無責任な自分がいかに責任を負うことが出来るのかと言うことをよく考えます.........
おいらは無責任です。
でも可能な限り出来ることはしていきたいと考えています。
しかし無能なおいらにとって生きていること自体に責任を感じるのです。
世の中には起こしてしまった事態に責任をとる見本など皆無と言っても良いほどです。
モノを作るメーカーなどを見ても事態が悪化してからしか行動を起こそうとせず、最悪の結果を招かなければ認めないこともざらでその間にも被害者が増えていくということは世の常となっています。
近年の例を挙げるならばヒューザーの小島進さんと姉歯秀次被告等によるの耐震偽装、三菱製等の車の欠陥などの事故、松下電器製等の石油ストーブによる死亡事故、パロマのによるガス湯沸かし器のガス漏れによる死亡事故など人が複数の事故もしくは事態が社会的に認識され、最悪の場合である死亡という自体が複数発生しなければ事態の収拾をしようとしない会社が多く、このような問題に真摯に取り組んでいるメーカーというのは非常に稀です。
信用というのは築くのにかなりの時間が掛かりますが、信用を失うのは非常に簡単です。
また多くのメーカーが勘違いしていることは問題を認めないことが信用を失わない最善の方法であると考えていることです。
このことがより問題を大きくしている原因であり、最悪の事態を招いているとも言えます。
また一度悪いことをしてしまうとそれを貫き通すことに終始し、事態を認めないことも多いですよね。
これは耐震偽装問題を招き貫き通そうとしたが、事態を暴かれたことから明らかです。
「因果応報」というのは必ずあって悪いことを常としているとそれがばれていないことが普通になると感覚が麻痺して、それを続けていると必ず見分けることが出来る人でてくるはずです。
ヒューザーの小島進さんを見ていると人の資産をなんだと考えているのだろうか?と疑問を感じます。
この人に限らないことですが、問題が発覚して明るみに出ても謝るどころか被害者面までする始末です。
あれはどうなんでしょうかね~......
見ている方が恥ずかしいですな。
彼のすべてを否定するつもりはありませんが、彼の指示の元に姉歯が設計し建設が進んでいったことは周りの人が証言しているのです。
この点では「モラル」というか「倫理」がないと言っても良いでしょう。
人間の傾向として良いことでも悪いことでも「慣れる」ということがあります。
これは良いことではその状態が満たされると「満足できない」と言う事態を招き、悪いことでは悪いこととは考えないようになる「麻痺」を起こします。
良い意味でも悪い意味でも「慣れる」事というのは簡単なんですな。
技術を開発するには重要な「慣れる」という事は感情面では非常にネックになり得るのです。
技術の進歩や新たなことに挑戦することはある程度のとまどいや慣れない作業があり、それをこなせるようになることは重要です。
そしてそのことがこなせるようになることを「慣れ」と呼びます。
これは大切なことです。
しかし感情的な「楽しい」事というのは慣れてしまうと楽しく感じなくなりますよね。
むしろつまらないことにまでなりかねません。
加えて人間の傾向として腐敗的な傾向がありますのできちんとした基準(モラル、倫理)などを常に確認しないと「悪いこと」をしようとする傾向があります。
そしてもし悪いことを1度でもするとそれがその人の基準に成り代わります。
これは「ただの一回」、「初めての1回」ではありません。
その人にとって悪いことを始めて以降のすべての基準に成り代わるのです。
そしてそのことを常用するようになると悪いことをエスカレーター式に、そして加速度的に行うようになり、悪いことしか考えないようになります。
これはおいら自身にも当てはまるので人のことを批判する立場にはありません。
しかし人を死に追いやるほどのことはしたことがありませんし、他の人の資産を軽率に扱うようなことをしたことはありません。
でも書いてある通り人間というのは腐敗的でその傾向を示すと悪い方へまっしぐらなので細心の注意を払って避けていきたいと願っています。
少なくとも迷惑を掛けたならば素直に謝たいと考えています。
無責任なおいらがこんな事を書いても意味がないのかもしれませんがね。
欧米化が進んでいるメーカー各社の対応を見ていると
「謝罪することは敗北を意味する」
と言う考えが浸透しつつあります。
これはどうなのでしょうかね~。
おいらは逆に早期の段階で過ちを認め、謝罪し、その事態の収拾に奔走するメーカーの方が好感が持てます。
これは国民性の違いから起こっている問題なのかもしれませんがね。
日本人は謝罪する国民だとよく言われます。
「土下座」などはよく見かけますし、「腹切り」などは責任の取り方の最たるモノです。
おいらは少なくとも死を持って償わなければならないと感じることはあります。
事態の収拾が出来ず、その責任を感じているのであれば立場を放棄する辞職というのは当然であり、もしくは資産があるのであれば無給で仕事をすることは当然だとも感じる訳です。
裁判などで多くの資産を有している人は罰金などが科せられることがありますが、あれはすべての資産を没収された上で課せられるべきだとも感じる訳です。
金がある人はなんの苦労も無しに犯した罪を簡単に贖えることは非常に公平性、公正性に欠ける事態だと結論せざるを得ません。
それに対して不可抗力や避けられない事態に対して責任をとらなければならず、多額の罰を追わなければならない人もいます。
古代イスラエルには「避難都市」という制度があり、これは故意に犯した罪ではない場合に血の罪(殺人)は問われない事を意味していました。
しかし血の復讐者(殺された人の親族は殺した人に復讐することをゆるされていた)はこの避難都市の外でいましたので、あることが起こらない限りこの「避難都市」外には出られませんでした。
よってある意味で「血の罪」を課せられていたとも言えます。
これと同様の制度を設ける必要があると感じますな。
しかし今の日本の司法制度というのは非常に流動的で、非常に公平性に欠けるものなのでこのような事は全く期待できません。
これは世界の司法制度を見ても感じますが、特に日本の司法制度の基準は低レベルだと感じますな。
メリハリがないですよね。
駄目なことは断固駄目なこととして基準をはっきり示さなければならないと感じるのです。
まあ所詮は人間の管理の下にある組織だから仕方がないのかもしれませんがね。
陪審員制度が導入される予定ですが、司法の知識を国民ももっと取り入れて学ぶ必要があるということなんでしょうかね~。
おいらは法律だけではなく医療に関してもある程度は知識を持つ必要を感じます。
もっと理解を求める方法を追求していくべき分野というのは多いですな。
おいらは無責任です。
でも可能な限り出来ることはしていきたいと考えています。
しかし無能なおいらにとって生きていること自体に責任を感じるのです。
世の中には起こしてしまった事態に責任をとる見本など皆無と言っても良いほどです。
モノを作るメーカーなどを見ても事態が悪化してからしか行動を起こそうとせず、最悪の結果を招かなければ認めないこともざらでその間にも被害者が増えていくということは世の常となっています。
近年の例を挙げるならばヒューザーの小島進さんと姉歯秀次被告等によるの耐震偽装、三菱製等の車の欠陥などの事故、松下電器製等の石油ストーブによる死亡事故、パロマのによるガス湯沸かし器のガス漏れによる死亡事故など人が複数の事故もしくは事態が社会的に認識され、最悪の場合である死亡という自体が複数発生しなければ事態の収拾をしようとしない会社が多く、このような問題に真摯に取り組んでいるメーカーというのは非常に稀です。
信用というのは築くのにかなりの時間が掛かりますが、信用を失うのは非常に簡単です。
また多くのメーカーが勘違いしていることは問題を認めないことが信用を失わない最善の方法であると考えていることです。
このことがより問題を大きくしている原因であり、最悪の事態を招いているとも言えます。
また一度悪いことをしてしまうとそれを貫き通すことに終始し、事態を認めないことも多いですよね。
これは耐震偽装問題を招き貫き通そうとしたが、事態を暴かれたことから明らかです。
「因果応報」というのは必ずあって悪いことを常としているとそれがばれていないことが普通になると感覚が麻痺して、それを続けていると必ず見分けることが出来る人でてくるはずです。
ヒューザーの小島進さんを見ていると人の資産をなんだと考えているのだろうか?と疑問を感じます。
この人に限らないことですが、問題が発覚して明るみに出ても謝るどころか被害者面までする始末です。
あれはどうなんでしょうかね~......
見ている方が恥ずかしいですな。
彼のすべてを否定するつもりはありませんが、彼の指示の元に姉歯が設計し建設が進んでいったことは周りの人が証言しているのです。
この点では「モラル」というか「倫理」がないと言っても良いでしょう。
人間の傾向として良いことでも悪いことでも「慣れる」ということがあります。
これは良いことではその状態が満たされると「満足できない」と言う事態を招き、悪いことでは悪いこととは考えないようになる「麻痺」を起こします。
良い意味でも悪い意味でも「慣れる」事というのは簡単なんですな。
技術を開発するには重要な「慣れる」という事は感情面では非常にネックになり得るのです。
技術の進歩や新たなことに挑戦することはある程度のとまどいや慣れない作業があり、それをこなせるようになることは重要です。
そしてそのことがこなせるようになることを「慣れ」と呼びます。
これは大切なことです。
しかし感情的な「楽しい」事というのは慣れてしまうと楽しく感じなくなりますよね。
むしろつまらないことにまでなりかねません。
加えて人間の傾向として腐敗的な傾向がありますのできちんとした基準(モラル、倫理)などを常に確認しないと「悪いこと」をしようとする傾向があります。
そしてもし悪いことを1度でもするとそれがその人の基準に成り代わります。
これは「ただの一回」、「初めての1回」ではありません。
その人にとって悪いことを始めて以降のすべての基準に成り代わるのです。
そしてそのことを常用するようになると悪いことをエスカレーター式に、そして加速度的に行うようになり、悪いことしか考えないようになります。
これはおいら自身にも当てはまるので人のことを批判する立場にはありません。
しかし人を死に追いやるほどのことはしたことがありませんし、他の人の資産を軽率に扱うようなことをしたことはありません。
でも書いてある通り人間というのは腐敗的でその傾向を示すと悪い方へまっしぐらなので細心の注意を払って避けていきたいと願っています。
少なくとも迷惑を掛けたならば素直に謝たいと考えています。
無責任なおいらがこんな事を書いても意味がないのかもしれませんがね。
欧米化が進んでいるメーカー各社の対応を見ていると
「謝罪することは敗北を意味する」
と言う考えが浸透しつつあります。
これはどうなのでしょうかね~。
おいらは逆に早期の段階で過ちを認め、謝罪し、その事態の収拾に奔走するメーカーの方が好感が持てます。
これは国民性の違いから起こっている問題なのかもしれませんがね。
日本人は謝罪する国民だとよく言われます。
「土下座」などはよく見かけますし、「腹切り」などは責任の取り方の最たるモノです。
おいらは少なくとも死を持って償わなければならないと感じることはあります。
事態の収拾が出来ず、その責任を感じているのであれば立場を放棄する辞職というのは当然であり、もしくは資産があるのであれば無給で仕事をすることは当然だとも感じる訳です。
裁判などで多くの資産を有している人は罰金などが科せられることがありますが、あれはすべての資産を没収された上で課せられるべきだとも感じる訳です。
金がある人はなんの苦労も無しに犯した罪を簡単に贖えることは非常に公平性、公正性に欠ける事態だと結論せざるを得ません。
それに対して不可抗力や避けられない事態に対して責任をとらなければならず、多額の罰を追わなければならない人もいます。
古代イスラエルには「避難都市」という制度があり、これは故意に犯した罪ではない場合に血の罪(殺人)は問われない事を意味していました。
しかし血の復讐者(殺された人の親族は殺した人に復讐することをゆるされていた)はこの避難都市の外でいましたので、あることが起こらない限りこの「避難都市」外には出られませんでした。
よってある意味で「血の罪」を課せられていたとも言えます。
これと同様の制度を設ける必要があると感じますな。
しかし今の日本の司法制度というのは非常に流動的で、非常に公平性に欠けるものなのでこのような事は全く期待できません。
これは世界の司法制度を見ても感じますが、特に日本の司法制度の基準は低レベルだと感じますな。
メリハリがないですよね。
駄目なことは断固駄目なこととして基準をはっきり示さなければならないと感じるのです。
まあ所詮は人間の管理の下にある組織だから仕方がないのかもしれませんがね。
陪審員制度が導入される予定ですが、司法の知識を国民ももっと取り入れて学ぶ必要があるということなんでしょうかね~。
おいらは法律だけではなく医療に関してもある程度は知識を持つ必要を感じます。
もっと理解を求める方法を追求していくべき分野というのは多いですな。