城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

武蔵国 小山田城

2024-09-13 04:00:08 | 城館
武蔵国 小山田城 <オヤマダジョウ>
別称小山田要害、扇谷要害
城郭種別城郭
縄張り平山城
築城者小山田有重
築城年1171
廃城年1590
主な城主小山田氏、扇谷上杉氏、北条氏
指定史跡なし/不明
住所東京都町田市下小山田町
[Google] [地理院地図]
城址碑あり
現地案内板なし
スタンプ
現存建造物なし
復元建造物なし
DID・航空管制対象外・対象外

概要
桓武平氏の流れを汲む小山田別当有重 承安元年(1171年)この地に城を築いて、小山田の庄を領した。
源平争乱の時代に小山田一族は源頼朝の家人として活躍し、平氏滅亡のあと建久元年(1190年)頼朝初の京都入洛に際して有重の子三郎重成、四郎重朝、五郎行重は畠山重忠らとともに先陣の隋兵として従った。
頼朝亡きあと北條時政の誹りを受け、元久2年(1202年)三郎重成、四郎重朝とその子等、将軍実朝により二俣川に於て謀殺された。ここに小山田一族は離散した。
元弘3年(1333年)小山田一族の裔小山田太郎高家新田義貞の侍大将として登場。小山田城を固守していた北條泰家の軍を追って鎌倉に攻め入り、北條一族を討滅した。ここに建武中輿成る。
その後足利尊氏が叛くに及んで、高家は湊川の合戦に奮戦の折、主君義貞、生田の森で足利軍の矢ぶすまに立ちつくすを見て、高家おのれの馬に乗せ奉りて主君の危急を救い自らは処女塚で壮烈な戦死を遂げる。
時に延元元年(1336年)5月25日と太平記は記している。
小山田城址と伝えられる大泉寺境内の北西の山腹に3基の宝篋印塔があるが、有重・行重・高家三人の供養塔と言われている。梵字の刻印も苔むして定かではない塔のたたずまいは、小山田の風土と永い歴史をわれわれに語りかけてやまない。
然し今日、開発の波は怒涛の如く由緒あるこの城址に逼りつつある時、ここに美しい風土に秘められた歴史の跡を偲び、併せて小山田高家公及び小山田一族の名声を末永く顕彰するため、この碑を建立する。
※現地顕彰碑より

攻城記録
山門

大泉寺

大泉寺の後背の山「補陀山」は、小山田城があった頃からの景観をとどめています。
近年この周辺にも開発の波が押し寄せています。
小山田城址も含め貴重な補陀山を子々孫々まで護り伝えてゆく為に皆様の浄財で阿羅漢様を安置し、お山を護ろうと計画しております。
ご理解を賜りたく、ご高配のほど宜しくお願い致します。
※現地看板より

鐘楼




小山田高家公顕彰碑

登城口

これより上の補陀山に主郭がありますが、勝手に入る訳にはいかないので、
今回はここまで。

後日改めて住職または御子孫の方に許可を得てから登城したいと思っています。



堀跡




2024/6最終訪問

周辺地図

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