YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

エレファンタ島の石窟寺院見物~ボンベイの旅

2022-02-15 13:53:55 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
△ボンベイの偽物の万年筆屋さん~「撮るな」、と言って手を出した瞬間

・昭和44年2月13日(木)晴れ(エレファンタ島の石窟寺院見物)
 私、ロン、竹谷、そして竹谷の知り合いの日本人と共に4人で、『インドへの門』付近から8時30分発のモーター・ボートに乗って〝Elephanta Island〟(エレファンタ島、ヒンドゥ教の石窟寺院があり、ボンベイの観光名所の一つ。)へ行った。 
 海は穏やかで、島まで東海上10キロ、約1時間半のクルージングを楽しんだ。この船賃は往復で3.20ルピーであった。島は亜熱帯風の小さな島であった。船着場から長い石段を昇って行くと、そこに石窟郡があった。パンフレットによると7つの石窟があるが、1番手前の石窟がメインで、ヒンドゥ教の彫刻の宝庫となっていた。壁面いっぱいにシヴァ神に関係する神々が彫られていた。圧倒するのは壁面に高さが6mもあるシヴァ神も彫られていた。この石窟は、6世紀から8世紀に掛けて建造された物で、ヒンドゥ教の代表的な石窟の一つであると記されていた。見学後、島で泳ごうとして海水パンツを持って来たが、我々が予定している帰りの出航時間の都合で時間が無く、海水浴は出来なかった。
 インドへの門に午後1時30分頃、船は到着した。その後、カメラを売りに又、街へ出掛け、いつもの通りを歩き回った。何回もこんな事をしていると、呼び掛けて来るストリートボーイ達も、そして連れて行かれる元締めの所も同じであった。そんな事を繰り返している内、私は彼等と顔馴染になったが、結局良い値で売れなかった。
 通りを歩いていると、歩道に簡易の店を設けた商人が、「ヨーヨージャパン、ヨーヨージャパン」と言って万年筆を売っていた。それはパイロット万年筆で、メイドインジャパンと表示されていた。しかしそれは日本製のパイロット万年筆に似ていたが、日本人なら直ぐにで分かる模造品、粗悪品であった。インドは貿易が自由化(保護貿易政策をしている)されていないのだ。万年筆、時計、カメラ、電化製品等輸入していないので、インドにはある訳ないのであった。 
「私は日本人だから良く知っているが、これは日本製の万年筆ではない。偽物だ。日本製と言って売るな。」と英語で言って商人に注意を促した。分ったのか、彼は狼狽した。
「証拠として写真を撮る。」と言ってカメラを構えた。
「止めてくれー。」と彼は言ってカメラの前に制止の手が伸びて来た。「カシャ」、シャッターの音がした。
偽物まで出回る事は、パイロト万年筆等の日本製品が優秀な証で、まんざら悪い気はしなかった。 
 夜、私と荻はタクシー(80パイサ)に乗ってEros Theatre(エロス映画館)へ映画を見に行った。上映時間は午後9時30分から、入場料は1.5ルピー、上映題名はBullt(洋画)であった。入場券を買う時、我々がチョッと買うのにまごついていたら、「You are wasting time.」とか言うので、その生意気な若い係員に2人で猛反発した。
 インドはまだテレビが普及されてない様で、唯一の娯楽である映画は、インド映画にしても洋画にしても、映画館は何処でも繁盛していた。我々の席は1階の特別席であったが、それにしても入場料1.5ルピーは、下層階級の人々にとって、1日の稼ぎに相当するので、映画を見るのも夢の世界であった。 
 明日、映画のエキストラのアルバイトがある。これはロンから情報を得たのである。映画会社が欧米人の若者達をエキストラとして20名近く、募集したのだ。「Yoshiも行って見ないか」とロンに誘われ、私と荻も参加する事にした。


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1 コメント

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Unknown (日本戦略論)
2022-02-15 14:56:52
毎年ロナバラのアシュラムかイヴラヤダム行っています。3年前ムンバイ から船でエレファント島へ行きました。

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