ほぼ1年ぶりの運転を楽しむ。隣町の作品置き場に運ぶもの、そこから自宅に持ってくるもの、そして、それぞれの場所のゴミ処理場に持って行くもののために軽トラをレンタル。多少の不安は運転席に座った時点で消えていた。1年位ではまったく問題ないとわかったのも嬉しい。軽トラの運転も2度目なのですぐに慣れる。困ったのは冷房の切り方がわからなかったこと。続く。
20-9-21
かつての自分の車では冷房は一度も使ったことがなかった。だからどこにスイッチがあるかわからないのだ。窓からの風で充分涼しいのでもったいない。軽トラは座席がちょっと高いのでとても見晴らしがいい。そしてバックもやりやすい。6時間借りて運転していたのは4時間ほど。座席は90度で少し疲れるけどまだまだ運転していたい気分だった。とにかく軽トラの活躍でスッキリ。
20-9-22
さらに続く。スッキリしたのは運転での気分転換と不要なものを処分できたため。そこには乗れなくなった自転車、古い電化製品、布団、イーゼル、除雪用シャベルなどなど。それらを捨てたゴミ処理場で驚いたのは入口前に渋滞ができていたこと。おかげで廃棄し終わるまでに30分以上掛かったのだ。レンタルの時間に余裕があったからよかったがそうでなかったら焦ってたはず。
20-9-23
ふと、目覚めたけど何となく暗い。きっとまだ朝ではなく夜中に目覚めたと思い、枕元の時計を見るのをためらった。中途半端な時間に目を開け、頭を使って眠りを遮りたくないのだ。でも、もしかしたらと恐る恐る薄目で時計の針を確かめると、寝てからだいたい7時間後の5時17分を指していた。非常に正確で理想的な目覚めだったことになる。朝の薄暗さは寝起きを惑わす。
20-9-24
ときどきは本物に触れる大切さを改めて知らされた。札幌彫刻美術館で舟越桂展を観てそう思った。作品には緊張感が漂う中にも優しく受け入れてくれる包容力も感じさせてくれた。おかげで長い間対面していられる。舟越は言う『あの遠くを見ているような目は自分の内を見ているのかもしれない』と。そして、一緒になってその内面を見ようとする。幸せで豊かなひととき。
20-9-25
歳をとったなぁと感じるとき。傷の治りが遅くなったとき、ポリ袋を開けづらくなったとき、ホコリに弱くなり鼻がすぐに反応するときなど、他にもいくつかあって、これから増えることはあっても減ることのないのが悲しい。でも、これが歳を重ねることだと受け入れるしかない。病院で加齢で済まされたと耳にするが、自然の流れに沿っていると考えれば安心してもいいわけだ。
20-9-26
道端にはピンクと白のコスモスが秋風に揺れている。秋桜とはいい名前をつけてもらったものだ。桜は春を代表する花だから、それにならうと秋を代表する花とも言える。桜ほど華やかでなくても揺れる姿がかわいい。食ではサンマが秋の代表で、秋刀魚とはうまく名付けたと思う。漢字からその形がよく伝わる。しかし、不漁続きで値は上がり秋の味覚の代表の座が危うくなった。
20-9-27
子供の頃の秋の思い出といえば、野山での実や果物採りだろうか。野も山も近くにあり簡単に手に入れられた。食べ盛りだからいろいろ採って食べた。桑の実、山ぶどう、コクワ、栗などを思い出す。桑の木にいるカメムシをヘッコキ虫と呼び、山ぶどうは種が大きく実は少しで、コクワは米の中に入れ柔らかくしてから食べ、栗は茹でると最高においしかった。どれも懐かしい。
20-9-28
教えてあげたいけど教えてあげられないもどかしさ。ほとんどの人が地下鉄の改札口でカードを押し付けている。以前ここに書いたように10㎝離れていてもきちんと反応する。このコロナ渦でなければ気にすることもないけど、気を付けている人もしっかり押し付けているのでないだろうか。他のところで気を配ってもカードにウィルスを付着させて持ち帰っては何にもならない。
20-9-29
遊歩道を歩いていると向かいから幼い子達を引き連れて来た保育士から『こんにちは』と声を掛けられた。子供達はポカンとして『誰なんだろう』といった感じでこっちを見つめている。すぐに『こんにちは』と大きな声で返事をした。その保育士さんを知ってるわけではないので、子供達に挨拶を教えているんだと思う。それを繰り返していくうちに自然に声が出てくるのだろう。
20-9-30