・昭和44年4月1日(火)晴(チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊)
ウィントンのその辺の空き地に駐車されていたトラックの運転席で寝ていたら5時30頃、この車の持主に起こされてしまった。
「黙って車の中に寝て、申し訳ありませんでした。」私は素直に謝った。
「いいのだよ。これからカンガルー狩りにこの車で行くのだが、一緒に行くか。」とおじさんに誘われた。
「急ぎ旅なので、行きたいが駄目なのです。」と断ってしまった。
今回のヒッチの旅は、以前と違って如何も心にゆとりがない、ただシドニーを目指して急いでいる、そんな感じの旅であった。その訳は査証期間が短いので期間延長しなければ、所持金不足の為、早くシドニーへ行って早く仕事を探さねば、と焦っていたからであった。
しかし、シドニーに着いてから『カンガルー狩りなんて2度と経験が出来ないので、カンガルー狩りに付いて行けば良かった』と後悔した。
今日は6時からヒッチを始めた。1台目は17マイル程乗せて貰った。降ろされた所は、見渡す限りの土漠地帯であった。荒野の中を延々と続く〝フェンス〟(ディンゴと野ウサギから羊を守る為に造られた防護用フェンス)と道が一直線に伸びているだけであった。そんな所で1時間以上、車が来るのを待った。そしてそれから30分以上経ち、遥か彼方からこちらに向かって車が来た。『停まってくれ』と祈る気持で日の丸の旗を振った。ビクビクビクと大きな手応えを感じ、竿を手元に引き寄せた。若者が運転する車は、私の前にちょうど停まってくれた。
「シドニーへ行くのですが途中まで、お願いします。」と私。
「どうぞ乗って下さい。」
「有り難うございます。」と言ってリュックを後部座席に置いた。そして私はいつもの様にドライバーの左横(国や車種によって右横)に座った。ドライバーが1人の場合、いつも横に座る様にしていた。お互いにその方が良いのだ。
車が動き出して間もなくドライバーが、「私を覚えていますか。」と聞いて来た。私は彼の顔を見て、オーストラリアに来てから何処かで会っているのか、暫らく、「・・・」と思い出していた。
すると、「3月28日、スリー・ウェイズまで貴方を乗せたノーマンですよ。」と彼。
「ノーマン?・・・、あの顎髭をぼうぼう伸ばしていたノーマン?・・・。私は思い出し、わぁぁー、髭を剃り、若くなった感じで全く気が付きませんでした。」と驚いた私。
「あの夜、髭を剃ってさっぱりしたのです。」と彼。
髭を長く伸ばしていた人が、髭を剃ると全く顔形、雰囲気が違ってしまい、分らないのも当然であった。でもノーマンに再び出逢えて、本当に嬉しかった。それから暫らくして、何気なく予備タイヤを持っているか尋ねたら、間もなくしてパンクしてしまった。不思議な事があるものだ。
車は走れる様になったが、タイヤ交換中、通る車のドライバー皆が我々の前に車を停車させ、心配して声を掛けていた。車の修理工場なんて、何百キロ走ってもない様な所だ。広い荒野で困っている時は、お互いに助け合わないと生きて行けないので、当然、〝相互扶助精神〟(荒野に於いては、お互いに生きて行く為に必要な助け合う心)は、欠かせないのであろう。
このノーマンの車で羊や牛の群れを見ながら、そして何処果てるとも尽きないオーストラリアの大平原を突っ走った。やがて彼の車で一気に419マイル(670km)走り、午後4頃、Charleville(チャールヴィル)の町まで遣って来た。そこでノーマンは私を降ろして、走り去って行った。今日は彼の車に再び乗れて、本当にラッキーであった。
もう少し先へ進もうと思い、町外れ(小さな町なので、何軒かの家並みが途切れた所)で、なおもヒッチをした。この辺鄙な地域と時間帯の為、車は通らないし、やっと通っても素通りであった。それも無理はなかった。次の小さな町まで250km、そしてその次の小さな町までそこから更に400kmはあろう。これからそこへ向こう車は既に無い、と考えた方が妥当であった。
小学校3~4年生位の子供達5~6人が私の周りに集まって来て、ペラペラ何か喋って、行ってしまった。田舎者が話すオーストラリア語は分りづらいが、子供が話すオーストラリア語は余計に分らなかった。
それから暫らくして、1時間前に私の前を通り過ぎて行った営業車が戻って来て、私の前に停まった。20歳後半の男性が降りて来て、「何処まで行くのですか。」と言った。
「シドニーまで行くのですが、今日は諦め、街まで戻ろうと思うのです。」と私。
「何処に泊まるのですか。」と彼。
「分りません。その辺りで廃車になっている車の中か、野原で寝ます。」と私。
そうすると彼は、「私の家に泊まりませんか。ワイフも喜びますから。」と言った。寧ろ迷惑なのに如何して奥さんは私が泊まると喜ぶのか、不思議であった。
「有り難うございます。是非、そうさせてください。」と私は上機嫌で彼の車に便乗した。車の中での野宿も寒い感じがして来た。ましてや大分南下して来たので、星空を見ながらの野原や芝生での野宿は、既に出来る気温ではなかった。
午後18時頃、彼(Mr. H.G.Scott『スコットさん』)は、街道から少し裏手の1軒家に私を案内した。彼の奥さんは若くて美人であった。彼女は歓迎して私を向かい入れてくれた。結婚したばかりの様でまだ子供は居らず、2人の生活であった。御夫婦は、私の為に玄関を入って直ぐ左の8畳程の広さの部屋を私の為の寝室に用意してくれた。有り難い事に6日振りにベッドに寝る事が出来た。それから私は6日振りに暖かいシャワーを浴びせて貰った。
その後、3人でお喋りしながら家庭的な夕食を御馳走になった。私が外国に来て以来、見ず知らずの人の家に招かれたのは、これで2度目(1度目はロンドンのミルスおじさんの所)であった。ダーウィンを出発してから大した食べ物も摂らず、そして連日の野宿であったので、スコットさん夫婦の持て成しは、涙が出るほど嬉しかった。
食後、スコットさんは私をパブへ誘ってくれた。私も喜んでお供した。彼の行きつけのパブなのか、何人かの知り合いの人も飲んでいた。スコットさんは彼等に私を紹介してくれた。ジョッキで2杯飲んだら連日の野宿、旅の疲れで眠くなってしまった。スコットさんに先に帰る旨話し、家に戻った。よく分らないが、スコットさんの帰りは遅くなった様であった。
私が帰ったら、美人の奥さんは1人で手編み物をして待っていた。彼女は手料理と言い、編物をしながら旦那さんを待つ、と言う女性らしさ、今まで会って来た欧米人とどこか違う、何か日本的な女性を感じさせる母性的な雰囲気を持った奥さんであった。一瞬、私は彼女に抱擁(変な意味ではない。子供の様に母親に抱かれてみたい、そんな感じであった。)されてみたい衝動にかられた。
パブに居た時、『疲れているので、早く寝たい。』それは確かに事実であった。しかし本当は、『早く帰って、少しでも奥さんと話がしたい。』と言うが正直な気持であった。
「帰りが早かったのね。ベッドは用意してありますから、いつでもお休み下さい。」と奥さんは言ってくれた。
「有り難う。でも奥さんと少し話がしたいのです。」と私。
「どんな話をしましょうか。」と言うので、私の旅の簡単なルート、文通をしてイギリスのペンフレンドと劇的な対面の話し、或はオーストラリアの苦しい旅、そしてこの様にスコットさん宅に招かれた嬉しい、楽しい旅について話をした。
すると奥さんは、「実は私も日本の群馬県沼田に住んでいる男性の方と文通しているのです。」と言った。私と奥さんは文通と言う共通した趣味で、話は多いに盛りあがった。
なるほど、そう言う事だったのか。あの時、スコットさんは私がヒッチ用に使用していた日の丸を見て、私が日本人である事を知った。そして、「ワイフも喜びますから。」と言って私を家に招いてくれたのだ。それが今、やっと分った。奥さんが何処となく日本の女性的雰囲気を持っていたのも、日本男性と文通している影響があったのか、そんな気がしないでもなかった。奥さんからその文通相手の手紙を見せて貰った。彼の英語の手紙は私より上手であった。
今夜は本当に楽しかった。そしてベッドの上で寝られる事がこの上なく嬉しかった。スコット家のご主人、奥さん、有り難う。今夜の事は一生忘れない旅の一ページになるでしょう。
今日のヒッチ距離は436マイル(698km)。1,213―436=シドニーまで後777マイル(1,243km)。達成率は70%