thirteen party

題詠ホークス背番号004

司馬遼太郎『この国のかたち (一)1986~1987』読了

2010-04-29 15:19:50 | 読了
「昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった」

「あんな時代は日本ではない。
と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。」

衝き動かされて
この国のかたち

「たとえば兼好法師が生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続性がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期とこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる」のだが…。


「司馬さんには、昭和の戦争時代が書けませんね」と言ったのは丸谷才一氏。

日本を代表する作家のひとりである司馬遼太郎が小説にできない“異胎の時代”がある。

知っておかなければ

中島京子『さようなら、コタツ』(集英社文庫)読了。

2010-04-20 00:17:31 | 読了
七つの短篇小説集。

独り身の冬を象徴するコタツに別れの言葉を告げて春。

「さようなら、コタツ」

タイトル重要。

思わず手にして結ばれる縁。

「今朝、梨崎由紀子は十五年間使っていたコタツを捨てた。」の一文で始まる表題作。

捨てるんだ。
使えるのに。
暖かくなったから畳んで押し入れにしまいこむのだと思ってた。
年年歳歳。

捨てるとは。

捨てなければならなかった。
居間(今)に風穴をあけるため。
十五年間連れ添ったコタツを捨てて新しい部屋(私)

著者による
【へやのなか(短いまえがき)】結びの文
【「部屋の数だけ人生はある。(部屋のない人の人生というのもあるけれども)
だからこの短編集の裏タイトルは、
へやのなか である。】


浮き世に生きてある者の様子を描く小説家。


 それからおじさんはまた縁側に将棋盤を出した。左手に棋譜を記した本を持ち、胡座をかいた太もものうえにひじをあてて、右手の中指とひとさし指で駒を挟んで右の太ももにぱちぱち当てながら将棋盤を前にしているときも、おじさんは意外に饒舌で、一人で二役分の手をさしているはずなのだが、「そう来ましたか」とか「そんなことはあんた、させないね、こっちは」とひとりごとを言っている。
(文庫本201頁「私は彼らのやさしい声を聞く」より)


『FUTON』を読んだときも思ったのだが、
中島京子さんは老年の境にある男性の描写が実に上手い。

それ相当の時間をかけてきた年輪を慈しむ視線。


これからも読んでいきたい。


‐‐‐‐‐‐‐‐

文庫本解説は伊集院静。
中島京子作品との出会いが書かれている。
氏は、知り合いの編集者から「親戚の娘が書いたものです」と一冊の本を渡される。
それが中島京子の『FUTON』だった。

「人から本を渡されるということは大変なことである」と伊集院氏。
続けて、
「本は金を出して買い求めるものである。買い求めるの、“求める”が実は読書の肝心で、一冊の本を手に取る動機というものは人間のかなり繊細、デリケートな感情によるもので、そこに読書の核がある」のだと。

自分から求めてゆくのが本当
人から本を渡されるのは大変

自分で買ったものじゃないから期待はしていなかった『FUTON』
読んでみると…………………違っていた。


期待しないで読み始めた。海のものとも山のものとも知らない作家の書いた本。

お金を出して手元に引き寄せた本。
他ならぬ私が選んだからには何かある。そう思って読み始める。
自分が読む本を自分で探し当てる。


お金を払って酒を飲む。

今日も元気だ。
明日は明日の風。
あさっての彷徨に書店。
給料日には本を買って。