跋文の①
崎戸と、上野英信、井上光晴、久保田勝。
前川雅夫(「炭鉱誌」の編著者)
崎戸炭鉱が最も存在感を示したのは、経営する九州炭砿汽船(株)が三菱鉱業と合併した頃(昭和十五年九月)。昭和十六年度、高島炭鉱が二千五百人で出炭量三十七万トン。端島が千八百五十人で四十一万トン。崎戸は五千八百四十五人で百二十万トン、三菱最大のヤマだった。
二位が北海道の美唄五千六百七十三人、次が鯰田三千八百人、飯塚三千三百八十二人、方城三千三百十二人、大夕張二千九百五十六人、上山田二千七百七十九人、新入二千六百五十人、勝田二千二百三十五人と続く。崎戸が最大になったのは戦争末期、昭和十八年が六千四百人で百二十六万トン。翌十九年七千百九十五人で百七万トン。増員したのに減産したのは、熟練坑夫の徴兵が続き、素人の「報国隊」や朝鮮半島からの「集団移入者」が四割をこえ、資材も食料も不足という悪条件の結果だった。この頃に虐待があったとされるが、真相は隠されたままである。
さかのぼれば明治四十年、崎戸炭鉱は鉄道国有化とともに発足し、汽車や汽船の燃料、中国への輸出で栄えるはずだった。ところが中国・米国との戦争中に最盛期をむかえた。中国との開戦は昭和十二年、七夕の夜。翌八月、海軍が戦艦大和、武蔵の建造を命令。その厚い鋼板は鋲(リベット)でつなぐが、内装は溶接。使用電力量が大きく、北松炭田の南端・相浦に発電所の建設認可も八月。発電開始は昭和十四年。だがこの年は西日本や朝鮮半島で極端な雨不足。朝鮮の農民も困った。この頃、発電は水力と石炭火力が半々。雨不足で水力発電所は不調。石炭火力で補うべきだが、労働力不足で出炭減少・品質低下。原因は軍需産業への転職者と徴兵の増加。石炭・電力が不足しては軍需生産も戦争もできない。そこで労働力を補うため、朝鮮の農民を一年・二年の契約で雇用してきた。
二年後、昭和十六年十二月で契約満了が三百五十名。多くは継続するが、一時帰休の百余名が休日に奉仕作業、その金で二坑の山神社に鳥居を奉納した。鳥居には奉納者名として「浅浦坑鮮人一同」と刻んだ。その写真が中西さんから送ってもらったアサヒグラフにある(昭和五十四年四月二十五日号の崎戸特集)。
その後、鳥居は見えなくなり、「木が生い茂って見えなくなった」と言われた。「あの巨大な鳥居がそんなはずなかろう」と思っていたが、最近、鳥居を消した話を聞いた。会社に依頼された建設会社が重機で鳥居を倒し、石柱を折って地中に埋めた。その辺だけ木が生えてないという。「鮮人」の表現はともかく、雨不足で困った朝鮮農民と炭鉱との契約は強制連行ではない。それなのに証拠隠滅のようなことをしている。
とはいえ差別が無かったわけではない。浅浦の二坑で五尺層を採炭していた場所では常に天井から水が落ちてきた。体は冷えきってしまい、イオウ分が多いと皮膚がただれた。誰もそんな所では働きたくない。二坑、浅浦に朝鮮人が多かったのは、これが原因だった。この話は筑豊文庫、『追われゆく坑夫たち』で有名な上野英信から聞いた。またカトリック坑夫の話も忘れられない。
隠れキリシタンの子孫である五島や北松のカトリック教徒は、代々貧困で炭鉱に働きに来た人も多かった。そのリーダーはやかましいオヤジで、ことあるごとに炭鉱職員と対立し、カトリックの仲間を守っていた。ある日、そのオヤジが我が子のようにかわいがっていた甥が坑内事故で死んだ。いつも対応している保安係の職員は、今日こそは、そのオヤジから殺されると思った。オヤジは職員に「甥が神に召されて天国に行った。皆で送っていくので休みをもらいたい」と言った。オヤジたちは数隻の船に乗って、夕日の五島へと去っていった。夕焼けの海と空が、音にならない荘厳な讃美歌で満ちているようだった。
上野英信は崎戸に来て勤労課の図書館係。多くの友人がレッドパージで解雇され、追放されるのを見た。それまで筑豊で似たような活動をしていた上野は、まもなく崎戸を去った。会社側は「使える」と思って強く引き留めた。崎戸は驚くほど柔軟な労務対策をする炭鉱だった。崎戸の職員として残れば、良い暮らしができたはずである。それを振り切って筑豊の活動にもどった上野もえらいが、わかって使おうとした会社側もすごい。「炭労をはじめとする、表面的で画一的な組織運動の貧しさを繰り返し批判」した上野(『上野英信展』五十頁)。崎戸は反面教師だった。
最後の組合長だった久保田勝氏も勤労課の職員。多くの炭鉱では、職員は職員組合、鉱員(坑夫)は労働組合と分かれて対立する。崎戸は違うので理由を聞くと、「あの狭い島で対立していたら血で血を洗うことになる」と久保田氏は答えた。
また戦前は、「一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼が島」と言われた。久保田氏が親友という上野英信も、いずれ劣らぬ圧制ヤマとして「鬼ガ島」「監獄島」の恐怖を独占した炭鉱、と書いている。だが昭和三年の統計では出炭八十二万トン、在籍六千人、解雇五千人、雇入七千人だった。
三島とも、それぞれの過去をもつ数千人が働いていたのだから、虐待が無かったはずはない。だが明治の「タヌキ掘り炭鉱」とはちがう。坑内は油まみれの機械が並び、坑外は木造家屋がひしめく風吹く島。絶望した人間が火をつければどうなるか。虐待の結果は、虐待する側がよく分かっていたはずである。そういう会社側の思惑や配慮があって、住みやすかった、懐かしい、となる。
一方で分断支配の象徴が炭鉱住宅。佐世保から移住してきた井上光晴は驚いた(昭和十三年)。佐世保は海軍の町として建設され、将校や下士官兵、工廠職工は、それぞれの勤務先に近い町に住み、住所で生活環境がわかった。だが小学六年の光晴が出会った崎戸はそんなものではなく、『島の炭鉱』という詩にした。
お前の家は社宅か納屋か
一番はじめにそれを聞かれた
それから坑務主任の息子と
仲よくなった
社宅の子と遊ぶのは生意気だ、と
納屋の子もいい
社宅の子も眼をむいた
(1952年12月 『井上光晴詩集』一橋新聞部 1964年発行)
*
《うち、おい達の『崎戸』という時代》の著者が注記する。
崎戸に、二つのキリスト教会。
永の浦からすぐ、
阿房岳の麓に三浦教会と
五島灘を望む
美崎地区にあった。
*本誌に写真もある