村上家 当主のブログ

五箇山資料室

流刑つづき

2010年09月15日 17時09分45秒 | 日記
前述の青木治太夫は加賀藩最初の流刑(元禄3年)11名の内の一人ですが、三男の息子が4歳で同じ日に流刑されています。小屋は2間に2間の土座茅敷と書いてあり、米が五合に塩薪代として二分二厘が支給されています。五歳の息子も同じ牢に同居していますが、十五歳の息子は五箇山の他の集落に侍と牢に同居しています。がこの息子は父が刎首されたのと同じ日に刎首になっています。

牢屋は御縮小屋(特に重い罪)-外へは出れません
   平小屋        ー居村内は歩いてもよい
   禁錮  とゆうのもありました
   九尺に二間の小屋が多かったようです。
   二人扶持とか一人扶持を支給されている人もいます
   帯刀御免と書いたものもあります       

流刑つづき

2010年09月13日 17時53分37秒 | 日記
穴水町立歴史民俗資料館蔵長家文書の内中村信友自筆書状
その手紙の中に番人七、八人付けられ、いまだ戸外へ出ていない。自分と子供二人に下付される七人扶持にて、塩・みそ・薪を買っている。ここ祖山村には百姓家が十四、五件しかなく物の売り買いもできなく不自由なうえ、寒気が身にこたえ春まで身体が持つかどうかと思われる。この手紙を書くにも墨・筆が借りられなくて、なべすみと木筆で書いた。隠密にて送るものだゆう云々とありこの方は一冬越しただけで病死している。五箇山の冬はー5・6度~ー10度近く下がることもあるので、大変厳しい環境だったと思われる。
連座して流された人の中には65年間も流刑地配所での生活をおくり亡くなった人もいる。

夫婦で牢屋に同居しているひとも記録されている。五箇山の村史は面白いことがたくさん書いてある。 

五箇山の流刑

2010年09月13日 13時44分39秒 | 日記
参考資料 加越能文庫、「袖裏雑記別集」平村史
加賀藩の流刑では五箇山が最も重く、能登島(遠島)鹿島郡がそれに次いだ流刑地でした。
五箇山の冬季の自然条件の厳しさからだろうと思います。
小屋に閉じ込めたままのもの、居村内は自由に歩けるものなど、扱いは色々あったようです。 時代の厳しさは子供が親の罪で同罪として流刑されていることです。
青木治太夫とゆう侍が祖山村で不行状により刎ね首になっていますが、猪谷村に流刑されている息子二人も処刑されています。この侍は同居していた9歳の子供も庄川の川遊びで亡くしています。五箇山の流刑の様子が資料より想像されます。

五箇山のこと

2010年08月29日 17時00分02秒 | 日記
五箇山の(昔)ことに関しては旧利賀村、旧上平村、旧平村の村史に詳しい情報が載っています。これらの中から私の興味を引くことを散文的に投稿したいと思っています。

五箇山のこと

2010年08月29日 16時55分48秒 | 日記
五箇山のことについて書いてゆきます。