YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

オーストラリア人の〝開拓者魂〟(マイトシップ)の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-29 16:22:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・オーストラリア人の〝開拓者魂〟(マイトシップ)の話
 18世紀に始まったこの国の開拓は、決して生易しいものではなかった。過酷な気候風土の中、個人や家族など少人数では到底開拓を進める事等、出来なかったはずである。その様な状況下、見ず知らずであっても荒野で出会った時には助け合う、そうでないと人は生きて行けなかったのだ。
 「助け合う」と言っても荒野での事、再び出会うことなどまずあり得ない。お返しの助けを期待するのは、無理な事だ。しかしいつか何処かで困った時に、全く別の人に助けられる事だってあるかもしれないのだ。開拓を志す人々にとって、それこそが「助け合う」と言う事が、生きるうえで大切な事であったのだ。要するに、人は荒野に於いて、他の人に優しくなれないと、生きて行けないのだ。
 開拓者にとって荒野で出会う人は、〝Mate〟(「マイト」と言って、同士、仲間、友人の意味)であり、開拓者の〝Mateship〟(仲間意識、相互扶助精神)が、今現在に於いてもオーストラリア人の心の中に脈々と生きている。                     
 私が荒野で1人ポツンとヒッチしていた時、仲間意識で乗せてくれたのであろう。私が無事にシドニーに着けたのも、オーストラリア人気質のマイトシップ(これはオーストラリア語で、英語では「メイトシップ」と言う)のお陰なのかも知れません。

「オーストラリア大陸横断をヒッチして」の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-28 09:07:18 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・「オーストラリア大陸横断をヒッチして」の話 
 3月25日に『ヒッチでシドニーへ行こう』と決断した時、10~12日位は掛かるであろう、と予想していた。ダーウィン出発前、人の住んでない広大な原野や砂漠・土漠地帯を行くので効率良くヒッチが出来るのか、寝る場所、或は食料調達をどうするのか等々について非常に不安があった。
 『とりあえずその日、その時、その場所で判断すれば良いではないか』と言う、実にいい加減な結論に達した。しかもホテル、モーテルでの宿泊は最初から考えていなかった。結果的に気候は寒くなく、行った先々の空き地に廃車や駐車の車があったので、運良くその中で泊まれた。ダーウィン出発する前、車の中で寝られるとは想像もしていなかった。と言いますのは、あれほどヨーロッパでヒッチをしたが、1度も車の中で一晩過ごした事が無かったからだ。今回、車の中で宿泊出来た事が、結果的に大変良かった。
〝3月8日の経験〟(ダーウィン郊外でヒッチしようとしたが、ギブアップした)から灼熱の暑さ、車が走っていない、また広大な原野・砂漠をヒッチに臨むと言う事は、ヨーロッパほど簡単ではなかろう、と容易に想像が出来た。そんな状況であったから当然、苦しかった事、或は楽しかった事等があった。それをベストファイブ形式で纏めてみた。 

【嬉しかった、良かった事】
1、チャールヴィルのスコットさん宅に招かれ一宿一飯を受け、そこで気さくな奥さんと出逢った事。
2、大陸を横断して、その広大な大地をこの目で、この身体で実際に体験が出来た事。
3、広大な大地の中、群れをなしたカンガルーと競争した事。
4、次の車に乗れた事~①キャサリンを過ぎた辺りからスリー・ウェイズまで、そしてウィントンを過ぎた辺りからチャールヴィルまで乗ったノーマンの車。②スリー・ウェイズからマウント・アイザまで新婚夫婦の車。③クロンカリー~ウィントン間の砂漠地帯を乗ったスキナーさんの車。⑤ダボーからシドニー間のカック婦人の車。 
5、飢えと渇きでクロンカリーの民家を訪れ、奥さんから提供された水とサンドウィッチの有り難さ。

【辛かった、寂しかった、怖かった事】
1、キャサリンの藪の中で蚊に悩まされながらの野宿、及びスリー・ウェイズの原野での野宿。この時、若しかしたらディンゴ(野犬)に襲われた可能性もあった。
2、クロンカリーの厳しいヒッチ。暑さ、空腹、喉の渇きに苦しみ、うるさいハエに閉口し、そして6時間経っても1kmも進めなかった事。
3、以前、原住民に殺されそう(?)になったので、キャサリンの郵便局前でアボリジニ7~8人に囲まれただけで恐怖を感じた事。
4、キャサリン~バーダム間の原野に1人取り残された時、怖さと寂しさを感じた事。
5、バークのパブで老兵から聞かされた日本の思い出。この様な会話は飲んでいる席では普通であるが、聞いてしまった私は日本人、良い気分でなかった。

【残念だった事】
・ウィントンで、トラック運転席中で寝ていたら早朝、その所有者のおじさんから二度と経験出来ないカンガルー狩りに誘われたが、急ぐ旅の理由から断ってしまった事。
・チャールヴィルのスコットさん宅で宿泊した時、奥さんの手料理の朝食をゆっくり摂って、それからお礼を言ってから出立すべきであった事。

大陸横断に成功~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-27 10:27:17 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年4月3日(木)曇り(大陸横断に成功)
 今朝、狭い車の中で寝た所為か、腰が痛かった。今日中にシドニーへ着けるのか否か、それが問題であった。と言うのも車の中で寝るのは、いささか嫌になって来たからのだ。
 この辺り(バーク)まで来ると2時間に1台、或は1時間に1台の割でしか走っていない、と言う事はなかった。お蔭さまで順次6台の車に時間を費やさず乗せてもらった。中でも記憶に残ったのは、Girilambone(ジリランボーン)~Nyngan(ナインガン)間を乗った車であった。このドライバーの名は、Mr. Steve Payton(ペイトンさん)と言って朝鮮戦争に従軍し、日本にも行った事のある人だった。叉、彼は日本語をほんの少し話せた。そんな彼からお昼を御馳走になってしまった。貧乏人根性だから奢ってくれる人は大歓迎で大好きであった。だから記憶にも残った。
 そしてDubbo(ダッボ)には、午後2時頃、着いてしまった。乗せてくれたドライバーはガソリン・スタンドで私を降ろし、その彼は「ステーションにいればシドニーへ行く車が来るから。」と言って去っていった。オーストラリアでは、列車が停車する所だけが駅ではないのだ。ガソリン・スタンドの事を「ステーション」、或は「サービス・ステーション」、若しくは「ペトロ・ステーション」とも言っていた。
 ガソリン・スタンドで待っていられないので歩き出した、その時であった。私のリックに日の丸で覆っていた旗を見たのか、乗用車が私の脇に停車し、「貴方は日本人でしょう。シドニーへ行くのですか。」と言って、向こうから話し掛けてきた。
「ハイ、そうです。シドニーへ行くのですが、お願いします。」と言ってその車に乗せて貰った。車は豪華感漂う高級車で、乗り心地も今までで最高であった。そんな車を運転する奥様の名前はMrs. D.Cok(カックさん)、顔立ち、育ちの良い上品な方でした。私は、奥様の旦那さんは上流階級、若しくは政府高官の方と思った。奥様は私や自分の子供にも丁寧な、そして心を通わせる言葉で話された。その1例の言葉として、普通は自分の子供や目下・同僚には「Pardon」であるが、奥様は「I beg your pardon」と言って、丁寧な言い方をした。そんな奥様であるから、綺麗な洋服を着た同乗の3人のお嬢さん(高校生と中学生2人)も可愛いし、また育ちの良さも感じた。ご主人は別の車に男のお子様3人を乗せて、7人家族で一緒にドライブ旅行しているとの事で、何とも羨ましい話であった。奥様は私に対してとても気を使ってくれて、又リンゴや途中の店に寄ってフィッシュ・アンド・チップス等を御馳走してくれた。乗り心地の良い豪華な車での楽しいドライブは、ダッボからシドニーまで長い距離(420km程)を感じなかった。
 途中、この車がOrange(オレンジ)と言う町を過ぎて、山岳地帯(大分水嶺山脈にブルー・マウンテンズ国立公園がある)に入ったら、下り方面へ行く車で道路は渋滞になって来た。あれ程空いていた道路が如何して急に混雑して来たのか、不思議で仕方がなかった。だからその理由を奥様に聞いた。
「明日から4日間、〝イースターで休み〟(3月~4月、春分後最初の満月後の日曜日がイースター。その前の金曜日がグッド・フライデー、月曜日がイースター・マンデーで、この4日間はイースター休日)に入るので、シドニー市民は国立公園で過ごすの。」と奥様。
「こんなに車が郊外に来てしまっては、シドニーの都会から車がなくなってしまうね。」と私。
「地方の人が車でシドニーに遊びに来るので、そうでもないのです。」と奥様。
それにしても、何とした事であろうか。休日の為4日間休みと言う事で、私は何にも用が足せないのであった。何の為に急ぎ旅をして来たのか。2度と経験出来ないので、誘われた時にカンガルー狩りに行けば良かった。或はスコットさん宅で、もう少しゆとりを持って出立すべきであった等々、後悔した。 
 いずれにしましても、「奥さん」と気軽に言えない程、品位・品格ある御婦人にシドニーの郊外まで乗せて頂いた。郊外から電車に乗ってシドニーの中心に遣って来た。乗った電車は奇麗ではなく、車内も薄暗かった。信じられないが、電車のドアを開けっ放しで走っていた。車外へ転げ落ちる危険があるのに、構わないのか。日本では見受けられないが、女性の駅員もいた。ともかく私は無事にシドニーに着いた。シドニーで一番古い、そして賑やかな通りGeorge Street(ジョージ・ストリート)の東隣のPitt-St(ピット・ストリート)にある、YMCA(宿泊料金一泊2ドル25セント)に夕方、辿り着いた。
 今日のヒッチ距離は482マイル(771km)で、今まで一番長いヒッチ距離となった。ダーウィン~シドニー間2,554マイル(4,086km)を8日間で横断したのでした。10日以上はかかると思ったが、予定より2日以上早かった。それにしてもヒッチで野宿しながら、何にもない広大な砂漠・土漠地帯の大陸を横断し、無事にシドニーに到着した事が何より良かった。この様に私のヒッチ・ハイクを助けてくれたのは、オーストラリア人気質のお陰かもしれません。私を乗せてくれたドライバーの皆さん、本当に有難うございました。

老兵が日本女性の思い出を語る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-26 15:13:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年4月2日(水)晴れ(老兵が日本女性の思い出を語る)
 毎日良く晴れて、本当に助かる。ここまで来ると日差しは、秋であった。そして朝晩は涼しくなって、それなりに着ていても野宿は寒さを感じた。
昨夜は久し振りにベッドで横になれたのに、返って良く寝られなかった。むしろ狭い車の中の方が寝られる様になっているとは、不思議なものだ。
 ヒッチは早発ちの方が良いであろうと、6時に起きた。奥さんもご主人もまだ寝ていたので、起こさなかった。申し訳ないが、勝手に朝食兼昼食用のパンをいただき、感謝の置手紙を書き、スコット家を後にした。後から考えたらもう少しゆっくり起きて、奥さんの作った朝食を済ませ、感謝の言葉を述べ、そしてゆっくり出立すれば良かったと後悔した。如何してこうも先を急ぎすぎているのであろうか。カンガルー狩りの誘いがあった時も感じた事だが、今回のオーストラリア横断の旅は、ゆったりとしたヒッチの旅でなかった。今回、単なる移動になってしまったのだ。訳は分っていた。私の滞在期間は短いので、『早くシドニーへ行って、早く仕事を見つけ、滞在期間を延長してもらう』、その一念の思いが心のゆとりをなくしていた。2時間、3時間、或は2日、3日遅れて着いたとしても、余り変わらないと思うのだが、大陸横断中の私の心情はそうでなかった。
 チャールヴィルの町外れでヒッチを開始した。1台目はトヨタの小型トラックが停まってくれた。ドライバーは、「Cunnamulla(カナマラ)まで行くが途中、仕事で何回か立ち寄るが、それで良いなら乗せるぞ。」と条件付で言った。「それでも結構です。」と私は言って乗った。それから間もなくして車が止まり、「そこまで仕事でチョッと行って来るから、ここで下りてヒッチしていて良いぞ。もしヒッチ出来なければ、又ピックアップしてやるから。」と彼は言って、車から離れて行った。でもこの時は、直ぐに戻って来た。そんな事をちょくちょく(3回)繰り返し、4回目は30分過ぎても戻って来なかった。こんな事を繰り返されては先へ進まない、と思った。間もなく大型トラックがやって来た。2台目はそのトラックに乗せて貰い、私はカナマラまで遣って来た。
そして3台目の車は、カナマラからBourke(バーク)まで、羊を載せた大型車で遣って来た。チャールヴィル~バーク間は結構凸凹の道で、クロンカリー~ウィットン間の砂漠の道以外、一番悪い道であった。
 バークの町をぶらついていたら、何人かの人から「この町に日本人が住んでいる。」と聞かされた。彼の事を「グッドガイ。」、或は、「八百屋をしている。」と言うので、居場所を聞き彼の所へ行って見る事にした。こんな田舎町に住んでいる日本人はどんな方であろうか、どんな暮らしをしているのであろうか、八百屋と言うが商売は如何なのであろうか、と私は色々考えた。
尋ねてビックリした。通りの裏手の方に空き地があり、彼は掘っ立て小屋を建て、そこに住んでいた。どう見ても八百屋を営んでいる店構えではなかった。
「こんにちは。私は日本人のYoshiと申します。今日この町に来て、日本人である貴方の事を聞き、尋ねて来ました。」と彼の家の前で、自己紹介と尋ねた理由を述べた。しかし30~35歳位の彼は、下を向き「・・・」と無口で、一言も言葉を発しなかった。小屋の中は家具らしき物、生活感が無く、そして八百屋をしている、と言うそれらしさが全く無かった。それとも彼は、他の場所で八百屋をしているのか、私は分らなかった。彼の着ている物は、擦り切れていて、乞食の様な感じであった。そんな事で、彼は日本人の私と会う事も、話をするのも嫌な様であった。私は彼の境遇を悟り、これ以上ここに居ては彼に悪いと思い、早々そこから立ち退いた。ともあれ、彼は確かに日本人であると感じた。何か罪を犯し、逃亡生活の果てにあの様になってしまったのであろう、とそんな感じがした。常識的に考えて普通の人で働くなら、条件としてシドニーの様な大都会の方が有利だと思った。
 さて、今夜は何処で一晩過ごそうか、とそろそろ思案する時刻であった。そして〝適当な宿泊場所〟(何処の町でも、ちょっとした所に廃車になった車が放置してあり、その車の中が私の宿泊部屋)の目星を付けてから、パブへ行った。金が無い割に大陸横断ヒッチ中、ビールだけは何故か毎日飲んでいた。ここのビールは、安く飲めるので有り難かった。インドは他の物価と比較してビールはべら棒に高かった。安くても小瓶3ルピー(145円)、中国レストランでは小瓶5ルピー(240円)であった。こちらのパブは小ジョッキ12セント(48円)、大ジョッキ32セント(128円)であった。こちらはビールに酒税が含まれてないようだ。
 パブには何人かの男達が飲んでいた。パブの主人(バーテン)は、私が日本人だと知ると、「朝鮮戦争の時に日本に立ち寄った事があるよ。」と話し掛けて来た。それを聞いた私の右隣のカウンターで飲んでいたオッサンが、「第2次大戦直後、広島や東京を訪れた事があったが、日本は汚くて何でも酷かったよ、ノー・グッド・カントリーね。But、一晩1ドルで〝女〟(当時は「パンスケ」又は「パンパンガール」と呼ばれていた女性が大勢いた。)が買えたよ。チープでグッド・ファックだったよ。」と言い出した。奥の席で飲んでいた30歳位の男がそれを聞いて、「Then, I want to fuck with Japanese girls. How much is it now? 」と私に聞いてきた。
昔(彼等の年代とってはまだ昔ではないのだ。)の日本や日本女性対する屈辱的な事を聞かされた私は、「Shut up!! We can’t fuck any more with money according to the law in Japan. And now, 日本は立派に立ち直り、経済・技術面で今、欧米と肩を並べる様になったのだ。しかも日本はオーストラリアから羊毛を始め、鉄鉱石等を輸入し、この国の経済の発展に寄与しているのだ。現在の日本の事をもっと知ってくれ。」とその2人の男に怒った様な口調で訴えた。
私の左横辺りに座っていた少しほろ酔い気分のオッサンが、「まあー若いの、そんなにいきりなさんな。一杯御馳走するから勘弁してやれ。」とこんな調子で宥められてしまった。オッサンからビールを御馳走になり、暫らくしてからパブを出た。しかし如何もスッキリしないパブであった。人口の割に多数のオーストラリア人は第2次世界大戦、或は朝鮮戦争に連合軍の兵士として従軍していたのだ。
 今夜も車の中が私の宿泊所(これで5回)になった。
今日のヒッチ距離は295マイル(471km)。残り777-295=482マイル(771km)

チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-25 10:00:04 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年4月1日(火)晴(チャールヴィルの心温まる一般家庭に宿泊)
 ウィントンのその辺の空き地に駐車されていたトラックの運転席で寝ていたら5時30頃、この車の持主に起こされてしまった。
「黙って車の中に寝て、申し訳ありませんでした。」私は素直に謝った。
「いいのだよ。これからカンガルー狩りにこの車で行くのだが、一緒に行くか。」とおじさんに誘われた。
「急ぎ旅なので、行きたいが駄目なのです。」と断ってしまった。
今回のヒッチの旅は、以前と違って如何も心にゆとりがない、ただシドニーを目指して急いでいる、そんな感じの旅であった。その訳は査証期間が短いので期間延長しなければ、所持金不足の為、早くシドニーへ行って早く仕事を探さねば、と焦っていたからであった。
しかし、シドニーに着いてから『カンガルー狩りなんて2度と経験が出来ないので、カンガルー狩りに付いて行けば良かった』と後悔した。
 今日は6時からヒッチを始めた。1台目は17マイル程乗せて貰った。降ろされた所は、見渡す限りの土漠地帯であった。荒野の中を延々と続く〝フェンス〟(ディンゴと野ウサギから羊を守る為に造られた防護用フェンス)と道が一直線に伸びているだけであった。そんな所で1時間以上、車が来るのを待った。そしてそれから30分以上経ち、遥か彼方からこちらに向かって車が来た。『停まってくれ』と祈る気持で日の丸の旗を振った。ビクビクビクと大きな手応えを感じ、竿を手元に引き寄せた。若者が運転する車は、私の前にちょうど停まってくれた。
「シドニーへ行くのですが途中まで、お願いします。」と私。
「どうぞ乗って下さい。」
「有り難うございます。」と言ってリュックを後部座席に置いた。そして私はいつもの様にドライバーの左横(国や車種によって右横)に座った。ドライバーが1人の場合、いつも横に座る様にしていた。お互いにその方が良いのだ。
車が動き出して間もなくドライバーが、「私を覚えていますか。」と聞いて来た。私は彼の顔を見て、オーストラリアに来てから何処かで会っているのか、暫らく、「・・・」と思い出していた。
すると、「3月28日、スリー・ウェイズまで貴方を乗せたノーマンですよ。」と彼。
「ノーマン?・・・、あの顎髭をぼうぼう伸ばしていたノーマン?・・・。私は思い出し、わぁぁー、髭を剃り、若くなった感じで全く気が付きませんでした。」と驚いた私。
「あの夜、髭を剃ってさっぱりしたのです。」と彼。
髭を長く伸ばしていた人が、髭を剃ると全く顔形、雰囲気が違ってしまい、分らないのも当然であった。でもノーマンに再び出逢えて、本当に嬉しかった。それから暫らくして、何気なく予備タイヤを持っているか尋ねたら、間もなくしてパンクしてしまった。不思議な事があるものだ。
 車は走れる様になったが、タイヤ交換中、通る車のドライバー皆が我々の前に車を停車させ、心配して声を掛けていた。車の修理工場なんて、何百キロ走ってもない様な所だ。広い荒野で困っている時は、お互いに助け合わないと生きて行けないので、当然、〝相互扶助精神〟(荒野に於いては、お互いに生きて行く為に必要な助け合う心)は、欠かせないのであろう。
このノーマンの車で羊や牛の群れを見ながら、そして何処果てるとも尽きないオーストラリアの大平原を突っ走った。やがて彼の車で一気に419マイル(670km)走り、午後4頃、Charleville(チャールヴィル)の町まで遣って来た。そこでノーマンは私を降ろして、走り去って行った。今日は彼の車に再び乗れて、本当にラッキーであった。
 もう少し先へ進もうと思い、町外れ(小さな町なので、何軒かの家並みが途切れた所)で、なおもヒッチをした。この辺鄙な地域と時間帯の為、車は通らないし、やっと通っても素通りであった。それも無理はなかった。次の小さな町まで250km、そしてその次の小さな町までそこから更に400kmはあろう。これからそこへ向こう車は既に無い、と考えた方が妥当であった。
小学校3~4年生位の子供達5~6人が私の周りに集まって来て、ペラペラ何か喋って、行ってしまった。田舎者が話すオーストラリア語は分りづらいが、子供が話すオーストラリア語は余計に分らなかった。
 それから暫らくして、1時間前に私の前を通り過ぎて行った営業車が戻って来て、私の前に停まった。20歳後半の男性が降りて来て、「何処まで行くのですか。」と言った。
「シドニーまで行くのですが、今日は諦め、街まで戻ろうと思うのです。」と私。
「何処に泊まるのですか。」と彼。
「分りません。その辺りで廃車になっている車の中か、野原で寝ます。」と私。
そうすると彼は、「私の家に泊まりませんか。ワイフも喜びますから。」と言った。寧ろ迷惑なのに如何して奥さんは私が泊まると喜ぶのか、不思議であった。
「有り難うございます。是非、そうさせてください。」と私は上機嫌で彼の車に便乗した。車の中での野宿も寒い感じがして来た。ましてや大分南下して来たので、星空を見ながらの野原や芝生での野宿は、既に出来る気温ではなかった。
 午後18時頃、彼(Mr. H.G.Scott『スコットさん』)は、街道から少し裏手の1軒家に私を案内した。彼の奥さんは若くて美人であった。彼女は歓迎して私を向かい入れてくれた。結婚したばかりの様でまだ子供は居らず、2人の生活であった。御夫婦は、私の為に玄関を入って直ぐ左の8畳程の広さの部屋を私の為の寝室に用意してくれた。有り難い事に6日振りにベッドに寝る事が出来た。それから私は6日振りに暖かいシャワーを浴びせて貰った。
その後、3人でお喋りしながら家庭的な夕食を御馳走になった。私が外国に来て以来、見ず知らずの人の家に招かれたのは、これで2度目(1度目はロンドンのミルスおじさんの所)であった。ダーウィンを出発してから大した食べ物も摂らず、そして連日の野宿であったので、スコットさん夫婦の持て成しは、涙が出るほど嬉しかった。
 食後、スコットさんは私をパブへ誘ってくれた。私も喜んでお供した。彼の行きつけのパブなのか、何人かの知り合いの人も飲んでいた。スコットさんは彼等に私を紹介してくれた。ジョッキで2杯飲んだら連日の野宿、旅の疲れで眠くなってしまった。スコットさんに先に帰る旨話し、家に戻った。よく分らないが、スコットさんの帰りは遅くなった様であった。
 私が帰ったら、美人の奥さんは1人で手編み物をして待っていた。彼女は手料理と言い、編物をしながら旦那さんを待つ、と言う女性らしさ、今まで会って来た欧米人とどこか違う、何か日本的な女性を感じさせる母性的な雰囲気を持った奥さんであった。一瞬、私は彼女に抱擁(変な意味ではない。子供の様に母親に抱かれてみたい、そんな感じであった。)されてみたい衝動にかられた。
パブに居た時、『疲れているので、早く寝たい。』それは確かに事実であった。しかし本当は、『早く帰って、少しでも奥さんと話がしたい。』と言うが正直な気持であった。
「帰りが早かったのね。ベッドは用意してありますから、いつでもお休み下さい。」と奥さんは言ってくれた。
「有り難う。でも奥さんと少し話がしたいのです。」と私。
「どんな話をしましょうか。」と言うので、私の旅の簡単なルート、文通をしてイギリスのペンフレンドと劇的な対面の話し、或はオーストラリアの苦しい旅、そしてこの様にスコットさん宅に招かれた嬉しい、楽しい旅について話をした。
すると奥さんは、「実は私も日本の群馬県沼田に住んでいる男性の方と文通しているのです。」と言った。私と奥さんは文通と言う共通した趣味で、話は多いに盛りあがった。
なるほど、そう言う事だったのか。あの時、スコットさんは私がヒッチ用に使用していた日の丸を見て、私が日本人である事を知った。そして、「ワイフも喜びますから。」と言って私を家に招いてくれたのだ。それが今、やっと分った。奥さんが何処となく日本の女性的雰囲気を持っていたのも、日本男性と文通している影響があったのか、そんな気がしないでもなかった。奥さんからその文通相手の手紙を見せて貰った。彼の英語の手紙は私より上手であった。
 今夜は本当に楽しかった。そしてベッドの上で寝られる事がこの上なく嬉しかった。スコット家のご主人、奥さん、有り難う。今夜の事は一生忘れない旅の一ページになるでしょう。
 今日のヒッチ距離は436マイル(698km)。1,213―436=シドニーまで後777マイル(1,243km)。達成率は70%


砂漠を荷台に揺られて行く~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-24 14:23:33 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年3月31日(月)曇り(砂漠を荷台に揺られて行く)
 早朝、私は変な夢を見た。自分で自分の首を絞め、苦しくなって目が覚めた。気が付いたら額から冷汗が流れ落ちていた。それにしても変な夢であった。これもダーウィン滞在中、同部屋のアボリジニに首を絞められそうになった事があったから、と思った。
 6時30分に起きて、クロンカリーの町はずれから今日もヒッチを開始した。3時間待っても駄目で、今日も車は全く通らなかった。10時頃、1台目がやっと止まってくれたが、500m先の交差点までであった。それから間もなくして日の丸を振って遣って来たトラックを停めた。10マイル程走った砂漠で降ろされた。トラックは左折し、道無き道をモウモウと砂煙を巻き上げ地平線のかなたへ消えて行った。
 降ろされた場所は見渡す限りの砂漠であった。そして私の進む道も舗装されたアスハルト道でなく、砂漠の道であった。ただ轍を頼りに進む、まるでパキスタンのシルク・ロードの砂漠の道と同じであった。オーストラリアの主要道路で、全く人の手が加えられていない未舗装の道があったとは、到底信じられなかった。こんな地域の道路では当然、車が通らないのも頷けた。ここで今日も又、クロンカリーに戻らなければならないかと思うと、泣きたいぐらいであった。
 でも、幸運はこんな時にやって来るもの。1台の軽自動車の様な車が向こうから来た。『停まってくれ』と願いを込めて日の丸を振った。願いが届いたのか、その車は停まってくれた。助かった。『地獄に仏』とはこんな時の事なのであろうか、とそんな気持であった。この3台目の車に乗っていた人はダーウィンに住んでいるMr. and Mrs. Skinner(スキナーさんご夫妻)であった。
 所で、地図上では砂漠の印が無いのに、クロンカリーからWinton(ウィトン)まで(約350km)砂漠地帯であった。私が乗った車は見渡す限りの砂漠の中を、ただ轍を頼りに砂煙を巻き上げ走行した。私は後ろの荷台(クッションのある座席は、ドライバーの他、1人分しかなかった)に乗っていたので、乗り心地は悪く、おまけに砂漠のガタガタな道なので、尻が痛くてしかたがなかった。 
 途中、砂漠の中に1軒、パブ、レストランそしてホテルを兼ねた店があり、そこでスキナーさんに昼食を御馳走になった。そして又、ガタゴトと揺られ、車は砂塵を巻き上げ行った。『オーストラリアの主要道路で全く未舗装の区間が、そして轍を頼りに砂塵を巻き上げ行かなければならない道路が在るとは到底信じられない。』と又、思った。
 ウィトンにやっと辿り着き、無事に砂漠地帯を突破する事が出来た。一杯やりたい心境であったので、パブでビールをひっかけた。パブのマスターはこんな所で日本人がビールを飲んでいるのが珍しい、と言った様な顔をしていた。
 暗くなってから、その辺の空き地に駐車してあったトラックの運転席で眠りに付いた。
 今日のヒッチ距離222マイル(355km)で、1,435-222=後1,213マイル(1,940km)、達成率52%になり、やっと全行程の半分になった。

先へ進めない厳しいヒッチの旅、そして死のオーストラリア横断の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-23 08:37:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
          △オーストラリアの砂漠ーCFN

・昭和44年3月30日(日)晴れ(先へ進めない厳しいヒッチの旅)
 6時半に起き、マウント・アイザ郊外からヒッチを始めた。1台目の車は20マイルばかり走ったら、「車の調子がおかしい」と言って停まってしまった。オーストラリア横断ヒッチ中、これで2回目であった。車検や整備体制が確立してないのか、オーストラリアの車はよく故障する様であった。そしてそのドライバーは、「修理の為、引き返す。」と言って私を荒野に置き去りにして、来た道を引き返しマウント・アイザへ行ってしまった。
 昨日もそうであったが、今日も歩いていたり、道路端で立っていたりすると、私の回りに蝿が集まって来て鬱陶(うっとう)しかった。それ程に私の身体は異臭を発散し、不潔になってしまったのか。3日間、野宿しながらの旅で、確かに清潔な体ではなかった。それでもこの絶え間なくまとい付いてくる『うるさい蝿』は、異状であった。手で追い払っても、追い払ってもまとい付く無数の蝿に、閉口した。
 マウント・アイザ方面から車がやって来た。必死で国旗を振って、止まってくれることを願い合図した。この2台目の車で9時頃、Cloncurry(クロンカリー)に着いた。そして再び、何処からともなく集まった纏(まと)わり付く蝿をお供にして郊外へ出た。
 しかし、ヒッチはここから全く駄目であった。日曜日だか何だか分らないが、2時間以上待つが、車は一台も来なかった。蝿の攻撃に遭うし、暑いし、そして喉の渇きと空腹でギブアップ状態であった。何か食べ物を求め、蝿をお供にクロンカリーの町まで戻った。ストアでパンでも買おうと思ったが、日曜日で閉まっていた。クロンカリーの町に人っ子1人見当たらなかった。ゴースト・タウンの様に静まりかえった、本当に小さな町であった。
 仕方がないので表通りから少し奥まった、ある民家へ水を貰いに行った。
「すいません、誰か居りますか。」と2度ばかり大声で声を掛けた。すると親切そうな奥さんが出て来た。
「すいませんが、水を分けていただけますか。」とお願いした。
「いいですよ。」と快く奥さんは言ってくれた。ペットボトルを渡しついでに、「実は、奥さん。今日、私は何にも食べていないので、お腹がペコペコなのです。何か買いたくてもストアは閉まっているし・・。お金はあります。パンを売って下さい。」と奥さんの人の良さを感じて、パンもお願いした。
「そうですか。それはかわいそうに。少し待って下さいね。」と奥さんは言って家の奥に引き返して行った。暫らくして奥さんが戻り、お水は勿論、サンドイッチを作ってくれて、林檎1個も付けてくれた。
「奥さん、わざわざサンドイッチを作ってくれて有り難うございます。私はお金を持っています。幾らだか言って下さい。」と私。
「いいのよ、気を使わなくても。」と奥さん。私はお礼にインドのタジ・マハールの絵葉書(日本の絵葉書ではないので残念)を奥さんに渡した。
「御親切、本当に有り難うございます。」お礼を述べて、その家を後にした。
奥さんの心温まるサンドイッチ(野菜とツナ・サンド)は美味しかった。
 食事後、又ヒッチを始めた。2時間に1台通るか如何かと言う状態で、やっと来ても素通りし、厳しいヒッチであった。ここは本当に車が走ってなかった。そして蝿を幾ら追い払っても、私の顔・頭の周りに絶えず纏い付く無数の蝿(ハエ)で、これにも参るのでした。
 今日遅くになって3台目がやっと止まってくれたが、何て事はなかった。これは方向が違うので、200~300m直ぐ先の交差点までであった。その車は左折して行ってしまった。私は右の道、ウィトン、シドニー方面なのだ。
 時間は既に午後の3時半を過ぎていた。淋しくなって来た。この町に午前9時頃着いて、6時間以上経っても一向に進む事が出来なかった。この間、車が3~4台、通っただけであった。私が今までヒッチをして、これほど車が走っていないのは、過って無かった事であった。次の町まで320マイル(500キロ以上)であろうか。余り無理する事が出来ない長い距離であった。
 車次第で、「先へ行くか、町へ戻るか」決める事にした。結局、町への方向の車が来たので、郊外からクロンカリーの町へ戻って来た。日曜日で人影もない、その静まり返ったゴースト・タウンで今夜もその辺に放置してある自動車の中で夜を明かした。
 今日のヒッチ距離は80マイル(128km)。1,515-80=後1,435マイル(2,583km)。ダーウィン~シドニー間は2,554マイル(4,086km)なので今日まで大陸横断達成率は44%。1日たった80マイルだけでは、この先が心配だ。

・死のオーストラリア横断の話
 1868年8月、メルボルンから北へ人跡未踏の大陸横断に出発した、州政府支援の探検隊14名の内、バーク先遣隊4人もクロンカリー付近一帯の砂漠で、この五月蝿い蝿(うるさいハエ)の来襲に毎日、閉口していた。彼等先遣隊は、クロンカリーを経て北端のカーペンタリア湾に到達した。帰路、自分達の荷物等を運ぶ馬やラクダを殺し、食料にまでしてやっと辿り着いた“クーパーズ・クリークの中継基地”(クィーンズランド、ニュー・サウス・ウェールズと南オーストラリアの各州の中間地点付近)の隊員達は、先遣隊の4人を待たずして既に撤収した後で、基地は間抜けのからであった。先遣隊4人は疲労困憊、飢え、病気等で4人の内3人がその後、間もなく砂漠の中に消えて行った。最後の1人は、奇跡的に通りかかったアボリジニ(原住民)に助けられ、その後、何箇月か後に州政府救援隊に救助されたのであった。
 “恐るべき空白”(死のオーストラリア縦断)の書の中の一説から~『だがそれはいぜん砂漠、少なくとも半砂漠なのであり、これがオーストラリア大陸中央部の本当の状態である。そこには風に吹かれる砂丘が長々と伸び、漠々たる砂原が何処までも続く。頭上には、果てしない大空が広がっていて、とても海に似ている。そこには海の平和と、海の無情とが並存する』とオーストラリアの中央部の状態を書き表していた。
 20世紀の初めに地質学者のJ・W・グレゴリーはクーパーズ・クリークまで行き、その著『オーストラリアの真っただ中』で、次の恐ろしい文章を書いた。「ときとして隊商が砂丘の彼方に隠れてしまう時、砂漠のまっただ中に水も無く、食料も無く、そして救援の手の差し伸べられる当ても無く取り残されてしまったという恐怖が、人の心を襲わずにはいられない。こうして倒れた不幸な旅人の、ディンゴ(野生化した犬)に食い荒らされたあげく、砂に磨かれた骸骨が、中部オーストラリアの荒野に散らばっているのを、人は思い出すのである。迷子になった探検家の死に物狂いの闘い、精も根も尽き果てた彼の最後の一マイルの行進の模様が、目の前に浮かんでくる」と。
 これが多分、バーク隊4人の悲劇の真髄なのだろう。それがオーストラリアの強烈な一種の伝説として、いつまでも語り継がれる理由も又ここにある。この物語は初期に入植者達が心の奥深くで感じていた直感、つまり生きてゆく事は人間対人間の闘争であるよりも、その前では全ての人間が平等である自然と人間の間の闘争であるという直感を遺憾なく表現したものである。そしてこの自然との闘いで、人間が情け容赦もない無慈悲な奥地に迷い込み、我が身をすっかり敵の大自然に曝け出しているときに、仲間の人間から『見捨てられる』というのは、まさに最も卑劣な裏切り行為であった・・・と。これはオーストラリア中部から北部を舞台に、世界で最も過酷な土地に挑み、砂漠の果てに消えた男たちの悲劇の『ノンフィクション』である。
 1788年以来からオーストラリアの開拓が進められてきたが、80年経っても大分水嶺山脈の東側のブリスベン、シドニー、メルボルン、そしてアデレードを結ぶ太平洋とインド洋の海岸沿いだけであったのだ。その山脈の北西側の大部分は、人跡未踏の未開地であったのだ。
そしてそれから更に100年経った今日(1969年)でも、国土の大部分は砂漠・土漠、ただ単に町は点と点を結ぶ道路だけが繋がり、その間はぱっくりと広大な砂漠、土漠の原野が広がっていた。

荒野の道を突っ走る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-22 14:42:52 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年3月29日(土)晴れ(荒野の道を突っ走る)
 この辺り(テナント・クリーク)まで来ると、朝晩は涼しかった。星空の下で寝る(野宿する)には、既に適さない気候になって来た。ここはスリー・ウェイズと言って、レストランとホテル兼用の店とガソリン・スタンド、その住民の住宅2~3軒があるだけの所であった。
 朝食は『The Way Thou House』と言うレストランの外で知り会った奥さん(昨夜、このホテルに夫婦で宿泊していた)に、コーヒーとパンを御馳走になった。今、私にとって1セントでも大事なので、御馳走になれるのは本当に有り難かった。ついでにお昼用にサンドウィッチを注文したが、これは自分で払った。
 奥さんにお礼を言ってレストランを出た。すぐ近くの交差点のクロンカリー方面の道でヒッチを始めた。直ぐに先程奢ってくれた奥さんの車が停まってくれた。ラッキーと言う感じであった。この御夫婦は新婚旅行をしているとの事であった。私の様な無粋な者が新婚旅行の邪魔をして申し訳ないと言う気持であった。
 スリー・ウェイズの交差路から景色は違って来て、Mount Isa(マウント・アイザ)までは、大草原と土漠の連続であった。とてつもなく広大な景色であった。車は左側通行で、ただ突っ走るだけであった。昨日から気が付いているのであるが、この辺りを走っている殆どの車の前面に網が取り付けてあるのを見掛けていた。 
「旦那さん、向こうから来る車の前面に網が取り付けてあるが、あれは何なのですか。」と私は聞いてみた。
「あれはカンガルーと衝突した時に車を傷めない為、そしてカンガルーにもダメージを与えない為の物なのです。要するに、〝カンガルー除け〟(カンガルーは夜行性で、光に向かって突進して来る習性があるらしい)の為に、車の前面に網を取り付けているのです。」と旦那さん。成る程、カンガルーと車の関係か。車に網が取り付けてあるのも『カンガルーの国』の特徴の一つなのかと感心した。
新婚夫婦の車でクィーンズランド州のMount Isa(マウント・アイザ)まで、約414マイル(約662km)の距離を乗せて貰った。
 私はもう1つ先の町クロンカリーまで行こうと思い、町の中で1時間以上ヒッチしたが、全く車が走ってないので駄目であった。間もなくしてから、若者(ニュージランド人)が近寄って来た。2言、3言の後、「私の家に遊びに来ないか。」と誘ってくれたので、彼に付いて行った。
「この町は働き口がかなりある。鉱山の仕事でグッド・ジョブだが、経験がないと駄目だ。」と彼。滞在許可期間1箇月の私にとって、ここは余りにも不便で、生活する様な所でなかった。彼は先程ヒッチしていた場所から近いガソリン・スタンドで働いている、と言っていた。
「今夜、君の所に泊めてくれ。」と頼んだ。
「今日は都合があって駄目だが、明日ならOKだ。」と彼。
明日の朝はこの町を去るので、残念であった。少しの間、彼の家に居たが、お暇する事にした。別れ際に彼は私の為にパンや飲み物を持たせてくれた。親切な彼の所で一泊したかったが、残念であった。
 さて、今夜は何処に泊まろうか。町の中をキョロキョロしながら、適当な場所を探した。すると彼が先程言っていた勤め先のガソリン・スタンドにやって来た。それではここの軒下を借りて寝よう、と暗くなるのを待ってから寝て見た。しかしガソリン・スタンドのコンクリートの上に直に寝るのは、どうも寝心地が良くなかった。他に適当な場所はないか、暗がりの中を探した。ガソリン・スタンドから少し離れた所に空き地があった。そこに何台か廃棄された様な乗用車があったので、その内の鍵が掛かっていない車の中で寝る事にした。
私の今回のオーストラリアの旅が始まって以来、星空を見ながら寝るのは今日これで5回目となった。長い人生に於いて又、若い時にこの様な体験は、良き思い出になるであろう。ホテルに泊まれない惨めさは、確かにあった。その反面、気ままな、そして少し楽しい様な気分でもあった。
 このマウント・アイザは銅の産出量で世界一、鉱山の町で有名らしい。そして世界最大の行政市で相当広いそうだ。 
 今日のヒッチ距離は414マイル(662km)だ。1,930-414=後1,515マイル(2,426km)で、大陸横断達成率40%。 がんばれ!

消える川と地下の大水源の話、そしてオーストラリアの広さの話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-21 08:42:45 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・消える川と地下の大水源の話
 オーストラリアの東海岸沿いに〝一本の山脈〟(大分水嶺山脈)がある。その山脈の東側に降った雨は、川となり海に流れ込む。日本人の概念として『川は海に流れ込む』と当然、思っている。しかし、その西側に降った雨は川となるが、如何せん高低差がなく、しかも海まで遠い。その為、広大な地域を流れる内に、その川は自然に無くなってしまう。要するに多くの水が伏流水となって地下に潜ってしまうのだ。オーストラリアにはそんな川がたくさんあり、その川を「リバー」と言わないで、「クリーク(Creek)」と言っている。
 所で、その伏流水はクィーンズランド州南西部からノーザン・テリトリー、ニュー・サウス・ウェールズ州の北西部、更に南オーストラリア州にまで広がる巨大な盆地の地下深くに蓄えられる。この世界一の規模を誇る盆地をThe Great Artesian Basin(大鑽井盆地だいさんせいぼんち)と呼ばれている。
大鑽井盆地は、この様な理由から地下に豊かな水源を抱える為、この国の大農業地帯、牧蓄地帯として知られている。しかしこの盆地の気候的は半乾燥地帯(半土漠地帯)で、雨は少ないのだ。取れる農産物も小麦、その他の麦類、トウモロコシ、綿花程度であり、牛肉と羊毛の生産を重複させている。
 オーストラリアは東海岸以外、殆んど砂漠か土漠地帯となっている。入植以来、人々は水に難儀しながら、牧場や農場の開拓に努力して来た。特に水は、人のみならず、牛や羊にも直接生死にかかわる事、その苦労は並大抵なものではなかったと想像がつく。
 オーストラリア人は水に対するシビアな感覚を持ち、地名の他にも普段から水の大切さ、節約、そしてその使い方に気を使っている様であった。ダーウィンに住んでいた部屋の大家(マダム)は、「水は大切にしろ、無駄使いはするな」と五月蝿(うるさ)かった。それ以外は五月蝿くなかった。

・オーストラリアの広さの話
 何しろ1大陸が1国家で占められているわけだから広い。オーストラリア大陸の総面積は7,686,848平方キロで、ソ連、カナダ、中共(1969年現在、この国は中国と認められていなかった)、アメリカ、ブラジルに次ぎ世界第6位なのだ。因みに、日本の22倍ある。
 大陸本土の東西直線距離で4,000km、南北直線距離は3,100kmと言う北海道の一番北の稚内から日本最南端の西表島より長い距離なのだ。当時、沖縄を含め与那国島は日本に帰属していなかった。1平方kmの人口密度を比較すると、日本は253人、イギリスは211人、アメリカは21人、しかし、オーストラリアはたったの1.3人(2人も住んでいない)である。     
シドニーやメルボルンを訪れただけで、オーストラリア旅行をした、とは言えない。オーストラリア大陸を東西、或は南北を横断しなければ、この国の自然環境、その厳しさ、国土の広大さ等を肌で感じる事は出来ないのだ。そう言う意味で、私は、『本当のオーストラリア旅行をした。従ってこの国に来た甲斐があった』、と言う事だ。

カンガルーと競争だ~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-19 15:17:37 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
△カンガルーと競争だ!(実際は荷台の上でなく、乗用車)ーPainted by Miho Yoshida

・昭和44年3月28日(金)晴れ(カンガルーと競争だ)
 6時半に起きて、パンをかじっただけの朝食を済ませた。7時に昨日、車から降りた場所でヒッチを開始した。1時間過ぎた頃、トラックが止まり、7マイル程乗せて貰った。そこで30分過ぎたら、2台目の若者が運転する車に乗って、32マイル進んだ所でパンクしてしまった。そのドライバーは、「修理の為、時間がどのくらいかかるか分らないので、他の車に乗せて貰いな。」と言ってくれた。私は乗せて貰って何の手助けをしないで行ってしまう事に、心苦しかった。しかし例え居ても、彼の為に何ら手伝いも出来ず、反って足手まといと思い、彼の言葉に従った。
 そこから3台目に乗って、20マイル程走った所で降ろされた。その車は道でないような道を左折し、私を大自然界の中に置き去りにして、行ってしまった。昨日から今日、熱帯気候の地域からサバンナ気候の地域へ入って来たのであった。周りの景色も、密林の様に生い茂っていた木々も少なくなり、大地は渇いた感じであった。亜熱帯地帯と砂漠地帯の中間、これを『サバンナ』と言うのであろうか。
 道は一直線、ただ真っ直ぐ空の彼方に伸びているだけであった。ここは、キャサリンとBirdum(バーダム)の中間地点であった。小鳥の鳴き声も、風の囁く声も聞こえない、ただシーンと静寂な自然界がそこに広がっていた。人間は不思議な、そして臆病な動物なのか。暗闇と同様に、真昼であっても静寂と不気味を伴う自然界でじっとしていると、怖さ、戦き(おののき)を感じた。
 20分経っても、30分、そして40分経っても車は全く通らなかった。『若しかしたら、今日はもう駄目なのか。そしてこの大自然の真っただ中で野宿しなければならないのか』、昼前なのに、もうそんな事を考えざるを得ない状況であった。それから暫らくしたら、遥か遠くに車が見えた。私は道の真ん中に出て止まってくれるよう、必死に日の丸の旗を車に向かって振った。車はスーット停まってくれた。
「止まってくれて有り難う。シドニーへ行くのですが、途中まで乗せて下さい。」と私。
「どうぞ、乗って下さい。」と言ってくれて、車は動き出した。ドライバーは髭をかなり伸ばした、私と同じ位の年齢であった。
 運転速度は90マイルから彼の気分しだいで、100マイル(160km/h)で走った。車が全く走っていない道路、しかも景色は雄大なので、『飛ばしている』と言うスピード感は全くなかった。もう最高であった。『旅は良いなぁ。ヒッチ・ハイクは最高の旅だ』と感じた。
 蜃気楼は砂漠だけの現象だと思っていたが、ここ土漠でも見られた。それにしてもオーストラリアは、広い国だ。広大・雄大な景色(文字ではこんな表現しか出来ないのが残念である)が延々と続いた。そしてこの辺りに来ると、右に左に20頭、或は30頭のカンガルーの群れが、この車と並行して競争する姿がちょくちょく見られた。
「ワー凄い。カンガルーは随分速く駆けるんだなぁ(1跳び4m以上、時速40~50キロ)」。私はもう大感激であった。
「Yoshi、This is Australia.」と彼。
「こんな光景、体験は初めてです。言葉に表せません。」と私。
彼の名前はNorman Carter(ノーマン・カーター)と言ってN.S.W(ニュー・サウス・ウェールズ州)に住んでいる若者であった。今回、彼は会社を休んでオーストラリア1周の旅をしている、との事であった。私はそんな彼の車に乗れて嬉しかった。
 地図上に表記されているDaly Waters(ディリー・ウォターズ)やNewcastle Waters(ニューキャッスル・ウォーターズ)は、5~6軒の家(ガソリンスタンド1軒、パブとホテル1軒、その他民家)があるだけの町であった。200キロ300キロ走っても町らしい町は、無かった。例え1,000キロ走っても否、ノーザン・テリトリー中を走っても、ダーウィン以外、町らしい町は無かった。
 この辺りに来たら道路と並行して〝川〟(本当はCreek「クリーク」と言って、「River」と言わない)がしばしば見る事が出来た。しかしこれが不思議なのだ。『どう不思議か』と言うと、川が消えてしまうのだ。その川は満々と水をたたえているが、かなりの距離を行くと、その川が自然に無くなってしまっているのだ。要するにこれらの川は、大きな川や、海に流れ込む事なく、その川の水は自然に干し上がって、川そのものが無くなってしまう、『消える川』であった。
 この地域(ノーザン・テリトリー)には、『クリーク、ウォーター、或は、スプリング(泉)』と言う、水に関する地名が多い事が目立った。大陸を横断する探検家、旅人、或は乾燥した大地に住む人々の『水』に対すシビアな感覚が、地名に表れているのであろう。
 Tennant Creek(テナント・クリーク)の19マイル手前のThree Ways(スリー・ウェイズ)と言う場所の丁字路で、今日のヒッチの旅は終った。乗って来たノーマンの車は何処か(S・A方面)へ消えて行った。この交差点は、重要な交差路であった。真っ直ぐ行くとアリス・スプリング(オーストラリアの東西南北のちょうど真ん中)を経て、アデレード(南オーストラリアの州都)へ至る道だ。左は、クロンカリーを経てブリスベン(クィーンズランドの州都)やシドニーへ至る道であった。私はシドニーへ行くのに、どちらの道を選ぶべきか迷った。迷った末、クロンカリー経由の方が地図上ではやや近道の様なので、その道で行く事にした。
 この丁字路脇にホテルとレストラン兼用の『The Way Thou House』があった。今日はかなり進んだので、大ジョッキのビール(37セント。ダーウィンは32セント)で祝杯を上げた。そして50セントのサンドイッチの食事をし、日記を書いて外に出た。
 夜遅くなってから、このハウス傍の芝生の上で野宿する事にした。寝てから暫らくして、ハウスの主人か誰か分らないが、私の足を足で突付いて、「此処で寝ては駄目だ。」と注意された。荒野の中に家がたった2軒、そんな所のハウス近くで寝たって、誰にも迷惑かける訳でもないから良いではないか、と思った。でも仕方なく、そのハウスから離れた原野へ移動した。恐ろしい事にここのテナント・クリーク(実際はスリー・ウェイズ)から次の人が住んでいる所までは、東西南北何処へでも500km以上行かなければならないのだ。要するに北海道、或は東日本以上の広大な地域に私、ホテルの客2名、そしてホテルとガソリン・スタンドの経営者とその家族数名のみしか人が居ない、と言う事なのだ。『人がとても恋しい地域なのに、家の近くで野宿するな』とは随分薄情な人だ。私は、真っ暗な原野で怖さを感じながら野宿した。   
 今日のヒッチ距離は404マイル(646km)であった。2,334-404=後1930マイル(3,088km)。達成率は24.4%、ダーウィンからシドニーまでの全行程の24%の所までたどり着いた。