誰でも自由なこころで 時代小説「かもうな」掲載中

江戸時代の仙臺藩髙橋家に養子に入った治郎の生涯を愛馬のすず風を通して描いた作品です。時代考は本当に大変でした。

かもうな 集約(9)

2024年03月02日 21時06分21秒 | 日記

かもうな

話は次郎の幼き日に戻る。

次郎は幼い時から動物が大好きであった。白石では三毛猫をかわいがり

昼は肩に乗せ夜は共に寝た、描く絵には必ず馬がある程馬が大好きであ

った。養父時右衛門はそのような次郎の性格を的確に見抜いていた。

馬市に次郎を連れ出したのはそのような事情があったからである。

 

養父時右衛門の過っての愛馬疾風(はやて)は十数年前に亡くなってい

る。それ以来二度と馬を飼うことはなかった。疾風(はやて)が愛おし

かったからである。その後、彼は己から馬への未練を捨てた。しかし次

郎の人生はこれからである。幸いにして次郎は利他の心を持ち合わせて

いる。この子を伸ばすには大好きな馬を与え己の力で自分が選んだ道を

貫き通させることが大切だと時右衛門は考えた。

※利他の心とは仏教用語で「自利利他」と言い、自分が幸せになると

同時に他人を幸せにすることと説いている。龍樹菩薩は「利他者即是

自利」(他を利するはすなわちこれ自らを利するなり)と説いている。

 

さて、次郎が養子に入って間もなく養父時右衛門は「馬相図」「解馬

新書」を与え次郎に読み聞かせた。とくに次郎のお気に入りは馬相図

であり、躍動感溢れる馬の絵が色鮮やかな色彩で描かれているおり、

次郎は片時もその本を離さなかった。馬事に関する知識が次々と次郎

に吸収されるを見届けながら伊達家伝来の「大坪本流武馬必要」で馬

医術を学ばせ次郎15歳のときすず風を与えたのである。

 

16歳になり仙臺城の追廻馬場での乗馬訓練が始まった。いつも傍には

養父時右衛門が付き従い馬術の基本である”居鞍乗り”から始まり”立ち

透かし”の技を伝授している姿があった。

当時、仙臺城城内の追廻馬場は仙台藩士子弟の乗馬訓練の場所とされ

長さは約200間程あり青葉川(広瀬川)河岸にありその敷地には北厩、

中厩、馬繋舎が配置され、藩の御用馬数十頭余りが養育されていた。

集約(10)に続く

 

 

 

 

 


かもうな 集約(8)

2024年03月02日 15時32分00秒 | 日記

かもうな

思わず治郎はその子馬に駆け寄り頬釣りをした。子馬は治郎が来るのをまるで待っていたかの

ように軀を治郎に預けた。運命とはどのような出会いを生むか分からない。神はすず風と言う

駿馬を治郎に授けたのである。馬を飼うについて養父時右衛門は一つだけ治郎に約束させた。

すず風の手入れはすべて次郎が行うこと、只それだけであった。それからの治郎は常にすず風

と共にあった。夜は厩舎ですず風と寝、朝起きては水やり、飼葉を与え、毛並みを整え周囲を

散歩する日課が続いた。月日が巡るのは早いものである。宝暦2年(1752)次郎は19歳の凛々し

い青年、すず風は逞しい6歳駒にと成長していた。子馬の時には目立たなかった白い七班がくっ

きり見えて際立っている。

幸福をもたらす馬

幸福をもたらすという”七班”とは

宮城県塩竈市に奥州一宮 塩竈神社が鎮座している。春には桜が咲き誇り花見客でも賑わう

ところでもある。そこに”七班”由来の幸福をもたらすと言う御神馬の由来がある。

では七班とは何を称するのかと疑問が湧くのではないのでしょうか。七班とは馬の特徴を表

しており、上の御神馬金龍号の写真ををご覧頂きたい。白の模様が七ッあるのが分かるかと

思います。つまり、鼻筋に一、舌筋に一、四脚に四、尾尻に一の白い班で、この班がある馬

は非常に珍しく「才馬」とも呼ばれ、よく神社などにも奉納される特別な馬になりまさす。

 

塩竈神社御神馬略記には、文和5年(1356)奥州探題によって寄進され、延宝3年伊達四代の

綱村公から伊達家が寄進し十三代伊達慶邦公まで続いたと記載されています。残念ながら馬

の需要が減り昭和55年宮城県鳴子町で参し奉納された「金龍号」が最後となりました。

 

運命とは不思議なものである。もし治郎との出会いが無かったらすず風は、おそらく一生駄

馬として苦難の道を歩んだことであろう。運命の神は治郎に駄馬を与え駿馬にする試練を与

えた相違ない。

集約(9)に続く

 


かもうな 集約(7)

2024年03月02日 11時23分57秒 | 日記

かもうな

すず風

江戸時代の仙臺は良馬の生産地だったことは余り知られていない。

城下の辻の下(芭蕉の辻)から国分町にかけての馬市は近隣在郷から遠くの在郷

などから馬を連れて市にかける。それを「仙臺馬市」と呼び、市は毎年3月上旬

から4月上旬まで国分町を上、中、下と分かれて、一日交代で開催される。

仙臺藩では藩行政の大きな柱として「仙臺産馬仕法」を定め、勘定奉行の支配下

に馬生産方なる役目を置き、二歳馬の登録、馬市の開催を奨励したとある。

説明が長くなったがこれが現代では考えられない数百年前の仙臺の姿である。

 

養子に入ってからはや4年が過ぎ、寛延元年(1748)治郎は15歳になった。養父

時右衛門の訓導そして養母お豊の育愛をうけて治郎は利発な子に育っていた。

空だった髙橋家の馬の口(厩舎)には可愛い子馬「すず風」が繋がれていた。

寛延元年(1748)4月治郎は養父と共に恒例の馬市に来ていた。よく手入れ

の行き届いた馬、体格が良い馬には大勢の人が群がり品定めをしている。馬市

馬市の薄暗い北側路地を覗くと駄馬として売られるのだろうか薄汚れた馬たち

が数十頭が雑然と繋がれていた。手入れなどされていないその軀の馬毛には泥

汚物などがこびり付き独特な異臭を放っていた。その中の一頭の子馬が目に入

った。その子馬の左右の眼から涙が筋のように流れ一筋の帯になっていた。

それを見た次郎は一瞬金縛りにあったかのようにその場を動けなくなった。

 

養子入ってからはや4年、次郎は幼きながらも自分の境遇を甘受し、養父母の

前では泣き顔一つ見せずに生きていた。それは次郎とってもはや戻るべき道が

ないからである。もし戻ることができたなら治郎の人生は大きく変わったことだろう。

きっと治郎はこの子馬に幼き日の自分を見たのだろうか。白石を出る前の晩、

治郎は泣いた、父は泣くなという、母は思い切り泣けという、しかし父も泣いていた。

集約(8)に続く