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Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

陽に戯れ

2021年02月21日 16時13分10秒 | 日記
             2月21日 日曜日 
      福岡地方の最高気温22度。5月上旬並みの暖かさ。



春陽眩しく──見上げれば青空の中、いずこへの旅立ちか。


春陽眩しく──反射鏡。川面はキラキラと跳ね返す。


春陽眩しく──投げ上げたボールに母と娘の愛が乗っかってる。


春陽眩しく──カチーンと響くおじさんたちのゲートボール。お元気で。


春陽眩しく──ちょこんと甲羅干しの亀さんたち。温かいかい。




ナースログ

2021年02月19日 15時25分50秒 | エッセイ
     「やせがまん」を通します
       「ぶりっ子」に徹します
        「おせっかい」を努めます
         「ユーモア」を磨きます
          「老婆心」を発揮します
           「笑顔」で輝きます
             ぐちをやめて潔く生きます
              「ありがとう」を歌います

賢人会議所なる団体の「賢人『掟』八則」というものだ。
思わず笑いが出てしまいそうな「掟」なのだが、
そもそも、どういった団体なのか、おおよそ見当がつかれるだろう。
そう、高齢者の、高齢者たる団体だ。
「永年の間家庭を支え、地域を支え、そして社会を支えてきた中で培われた
     知恵、知識、経験等を活かして、次世代を創るために
          提言・行動し、汗を流す」
これこそが高齢者の役割。そんな意気込みで設立されたものだ。
東京に「日本賢人会議所」があり、会長を橋本龍太郎・元首相(故人)夫人の
橋本久美子さんが務められている。


    
    その地方組織とも言うべきものが福岡にある「九州賢人会議所」。
    各界、特に経済界の方々で、今はもう経営の第一線を退かれた
    相談役や顧問といった人たちが主メンバーとなっている。
    知恵、知識、経験を身につけた高齢者こそ「賢人」であるとし、
   「少子化によって生産年齢人口は減少の一途という時代にあって、
    高齢者という人的資源を活用しないというのは、大いなる損失だ」
    そう鼻息が荒い。
    さらに「高齢者が社会から支えられる側から、
    新たに社会を支える側に立ち、再び社会の担い手になり、
    長寿社会をリードしよう」と意気込むのだ。

それには、自らも努力が必要とし7項目の努力目標を掲げている。
   ①出来ることは自分でします
    ②人の役に立つことをします
     ③健康で過ごせるよう努めます
      ④聴く耳を持ち社会より学びます
       ⑤人の温かさを大事にします
        ⑥輝く笑顔で謙虚に生きます
         ⑦感謝の気持ちを声に出します
──子供みたいだと笑っちゃいけない。
「賢人」であっても、高齢者にはなかなか難しいことばかり。
だからこその努力目標なのだ。

    森の倒壊木を「ナースログ」と呼ぶことがある。
    寿命を終えて倒れた木であっても、
    それで役割を終えたわけではない。
    倒壊木の周囲には適度の湿り気が宿り、
    そこは小さな虫たちが集まる場となる。
    それをついばみにやってきた鳥たちによって
    草や木の種が地面に落とされ、
    いつしか若い樹木として芽吹く時を迎えるのである。
    「ナースログ」とは、まさに「森を癒す木」なのだ。

     僕ら年寄りは、そんなふうにありたいと思っている。


ウブなあんちゃん

2021年02月16日 06時00分00秒 | 思い出の記
     小学、中学、大学とそれぞれになにがしかの
     思い出みたいなものがあるのに、
     なぜか高校時代には、すっぽり抜け落ちたように、
     それがない。
     だから名前と顔が一致して思い出せる同級生は片手ほどだ。
     その中でM君、彼とは何かにつけつるんでいたから、
     いちばん仲の良かった友人と言えるだろう。
     長崎港外の漁村に住み、何度か家に遊びに行ったこともある。

          

そのM君は高校を卒業すると、兵庫県三宮の会社に就職。
  こちらは大学受験に失敗し、浪人生となった。
    その1年後、2人とも19歳、未成年の時の話である。

浪人の甲斐あり、何とか大学受験がうまくいった。
あとは入学式を待つだけ。
春休みみたいなものである。
その休みを利用して、M君を三宮に訪ねたのだった。
当時、準急列車があり、
これで長崎から三宮までどれほどの時間がかかったろうか。
朝早くに出て、三宮に着いたのは午後も
半ばだったのではなかったか。
ほとんど立ちっ放しだったが、それほど疲れたという記憶はない。
もちろん、M君が出迎えてくれ、
そのまま神戸見物に連れて行ってくれた。
物見遊山を楽しむような年頃ではなかったから、
特に印象に残ったものはない。

          
     
      夕食は何を食べに行ったか、もちろん憶えていない。
      さて、ここからである。
      夜の街をぶらついていたら、
      M君が突然「よし、ここへ行こう」と指さしたのが、
      何とストリップ劇場だった。
      社会人の先輩であるM君はすでに何度か来ているらしい。
      だが、こちらは初めてである。
      ただ、不思議にもドキドキもしなかったし、
      舞台に目が釘付けになりもしなかった。

          

そんなに時間は経っていなかったと思う。
  それらしいお兄さんが、すっと横に立ち、
    「あんちゃんたち、ちょっとこっちへ来てくれや」
       と声をかけてきたのである。
結局、トイレに連れ込まれ
  「この写真買ってくれ。安くしとく。○百円でいい」
     とすごまれ、何の抵抗も出来ず、
       写真を手にすごすごと劇場を出たのだった。

                    

すると、M君が「どこに泊まろうか」と言い出した。
てっきり、会社の寮か何かに泊めてくれるものと
思っていたが、違ったらしい。
それから宿探しとなってしまった。
そして、M君が「よし、ここにしよう」と言った。
ガラガラと戸を開け入ると、
応対に出たおばさんが怪訝な顔をしている。
それでも「どうぞ」と部屋に案内してくれた。
そこには、見たこともない大きなベッドがどんと一つ。

         この宿は今風に言えばラブホテル、
      その頃だと連れ込み宿だったのだと分かるように
      なったのはずっと後のことだ。
      だから、おばさんが男2人連れの客に
      怪訝な顔をしたのだろうし、
      ダブルベッド一つあっただけだったのだろう。
      そんな世事を知る由もないウブな
      未成年者だったというわけである。
      先ほど買わされた写真を見ても
      何が何だかチンプンカンプン。
      それが分かるようになったのも、
      ずっと後のこと……。

          

翌日はロープウェーで六甲山に登った後、
  長崎への帰路に着いた。
    帰りもやはり準急だった。
      ただ、三宮を出て間もなく座ることが出来たので、
昨夜の小さな冒険を思い出しながら、
  ことりと夢の中に落ちた。
    長崎は終点、案ずることなく熟睡したのだった。

         高校の友人との唯一と言える思い出話である。
       こんな思い出しか出てこないのは、やはり寂しいものだ。



海を見に行こう

2021年02月14日 19時24分36秒 | 日記
    2月14日 日曜日 前夜遅く福島、宮城地方で最大震度6強の地震。
    目覚めの第一報だった。10年前の大惨事を想起させたが、
    被害が最少に収まるのを願うばかり。


   さて久しぶりの外出。と言っても、ちょっと糸島方面へドライブだ。
   天気予報通り、真っ青な空に白い雲。
   ダウンを脱いでセーターで十分。
   満タンの車で9時少し過ぎにスタート。


   まず立ち寄ったのが室見川。
   ここでは毎年、この時期になるとシロウオが産卵しやすいよう
   川底に小石を集め、その後シロウオ漁の簗を仕掛ける。
   その簗の仕掛けを見物しようと寄ってみたのだが、
   今年はコロナにより中止になったそうで、
   肩透かしを食ってしまった。


   さて糸島へ。目指したのは「芥屋の大門」だが、
   途中の道筋に赤い2階建てバスが2台停まっていた。
   「London Bus Cafe」だった。
            
       きな粉味アイスクリームで小休止


   「芥屋の大門」は玄海国定公園を代表する名勝奇岩。
   日本三大玄武洞の中で最大のものだ。
   遊覧船で玄武洞を見ることができるが、陸上からだと難しい。


   ちょうど昼時となった。カキを食べに岐志漁港へ。

   ここにはカキ小屋が12店並んでいる。
   早速、焼きカキ、カキフライ、カキ飯、それにイカ一杯を注文。
        
               満足、満足。


   帰路、二見ケ浦の夫婦岩に寄った。
   伊勢の二見ケ浦の朝日に対し、夕日の筑前二見ケ浦として有名だ。
   ただ、到着したのは2時ごろ。夕日までには早いし、空は暗く、
   おまけにポツリポツリ。
   これも予報通りで、家路を急いだ。
   帰着は4時半頃。およそ7時間のドライブであった。


マスコミ散歩

2021年02月13日 11時42分16秒 | エッセイ
     4日行われた森喜朗氏の「女性蔑視」発言謝罪会見―――
     「……オリンピック・パラリンピックの精神に反する
     不適切な表現だったと認識し、
     深く反省している。発言を撤回したい。
     不快な思いをされた皆様にお詫び申し上げたい」
     冒頭こう謝罪した後、記者との質疑応答に。
     その最後の記者とのやり取り。

【ノーカット】森喜朗 東京オリ・パラ組織委会長が釈明会見 “女性めぐる発言”で (2021年2月4日)

「どこがどう不適切だったのでしょうか」
「男女の区別をするかのような発言をしたところです」
「オリンピック精神に反するという話もされていましたが、そういう方が組織委員会の会長をされることは適任なんでしょうか」
「さあ、あなたはどう思いますか」
「私は適任じゃないと思います」
「それじゃあ、そういうふうに承っておきます」
「それで先ほど会長としての発言ではないので
責任が問われないといった発言も……」
「責任が問われないとは言っていませんよ。
場所をわきまえてちゃんと話をしたつもりです」
「組織としての場じゃないから、あの場はよかったということなんですか」
「そうじゃありませんよ。私の発言を全部見てから質問してくださいよ」
      ※森氏の「蔑視発言」はJOC評議委員会に
       名誉委員として招かれ挨拶した際のことだった。
       それで「責任が問われない」云々のやり取りになっている。
「それから〝わきまえる〟という表現を使われていましたが
女性は発言を控える立場だという認識だということですか」
「いや、そういうことではありません」
「なぜ、ああいう発言になったのですか」
「場所だとか、時間だとか、テーマだとか、そういうものに
やっぱり合わせて話していくことが大事なんではないですか。
そうしないと会議は前に進まないのではありませんか」
「それは女性と限る必要がある……」
「だから、それは私も含めてと言っているじゃないですか」
「あと、その前段の段階で……」
森氏、質問を遮り、
「おもしろ、おかしくしたいから聞いているんだろう」
こう切れてしまった。
     森氏を組織委員会の会長として適任じゃないと思い、
     さらに森氏に失言癖があり、切れやすいタイプの人だと
     分かっていれば、ついに辞任にまで追い込んだ、
     この会見はまさに記者の思うつぼだったのでは?


随分前の話になるが、テレビの討論番組でのことだ。
「安倍政権は史上最悪の政権だ」と批判したジャーナリストに対し、
司会役のアナウンサーが、
「では対案を示すべきではありませんか」と迫った。
すると、「ジャーナリストは対案を示す必要はありません」と突っぱねた。
そして「コオロギは泣き続けたり嵐の夜」、
これこそがジャーナリストの使命だと続けたのである。
これは信濃毎日新聞の論説委員だった桐生悠々氏の有名な言葉で、
「もし社会が良くない方向に向かっている懸念があるなら
新聞は言うべきことを(コオロギのように)言い続けなければならない」
そういう意味だ。これにまったく異論はない。
ただ、対案を示さないにしても「史上最悪の政権」だとまで判断した、
その理由、基準くらいは示してもらわないと、
やはり「なぜ」と問い続けたくなる。