陸奥国盛岡城 [モリオカジョウ] | ||
別称 | 不来方城 | |
城郭構造 | 連郭式平山城 | |
築城年 | 1598年 | |
廃城年 | 1871年 | |
指定史跡 | 国指定 | |
住所 | 盛岡市内丸1?37 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | もりおか歴史文化館 | |
御城印販売場所 |
概要
盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。
城の縄張は豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御城内)としています。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外曲輪としました。
また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(総構え)が配置されています。
築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。
盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しましたが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
※現地看板より
三の丸
二の丸
渡雲橋(廊下橋跡)から見た堀切
本丸
本丸は主に城主が日常生活や政務を行う場として使われていました。
南部利祥中尉銅像台座
南部家42代当主南部利祥が日露戦争で皇族軍人竹田宮恒久王を守り、
盾となって戦死したと伝わります。
銅像本体は昭和19年(1944)に軍需資材として供出され、現在は
台座だけが残されています。
本丸南西部の石垣
宝蔵跡
彦御蔵
盛岡城内に唯一現存する建造物で、江戸時代に建てられた蔵と考えられているが、棟札がないためいつ建てられたかは不明。
烏帽子岩