YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-21 14:29:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年6月19日(木)曇り(仲間達との別れ、そして出航の様子)
 4月14日からルームメイトの栗田と共に住み始めたこのキングスクロスのレントルームを去る日が来た。9時頃起きて出発の準備をしていたら、岡本と杉本が見送りの為に来てくれた。10時半頃、大屋のミセズ・ジャクソンおばさんにお世話になったお礼と共に別れの挨拶をし、大通りのウィリアムズ通りから栗田と共に4人はバスに乗った。私はシドニーに来て以来、初めてバスに乗ったのが、シドニーの最後の日であった。
 バスは思い出のあるキングスクロス地区を後にし、博物館を左に見てハイド・パークを横切り、ダーリング港(Wharf of Ocean Terminal, Sydney Cove)まで行った。杉本はカメラを取りに途中下車し又、後から来てくれた。
 私の乗船するローヤル・インターオーシャン・ラインズのチルワ149号は、既に桟橋に接岸されていた。乗船時間は午後2時から3時の間、出航は4時だったので、出国、乗船手続きを済ませ、荷物を私の船室に置いて一旦下船して、我々四人は一杯ビールを飲みに近くのパブへ行った。我々は、他愛無い話やオーストラリアの話で束の間の時間を楽しんだ。そして2時になり、ついに日本人仲間とも別れ時が来た。
「栗田さん、乗船券の購入にあたって栗田さんの助けがあったからだと感謝しています。有り難うございました。」と率直に栗田に礼を述べた。
「同じ部屋に住んだ仲間同士、そんな事いいのだよ。それにしてもYoshiさんが居なくなると淋しくなるよ。それに部屋代16ドル払うのは高いので、誰か相棒を探すか、安い部屋へ引越しするか、考えないといけないよ。」と栗田。
「そうだね。」と私はそれだけしか言えなかった。
「岡本さん、貴方にもお世話になりました。特に滞在延長申請の際は見せ金や背広を貸してくれて、有り難うございました。」と岡本にも礼を言った
「Yoshiさんはアメリカやカナダへも行きたくてオーストラリアに来たけれど、実現出来なくて心残りがあるのでは。」と岡本。私が旅を続けるべきか、帰国すべきか悩んでいた時期に、彼にその件について話した事があった。そしたら、「一旦帰国して、新たな気持で又、日本脱出すれば良いのでは。」と彼のアドヴァイスを受けた事があった。
「全くその通りです。そして折角此処に来たので、ついでにグレート・バリア・リーフ、ゴールド・コースト、或はニュージーランドへも行きたかったですね。それからアメリカやび南アメリカへも。旅をしたい気持は切りがないが、気持と現実は違うからなぁ、難しいよ。」と私。  
「でも一度日本を脱出しているので、いつでも外国に来られますよ。」と岡本。
「そう出来れば、良いのですが。」と私は本当にそう願うのであった。しかし一旦日本へ戻れば決まりきった現実の生活があるのだ。それに24歳になってしまったのだ。いつまでも気ままな旅は出来ないであろう、私には分るのであった。そして今の私の心境は、『帰国出来る喜びより、これで旅が終りになる』と言う、そちらの方が悲しかった。
「杉本さん、ステーキハウスの方は如何ですか。」とまだ一日だけであるが、私の後を引き継いだ仕事を杉本に聞いた。
「コックが2人居て、若い方のコックが何かと五月蝿いですね。」と杉本。
「彼はドイツ人だ。五月蝿かったのでガツンと言ってやりましたよ。黙っていると付け上がるから。杉本さんも言った方が良いですよ。」と私。
「分りました。でも、アルバイト代は割りと良いので助かります。」と杉本。
「それはその筈です。前は9ドルであったが、ボスと交渉してもう3ドル割増させたのですよ。」と彼にその件を話した。
それから皆と握手して別れた。良い仲間と出逢えて本当によかった。私はそう思った。
 仲間と別れた後、私は乗船し、出航風景を見ようとデッキに出ていた。出航は午後4時、その15~20分前であろうか、岸壁に牛丸の姿が見えた。「おーい、牛丸。ここだー。」私は高いデッキから大声で叫んだ。
「Yoshiさんー、おにぎりを持って来ましたー。下船出来ますかー。」と彼は叫んでいた。タラップはまだ設置されていた。
「Can I go down to see my friend ? I will be back soon.」(直ぐ戻りますので、チョット友達に会いに降りたいのですが。)とタラップの傍に立っていた船員に聞いた。
「We will be leaving the port soon. So, hurry up.」(間もなく出航します。お急ぎください)。「Thanks.」と言って、急ぎタラップを降りた。
「これは私が作ったおにぎりです。食べて貰いたく急いで作って来たのです。」と牛丸。
「わざわざ、有り難う。」
「Yoshiさん、色々お世話になりました。無事に帰国できますよう。」と言って彼は手を差し伸べて来た。
「牛丸も元気で旅をして下さい。それではもう行かなければならないから。」と握手しながら私は言った。そしてタラップを駆け上った。
ドラが鳴り響いた。出航であった。再びデッキへ戻った。岸壁に約40~50人が見送りに来ていた。間もなく見送りの人達からテープが投込まれた。牛丸もテープを投げて来た。私はそれを受け取った。チルワ149号は少しずつ岸壁を離れた。
「Yoshiさんー、さようならー。」
「牛丸も元気でなー。おむすび、有り難うー。」私も大声で叫んだ。
船は次第に岸壁を離れ、他の人達のテープが一本、又一本と切れていった。私と牛丸のテープはまだ繋がっていた。しかし最後にとうとう切れてしまった。遠く離れると今度、牛丸は日の丸を振っていた。見えなくなるまで振ってくれた。彼は最後まで私を見送ってくれた。「牛丸ー、ありがとうー。」咽ぶ想いで叫んだ。そして終にダーリング・ハーバーは見えなくなった。
 彼は船内で食事が出る事を知らない、と言う事はないのだ。それなのに彼はおにぎりを持って来てくれた。私はその行為が嬉しかった。他の日本人仲間は早々と別れて行ったが、彼は最後まで岸壁に立ち、日の丸を振って私を見送ってくれたのだ。それは如何してかと言うと、私が思うに次の様な理由があった。牛丸は我々日本人仲間で一番若いのに、何となく我々と違っておかしかった。どう違うのかと言うと、彼は宗教学を勉強したのか、それを口に出すので岡本や栗田に叱責され、我々仲間でも異端児扱いにされていた。私だけが変わらずに話を聞き、見物や食事にも付き合って来た。又、彼はノルウェーに知り合いの女の子がいて、私が彼の為に英語で彼女宛ての手紙を書いてやった事もあった。彼は私のそんな行為に感謝して、最後の最後まで見送ってくれたのだ、と思った。
 所で、シドニーは外洋からかなり内陸部(80km程)にあり、船は静かにポート・ジャクソン湾を下って行った。私はデッキに佇み、離れ行くシドニーの光景を名残惜しそうにいつまでも眺めていた。暫らくして日本人らしき人が、まだデッキに佇んでいた。日本人かと思いその人に日本語で、「日本の方ですか。」と話しかけた。彼は、「・・・・」と返事が無く、今度は英語で話しかけた。彼の名は、Chung Joo Tan(チャング・ジョー・タンさん、漢字で書くと名字は『陳』)と言って、マレーシアに住む華僑人であった。タンさんはシドニー大学に留学し、無事に卒業して帰国の途にあるとの事であった。私がこの船に乗って最初に知り合った人、それがタンさんであった。
 私の船室は4人、皆おじさんであった。話が合いそうな人は居らず、退屈な船旅の始まりを予感した。

博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-20 08:45:35 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年6月18日(水)晴れ(博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ)
 昨日、家族や友達の為に何かちょっとした物でも良いからオーストラリアの記念となるお土産(カンガルーの毛皮、ブーメラン等)をジョージストリートのシドニー・ケイブ寄りに買いに行った。 
 そして今日、岡本と共にAustralian Museum(オーストライア博物館)へ行った。この博物館はハイド・パークの東側ウィリアムズ・ストリートに面して、いつも貨物駅とステーキハウスのレストランへの勤めの行き帰りに見ていたが、入ったのは今日が初めてであった。
 この博物館はオーストラリアの自然、古生物、動植物、鉱物、人種等に関する展示品があった。その中でポリネシア、メラネシア及びアボリジニの美術、彫刻、生活様式、道具、調度品等が印象深かった。特に、メラネシア諸島の酋長や祈祷師が被る仮面(中には人の頭蓋骨で出来た物もあった)は、美術的観点を通り越して、奇怪を感じた。彼等には銅や鉄器類の道具が無く、石や貝で作った物であった。彼等は歳月や時間的概念がないので、歴史がなかった。従って作った物の時代を特定で出来ないので年代は分らないが、かなり古い物と想像出来た。彼等の文化、美術には驚くべき物があり、そのバックボーンは、やはりセックスが対象になっていた。
 この後、我々はアートギャラリーへ行った。作品の絵画は300点程展示され、殆んどイギリス人の画家のものであった。ここを訪れて感じた事は、オーストラリアの美術・芸術と言う物がまだ、確立されていない感じであった。まだ歴史が浅いから仕方ないのでしょう。ヨーロッパの美術館、アートミュージアム(ギャラリー)の規模、作品等を比較して、このアートギャラリーは今一つ劣っていた。しかも今日は平日だからか、見学者は我々以外、誰も居なかった。 
 明日は、いよいよ出港の日だ。紳士淑女と食事をして、それなりに付き合わなければならないし、日本に帰国して頭がボサボサでは『だらしなく見られるに違いない』とそんな事を思い、カルカッタで床屋へ行って以来、久し振りに床屋へ行った。因みに外国にいるとそんな感じがしないのに、『日本を意識する』と頭の格好まで意識しなければならないのであるから、不思議であった。日本社会に生きている人達は、考え方、行動、髪型、服装等あらゆる面で一定化、又は画一化が重視されている様であった。それから外れた人は、異端者扱いされる傾向があるのも事実であった。
 床屋の後、最近スポーツ・ジムのオーナーのヴェラさんに会っていないので、別れの挨拶に行って見る事にした。しかし彼は事務所に居らず、会える事が出来なかった。仕方なく帰ろうと歩いていたら、途中の地下鉄のタンホー駅前で偶然彼とばったり出会った。
「ヴェラさん、明日私は船で帰国します。別れの挨拶の為、先程事務所の方へ行ったのですよ。」
「私は相変わらず忙しく、今日も用事で出掛け、今帰って来たのです。Yoshiに日本語を教えて貰おうと思っていましたが、仕事が忙しく習う事が出来ませんでした。どうも有り難う。」
「いつ日本に来るのですか。」
「9月の予定です。」
「私の住所を教えるから連絡して下さい。東京で会いましょう。」私はメモしておいた住所を彼に渡した。
「日本に着いたら連絡します。無事な帰国を願っています。さようなら。」
「東京で又、会いましょう。さようなら。」私は彼と握手して別れた。
 5月下旬、彼の家の新築パーティに呼ばれていたが、都合で行けなかった。オーストラリアのファミリーパーティに呼ばれた1度のチャンスを逃してしまい、本当に残念であった。
 シドニー最後の夜、私の部屋で日本人仲間4人と共にトランプをして過した。

タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-18 09:04:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
△1969年(S44年)当時のシドニーの全景(ほとんどの建物はイギリスの様にレンガ造りであった)~絵葉書より


       △今の(2015年)シドニーの全景~CFN

・昭和44年6月15日(日)曇り(タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛)
 午後3時頃、最近知り合った牛丸さん(仮称、以後敬称省略)の所へ行ったら、動物園へ行く事になった。我々2人はポート・ジャクソン湾(通称シドニー湾)のサーキュラー波止場NO5からフェリー(船賃往復30セント)に乗った。因みにサーキュラー波止場は、オーストラリアへ最初に移住者が上陸した地点であった。私は船上からオペラハウス、ハーバーブリッジ、そして対岸の街並み等の光景を眺めていたら、改めてシドニー湾の美しさを再認識した。  
 15分程で対岸のタロンガ動物園(入園料60セント)に着いた。動物園側から見るシドニーの光景も又、美しかった。この動物園オーストラリアにだけ生息するコアラ、カンガルー、カモノハシが見られ、有名なのだ。カンガルーは以前から東京の上野動物園で見る事が出来たが、コアラやカモノハシ(英語名Platypus)は知られていなし、日本で見る事が出来なかった。それにしても、タロンガ動物園は上野動物園より種類が少なく又、園内は汚かった。
 我々は動物園からの帰り際にベネロング岬にあるオペラハウスに立ち寄り、シドニーの夜景を楽しんだ。このオペラハウスはシドニー市民の自慢の建物の一つになっていて、純白のユニークなデザインは優雅で美しいが、なかなか完成しないのでも有名らしい。
牛丸はチキンを買って、オペラハウス近くの公園で食べたにもかかわらず、「中華料理が食べたい」と言うので、我々はキングス・クロスにある中華レストランへ行った。このレストランは高級と言う程でもなく、座席数もそんなに無かった。客は誰も居らず、我々は中程のテーブルに着いた。
 それから間もなく、中国人風の男2人と均整の取れたミニスカートのかわいい女性が入って来た。先頭の男がたれ目であったので、私は声を出して「先頭の男はひどくたれ目だったぞ。」と牛丸に言った。彼等は我々の直ぐ後のテーブル席に腰掛けた。私の位置から振り向かなければ彼等が見えないが、牛丸の席からは良く見えた。
すると耳元で牛丸が、「おい、あれは加山雄三と田中邦衛だぞ。」と言うのであった。振り返ってよく見ると確かにそうであった。すると「たれ目」と私が言った事が聞こえてしまったか、『うまくなかったかな』と案じてしまった。
料理が出て来て、我々は食事を楽しんだ。彼等の話し声は少し聞こえたが、話している内容までは分らなかった。私は時たま振り返って彼等の方を見た。加山は女性と英語で話をしていたが、田中は英語がまるっきり駄目な様で、二人の会話に入れない状態であった。その内に彼等の話し声も少し聞こえてきたが、その話題も我々と同じ様な内容であったが、加山の口調は少し粗い感じがした。
牛丸は席を立ち、彼等の方へ話しに行った。私は別に話をしたいとは思わなかった。過去何回か『若大将シリーズ』を見た事があったが、彼個人、又1人のスターとしてそんなに興味が無かった。私としては日本だろうが外国であろうが、たとえ有名な映画スターが隣の席に居ると言うだけで、わざわざ話をしに行く気に成れなかった。否、寧ろ外国だから返ってそっとしておいた方が彼等の為にも良いのではないかと思った。だから牛丸に「やめろ」と言ったが、彼は加山達の席へ行った。牛丸の聞いた話では今度、『南太平洋の若大将』のシリーズ撮影で当地に来ている、との事であった。
我々がレストランを出る時、牛丸は又、彼等の所へ行って、「良い映画を作って下さい。」と言った。私は彼等に黙ってレストランを出た。余談だが、それから2年後のある私鉄の車内で田中邦衛を見掛けた事があったが、加山雄三とはあれ以来、1度も見掛けてない。
 シドニーで知り合った日本人仲間の栗田、岡本、丹羽、牛丸と共に、明日飛行機で帰国する丹羽のオーストラリア最後の夜、キングス・クロスを散策して過した。我々日本人仲間がこの様に集まって、共に語らいながら散策するのは初めてであった。私の傍に仲が悪い岡本と栗田が共に居るのも珍しかった。仲直りしたのか、分からなかった。
 私が2ヵ月半シドニーに滞在して日本人に出逢ったのは、ビジネスマン、観光客を含めて彼等だけ(杉本を入れて、加山氏と田中氏は入れない)で、他の日本人とは1度も会わないし、見掛けなかった。日豪の貿易が盛んになったとは言え、狭いシドニーの街に日本人ビジネスマンや団体を含めて観光客を1度も見なかった。オーストラリアは白豪主義政策取っている昭和43年~44年当時の日本人は、まだ数える程であった。

マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-17 09:00:31 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年6月13日(金)晴れ(マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う)
 7時に起きてシャワーを浴び、自炊の朝食を取った。今日、シドニーへ帰る日であった。ユースを出る際、マイケルとブレインに別れを告げた。
「昨日、Yoshiに会えて本当に良かったよ。無事、帰国出来る様祈っています。」とマイケル。
「パースで仕事を見付けた後、何処へ旅するの?」
「ヨーロッパへ行こうと思っています。」
「マイケル、良い仕事が見付かり、良いヨーロッパの旅が出来るよう祈っているよ。それでは元気で、グッドラック。」とマイケルと握手した。
「ブレイン、昨日君とキャンベラ観光が出来て楽しかったよ。有り難う。」と彼に手を差し伸べ、ガッチリ握手を交わした。
親しくしてくれた貨物駅の友・マイケル、そして気さくな旅人・ブレインとの別れは寂しいが、ユースを去らなければならなかった。
 リュックを担ぎ、トボトボとユース前の坂道を下りて行った。ふっとユースを見上げると窓越しに「Yoshi、ヨーロッパの何処かのユースで再び会おう。」と言っているかの様に2人は、手を振って見送ってくれた。
「マイケル、ブレイン、縁があったら又、ヨーロッパのユースで会おう。」と心で叫び、私も手を振り返した。
旅とは人との出逢いであり又、寂しさを伴う別れでもあった。これが最後の旅、最後の旅人との別れになるのか、一筋の涙が頬を伝わった。『キャンベラに来て本当に良かった。』とつくづく思った。
 ヒッチは郊外まで乗せて貰って直ぐに降ろされた。2台目も直ぐに降ろされた。キャンベラの郊外に湖があった。でもこの湖は浅い感じに見えた。それほど湖に水が少なかった。ここからの景色も素晴らしかった。
 3台目で雄大な景色を見ながら一気にシドニー郊外に来てしまった。シドニーの郊外から市内のハイド・パークまで乗った4台目の車は、今まで過ってないほど一番珍しかった。ドライバーの名前は、Mr. Gino Bottazzo(ジノさん)と言って、イタリア系の人であった。
その彼が、「君は日本人か?」と尋ねたので、「日本人です。」と答えた。
すると「日本の何処に住んでいるの?」と聞くのであった。普通、「埼玉県」と言っても相手は分らないので、「東京」と言えば相手は分るし、話も続くので時々「私は東京に住んでいます。」と言っていた。 
しかしこの時、埼玉県と言っても分らないであろうと思ったが、「I live in Saitama Prefecture」と言った。そうしたら彼は、「Where do you live in埼玉県(日本語でSaitama-Ken)」と言ったので、私はビックリした。こちらに来て初めて外人(本当は私が外人だが)がSaitama-kenの地名を知っていたのだ。
私は「F市です。」と言った。そうしたら彼は、「F駅前にYamamoto ryokan(山本旅館)があるだろう。」と言うのであった。彼の口から「山本旅館」の言葉を聞いて2度ビックリした。 
確かにF駅前に山本旅館があり、私の実家から1回曲がって6~7分で駅まで行ける距離であった。山本旅館前、要するに駅前は幼い頃の遊び場であったし、卒業してから半年間は通勤駅でもあった。
そうした山本旅館の言葉が出て私は、「どうして山本旅館を知っているのですか?」とビックリしながら聞いた。
「私の友達が山本旅館に居て、マネージャーをしているのです。勿論日本人ですがね。昨年、彼を訪ねて山本旅館に1週間滞在したのです。」と言うのであった。それで駅前やFの事で花が咲き、郊外からハイドパークまで、あっと言う間に着いてしまった。
ハイドパークで降りる際に、私は「6月19日に帰国するので、山本旅館の友達であるマネージャーに貴方の事を宜しく言っておきますから。」と言った。彼は、「お願いします。」と言ってニコニコしながら車を走らせて行った。
それにしても外国に来て初めて埼玉県、しかも田舎のFを訪れた事のある人に出逢ったのは本当に奇遇で、初めての事であった。


キャンベラ観光とマイケルとの再会~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-16 14:35:37 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年6月12日(木)晴れ(キャンベラ観光とマイケルとの再会)
  今日、ブレインと共に市内見物に出掛けた。最初、我々は戦争記念館(オーストラリア人戦没者の慰霊の為に国が建てた記念館)へ行った。館前にドイツの列車砲(貨物車に長砲身・大重量の大砲が備えられている列車)と旧日本海軍の2人乗り用特殊潜航艇が我々を迎えてくれた。
 館内は戦争絵画、ジオラマ、その他展示物があるが、数としては少ない感じであった。目立つものとして、オーストラリアのアンザック作戦の物が多かった。日本関係として、1945年ボルネオ島で獲得した日本軍の豆戦車2台、各種兵器、軍刀、日の丸の寄せ書き等が展示されていた。私はその寄せ書きの一つに、『米英なんぞ怖れるな。男だ度胸だやっつけろ』と言う文言が印象に残った。絵画には幾つかの原爆投下後の広島や東京の焼け野原の風景を描いた作品があった。
 この後、我々は市内を散策した。確かに街は美しく、『良い政治は、良い環境から』と言う印象を受けた。しかし長く住んで行くには“何か物足りない”(色々な遊び場が無い、ネオンチカチカの繁華街・歓楽街が無い)し、整然し過ぎて返って無味乾燥な飽きる街に感じた。
 その後、ブレインがカナダの旗を貰いに大使館へ行くと言うので、私も付き合った。この様に何かを気楽に貰いに行けたり、遊びに行けたり出来るカナダ大使館が羨ましかった。それに引き替え日本大使館は、『気楽に立ち寄るな』と言う雰囲気がありありであった。私は日本大使館で横柄な言葉使い、或いは慇懃無礼な態度で迎えられた事を決して忘れない。大事な用事が無い限り日本大使館へは行きたくない所であった。
 ここキャンベラは内陸に位置している為か、シドニーより寒かった。真冬には時々雪も降るらしい。帰りにストアに立ち寄り、夕食と明日の朝食用に何かを仕入れた。街は店屋、レストラン等が少ない様に感じられた。
 夜になって、私がユースの談話室に居たら、珍しい人、噂をすれば影どころか本当にマイケルが談話室に現れた。ブレインは彼が今日来る事を一言も言ってなかった。
「マイケル!、イケルではないか。ここで再び会えるなんて嬉しいよ」と私は手を差し出した。
「ヤアーYoshi、Genki desuka(これは私が教えた日本語)。キャンベラで再び会えるなんて奇遇だね。」我々はガッチリ握手した。
「所で、私は貨物駅を5月30日で辞めたのだが、Yoshiはいつ辞めたの。」
「私は6月19日にオーストラリアを去らねばならないので、貨物駅の仕事を6月6日で終りにしたのです。帰国前の最後の旅にキャンベラに来たのです。マイケルは今日、シドニーから来たの。」
「2日間ブルーマウンテンへ行っていたが、今日そこからヒッチで来たのです。」
「私は昨日来て、明日シドニーへ戻るのです。マイケルは。」
「私は後2・3日したらブレインと共にパース(西オーストラリアの州都。鉱山の仕事がたくさんあるらしい)へ仕事を探しに行くのです。」
「そうですか。シドニーは駄目ですか。」
「シドニーは稼げる仕事がないからなあ。」
そんな話をマイケルとしていたら、ブレインが入って来て、「スキー講習とスキーの映画を見に行こう。」と言う事で我々3人は出掛けた。
 彼はその場所を誰かに聞いていたらしく、知っていた。だが着いた場所は物置小屋、中に人が10人程居た。私はスキー映画の場所が、何処かの映画館か公営建物内とばかり思っていたので、ビックリであり、ガッカリであった。薄暗い小屋の中、しかも寒くってかなわなかった。来なければ良かったと思った。それに私はスキー経験が全く無く、知識も無かった。勿論スキー講習は英語での説明で難しかった。そしてスキー映画ではなく、スライドだとか。それが時間の都合により、スライド上映は無かったのだ。とんだスキー講習会と映画会であった。
 帰りの途中、マイケルが強がっているので、それならジャパニーズ・レスリング(相撲)をしよう、と言う事になった。私がルールを簡単に説明した。原っぱで土俵はなかったが、「手をついて、ハッケヨーイ、ノコッタ。」と言って相撲を取った。私は彼を投飛ばしてしまった。「Yoshi、もう一番。」
又負けて、「もう一番。」何回もマイケルは繰り返した。何回しても私はマイケルには負けなかった。7・8回取って終に、彼はギブアップした。寒かったので身体は温かくなった。しかし全部勝ってしまって彼に申し訳なく、かわいそうな感じがした。

キャンベラへ最後のヒッチの旅 、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-15 08:30:57 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年(1969年)6月11日(水)曇り(キャンベラへ最後のヒッチの旅)
 私は6月9日に貨物駅(正式名はNSW州有鉄道ダーリング・ハーバー貨物駅『Daring Harbor Goods Station』)の仕事を辞めた。その夜から10日未明に掛けて凄い雷雨があった。稲光と共に響き渡る雷鳴に驚かされてしまった。冬(こちらでは6、7、8月が冬)でも、こんな雷雨があるのかと思うほどであった。 
 オーストラリア滞在も残り僅かになって来たので、この国の連邦の首都・キャンベラまで、最後のヒッチの旅へ出掛ける事にした。6時に起きて、シドニー郊外のBankstown(バンクスタウン)まで電車で行き、そこからヒッチを開始した。
リュックを背負っての旅は、大陸横断以来で『旅はやはり良いなぁ』としみじみと身体で感じた。でも若しかしたらこれが私の人生に於いて、最後のヒッチの旅になるかもしれない、と思うと何か寂しさを感じる旅でもあった。
『さぁー、ともかく元気に出掛けよう』と、気持を切り替えた。『CANBERRA』と大きめのダンボール紙に書いて持って来た。これは『私はキャンベラへ行きたいのです。どうか乗せて下さい。』と言う意味であった。車が来るとこれを示し、ドライバーに分る様にした。
 1台目は12マイル程、2台目は32マイル程、3台目は52マイル程、と次々お世話になりながらヒッチをして行った。
 4台目の車は乗って直ぐに車の排気筒が脱落し、エンストしてしまった。パイプを繋ぎ合わせてそれを固定し、修理が終り再出発する事が出来た。それにしてもオーストラリアの車はどうなっているのか、疑問であった。故障した車に乗ったのはこれで3回目であった。ヒッチを何回もして来たが、こんな事は初めてだ。この国の車の整備体制がしっかりと管理されていない事が原因なのであろう。
 4台目の車このおじさんは、「昨夜は飲みすぎた。頭が痛い。」と言いながらも、陽気なおじさんであった。こんな車に乗るとヒッチも楽しいものであった。ガムの森、広々とした牧場、ポプラ並木や低い山々を幾つも越えて、雄大な景色を見ながらのドライブは最高であった。
途中、おじさんは西部劇に出てくる様なパブに立ち寄った。このパブは隣がホテルで2つの店で一つの建物になっていた。パブの中には開拓当時の馬具類や〝野牛〟(オーストラリアに野牛がいたのか疑問)の角等が陳列されていた。建物も昔風に造ってあり、オーストラリアの開拓時代を少し垣間見た思いであった。おじさんは「飲み過ぎて頭が痛い」と言っていたが、迎え酒。私も彼と付き合って飲んだ。勿論、彼の奢りであった。オーストラリア人は車の運転中、或は、仕事の合間によくビールを飲んでいた。この国は交通事故を起こす程、車が走っていないし、飲酒運転と言う感覚、罪悪感が無く、大らかさがあった。
 それから更に我々はドライブを続け、いっきにキャンベラまで来た。シドニー~キャンベラ間は181マイル(290km)程であろう。おじさんの車に乗った距離は、大体61マイルであった。
 首都のキャンベラは美しく、静かな街であった。私が街を歩いても、人が歩いていないので、ユースへ行く道を尋ねるのも大変であった。
 ユース・ホステル宿泊の際、会員証の有効期間が去年で切れていた為、泊まるのに4ドル25セント(通常はこの半分程度)も払わなければならなかった。ユースの宿泊者は3人だけであった。その内の1人、カナダ人のBrayn(ブレイン)と知り合った。初めて逢ったブレインは、「貴方の名前を知っている」と聞いてビックリした。よく聞いてみると、彼は貨物駅の友達マイケルの友達で、マイケルから私の事を聞いていたと言うのであった。こんな所でこの様な巡り逢いも旅の面白さであった。彼はフレンドリーで、好感の持てる人であった。明日、2人で市内観光する事になった。
 このユースは、街から離れた山の中の高台にあって、ここからキャンベラの夜景がとてもきれいであった。

・ホテル付きのパブの話
 パブ(PUB)とは、Public Houseの略で要するに居酒屋の事です。こちらのパブは、その建物の隣か2階が必ずホテルになっていた。オーストラリアのパブはこの2件の店でワン・セットになっていた。
 オーストラリアでは少し前まで酒類を売って良いのは、ホテルだけになっていた。それで酒(ビール)を売る為に街角に、或は街道沿いにホテルを作り、酒を飲ます場所としてパブも作ったのであった。又、オーストラリアの法律では『パブでの飲酒時間は、午後6時まで』と定められていた。但しホテルの宿泊者には飲ませても違反にならなかった。従って6時以降の人は、ホテルの宿泊者ではなくてもホテルの宿泊者扱いで飲めるし、酒を出す方も宿泊者に出していると言ういい訳が出来た。その様な訳でパブとホテルは切っても切れない縁で、オーストラリアはホテル付きのパブがほとんどであった。
 オーストラリアのパブはイギリスのパブより気楽(ダーウィンで気軽に裸足で入ったら断られてしまった事があったが)に入れたし、ビール小ジョッキ一杯12セント(48円)で飲めるのは嬉しかった。

シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話~シドニー滞在

2022-04-14 14:37:56 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・シドニー滞在中の収入支出の大雑把な纏めの話
 ダーウィンで稼いだ30豪ドルは、4月13日になくなった。私はレストランと貨物駅の仕事を見付け又、K氏との共同生活も始まった。その4月13日から6月18日までの収支の大雑把な纏めである。
*1豪ドル=405円 1米ドル=360円
○手持ち金の部(4月13日現在)~トラベラーズチェック89豪ドル(米$100)。現金聖徳太子3枚74豪ドル=合計163豪ドル
○収入の部
・レストラン4月13日、20日、27日は6ドル25セントで合計18ドル75セント。5月4日は9ドルで合計9ドル。5月11日、18日、25日、6月1日、8日は12ドルで合計60ドル。
レストランの稼ぎは87豪ドル。
・貨物駅4月14日~24日分は74ドル。4月28日~5月2日(4月30日休む)分は33ドル60セント。5月5日~9日分は42ドル。5月12日~16日分は合計42ドル。5月19日~23日分は合計42ドル。5月26日~30日分は42ドル。6月2日~6日(3日休み)分は合計42ドル。      
貨物駅の稼ぎは317豪ドル。 
アルバイト収入合計87+317=404豪ドル。                                                          
○手持金163+アルバイト収入404=合計567豪ドル。 
○支出~・栗田からの借金(20+45)+利息5=70ドル ・部屋代10週間1人8ドル=80ドル ・食料品等生活費、お土産代、キャンベラ旅費、その他=130ドル ・帰国の乗船券代=268ドル。                                       支出合計548ドル。 
○残金~収入の部合計567ドル-支出の部合計548ドル=残金19豪ドル。
この残金19豪ドルも故郷の駅に降り立った時には千円も残ってなかった。

無気力状態に陥る~シドニー滞在

2022-04-13 08:34:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年6月3日(火)雨(無気力状態に陥る)
 今日、仕事に出掛けるのが億劫に感じた。それに雨が降っているのに傘が無かった。面倒くさくなったのでズル休みをし、10時まで寝ていた。
 5月28日のK氏(同居人)との意見相違は、良い教訓になった。最近、彼とは話をしなくなっていた。と言うより、今まで語り過ぎていた。
 話は変わるが、後2週間でオーストラリアを去り、帰国の途に着くのだ。私の旅も終りになり、現実の社会、生活が待っていると言う事だ。今までは、『外国へ行く』と言う事が私の生きがいであった。そしてそれが実現し、日本を脱出してからは旅を続ける事が私の一つの目標であり、又それに向けて色々と遣って来た。しかしその帰国が近づくにつれて、その張りも失せ、全てが終った感じになって最近、無気力になっていた。
 あれ程心配していた仕事も見付かり、滞在期間延長も何とか出来たし、帰国が出来る目途も付いた。その反面、旅への想いや目標が無くなり、『ポカーン』と大きな穴が空いた様で、シドニーでの生活、そして貨物駅やレストランでの仕事にその意義が失せ、惰性の感じがして来た。 
 英語圏の国へ行ったら、『働きながら英語の勉強をしてみたい』と心を弾ませていた頃があったが、ロンドンでもシドニーでも、来てからは仕事と生活をして行くと言うだけで手一杯であり、しかも、気力、知力、勉強の時間が無く(自分の言い訳)、現実的に難しかった。
 後1ヶ月程で私は日本に到着するのだ。何処へ行っても楽な国は無いのだが又、決まりきった生活に戻るのかと思うと、何か遣る瀬ない感じがするようになった。自分はこれから何を目標に、何を糧に生きて行けば良いのか、迷い悩む今日この頃であった。

空手の先生と出会う~シドニー滞在

2022-04-12 13:31:04 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年5月14日(水)晴れ(空手の先生と出会う)
 貨物駅の仕事帰りは、ジョージストリートを横切るか、その通りを少し歩いてウィリアム・ストリートの交差点を右折して帰るのが、私の通常のルートでした。
 私がジョージストリートを歩いていたら、スポーツセンタージム(585 George St)があった。外からジムの様子を見していたら、4~5人の男性が色々な運動器具を使って身体を鍛えていた。又、ジムにはボクシングのリングもあった。
すると中から、「どうぞ中に入って見て下さい。」とオーナーらしき人が招いた。
ジムの中に入るとその彼が、「貴方は日本人ですか。」と聞いて来た。
「そうです。」
「こちらに来てコーヒーでも飲んで下さい。」と言って私を奥の応接室へ招いた。
「この辺りで働いているのですか。」
「そこの貨物駅で働いています。」
「帰りはいつもこの時間ですか。」
「そうです。」
そんな事を話している間、ここの20歳前後の若い、しかも美人の事務員がコーヒーを持って来てくれた。
「私はここのスポーツセンターのオーナーでAlfred Vella(アルフレッド・ヴェラ)です。空手3段で今年の9月頃、日本へ空手の練習に行くのです。それでもし宜しければ、貴方の仕事帰りに1時間程、私に日本語を教えてくれませんか。」と彼。
外人に日本語を教えた経験が無いので、戸惑いがあった。しかも私は英語が達者ではないので、はたたして上手く教えられるか、疑問であった。しかし日本語を教える事は英語を学ぶ事であり、これも何かの縁であった。叉、良い経験だと思い、「いいですよ。」と承諾した。
「それでは明日から平日のこの時間16時15分頃から、レッスン時間は1時間程と言う事で如何でしょうか。」と私。
「結構ですね。宜しくお願いします。」と彼。
そう言う事で話は纏まったが、私はレッスン料の事をあえて言わなかった。ヴェラさんもその事について、「幾ら払う。」とも言わなかった。私は無報酬でも構わなかった。
 家に帰って早々、ローマ字で『あ~ん』の50音、挨拶、簡単な日常会話をローマ字と英語で書いて、教える態勢を整えた。
 その後何日か、ヴェラさんの所に立ち寄って、50音等の日本語の発音、アクセント、あいさつ、本当に基礎的な日常会話を教えた。
しかし彼にとって日本語は難しい様であった。又、彼も忙しいのか、毎日その時間帯に居るとは限らなかった。無料で、しかも私も一応仕事の後で疲れているのに立ち寄って教えているのに、何日経っても『おはよう(ございます)。こんにちは』の一つ覚えてくれないので、こちらとしても張り合いがない様に感じて来た。ヴェラさんは気を使って缶詰、その他を私に持たせてくれる時もあった。彼が居ない時、美人事務員と話をちょっとして、引き上げて来る日もあった。申し訳ないが、彼女は少し頭がトロイので、ヴェラさんに注意されたり、文句を言われたりしていた。 
 5月23日(金)~今日、私は珍しく仕事を目いっぱいして来て、疲れていた。日本語を教えるのに毎日立ち寄り、何回教えても彼は挨拶一つ覚えてくれないし、やる気がない様にも受け取れた。私はそんな彼に腹ただしさを感じた。そんな訳で、私の日本語教師役は本日を以って終りにした。

乗船券購入と滞在期間再々延長~シドニー滞在

2022-04-11 08:59:47 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年5月5日(月)曇り~12日(月)晴れ(乗船券購入と滞在期間再々延長)
 ・5月5日~今日、船会社へ行ったら、運良く1人分のキャンセルがあった。それが最後の乗船券であると言うので、その乗船券購入の予約をした。
 ・5月7日~運良く乗船券が買えるのは、『早く帰国した方が良い』と言う神のお導きなのか。私は所持金を掻き集め、足りない分はルームシェアをしているK氏から一時借りて、船会社へ買いに行った。
(参考)1A$=403円、1U$=360円、100U$=89A$、3万円=74A$、 船会社名~Royal Interocean Lines、 乗船区間~シドニーから四日市、 船名~Tjiluwah(チルワ149号)、 クラス~ツーリスト、 グレード~“TB”TBH40、 出航予定日~1969年6月19日 船 賃~268A$=300US$=約108,000円) 乗船券発行日~1969年5月5日。
 所で、先日の4月29日に滞在期間延長を求め移民局へ行ったがその後、移民局から何の連絡も無かった。滞在再延長期間が過ぎる5月7日の本日、買った乗船券を持って早速、2ヶ月間の期間延長をお願いしに、再び移民局へ行った。出国用の乗船券を持っていたので、今日は何ら問題が無かったし、しかも係官は滞在費用の確認もしなかった。
 ・5月12日~滞在再々延長の許可が下り、その証明を見たら『3ヶ月間の8月4日まで』となっていた。出国用のチケットが無い時はあんなに厳しかったが、今日はスンナリ。しかも1ヶ月間余計に延長してくれた。全くオーストラリアの移民局も現金なものであった。