを、難しい言葉で「戴冠(たいかん)」という。戴冠とは冠を頂戴することです。
 この教皇が、カールに冠をかぶせて、どこの国の皇帝にしようとしたかというと、それが不思議なことに、滅亡したはずの西ローマ帝国の皇帝にする、と言ったんです。これで西ローマ皇帝です。ここで476年に滅んだ西ローマ帝国が復活した、という言い方をするようになります。
 これは変なことで、説明するのはけっこうむずかしい。でもヨーロッパ人はそう思ったんです。あのローマ教皇が王に冠をかぶせたんだから間違いないだろう。でもなんでローマ教会が、帝国の皇帝を任命できるのかという感覚は、日本人にはなかなかわからない。

 ここで教科書に書いてないことを言うと、このときローマ教会に伝わっていた文書に「コンスタンティヌスの定め」というのがあったんです。約500年前のローマ帝国時代にコンスタンティヌス帝という皇帝がいた。彼が決めたという文書が残ってたんです。「ローマ教会のローマ教皇は西ローマ帝国の王を任命することができる」という文書が伝わっていたんです。何百年も前からローマ皇帝が認めたんだという文書が。
 ただこれは今となっては、偽書だということが分かっている。捏造文書です。最近のモリカケ問題の捏造文書じゃないけれども、公文書偽造です。嘘の文書をつくってそれを証明書にしている。
 ただこういうウソの文書でも本物だと信じられてきた。だからローマ教皇が冠をかぶせた人は、西ローマ帝国の皇帝になれる。だから西ローマ帝国は復活した、とヨーロッパ人は信じてきたというのが歴史的な事実です。

 ここで起こったのは、ローマにいる教皇がカール王というフランク王に、田舎の王様に冠をかぶせた途端に、この田舎の王様が突然「オレは西ローマ皇帝だ」と名乗り始めた。つまりゲルマン人の王がローマ皇帝だという不思議なことがおこるわけです。これがヨーロッパという田舎で起こったことです。

 再度言うと、ヨーロッパの中心は実はコンスタンティノープルという東ローマ帝国です。ただ、これが名前を変えるところが覚えにくい。東ローマ帝国と言わずに、この時にはビザンツ帝国というふうに名前が変わっているんです。ビザンツとは、コンスタンティノープルが昔はビザンティオンという名前であったから。
 東京の昔の名前が江戸というようなものです。だから江戸帝国になったみたいなものです。東ローマ皇帝はビザンツ皇帝です。こっちが実はヨーロッパの中心です。

 このビザンツ帝国では、皇帝とキリスト教の教皇の関係では、皇帝が上なんです。皇帝が東ローマ帝国の教会を支配している。これを皇帝教皇主義といいます。だから西に残ったローマ教会も支配しようと圧力をかけていく。
 しかしこのローマ教会はビザンツ皇帝の命令に従いたくないから、それをはねのけようとしている。800年の事件が起こったのはそういう時なんです。
 そのためにはこれと同じような形で政治的な後立てが必要になるから、この田舎の王様を、「おまえが東ローマ皇帝なら、こちらは西ローマ皇帝がオレのバックについているぞ」、という形を作りたかった。政治はややこしい。逆にいうと、政治がややこしくなるときには、そこにウソが含まれていることが多い。
 こうヨーロッパでは信じられてきた、西ローマ帝国が復活したと。しかしここから発展していくということです。

 この背景にあるのは、ローマ教皇とビザンツ総主教というキリスト教内の宗教対立があって、それを有利にするために、ローマ教会は西ローマ帝国を復活させたということです。それで田舎のゲルマンの王であるフランク族の王に冠をかぶせたわけです。それが800年におこったことです。


【メルセン条約】 この時のフランク王国というのは、今のフランスよりもかなり大きい。フランス・ドイツ・イタリアにまたがるような大きな国だったんだけれども、このカール大帝が死ぬと、息子が3人いて、その3人に分割相続する。それで割れてしまう。この取り決めがヴェルダン条約です。843年です。

 どういうふうに三つに分裂したか。東フランク、西フランク、イタリア王国の三つに分裂した。西フランクの国境は、ほぼ今のフランスと重なる。フランスの形になった。ここでフランスができたと思って半分は正しい。これが今のフランスです。
 次に、ドイツに相当するのが東フランク王国です。今のヨーロッパの二大国家、フランスとドイツの原形がここでてきた。イタリアもです。
 さらにその後、870年のメルセン条約でこの形がはっきりします。
 西ローマ帝国の滅亡して約400年後、東がドイツ、西がフランス、南がイタリアの原型ができた。

 では何が入ってないか。イギリスがはいっていない。イギリスはまた別です。イギリスは島国です。海の向こうの田舎のまた田舎じゃないか、いるもんか、という感じです。イギリスが国になるのはあと200年ぐらい後です。イギリスは統一国家にさえなってないということです。


【東フランク王国】 中心はフランスとドイツのうち、ドイツなんです。ドイツは東フランク王国という。もともとはこのドイツがゲルマン人の本拠地です。
 そこから一部がライン川を渡って西に行ってフランスまで占領した。ただ本拠地はドイツです。
 このフランク王国は、王様といっても日本と違って、家来たちが王を選挙で選ぶという形をとります。ヨーロッパ人は選挙をやる。ギリシャ国家もそうだった。日本の王は、親から子、子から孫へと受け継がれる。これを世襲というけど、ヨーロッパはそれとは違って選挙原理というのが強い。
 生きるか死ぬか、荒々しい戦争がしょっちゅうあるときに、そういう地域では選挙で選ぶ。

 なぜかというと、平和なところでは、親が偉ければ、息子がボンクラでも、おまえが次の王になっていい。それでも戦争がないから滅びることがないんですよ。しかし戦争がいっぱいあって、いつ滅ぼされるかわからないところで、親が偉かったからといって、息子がボンクラで、それが王になったら、その国はすぐ潰れる。滅んで自分たちも殺される。
 だから、一代限りで、では次の王は、親が偉いといっても、関係ない、おまえはバカだ、何の能力もない、この中で一番能力のある者を選挙で選ぼう、そういう実力主義です。選挙というのは実力主義です。
 一番力の強いものを選ばないと生き残れない。そういう世界で選挙が行われる。
 しかもカロリング朝は、911年に断絶します。


【オットー大帝】 ここで選ばれたのが、962年にオットー1世というザクセン家の人です。これをザクセン朝といいます。このあとも王家はコロコロと変わります。
 ドイツ人です。オットーという名前です。カール大帝から160年経った。その間、ローマ教皇が王様に冠を被せる、これが空白になっていた、忘れられていたんです。これが160年ぶりぐらいに復活します。
 このオットー1世が久々にローマ教皇から、ローマ皇帝の冠を受けた。被せられた。さっきも言ったけど、これを「戴冠」といいます。オットー大帝といいます。

 この帝国は意味合いとしては、西ローマ帝国なんだけれども、ただこのあと何と呼ばれていくか。いつとはなくちょっと名前がアレンジされて、神聖ローマ帝国と言われるようになる。ローマ教皇という神の使いがからむから「神聖」なんです。
 これがドイツのもとです。962年の時のドイツという国は、何というか。神聖ローマ帝国です。でも支配領域は実質的にドイツのみです。ローマのあるイタリアも併合しようという努力はしますが、うまくいきません。一番簡単に言うと、神聖ローマ帝国とはドイツのことです。
 ドイツはこうやってローマの名前を受け継ぐ名誉ある地位を手に入れます。ヨーロッパで最も権威ある国になる。フランスじゃない。ドイツです。

 理念的には、このドイツが全ヨーロッパを支配する帝国です。フランスはその下にある王国に過ぎません。あとで言うイギリスは、さらにそのフランスの支配下にある国にすぎません。
 これは理念的なものに過ぎませんが、20世紀になってドイツのヒトラーが目指した第三帝国というのはこれなのです。第一がローマ帝国、第二が神聖ローマ帝国、そして第三がヒトラーの帝国です。こうやってバカにできない形で理念が復活することがあります。
 ドイツ人の中には今もこの理念が息づいています。今のEU、つまり欧州連合もそういう理念の一つでしょう。
 この神聖ローマ帝国は、ヨーロッパを一つにまとめることはできませんでした。そこが中国との違いです。中国は分裂と統合を繰り返しながらも、必ず一つにまとまります。今の中国も激しい内乱のあとにできた国です。
 この違いは何なのでしょうか。一つの違いは、皇帝権の上に、さらにまた別の組織があるということです。それがローマ教会です。



 悔しがったのがフランスです。なんでドイツだ、俺たちだってフランク王国の領地じゃないか、ドイツにしてやられた。ドイツめ、いつか取り戻してやる。だからドイツとフランスは仲が悪い。

 20世紀までずっと仲が悪いです。第一次世界大戦では、ドイツとフランスは敵同士です。第二次世界大戦でもドイツとフランスは敵同士です。ずっと仲が悪い。

 この時の構造はさっきのカール大帝の時の構造に似てるんだけれども、ローマ教会のローマ教皇が今度は東フランク王に冠をかぶせた。ローマ帝国の復活です。その復活したローマ帝国は名前がちょっと変わって、神聖ローマ帝国という。その王様が神聖ローマ皇帝です。

 ローマ教会としてはこういう政治的な後ろ盾、バックボーンが欲しかった。宗教だけでは力にならないから、軍事力を持っている国が欲しかった。そして国王に命令したかった。
 しかしこのあと皇帝は、自分の皇帝の位が、ローマ教皇によって任命されることはおかしなことだと気づく。ローマ教皇から命令されたくないんですよ。
 それで皇帝と教皇で、オレが上だ、いやオレだ、で対立する。ローマ教皇は、じゃあおまえをキリスト教会から破門するぞ、キリスト教から除外するぞ、そういって脅すんです。
 これがローマ教皇のもつ伝家の宝刀で、教皇と対立する皇帝にとってはこれが何より恐い。それはキリスト教社会では人間ではなくなることとほぼ同じなんです。この感覚もなかなか日本人にはわかりませんね。
 でもそうやって、皇帝と教会がこのあと対立していく。これがヨーロッパの歴史です。日本にはこれがないから、日本人にはちょっとピンとこない。ここらへん理解するのはけっこう難しいです。


【西フランク王国】 では冠をかぶせられそこねた西フランクはどうか。これが今のフランスです。カロリング朝という王様の家も断絶して、はがゆい思いをしながら力が弱くなる。すぐには復活できない。
 そのあと、また新しい王になった家がカペー朝です。987年です。ユーグ・カペーという人の家柄、カペーというのが名字に相当します。カペー一族です。ただ王権は弱いです。


【ノルマン人】 この9世紀頃にまた、田舎の暴れ民族が、フランク王国に押し寄せてくる。荒らしまわるといっていい。彼らをノルマン人という。基本的にはドイツ人です。つまりゲルマン人の一派なんだけれども、その親戚筋です。
 400年前にはまだ移動していなかった。400年遅れてまた移動し始めた。ノルマンというのは、北の人という意味です。ドイツ人から見て北にいる一族という意味です。
 今のスウェーデンあたりから海を超えてやってくる。彼らは海賊です。その海賊が船に乗ってやってくる。舳先がクッと曲がった海賊船に乗って。海から川に入って、急流があると丘に登って、百人ぐらい乗れるから皆で船を担ぐ。えっさほっさと担いで行く。
 また船を浮かべて、川をさかのぼって、村々を荒らし回る。これにさんざん痛めつけられていく。彼らの別名がヴァイキングです。海賊です。ヨーロッパはこの海賊がこのあと500年ずっと活動する。

 ジョニー・デップの映画、パイレーツ・オブカリビアンというのはこの伝統です。これがのち大西洋に乗り出していく。そういうお話です。このヴァイキングの経路を見ると、もともと北にいた人たちで、現住地はスカンジナビア半島です。今のスウェーデンです。彼らは西に行って、フランスにも入っていく。フランスを荒らし回る。
 もう一つ、東に行った人たちは、ロシアをつくる。ロシアはこんな小さいところから始まる。そして東に伸びていく。これには戦争ないです。こんな寒いところ、誰もいらないから。取りたければ取っていいよという感じです。


【ノブゴロド国】 これがどんどん大きくなって、今や世界最大の国家はロシアになる。ヨーロッパ人こんなとこ要らない。このあとシベリアまで広げていく。
 これがノルマン人の動きで、ロシアも彼らが作った国です。862年にまずノブゴロド国をつくる。これがロシアの始まりです。しかしすぐ引っ越しする。その南のキエフというところに引っ越しする。キエフ公国です。882年頃です。これが本格的にロシアのルーツになる。ルーツとは原形です。


【ノルマンディー公国】 西では、さっき言ったようにフランスにはいる。フランスの海岸にノルマンディー海岸というところがある。そこに国を作る。ノルマンディー公国という。
 つい最近といっても、70年代前、第二次世界大戦の戦場にもなった。有名なノルマンディー作戦が70年前にもあった場所です。そこに国をつくる。北フランスです。
 ただしこれは王国ではなく、フランスの一地方領主という立場で認められた公国です。つまりフランスの一部です。


【ノルマン朝】 次はイギリスです。分裂していたイギリス。1000年代になってやっと統一国家になる。このイギリスを統一国家にしたのも彼ら海賊ノルマン人です。ノルマン朝という。
 今でこそイギリス王室というのは、おしゃれで、バッキンガム宮殿に住んで、綺麗な馬車に乗ってというイメージですが。でももとを正せば海賊です。だからエリザベス女王でも、暗殺されたダイアナ妃でも、背は170センチぐらいあって、体格が良い。背が高く、肉付きもよくて、しかも美人です。やわな血筋じゃない。ご先祖は海賊です。気性は荒いです。あそこの王一族は。
 このイギリス王家が近代世界に及ぼした影響は計り知れません。

 実はこのイギリスをつくったのは、フランスのノルマンディー公国をつくったノルマンディー公です。フランスの一地方領主がイギリスを征服したんです。1066年のことです。このことをノルマン征服といいます。その戦いをへースティングズの戦いといいます。
 ここはちょっとねじれてますね。フランス人がイギリスを征服したんです。だからイギリスはもともとフランスの子分です。フランス王の家来のフランスのノルマンディー公が、イギリスを支配するという形です。
 しかしこのあと、イギリスは子分はイヤだという。フランスは、なんで子分がイヤかといって、怒る。それでイギリスとフランスは仲が悪くなる。
 ドイツとフランスは仲が悪い。イギリスとフランスも仲が悪くなる。隣同士で仲良くしていそうな感じだけれども。
 それは日本もあまり言えない。日本と中国は仲が良いんですか。あまりよくないです。日本と韓国はもっと仲が悪い。隣同士の国というのは、歴史的に非常に仲が悪い国が多い。
 ヨーロッパもそうです。ただ日本はペリーが来る以前までは、朝鮮とも、中国ともけっこう仲良かったんですけどね。

 ここでメイン三国ができた。やっとイギリスができた。その前にフランスができた。ドイツができた。イギリス・フランス・ドイツです。それにイタリアも。
 イギリス・フランス・ドイツ・イタリア、この4ヶ国は特に重要です。英、仏、独、伊。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア。有名な外国は日本は漢字一文字で書く習慣があります。
 ではまた。

転載元:「ひょう吉の疑問」 https://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/0709f3ab4d95914501962de66ffbbd02

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。