●本稿の初出は、西日本新聞・本年3月22日付「随筆喫茶」です。
炭鉱と差別 中西 徹
陶芸家・神山清子さんの証言をもとに
NHKの連続テレビ小説「スカーレット」は、陶芸家の神山清子(こうやま・きよこ)さんをモデルに、その半生を色濃くなぞったドラマでした。
神山清子さんと白血病で亡くなった息子・賢一さんに取材し、母と子の伝記ともいえる一冊が『母さん 子守歌うたって~寸越窯(ずんごえがま)・いのちの記録』(那須田稔・岸川悦子共著、ひくまの出版、2002年)という本。
そのプロローグで「九州の佐世保の炭鉱で働いていた父が、追われるようにして一家を連れてこの滋賀県の日野にやってきた」のは、(神山さんが)小学2年の1944年(昭和19年)9月とあります。テレビではオリジナル作品として、いきなり大阪から信楽に移住していましたから、驚きでした。
崎戸炭鉱の島に生まれた私にとって、佐世保は故郷の一部でもあるので、本文に、九州、さらに佐世保の炭鉱とあると、同郷のよしみ加わり、本の文章を追う眼差しが熱っぽくなります。。
本は、佐世保の炭鉱から信楽に移住した理由を「追われるように」と書いています。なぜ、神山さんの父は炭鉱を追われたのでしょう。そのわけを本文から引用します。
「その頃、九州の炭鉱には朝鮮から強制的に連れられて来ていた人々が大勢働かされていた。明治の末、日韓併合政策をおしすすめた日本は、長い間、朝鮮を領土とし、朝鮮半島の人々を無理やり日本人にして、言葉も奪い、氏名までも日本風のものに変えさせた。そんな朝鮮の人々を、父はかばったり仲良く付き合ったりしていた(中略)厳しい労働に耐え切れなかった朝鮮の人が、炭鉱を脱走しようとしたのを手助けしたといって、警察に追われた父は、一家を連れて炭鉱の町から逃げ出したのだった」
神山さんは、「信楽自然釉」を発表したあと、戒厳令下の韓国・大邱(テグ)の天山里窯(チュンサンリ)に陶芸指導で招待されました。佐世保の炭鉱で父が話した「朝鮮人だろうが、日本人だろうが、人間にかわりはない」という一言(ひとこと)の記憶が、日韓交流を深めたのでした。
前述したように、私の故郷は崎戸です。佐世保湾口の展海峰で南西に向けば、眼下すぐそこにある蛎浦島にあった炭鉱町です。
明治から昭和の帝国主義時代においては「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」と呼ばれ、いずれも三菱鉱業の炭鉱で、多くの朝鮮人・中国人の強制徴用・連行が行われ、苛酷な労働支配がありました。私は郷愁だけではなく、『鬼ヶ島』と喧伝された故郷の近現代史を学び、記憶するために2冊の『崎戸』本を上梓しました。
炭鉱労働は、初期に三池も高島も囚人を多く使役し、拡大に伴い貧農小作民・被差別民など経済的、社会的に下層階級の人々の割合が多くを占め、下財人(下罪人)と蔑視、差別されました。さらに、植民地主義の進展とともに朝鮮・中国から強制的に連行された人々が最下層の労働者として差別されたのです。過酷な労働、差別待遇、暴力制裁、死傷事故は日常茶飯事でしたから、各地で脱走や抗議行動、暴動が頻発しました。それは「差別をするな」「我々も人間らしく生きたい」という願いでした。挙句の果ては、崎戸からも見えた長崎のキノコ雲の下に、何の罪もない万余の朝鮮人・中国人の被爆死と呻き声もあったのです。
異郷の地に連れて来られ、差別され、死傷した朝鮮人・中国人の叫び声に耳を澄ましてみませんか。
*(「浮游」第9号に収録するに際して加筆しました)
著者略歴 なかにし・とおる
1948年、長崎県崎戸町(現・西海市)生まれ。父は植民地時代の釜山で出生、兵役・復員後は父祖の地・福岡県芦屋町から崎戸炭鉱へ、後に炭鉱病院に勤務。母は門司で出生、崎戸に移住。日赤大阪で看護婦免許を取得。新興善国民学校救護所で約半年間にわたり被爆者救護。被爆者健康手帳を所持。
長崎県立大崎高校卒業。図書出版・浮游社の編集人。同社から、2018年に「うち、おい達の『崎戸』という時代」、2019年に「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島」を出版。
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『崎戸』本・Ⅰ ●うち、おい達の『崎戸』という時代
2018年3月刊 B5判 定価(本体1968円+税)
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『崎戸』本・Ⅱ ●一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島
2019年10月刊 A5判 定価(本体2000円+税)
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