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獣医師インディ・ヤスの冒険!

家畜伝染病と格闘する獣医師インディ・ヤスさんのブログです。インディ・ヤスさんはロシア・東欧のオタクでもあります。

今は昔、我が宮崎大学農学部家畜衛生学教室

2012-11-03 21:35:22 | 学問
 先日、来年の8月に開催予定の講習会の講師の推薦を母校の宮崎大学農学部獣医学科で教官を務めている親友にお願いした。彼は、小生が学生時代に学び現在の名称が「産業動物衛生学研究室」となった研究室の教授である。小生が学生として所属していた当時は「家畜衛生学教室」、次に「獣医衛生学教室」と改称、そしてさらなる発展を期して「産業動物衛生学研究室」となった。

 宮崎県は、一昨年、口蹄疫の大発生という未曽有の災害にみまわれた。その被害は我国の歴史上最大級の畜産被害であった。この大変な経験から宮崎大学では総力を挙げて産業動物、簡単に言えば家畜の伝染病の一大研究センターを設けることを決定、それを受けて“宮崎大学産業動物防疫リサーチセンター”が設置された。
本研究センターは未だ生まれたばかりではあるが、そのスタッフは獣医学科の教官だけではなく宮崎大学全体で関連する分野のエキスパートを結集させた、言わば“宮大オールスターズ”ともいえる研究センターである。今後の展開として、日本だけではなくアジア、アフリカで猛威をふるっている家畜伝染病を対象に疾病研究、防疫戦略、教育と国際連携、農業畜産業界への展開等、気宇壮大な目標を掲げている。そして、「産業動物衛生学研究室」は、その研究センターの中心的な推進エンジンとも言える立場なのである。小生がお世話になった研究室がこのように重要な立場になったことに現在の教官の先生方や他のスタッフに心から感謝している。しかし、ただただ驚きでもある。

小生の学生のころの我が研究室は、勉強しない、従って出来が悪い学生が集まる研究室として有名であった。本当、試験の成績は下から数えた方がずった楽な学生ばかりであった。しかし、それだけではない。揃いもそろってかなり変わった連中ばかりであった。学科のオタクが集まっているので異様な雰囲気が形成され、学科にいた女子学生などは気味悪がって近づかないようなところであった。そんなオタク集団の研究室である「家畜衛生学教室」がいまや我国、いやアジアにおける家畜伝染病研究の最重要拠点になりつつあるのである。

まさに驚くべき発展である。が、学生時代のできの悪いオタクどもが集まって来た家畜衛生学教室が何とも懐かしい。そして、そこに所属したおかげ現在の自分が存在するしそのことに感謝している。
おーい、我が宮大農学部家畜衛生学教室のオタクども元気か。また、いつか集まってオタクの花をさかせよう!



墓泥棒ジョン・ハンター

2011-01-29 21:12:02 | 学問

  ジョンの兄ウイリアムは、1750年頃のロンドンで医学生や臨床経験の少ない若い医師を対象に解剖学の塾を開いていたことは書いた。ウイリアムは、昼間は外科と産科の医師として一般の診療を行いながら、夜に人体解剖の教室を開いていた。当時、現代にあるような人体の構造を具体的かつ詳細に記載した解剖学の教科書はなかった。そのため、真剣に医学を志した若者たちにとって、ウイリアムの塾は非常に有難い存在であった。問題は教材であった。

 ウイリアムは、当時の解剖学の教科書が医学教育にあまり役に立たない代物であったため、講義や実習には別の教材を用いた。それは、人体そのもの、すなわち人の死体であった。当時の英国では、処刑された罪人の死体の一部が医学教育に限り提供されていた。英国のその頃の処刑、それは通常絞首刑であったが、公開の場で行われており、処刑された罪人の死体は、希望者にその場で引き渡されていた。ただし、その希望先はあまりにも多かった。医学校や大病院、外科医組合など公の団体だけでなく、実践的な教育したい教師や自らの腕を磨きたい医師なども加わって、処刑直後には激しい死体の奪いが行われた。                         

絞首刑になった死体は、解剖学の理想的な教材であった。それらは、言わば突然死と同じ状態であり、病死の場合と異なって体内の臓器は健康な状態なのである。ウイリアムは、処刑場での“死体受け取り”という奪い合いをジョンに任せた。ジョンは大柄な男ではなかったが、貧しい農家に生まれ、幼いころからの農作業に駆り出されたため、腕っ節はすこぶる強く、死体の奪いで決して負けなかった。が、需要に比べて“この教材”の供出はあまりにも少なかった。

そこで、ウイリアムはジョンに、多数の“教材”を確保できる別の方法を命じた。それは死体が集まる場所、すなわち、墓場から埋葬された直後の死体を“教材”として調達することであった。

当時、ロンドンには職や食を求めて英国中から人が集まってきた。ロンドンには上流階級や一般庶民のほか、貧民も多数居住していた。貧しい人々は今日の食を得るのがやっとで、病気になっても怪我をして治療を受けることは殆どできなかったが、聖ジョージ病院や聖トマス病院など一部の病院では、教会や一部の上流階級の人々の援助を受けて貧しい人々の診療も行っていた。ただ、ここに来る患者は重病か、重傷の患者であり、病院に来た時にはすでに手遅れで、大半は病院での治療は殆ど受けずに死亡し、そのまま病院所有の墓場に埋葬されることが多かった。ジョンは、この埋葬される人々に目を付けたのである。

ジョンは、病院の関係者に幾ばくかの金品を渡して情報をもらい、埋葬された当日の深夜にその埋葬場所に出かけて“教材”を持ち帰っていたのである。この当時の英国では、墓場から埋葬された棺、衣類、装飾品など物品を盗むことは犯罪であり、盗掘者は法の裁きを受けたが、死体自体の盗みについては犯罪とも言えなかった。それを裁く法律がなかったのである。

最初、ジョンは、ウイリアムの教室にくる医学生たちと墓場からの死体泥棒を行っていたが、本業であるウイリアムの助手の仕事もあって効率が悪かった。そこで、ジョンは裏社会の人間たちにさせることを思いついた。

ウイリアムの解剖教室があったコヴェント・ガーデンはロンドンの歓楽街で最も治安の悪い場所の一つであった。ジョンは、ウイリアムからの休みをもらった時にはコヴェント・ガーデンの場末の酒場で過ごすのが好きであった。当然、酒場では裏社会の人間との“友人関係”もできた。ジョンは自分のプランの実行部隊としてその“友人たち”を使った。ジョンは、友人たちに墓場での死体泥棒の技術を訓練し、彼らを使って毎年数百体の“教材”を確保した。学生一人ずつに多数の教材を提供できる“医学の高等教育機関”としてウイリアムの教室の名は、裏社会での噂は別として、ロンドン中で評判になり、医学生のみならず科学を学びたい人間も加わって入学希望者が押し寄せ、その結果、非常に高い収益を上げた。因みに、この時期の受講者の中には後に経済学者として世界史に名を残したアダム・スミスがいる。


奇人変人の解剖外科医ジョン・ハンターの生い立ち

2011-01-16 23:07:18 | 学問

  ジョン・ハンターは、18世紀後半の英国で活躍した外科医師である。この当時、外科医は、内科医と異なり医学の専門教育を受けなくてもなることができた。例えば、今から考えると信じられない話であるが、ヨーロッパではジョン・ハンターが活躍した頃の3040年前まで床屋が外科手術を行っていた。ジョン・ハンターが生まれた1728年頃から外科医と床屋が分離していった。その様な時代背景であったため、ジョン・ハンターは正規の医学教育は受けていない。生まれ故郷のグラスゴーで大工をしていた20歳の時、ロンドンで当時外科医として活躍していた実兄のウイリアム・ハンターに頼んで上京した。

兄ウイリアムは、エジンバラ大学で医学を修得してロンドンで開業していた。当時も今も外科医にとって最も必要な基礎知識は解剖学である。ウイリアムは非常に研究熱心な人物で、機会があれば人体解剖を行って知識を深め、自らの外科治療の技術向上に努めていた。さらに、彼は月謝をとって他の医師への解剖学の教育も行っていた。当然、これは学校とは呼べるものではなく塾のようなものである。ロンドンでジョンはウイリアムの塾の雑用係として働くことになった。

ウイリアムは、当初、ジョンには講義や実習の準備や後の後片付けなどの雑用だけをさせるつもりであったが、ジョンの手先の器用さと人体解剖への好奇心の強さを知り、自分の講義の受講と実習への参加を認めた。ジョンは、ウイリアムの想像通り、最も熱心で優秀な生徒となり、誰よりも高い解剖手技を修得した。時には、ウイリアムの代わりとなって解剖実習を行うこともあった。そのジョンの姿を見てウイリアムはジョンを外科医として育てること決める。


エドワード・ジェンナーの師、ジョン・ハンター

2010-09-05 22:57:31 | 学問

  近頃、エドワード・ジェンナーのことを調べている。全世界からの天然痘根絶、その最強の武器である種痘を開発したジェンナー、その彼のことが妙に気になるのである。

小生は、学生時代にウイルスや細菌などの病原微生物を相手にすることを職業に選んだ。それには、もちろん恩師の先生方や共に学んだ友人たち、その頃学んだ家畜伝染病学の影響も大きかったが、他に天然痘根絶という歴史的な偉業に心を揺さぶられたためでもある。これまでジェンナーの業績について忘れたことはなかったものの、仕事に追われてジェンナーその人への興味はあまり持てなかった。それが、最近、ジェンナー自身のことが知りたくて仕方がないのである。

特に、知りたいのは、何故、種痘はジェンナーによって開発されたのか、という点である。天然痘患者は終生免疫を獲得する、すなわち、一度罹れば二度と罹らない。このことは、ジェンナーの時代にはすでに常識となっていた。実際に当時のヨーロッパでは、一部ではあるものの、人痘接種法という天然痘ウイルスを人工感染させて免疫を与える方法が行われていた。当然、この方法は非常に高い確率で天然痘を発症する危険な方法である。

また、牛を飼う農民は牛の病気である牛痘に罹ることがあるが、それにより天然痘に対する免疫(当時、免疫という言葉は存在していないが)を獲得することも農民を相手にしている医師には広く知られていた。牛痘での発病は、天然痘よりはるかに軽い。牛痘を利用すれば人痘接種法よりはるかに安全な天然痘の予防法が開発できるのではないか、とジェンナーだけでなく他の医師たちも考えて当然である。なのに、どうしてジェンナーだけが種痘開発に取り組み成功したのであろうか。小生は、この点が気になって仕方がなかった。

ジェンナーには、当時の医師にはない特別な能力があったではないか、それは彼の生い立ちや経歴と関係してはいないか、そうであれば、是非とも知りたいと思った。そこで、巡り会えたのがジェンナーの師であるジョン・ハンターである。 

ジョン・ハンター、真に凄い人物である、が今彼のことを知って興奮しているものの、このブログで紹介できるほどには頭が整理されていない。ジョン・ハンターのことはもう少し整理してから後日書くことにする。


天然痘が消えた時の感動

2010-03-27 21:39:13 | 学問

  大学3年生の時に勉強しない学生が集まって来る研究室に入れてもらったことは書いた。当時、この研究室は実習室1室、実験室2室、教官研究室2室及び学生研究室1室から構成されていた。このうち、実習室を除くと学生研究室が最も広かった。そのため、そこには学生用の机、椅子、ゼミの時に利用するテーブルなどの他に書棚も置かれていた。その書棚の本を研究室内で読むことは自由で、教授の許可を頂けば下宿に持ち帰って読むこともできた。

 ある時、その書棚の一番奥、すぐには目につかないところに、“家畜伝染病の診断”という分厚い書物があるのを見つけた。この本を取り出しパラパラとページを捲った時に妙な好奇心を覚え、この本を読んでみたいと思った。そして、教授にお願いし2,3日お借りすることにした。

 下宿に持ち帰ってその書物を改めて見ると、その本は旧農林水産省家畜衛生試験場が編纂したもので、馬、牛、豚、鶏などの家畜や家禽毎にそれぞれの重要な感染症について診断法が詳細に書かれ、さらにその対策も記されていた。そして、各疾病の執筆者はいずれもその分野では日本を代表する学者の方々であった。ただ、編纂されたのがかなり以前であったため使われている言葉や漢字が古く、すらすらと読めるような書物ではなかった。

 そこで、各疾病について自分でそのポイント、すなわち発生の背景や状況、被害の程度、症状、病理学的所見、原因病原体の検索方法、抗体検査方法、総合診断、予防及び治療方法をまとめたノートを作成することにした。内容を読み下す作業を進めながら、解らないところが出てくれば他の科目の教科書やノートも調べて理解するようにした。おかげで、1年生、2年生時に勉強せずに何とかお情けで単位をもらっただけの科目についてもお浚いをすることになった。

この地道な作業を、毎日、授業が終わって下宿に帰って行った。大体6カ月位かかったと思う。このノートを作成しながら、伝染病への興味が高まって行き、終わるころには伝染病、特に家畜の伝染病に携わって行きたいと思うようになった。

そのノートを作成していた頃、家畜病理学各論の授業の中でウイルス性皮膚炎の代表である痘瘡の説明があった。その原因病原体は、ご存じポックスウイルスである。この属のウイルスは宿主特異性が強く、動物種毎に感染するポックスウイルスが決まっている。その病理学的な診断は、皮膚の発痘の有無とその部位の表皮に形成されるボーリンゲル小体という好酸性の細胞質内封入体を確認することである。

この講義をされた先生は、この時、人の痘瘡である天然痘をモデルにして病理学的所見を説明される共に、その予防法である種痘についても述べられた。

 種痘は、18世紀に英国の医師エドワード・ジェンナーによって開発されたことは余りにも有名な話である。田舎の開業医であったジェンナーは人々を診療しながら、農家の女性には痘瘡の痕がなく肌が美しい人が多いことに気付いた。調べてみると、その地方では、「牛には人の天然痘に似た病気(牛痘)があり、毎日、牛の乳を搾っていると牛からその病気がうつってしまう。しかし、その病気は極軽くてすぐに治る。そして、その病気に罹った後では天然痘に罹ることがない」という言い伝えがあることを知る。ジェンナーは、その言い伝えをヒントに牛痘に罹った女性の病巣から採取した浸出液を使って天然痘のワクチンである痘苗を開発した。

 先生の説明は続いた。「1958年、WHOが天然痘根絶プロジェクトを発表、その内容は全世界的に種痘を進めて地球上から天然痘をなくすという壮大なものである。そのプロジェクトを推進した結果、天然痘の患者者数は毎年激減していき1977年にアフリカのソマリアで確認されたのが最後である。その後2年間、天然痘の発生は見られない。この状況がもう1年続けば、WHOは、来年、天然痘根絶宣言をすると思う。」と述べられた。この“天然痘が根絶される”という話には感動を覚えた。

 そして、その授業があった翌年の1980年5月8日、WHOは全世界に向けて“天然痘根絶宣言”を行った。長い歴史の中で人類を苦しめてきた疾病のひとつ、天然痘が根絶されたのである。その新聞記事を読んで小生は感激した。体が震えるほど感激した。そして、思った。「俺もジェンナーのような仕事がしたい!」と。

 エドワード・ジェンナーの業績に較べれば、小生のこれまで仕事の成果など目くそほどの価値もないであろう。それでも、天然痘根絶宣言の時の感動が忘れられず、“志だけでもジェンナーように”、と思ってこれまで仕事をして来たつもりである。