誰でも自由なこころで 時代小説「かもうな」掲載中

江戸時代の仙臺藩髙橋家に養子に入った治郎の生涯を愛馬のすず風を通して描いた作品です。時代考は本当に大変でした。

かもうな 集約(11)時代小説

2024年03月03日 19時27分38秒 | 日記

かもうな

一番手の日野助五郎は騎乗するのやっとでとてもスタートできる状態でなく

馬も乗り手を馬鹿にして全然動こうともしない状態だ。二番手の佐伯定右衛

門は日頃の訓練の成果がでてどうにか歩いているが、これまた馬が乗り手を

馬鹿にして勝手な方向に向いて歩き始めたものである。三番と御用馬方の声

が響くと治郎を乗せたすず風の足が地面を掻いて空を描く、治郎は手綱を開

きすず風を行きたい方向に誘導する。手綱は革製で伸縮があり治郎の意思を

的確にすず風に伝えた。背筋を張り坐骨を伸ばし治郎はすず風の疾駆を助け

る姿はまさしく人馬一体と言えるだろう。

 

右に清流青葉川(広瀬川)、左に青葉山峡谷を望み、遥かには花壇が見えた。

すず風は放たれた蝶のように追廻馬場を幾度となく駆け抜けた。いよいよ”

立ち透かし”の大技に入る。治郎は手綱を抑え馬場に弧を描くようにすず風を

誘導する。”袋をしっかりと踏みしめ走行の衝撃を吸収し、腰より上の安定

を図りつつ馬脚を一段と早くした。すず風の軀はすでに汗で濡れていたが、

それに答える力は十分に持ち合わせていた。

 

治郎とすず風はその時何を思っていただろうか。この世で生を受け互いに

出会えた喜びと、二度とは繰り返しがきかない人生の大切さを感じていたに相違ない。

 

※居鞍乗りとは、和式馬乗りであり我が国独特の騎乗の仕方。現代の乗馬は

馬の左側から乗るのに反して和式馬乗りでは右側から乗る。その理由は左の

腰に刀を帯びていて騎乗のとき刀の鞘が馬の腹に当たるためという。

 

※立ち透かし技とは、鐙に特徴があり和式鐙は袋のような造りになってお

り、その造りにより乗馬の安定が増しまるで地面に立っているかのごとく

安定し、矢を正確に打てるようにするための技。

 

集約(12)に続く


かもうな 集約(10)

2024年03月03日 10時53分14秒 | 日記

かもうな(時代小説)

楠木治郎著

 

仙臺城の古絵図面

1  治郎が訓練した追廻馬場、左側の2が青葉川(広瀬川)

養父時右衛門の追廻馬場での訓導、すず風との触れ合いによって治郎が馬の

名手になるのは時間のもんだいだけであった。これまで養父は「”五島”(ごと

う)を忘るな、馬とて人と同じぞ」と治郎を戒めてきた。確かに治郎とすず風

は血を分けた兄弟も同然であった。

 

※「五島」とは後藤信康が愛馬で、伊達政宗公に献上され大阪冬の陣の際は老

齢のため参陣することができなかった。それを嘆き仙台城本丸から身を投げた

伝説の名馬である。また一説には元の飼い主後藤信康恋しさに身を投げたと言

う説もある。現代ではこのような伝説も知る人が少ないのは残念である。

 

当時、仙臺藩では百石以上は軍役規定により馬上出陣が義務付けられていたが

、なにせ泰平の世の中である。持ち馬を所有するのは比較的地位のある裕福な

武士だけの特権となっていた。

治郎の話に戻る。一方、追廻馬場では若い藩士の騎乗鍛錬が行われていた。始

めに御用馬方の指示に従い馬の手入れをする。本来は中間の役目だが鍛錬中は

自らが藁の束子で優しく毛並みを整える。それが終わりに近づくと馬について

の講義が始まる。運動前には飼葉を与えないっこと、馬の胃は消化不良を起こ

しやすいので飼葉は数回に分けて与えること、後方から馬に近づかないこと等

こと仔細にわたっての講義がある。

※和馬は西洋の馬と比べると強健で小柄である。何しろ80㌔もある鎧武者を乗

せて走るのだから強健だったことは間違いない。

 

さて、追廻馬場では若い武士達も騎乗訓練が始まろうとしている。最初は”居

鞍乗り”から始まり、それを習得したら馬上の人となる。厩頭の号令を受けて

騎乗し一人づつのスタートすることになる。

・・・集約(11)に続く・・・