・昭和44年6月19日(木)曇り(仲間達との別れ、そして出航の様子)
4月14日からルームメイトの栗田と共に住み始めたこのキングスクロスのレントルームを去る日が来た。9時頃起きて出発の準備をしていたら、岡本と杉本が見送りの為に来てくれた。10時半頃、大屋のミセズ・ジャクソンおばさんにお世話になったお礼と共に別れの挨拶をし、大通りのウィリアムズ通りから栗田と共に4人はバスに乗った。私はシドニーに来て以来、初めてバスに乗ったのが、シドニーの最後の日であった。
バスは思い出のあるキングスクロス地区を後にし、博物館を左に見てハイド・パークを横切り、ダーリング港(Wharf of Ocean Terminal, Sydney Cove)まで行った。杉本はカメラを取りに途中下車し又、後から来てくれた。
私の乗船するローヤル・インターオーシャン・ラインズのチルワ149号は、既に桟橋に接岸されていた。乗船時間は午後2時から3時の間、出航は4時だったので、出国、乗船手続きを済ませ、荷物を私の船室に置いて一旦下船して、我々四人は一杯ビールを飲みに近くのパブへ行った。我々は、他愛無い話やオーストラリアの話で束の間の時間を楽しんだ。そして2時になり、ついに日本人仲間とも別れ時が来た。
「栗田さん、乗船券の購入にあたって栗田さんの助けがあったからだと感謝しています。有り難うございました。」と率直に栗田に礼を述べた。
「同じ部屋に住んだ仲間同士、そんな事いいのだよ。それにしてもYoshiさんが居なくなると淋しくなるよ。それに部屋代16ドル払うのは高いので、誰か相棒を探すか、安い部屋へ引越しするか、考えないといけないよ。」と栗田。
「そうだね。」と私はそれだけしか言えなかった。
「岡本さん、貴方にもお世話になりました。特に滞在延長申請の際は見せ金や背広を貸してくれて、有り難うございました。」と岡本にも礼を言った
「Yoshiさんはアメリカやカナダへも行きたくてオーストラリアに来たけれど、実現出来なくて心残りがあるのでは。」と岡本。私が旅を続けるべきか、帰国すべきか悩んでいた時期に、彼にその件について話した事があった。そしたら、「一旦帰国して、新たな気持で又、日本脱出すれば良いのでは。」と彼のアドヴァイスを受けた事があった。
「全くその通りです。そして折角此処に来たので、ついでにグレート・バリア・リーフ、ゴールド・コースト、或はニュージーランドへも行きたかったですね。それからアメリカやび南アメリカへも。旅をしたい気持は切りがないが、気持と現実は違うからなぁ、難しいよ。」と私。
「でも一度日本を脱出しているので、いつでも外国に来られますよ。」と岡本。
「そう出来れば、良いのですが。」と私は本当にそう願うのであった。しかし一旦日本へ戻れば決まりきった現実の生活があるのだ。それに24歳になってしまったのだ。いつまでも気ままな旅は出来ないであろう、私には分るのであった。そして今の私の心境は、『帰国出来る喜びより、これで旅が終りになる』と言う、そちらの方が悲しかった。
「杉本さん、ステーキハウスの方は如何ですか。」とまだ一日だけであるが、私の後を引き継いだ仕事を杉本に聞いた。
「コックが2人居て、若い方のコックが何かと五月蝿いですね。」と杉本。
「彼はドイツ人だ。五月蝿かったのでガツンと言ってやりましたよ。黙っていると付け上がるから。杉本さんも言った方が良いですよ。」と私。
「分りました。でも、アルバイト代は割りと良いので助かります。」と杉本。
「それはその筈です。前は9ドルであったが、ボスと交渉してもう3ドル割増させたのですよ。」と彼にその件を話した。
それから皆と握手して別れた。良い仲間と出逢えて本当によかった。私はそう思った。
仲間と別れた後、私は乗船し、出航風景を見ようとデッキに出ていた。出航は午後4時、その15~20分前であろうか、岸壁に牛丸の姿が見えた。「おーい、牛丸。ここだー。」私は高いデッキから大声で叫んだ。
「Yoshiさんー、おにぎりを持って来ましたー。下船出来ますかー。」と彼は叫んでいた。タラップはまだ設置されていた。
「Can I go down to see my friend ? I will be back soon.」(直ぐ戻りますので、チョット友達に会いに降りたいのですが。)とタラップの傍に立っていた船員に聞いた。
「We will be leaving the port soon. So, hurry up.」(間もなく出航します。お急ぎください)。「Thanks.」と言って、急ぎタラップを降りた。
「これは私が作ったおにぎりです。食べて貰いたく急いで作って来たのです。」と牛丸。
「わざわざ、有り難う。」
「Yoshiさん、色々お世話になりました。無事に帰国できますよう。」と言って彼は手を差し伸べて来た。
「牛丸も元気で旅をして下さい。それではもう行かなければならないから。」と握手しながら私は言った。そしてタラップを駆け上った。
ドラが鳴り響いた。出航であった。再びデッキへ戻った。岸壁に約40~50人が見送りに来ていた。間もなく見送りの人達からテープが投込まれた。牛丸もテープを投げて来た。私はそれを受け取った。チルワ149号は少しずつ岸壁を離れた。
「Yoshiさんー、さようならー。」
「牛丸も元気でなー。おむすび、有り難うー。」私も大声で叫んだ。
船は次第に岸壁を離れ、他の人達のテープが一本、又一本と切れていった。私と牛丸のテープはまだ繋がっていた。しかし最後にとうとう切れてしまった。遠く離れると今度、牛丸は日の丸を振っていた。見えなくなるまで振ってくれた。彼は最後まで私を見送ってくれた。「牛丸ー、ありがとうー。」咽ぶ想いで叫んだ。そして終にダーリング・ハーバーは見えなくなった。
彼は船内で食事が出る事を知らない、と言う事はないのだ。それなのに彼はおにぎりを持って来てくれた。私はその行為が嬉しかった。他の日本人仲間は早々と別れて行ったが、彼は最後まで岸壁に立ち、日の丸を振って私を見送ってくれたのだ。それは如何してかと言うと、私が思うに次の様な理由があった。牛丸は我々日本人仲間で一番若いのに、何となく我々と違っておかしかった。どう違うのかと言うと、彼は宗教学を勉強したのか、それを口に出すので岡本や栗田に叱責され、我々仲間でも異端児扱いにされていた。私だけが変わらずに話を聞き、見物や食事にも付き合って来た。又、彼はノルウェーに知り合いの女の子がいて、私が彼の為に英語で彼女宛ての手紙を書いてやった事もあった。彼は私のそんな行為に感謝して、最後の最後まで見送ってくれたのだ、と思った。
所で、シドニーは外洋からかなり内陸部(80km程)にあり、船は静かにポート・ジャクソン湾を下って行った。私はデッキに佇み、離れ行くシドニーの光景を名残惜しそうにいつまでも眺めていた。暫らくして日本人らしき人が、まだデッキに佇んでいた。日本人かと思いその人に日本語で、「日本の方ですか。」と話しかけた。彼は、「・・・・」と返事が無く、今度は英語で話しかけた。彼の名は、Chung Joo Tan(チャング・ジョー・タンさん、漢字で書くと名字は『陳』)と言って、マレーシアに住む華僑人であった。タンさんはシドニー大学に留学し、無事に卒業して帰国の途にあるとの事であった。私がこの船に乗って最初に知り合った人、それがタンさんであった。
私の船室は4人、皆おじさんであった。話が合いそうな人は居らず、退屈な船旅の始まりを予感した。