城犬のおいど

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越後国 高田城

2024-06-24 16:25:18 | 城館
越後国高田城 [タカダジョウ]
別称鮫ヶ城・関城・高陽城
城郭構造輪郭式平城
築城年1614年
廃城年1871年
指定史跡指定なし
住所上越市本城町 [MAP]
スタンプ設置場所高田城三重櫓
09:00~17:00
御上院販売場所上越市立歴史博物館
09:00~17:00

概要
高田城は慶長19年(1614)に越後太守松平忠輝の居城として
築城されたもので、石垣や天守はなく、御殿を中心に
広大な城郭で構成されている平城です。
築城は、幕府の命により国役普請で、仙台藩主伊達政宗ら13大名によって
行われ、関川・青田川・儀明川の流路を変え、天然の地形を効果的に利用して
築城されました。
陸軍第十三師団が入城する際、土塁の大半を崩して堀を埋める
工事が行われたことによって改変されているものの、
三重櫓や極楽橋など復元され、現在は高田城址公園として
市民の散策や憩いの場となっています。


大手橋跡
この辺が大手桝形門のあった所です。外堀(大手堀)に架かる大手橋を渡ると、
内側に虎乱郭と名付ける城内への表玄関口があり、大手門の桝形がありました。
桝形とは出入口になる所を塁で四角に囲って区画し、防備を固めた施設です。
この桝形に門を2か所設けて出入りしました。
外側の門を一の門(高麗門・蹴出門とも)、内側の門を二の門と呼びます。
二の門は二重櫓の頑丈な造りで「大手門」と呼び城を代表する門でした。
高田城の桝形大手門は、城郭全体から見て南西方向にあり、周辺に広大な外堀、デンガク堀、
濁堀(中堀)や三の丸に囲まれ、防御態勢万全の大手門でした。
土塁で囲まれた桝形内の広さは、古絵図によると南北20間、東西15間程あったようで、
かなり大きなものでした。
ここにある「大手門趾」の石碑は高田師範同窓会によって建てられました。 
※現地案内看板より



極楽橋

極楽橋は、高田城を建築した際に、二の丸から本丸に通じる木橋として
設けられました。
明治41年に入城した陸軍第十三師団によって土塁が切り開かれ堀を
埋め立てて陸続きとなった結果、極楽橋はその姿を消しました。
現在の橋は平成14年に復元されたものです。

内堀

内堀は本丸を取り巻いている堀で、本丸を防備する施設です。
本城堀ともいわれ、薬研堀(V字型に勾配をつけて掘削した堀)でした。
今、残っている内堀の規模は、堀幅58~36メートル、深さ平均で
5メートル程ですが、石垣が無かったので長い年月に土塁の土や、
落ち葉などにより、当時よりもかなり浅くなっていると考えられます。
また堀の深さは一定ではなく、土塁の特徴に比例し、特に隅櫓や屈曲土塁の
ある所は深くなりますが、これは急を要した突貫工事のためでしょうか。
内堀の総延長は、本丸側(内側)で約1300メートル程で、ほぼ当時の
面影を残しており見どころの一つになっています。

本丸跡
本丸は内堀と土塁に囲まれ、城主の御殿や多くの建物が存在していました。
度重なる地震や火災により、その規模は徐々に規模が縮小されました。

明治3年の火災以降、再建されることはなく、明治4年に257年間続いた
高田城の幕は閉じることとなりました。


三重櫓管理棟

三重櫓
高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「御三階櫓」と
呼ばれて天守閣にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、
明治19年(1886)頃取り壊されました。
平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を
充分にふまえて再建されたものです。

内容は三層三階で、東西5間(約9.1m)、南北6間(ヤク10.9m)を
基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としています。
屋根は1層・3層が入母屋、2層が寄棟形式で、1層・3層に切妻屋根の
出張りを付けています。
1階・2階は展示室で、3階は展望室になっています。
櫓の東側に付随して50mの塀も同時に再建されました。
※現地案内看板より

展望室からの眺望

復元された塀



二の丸

二の丸土塁

二の丸と三の丸の間の堀は明治の工事で、姿を消したが
外堀に沿って築かれていた土塁の一部がこの場所にわずかに残されています。


陸軍第十三師団司令部営門跡
師団司令部が置かれることとなり、二の丸と三の丸の土塁はこの時
破壊されました。

上越市立歴史博物館

外堀
外堀は、大きく蛇行する関川の旧流路を利用し造られました。
総構えの西側は、旧儀明川の流路に青田川の水を引き込んで堀を作り、
その時に掘り上げた土で土塁を盛ったと考えられ、南は現在の
南本町2丁目の東に、新たに百間にわたる堀を掘って、青田川の水を
引き入れて造ったと考えられます。

堀を造る工事は、高田城の工事の中でも最も労力と手間のかかる大工事
でしたが、数千人とも一万人ともいわれる人夫が投入され、
わずか4ヵ月余りで完成しました。
明治41年に陸軍第十三師団が入城してくると、外堀はかなりの部分が
埋め立てられ、現在に至っています。
※現地案内看板より


内桝形になっていた東側の虎口

東不明門跡

本丸の虎口は本城御門(南門)・東不明門(東門)・北不明門(北門)の
三か所にありました。
南門と東門は内桝形門で、北門はカギ形門でした。
現在の西側からの入口は明治以降に切り開かれたものです。


百間堀
南本町に、百間堀の一部が残っています。

2024.5訪問



 
 

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