Mulgray’s Domain

Mulgrayの日記(独り言)

憂鬱な…

2005-12-27 17:59:36 | 作曲
何と無く気分がすっきりしない日々を送っています。
落ち着ける人は受験について余裕のある方でしょう。


それはそうと終業日に友人の一人から

「最近は作曲とかはしないの?」

と聞かれ、久しぶりに作ってみたくなりました。

とはいえ、精神的に不安だらけな状態で作曲などできるわけもなく、
いやそのまえに受験生が作曲なんかしていていいのかと……。

過去に作曲したときは長いときで一曲あたり八時間とかかかってましたから
一日がかりのイメージがあったんですよね…。

でも結果的に作ってしまいました。
とても気分がすぐれず、何か気分をぶつけられるかなという期待から
着手すること一時間…。

http://www.geocities.jp/mulgray/MP3/yamiyo.mp3
(注:上のリンクを右クリック→対象をファイルに保存、でお願いします)

これが一時間でできあがったノイズです。

今の私の気持ちの一割くらいは反映してると思います。

はぁ……応援団とかが横にいてくれたらいいのに……。

今日も独り言

2005-12-16 14:52:47 | Weblog
昨日で試験も最終日を向かえ、昨日の帰りは最後だと思ってバレーに参加、そして帰りも二名の友人に連れられて新宿へ寄ってみた。

もっとも私は新宿へは用がなかった。本来なら真っ直ぐ家に帰るはずだが、やはりこれも最後になるのだろうということで経験を積むつもりで友人について行くことにした。

片方の友人にしてみれば私が新宿へ行くのが何故か面白いことらしく、写真まで撮られた。私は電気街じみた所なら大体行ってるつもりだからそう珍しいことではないのだが。

その友人としては私を電気街とは大分違った場所へ連れて行きたいらしかった。
メールで他の友人にも私がその場所へ行くことを伝えているらしく、また伝えられた相手さえ面白がっているようだから手に負えず、勝手にさせておくことにした。

実際のところ、一概に言えば私はゲーム売り場へ連れて行かれたと思う。

この学校の友人にはいつまでたっても理解してもらえないと思うが、私はゲームそのものにそんなに関心はない。正直にそう感じている。

私は、ゲームに使われている技術に興味があるだけで、ゲームそのものにはたいてい数日もたたないうちに飽きてしまう。もちろん例外もあって、数ヶ月ほど遊んだことのあるゲームもあるが、やはりゲームをやろうと思うよりは技術を見ようとしてゲームを始めるのがきっかけであるのには変わりがない。

どんな技術を見ているのかと友人が聞いてくれればいいのだがそんなことを言うわけもない。私としては実際には影の処理やカラーまたはバンプ等のテクスチャーの解像度、物理計算の完成度や風の再現、布の接触判定、炎の表現手法ならびにパーティクル描画、3Dオーディオなどの完成度を気にしてやまないのだが……。

2D系統は基本的にただ描画関連にしか研究心が向かず基本的には3Dの方が興味があるのはこのためだ。

それは置いておいて、私は友人にはただ萎えたと言っておいた。
ただし、場所に対してだけ萎えてるのだと思われていたのは間違いない。

君たちに対して萎えているんだが。

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私は大学に受かったらとりあえず今の学校の友人の多くとは仲良くやっていけるとは思えない。

私は趣味と、大学で研究したいことが大体一致しているのだが、
一見した限りでは友人の多くは私とは傾向が完全に食い違う。そしてその友人同士ではある程度同じ趣味がある。例えばゲームに関してそのように見える。

他人なのだから食い違いは当然のことなのだが、私が高校以前からしばしば感じてきたこととして、皆同じ趣味を持ちたくてこのように趣味を流れに任せている部分がありはしないかと思うのである。無意識領域下であるとしても。

趣味は何だと聞かれて素直にゲームと答えている人を信じられないのはこのあたりの考え方に基づいている。趣味というのはそもそも探求して終わりのない性質というのがどこかにある。しかしゲームは少なくとも探求ではないと私は思っている。既成物を取り込んでいくのがただ好きなだけに過ぎないのではないかと。自分自身で探求はしていない。だから私にはそれほど価値はない。

大体はゲームは読書くらいのものととっていい。ただし読書は、読む側がそれを書いた人の考えや異なる読み方を探求するところがあるが、ゲームはどうだろうか。時間の無駄だとたまに思うのはこのあたりのことが主な原因である。

とりあえずここまで言えば仲良くはできなさそうだと想像できる。

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ここまで書いたのだから人間のもう一つのパターンも書いておこう。

昨日のこの時の友人の一人は私の言っている事が矛盾しているようだとかわからないとか感じて笑うことがある。本人としては恐らく意識せずに。ただ嫌な笑い方ではないからぎりぎり許される感じだろうか。

ところでこの笑いについてだが、紙一重のところで相手の気持ちの想像が変わる。
とりあえずこのある友人について言えば、余程自分に自身を持っておられるようである。この人は絶対自分が正しいと思っているに違いない。

もちろん本人にそんなことを問えば即座に否定されるに決まっているが、
そのあたりが余計腹立たしいところである。本人にいくら意識がないとはいえ、他人の意見をその人自身が可笑しいと思っていない理由に対して何も考えずに笑うのは馬鹿らしい。

このときこの笑った人の考えとしては、まずその人は自分を世間一般の常識の塊であると決定して、自分の感覚を勝手に正当化していると思われる。

そもそも「普通」とか言うのは当人にとって従う考え方がないときに無難な考え方を探すためにあるもので、人の考えを最初からこれに当てはまるようにすることに何の意味もない。

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さてここまで書いてきて、後者の方を書いている途中にこれを自分に当てはめてみた。

するとやはり感じていたとおり自分にも当てはまる時があるようなのである。
それはどんな時かというと、自分の予想している、もしくは考えられる範囲から相手があまりにかけ離れた考えを持っているときである。

つまりあまりに「変」だと感じると、もはや相手の考えなどわからないということで理解しようとさえしない可能性があるのだ。

こうなってくると大変困ったもので、謙虚になってたってそう簡単に直せるものではないし、逆に言われる側になったときにそれをこのパターンがきたということで解釈して受け流すことで解決するしかなさそうだということになってくる。

大変居心地が悪く感じられるが、しかしこの程度の処理は実は普通に会話しようとしたときは自然になされるものだから、結局は話すときにあまり曖昧なことを言わなければ大丈夫だと思う。あくまで自分の意見であるとし、常識などというものを持ってこなければ解決するだろう。

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結論として友人たちに対して少なくとも一度以上は思ったことを正直に書いてみる。

「大学入った後も、そんなことを続けるのでしょうか。」

今の物騒な世の中、こんなことを言ってると本当に煮るなり焼くなりされそうだが、こういったところだけは、我々の学校の人は違うだろうと信じてみる。

わかるだろうけど、友人に対して、私はよく怒りを覚えてはいるものの滅多に口には出さないことにしている。それに、その方が自分が外から見て本当に可笑しいときでも特に害が無いため……。

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ほら、仲良くできそうにはないでしょう。

本当にそうなら多少残念なことです。

まぁ実際のところ、高校にて私と本当に話が通じるような人は一人もいませんでしたから…。

大学で考えのわかりあえる人を探すかな……。いなかったりしてw 有り得ますね

受験生に光あれ

2005-12-14 00:49:10 | Weblog
世はそろそろクリスマスだそうですね。
雪も降ったとか…。
確かに寒くなってきました。
でも実は心が冷え切っているともう訳がわからない感じでどうでも良いのです。

私は…
受験生、受験生…受験生……

……そう言えば推薦だとかその他でもう我が高校にも戦線離脱者が結構います。
友人も言ってましたがこれは我々にとっては一足早く決まってもいない浪人の気分を味わわせることになるのです。

別にだからといってその人が嫌だとかいう風にはなりませんが。

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何故私ってこんなにも頑張れないんでしょうかね…。
使ってる時間は他の人と変わらない訳ですが…。

でも単純に今の状況を見直してみれば
目の前にはたった一つだけやけに高いハードルがあるだけなんです。
いくら助走したってロイター板使ったって超えられないようなハードルが一つだけ…。

しかしそれは誰にでも超えられると言われています。
頑張っているうちにどんどん低くなっていくハードルだそうです。
何をどう頑張ればいいかについても既に決められています。

落ち着いて手順を踏めばどんなに厳しそうに見えていたとしても超えられるそうです…。

だとしたら何が私をここまで駄目にしているのでしょうか。
私自身にこれ程気力を阻害するものがあるとは思えません。
私自身は、ある程度なら嫌いな物事でさえ何も感じず引き受け続けることができるように思えます。

実はハードルを越えようとして走ろうとしたときに私の近くにももっと形相の凄い人がたくさん走っているのに気づきました。
そして走り出してみると、だいぶ先へ行ってる人々に気づきました。
そしてそのうちの何人かは、超えるだろうと思っていたハードルへの道から横へそれてそのまま素通りしていってしまいました。

気づいたらまた周りに誰もいなくなり一人で走っています。
近くにいた集団がさっさといなくなってしまった模様です。
しかし錯覚も起こっている模様で、だいぶ先にいるように見えたりだいぶ手前に見えたりしている人もいます。
ハードルも同様、距離感がつかめなくなってしまっていました。

そして疲れからか心労からか、朦朧として自分の状態がわからなくなり、どの程度の力が残っているのかもわからなくなりました。

そして少し前に、心臓が破れて血が内部で流れ出しているような感覚に囚われました。

いつしか私は呪いのような暗い闇に包まれていて、周りに人も見えなければハードルもほとんど見えなくなりました。

外から、ハードルへ向けて走る者への応援が一瞬聞こえたような気がしましたが、それは私に向けても言っているようには全く聞こえませんでした。

私は過去に一度ハードルを飛んだときの記憶を必死に思い出そうとしました。
でも記憶自体はすぐにでてくるのに、そのときの気力の源がわかりません。

当時も一度闇に包まれかかっていました。
ところが完全に包まれるか否かのときに何かで闇を一気に浄化したようです。

そのきっかけは結局良くはわかりません。
でももしかしたら当時のそれは親の応援だったのではないかと今頃思えてきました。

しかしそれが正しいとすると、今の私には闇を切り裂くのに何が有効なのかはわからないことになります。
そもそもわかっていたら今頃視界は良好なはずです。

この必要なものというのが、本当にこのハードルを超えようと思っているかどうかという気持ちそのものだとは言われていたような気がします。
しかしこの気持ちは私でも持っているはずです。

ではどういうことかというと、どうもまだ気持ちの強さが足りないようです。

ハードルを越えたらやりたいことはいろいろあるし、ハードルを越えたその向こうに行ってこそさらに超えられるハードルへ向かいたい気持ちもあります。
しかしこれらは錯覚の影響もあってか、ハードルを越えなくてもできるように見えてしまう瞬間があります。
つまり、ハードルを越えるための決定的動機にするにはどうも甘いようなのです。

それではどうすればいいのかとなると、人それぞれ解決法が違うようです。
私の場合の解決法は私が見つけなければなりません。

一つ可能性があるのは、一般的には避ける手法なのですが
逆にハードルを越えなかった場合に自分がどうなるのか、本当に錯覚のようなことがありえるのかを真剣に考えてみることでした。

私の場合ハードルを諦める時点で、推薦やAO等をとっていた訳ではないので
浪人しか選択肢は無くなります。

――私が国立しか狙っていないのを知っている人なら
私学、専門学校を狙えばいいとおっしゃるかも知れません。

しかし私は、説明しきれない程多くの理由があって国立しか狙えません。
一番決定的な理由は、父が亡くなってお金がそんなにないことが挙げられます。

本当にそう思っているならもっと頑張ってるはずだと思われるかもしれません。
しかし実際気が滅入る方が先行するばかりで、そうでもなかったのです――

浪人してしまうと、私が十八歳を迎えたことによる遺族年金の減少もあって
さらに家の状態が悪化してしまいます。

そうすると、ただでさえ二浪はできないという緊張の上に
受験に専念するなんてことがもうできなくなるかも知れません。

そうすると私は何処へ行くのでしょうか。

得体の知れない職場に就くか、いや大学を出ていないとかなり就職口は減りますから最悪の場合フリーターとあまり変わらない状況になるかもしれません。
こうなると延々と将来不透明の日々を送り続けてくることになります。

最近は学歴全く関係ないという職が特にIT系で増える傾向にあります。
もしかしたらそんなところへ行くことになってしまうのかもしれません。

私についてある程度知っている方ならIT系就職は私にとって嬉しい筈だと思うかも知れません。
しかしそう思っているならIT系職業について認識が甘すぎると思います。
昼も夜も関係ないような人間離れした生活では私の身は恐らくそう長くはもたないだろうと思います。
そうでなくても作業内容にしてもIT系であればなんでも良いなどというのはとんでもない話です。
我侭に見えるかもしれませんが、しかし私は自分の嫌なことはしたくないというのではなくて、私のやりたかったことを実現させたいのです。

他にも、自分というものが本当はどうしたいのかがわからない、恐らく幸せになりたいだけなのだろう、と思っている人を見たことがあります。

この期に及んで私にも同じ傾向が現れてしまったのかもしれません。
しかし私は、これとは違った心が存在することを知っています。
私が高一くらいのときに、とにかく何かを開発したくてがむしゃらに趣味に打ち込んでいたときのことは良く覚えていますし、いくつか、それが大成功したという経験も持っています。
元は些細な一言二言のふざけたような発言から始まり、しかし段々にそれを大発展させていった思い出があります。

こういったときの心は、幸せになりたいとかいうものよりさらに高次のものだったと思います。
求めること、実現させることに関して貪欲でありながら、しかし最高の正統さであったと信じています。

私は、この心を永遠のものにするために、必要なハードルを今越えなければいけない、ということだったのです。

どうか、見守っていてください。越えさせてください。お父さん。ばあば。みんな

そして私は、自分でだけ自分を励ましつつ、全力を出さなければなりません。

どうか我々に光を。