村上家 当主のブログ

五箇山資料室

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五箇山の塩硝

2010年09月29日 08時47分38秒 | 日記
五箇山の塩硝製造、寛永14年(1637)以降御召煙硝となる。1箇(40斤)重さ12貫目で105箇=1260貫目=4725kg お金にして、代銀35貫500匁、これを「冬成」の年貢ととしている。「塩硝御役金8枚(80両)」
天明5年(1785)には、114箇 代銀 塩硝1斤=8匁3分×114=37貫848匁を納めている。 以降は幕末まで藩が恒常的に買い上げる御定式上塩硝御用となった。
享保14年の煙硝総製造量は2112貫このうち1000貫は定式煙硝として1斤に代銀5匁5分残り1112貫分は1斤5匁4分5厘での買い上げで翌15年10月支払いとなったので、その間の経営のつなぎとして、代銀相当分の延払米を12月に拝借することになり、以降、定式上塩硝を差引いた残りの分は、一旦、土清水御土蔵に預け置かれ翌年の夏の塩硝値段で決済された。
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つづき

2010年09月18日 17時50分14秒 | 日記
平村史の流刑資料を見ていると、観光説明を訂正することが多々あるので記憶の悪い私としては大変困っています。
侍身分だから流刑されたものと思っていましたが夫婦や、神主、十村百姓、山伏、刀の研師、大工、町人など色々な人が流刑されています。
寛文七年(1667)前田藩老臣長連頼の家老浦野孫右衛門の一派が、 勢力を利用して悪事をはたらいたとのことで、加賀藩主から断罪の処分受けた事件で6名の流刑人が長家から送られてきたのが始まりらしい。 五箇山流刑は、明治元年(慶応四年)三月の大赦令(明治天皇ご元服大赦)で解放された。
「是月朝廷に大赦令あり、能登海島其他五箇山流刑人及閉門逼塞等の者ことごとく之を赦す」加賀藩資料にあるらしい。
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流刑

2010年09月17日 18時00分14秒 | 日記
加賀騒動の主犯とされる大槻内蔵允(三千八百石)の関係者が五箇山へ流刑されています。
資料では、寛延元年4月19日、護国院殿御代段々不届出の儀有之となっている。
本人は禁錮の刑(九尺四方)の牢に入牢、三人扶持を支給されている。兄の息子(内蔵允の甥嫡男、次男、三男)がやはり五箇山へ流刑されている。嫡男、次男はともに二人扶持を支給されている。

三男は幼少のあいだは一類預とされ十五歳に達し流刑となっている。
大槻内蔵允はわずか五ヶ月で自決している。
嫡男は二十五年五か月、次男は二年7か月で病死している。三男は不明。
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流刑つづき

2010年09月15日 17時09分45秒 | 日記
前述の青木治太夫は加賀藩最初の流刑(元禄3年)11名の内の一人ですが、三男の息子が4歳で同じ日に流刑されています。小屋は2間に2間の土座茅敷と書いてあり、米が五合に塩薪代として二分二厘が支給されています。五歳の息子も同じ牢に同居していますが、十五歳の息子は五箇山の他の集落に侍と牢に同居しています。がこの息子は父が刎首されたのと同じ日に刎首になっています。

牢屋は御縮小屋(特に重い罪)-外へは出れません
   平小屋        ー居村内は歩いてもよい
   禁錮  とゆうのもありました
   九尺に二間の小屋が多かったようです。
   二人扶持とか一人扶持を支給されている人もいます
   帯刀御免と書いたものもあります       
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流刑つづき

2010年09月13日 17時53分37秒 | 日記
穴水町立歴史民俗資料館蔵長家文書の内中村信友自筆書状
その手紙の中に番人七、八人付けられ、いまだ戸外へ出ていない。自分と子供二人に下付される七人扶持にて、塩・みそ・薪を買っている。ここ祖山村には百姓家が十四、五件しかなく物の売り買いもできなく不自由なうえ、寒気が身にこたえ春まで身体が持つかどうかと思われる。この手紙を書くにも墨・筆が借りられなくて、なべすみと木筆で書いた。隠密にて送るものだゆう云々とありこの方は一冬越しただけで病死している。五箇山の冬はー5・6度~ー10度近く下がることもあるので、大変厳しい環境だったと思われる。
連座して流された人の中には65年間も流刑地配所での生活をおくり亡くなった人もいる。

夫婦で牢屋に同居しているひとも記録されている。五箇山の村史は面白いことがたくさん書いてある。 
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