葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

リアルな身心の中にあるゲーム性。

2022-06-19 10:00:00 | 養生

 私は30代から40代半ばにかけて、そこそこゲームで遊んでいた。
 格闘や無双などのアクション系が多かったか。
 格闘モノに関しては、KOFや餓狼伝説が好きで、今でも時々KOF15のトレーラー動画を観て楽しんでいる。

 で先日、ぼちぼち操作にも慣れてきたスマホで、KOF15餓狼チームの動画を観ていたら、カミさんから「ソフトを買って遊ばないのか」と問われた。
 うん。それはもう、KOF15を自分でプレイすれば楽しいだろう。
 だが実際にソフトを購入する自分を想像しても、何だかリアリティが無いのだ。

 今はゲームの動画鑑賞で満足している。
 もっともそれは、実際にゲームをプレイする興奮とは別物だ。
 ペンフィールドのホムンクルスが端的な例だが、人間が指で出力し、目から入力した情報の刺激は強烈なので、自分で操作したゲームキャラの動きは、まるで自分の動きであるかのように錯覚してしまう。
 まあそれも限度なり個人差があるか。
 私の場合は格闘・無双のキャラの動きが、自身を投影するのに丁度良かったのだろう。
 そういえば魔法関係はイマイチ乗れなかった。

 ただ、もうゲームで遊ぶ気が無いかというと、それもちょっと違うか。
 つまり、今は自分の身心そのものがゲームキャラみたいなものなのだ。
 もともと私は「鍛える」というより「遊ぶ」ように運動をする性質である。
 真剣にeスポーツに取り組んでいる人達の方が、余程「鍛えて」いるだろう。
 多分私の本質は遊び人なのだ。
 そして「身心」というキャラは動きこそ地味だが、その直結感において現存するゲームの比ではない。

 ちなみに私はゲームキャラを「操作する」という感覚が希薄だったような気がする。
 ゲームキャラも自分の身心も、「操作」というより「交渉」に近い感覚で接しているからだ。
 ん?心さえも「交渉」の対象だとしたら、「私」の核はどこにあるのだ?
 …なんていう疑問は安っぽい「自分探し」になりがちなので要注意である。

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