ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

日光街道を歩く(22:日光東照宮 )   栃木県日光市 (2017.1.4)

2017-02-07 04:12:18 | Weblog

(写真は、修復された日光東照宮の”眠り猫”)

本日は、午前中に、日光街道の最後の宿場である「鉢石(はつ
いし)宿」の見物を既に終え、午後は「世界遺産・日光
東照宮」を見物してから横浜に帰る予定です。

日光東照宮の見学の前に、”幕末の日光(鉢石宿、杉並木、
東照宮)”について説明しておきたいと思います。

鉢石宿の外れの金谷ホテルへの登り口のところに、次頁の写真
の「板垣退助像」があります。
何故、ここに「板垣退助」の像があるの?

板垣退助の像がここに建ったのは、戊辰戦争のときに、
新政府軍と旧幕府軍がここで衝突した際の以下のエピソード
によるものです。

「錦の御旗」を掲げて北上を続ける新政府軍に対し、旧幕府軍
は「東照大権現の御旗」を掲げて交戦します。
最も激戦となった宇都宮城の攻防戦で勝利した旧幕府軍は、
勢いに乗って、日光を拠点にして会津藩や仙台藩と連携して、
連合戦線を築こうと「日光廟」へ向かいます。
また、宇都宮城の攻防戦で負傷した土方歳三らは、「大鳥
圭介」率いる旧幕府軍に合流して、会津藩士らと共に
「日光廟」に立て籠もりました。

日光廟に立て籠もった大鳥圭介軍に対し、地元の僧侶は、
東照宮を戦火から守って欲しいと、旧幕府軍と新政府軍の
双方を説得します。
この説得を受け入れて、「板垣退助」は、旧幕府軍が会津への
撤退を完了するまでの間は、攻撃を差し控える旨、大鳥圭介に
伝えます。
大鳥圭介は、板垣退助との約束を信じ、旧幕府軍は日光廟を
抜け出して、会津まで退きました。
こうやって、東照宮は、戊辰戦争の戦火から辛くも逃れること
が出来たのでした。

また、この一方で、これに伴う悲劇も起きました。
東照宮の参道を下りた突き当たりの所に、下の写真の「八王子
千人同心」碑が建っています。

碑には、「日光火之番 八王子千人同心 顕彰之燈」と刻まれて
います。
「八王子 千人同心 」の役目は、東照宮の警備であり、千人
同心の頭1名と同心50名で、半年交代で警備していました。
新政府軍が日光に進軍して来たときの千人同心の頭は、石坂
弥次右衛門(やじえもん)でした。
弥次右衛門率いる八王子千人同心は、大鳥圭介率の指示に
従い、刀を交えることなく、日光廟を新政府軍に明け渡し
ました。
その後、弥次右衛門は、千人同心の仲間達から、戦わずして
日光廟を明け渡したと非難されます。
任を解かれた弥次右衛門は、八王子に戻りますが、帰郷した夜
に切腹しました・・・

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)
アーネスト サトウ
岩波書店

幕末の英国外交官だったアーネスト・サトウは、親しい間柄
だった大隈重信に、戊辰戦争の戦況を聞いた内容を、
「一外交官の見た明治維新」の中で、以下の様に書いています。
(岩波文庫:上下各840円)
13日に日光付近の今市で戦闘があり、官軍はこれに勝って
進撃中である。
大隈重信の藩主である肥前侯は、今市の町のある下野
(しもつけ)まで進撃した自藩の部隊から、 藩主自ら攻撃の
指揮に当たる様に要請されたが、家老達がその出陣を思い
止まらせた。
そして、旧幕府軍が日光廟を抜け出して会津まで退いた後に、
大隈重信から聞いた話しとして、以下の様に書いています。
進撃中の官軍が長岡を占領したあとも戦闘は続いており、
両軍の損害は共に多く、新潟は未だ会津藩士の手中にある。
官軍は、地歩を確保しながら増援を待っているが、増援部隊
が到着すれば、白河と秋田から来援する部隊をも加えて、
一気に会津の首都・若松まで進撃する予定である。


「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡ると、正面に上の
写真の「杉並木寄進碑」があります。
この碑は、大沢宿の手前にあった碑と同様の趣旨の「杉並木
寄進碑」です。
日光杉並木は、川越城主の松平正綱・信綱(別名”知恵
伊豆”)の親子が、二十数年をかけて20万本余りを植栽
しました。

現在は、日光街道と例幣使街道、会津西街道の計37キロに
わたり約12,000本が残され、唯一、特別史跡と特別天然
記念物の二重指定を受けています。

明治5年、アーネスト・サトウは、宇都宮宿で人力車を
手配し、杉並木の中を走り抜けて「鉢石宿」に宿泊しました。
このとき、サトウは、初日に宿泊した脇本陣から、翌日は旅籠
へ、その翌日は他の旅籠へとたらい回しにされます。
徳川幕府の聖地だった日光の人々は、明治初期には、未だ
外国人の宿泊を忌み嫌っていたらしいです。
江戸時代には、日光山の門前町として大いに栄えた「鉢石宿」
も、サトウ一行が訪れたこの頃には、幕府の庇護もなくなり
寂れかけていました。

明治政府は、財源確保のために、日光杉並木の大量伐採を計画
していました。
アーネスト・サトウは、英国大使を動かして、杉並木の文化
価値を明治政府に強く進言、伐採を思い止まらせました。

「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡り、石段を登ると、
もう「日光東照宮」です。

日光東照宮への入口である「日光橋」の左手には、上の写真の
「神橋(しんきょう)」があります。
この朱に塗られた橋は、奈良時代の1250年に、「勝道上人」
によって創建されたと伝えられる国の重要文化財で世界遺産
です。
このアーチ型の木造反り橋は、山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋
と共に日本三奇橋と呼ばれているそうです。
神橋の下を流れるのは、大谷川の清流で、神秘的な雰囲気が
漂います。
この様な神秘的な風景の中で芭蕉も句を残しています。
”あらたうと 青葉若葉の 日の光”
(青葉や若葉に差し込む日の光は、この日光山のご威光そのもので、実に尊いものだ。)
そして、日光橋の右手前には、次頁の写真の「天海上人像」
があります。
天海上人は、108歳で亡くなるまでの間、徳川家康・秀忠・
家光の三代にわたって相談役として仕え、家康死後は東照宮
の創建に尽くした「日光山中興の祖」です。
それにしても、江戸時代に108歳とは凄い!



前頁の「日光橋」を渡ると、いよいよ日光東照宮へ向かう
上りの石段です。

東照宮は、1617年、二代将軍秀忠によって造営され、三代
将軍家光によって建て替えられて、現在の豪華絢爛な社殿群
になっています。
徳川家康を祀る境内には、国宝8棟、重要文化財34棟を含む
55棟の建造物が並びます。
東照宮は、今回、私が行った時は、数十年に1度の平成の
大修復中でした。
境内に15ある重要文化財の社を、順番に修復してゆき、
全ての社の復中が完了するのは12年後だそうです。

上の写真は、「輪王寺三仏堂」ですが、ここも残念ながら、
約50年ぶりの大修理が、約10年の歳月をかけて行われて
います。

しかし、修理の第一段階として、三仏堂の大伽藍を覆う
「素屋根」が平成23年に完成していて、ここに「展望見学
通路」が設けられています。
ここからは、三仏堂の屋根頂上と同じ高さから修理現場を
見られるので、逆に貴重な見学が出来ます。


東照宮の表門を入り、陽明門へ向う途中の有名な”三猿”は、
前頁の8面のうち左から2番目(赤丸印)の画の「見ざる、
言わざる、聞かざる」の部分だけが修復を終えています。


三猿の左右は、誕生から親になるまでの一生を、8面に
分けて表しています。

上の写真は、日が暮れるのも忘れると言われる程に装飾が
豪華な「陽明門」ですが、こちらも残念ながら修復中でした。


上の写真は、有名な国宝「眠り猫」です。
こちらは、丁度、60年ぶりのお色直しを終えたばかりで、
色鮮やかに復元されています。

修復前は、猫は目を閉じていましたが、資料に基づき、
何と!、目を開けた姿にして修復したそうです!

目を閉じている様にも見えますが、家康を護るために、目を
細めて、いつでも飛び掛かれる姿勢をとっているのだそう
です。

次頁の写真は、その「眠り猫の裏側」の2羽の雀で、平和な
時代を象徴しているらしいです。


眠り猫は、江戸時代初期の作品で、左甚五郎作との伝承はある
ものの、作者不明だそうです。


前頁の写真の五重塔では、ちょうど塔の内部の初公開を
やっていました。

(東照宮五重塔の心柱特別公開(300円))


上の写真ではちょっと分かり辛いですが、心柱(しんばしら)
の下は浮いており、塔と分離した心柱は、免震の機能を
果たしています。

そして、この心柱の技法は、東京スカイツリーに活かされて
いるそうです。

そうか!

入場のときに配られたクリアファイルに、五重塔と並んで
スカイツリーの写真があるのはそう言う意味なんだ!



上の写真は、「輪王寺大猷院(たいゆういん)」の山門で、
三代将軍家光の霊廟です。(550円)

この大猷院の本堂も、残念ながら修復中でしたが、下の写真
の鐘楼などは見られました。



東照宮を凌いではならないという家光の遺言により、黒と金を
基調とした落ち着いた造りに抑えられているそうです。





完訳 日本奥地紀行1―横浜―日光―会津―越後 (東洋文庫)
イザベラ・バード
平凡社


最後に「家康の墓」に行きますが、ここについては、
明治11年に書かれた英国旅行家のイザベラ・バード
「日本奥地紀行1」(平凡社:3,240円)に記載された
「家康の墓」についての紀行文に、私の写真を挿入して
ご案内します。


 「家康の墓」へ行くには、東回廊に設けられている坂下門を
 くぐり、苔や二輪草の緑が目立つ石畳の参道に入って行く
 ことになる。

 墓は、207段の石段を上った山の頂きの一番奥の高い所、
 家康を称えて建立された全ての社殿を背後から見下ろす
 かの如くにあった。




 大きな石積みの上に青銅の壺が乗る簡素な墓(宝塔)で、
 そこに家康の遺骸が眠っているのである。

 宝塔の前には、石の台が置かれ、その上には、青銅の香炉と
 青銅の鶴が乗っている。



 私は、石垣、石畳の参道、石段、石棚の柱石にも感服した。


 これらは全て、漆喰やセメントを用いずに、極めて精密に
 ぴったりと組み合わされている。

 このため、260年も経っているのに、継ぎ目は、雨にも
 湿気にも根付こうとする植物にもほとんど侵されていない。
 
 背後の山に生成する杉の大木は周りを昼なお薄暗くして
 おり、木漏れ日が斜めに差し込むだけである。

 周囲の自然が、偉大な将軍の荘厳な墓を、悲しみをたたえ
ながらすっぽりと包んでいる。

(以上、イザベラ・バード「日本奥地紀行1」から : 私の
文章ではありません、念のため・・・



東照宮を出て、東武日光駅から、JR新宿駅行きの東武電車に
乗って、横浜まで帰ります。


東武とJRとの相互乗り入れの電車に乗るのは始めてです。


ps.
日光街道踏破の全行程は、ホームページ(「中山道を歩く
(完全踏破の一人旅)」
)の欄外に、「日光街道」として補記追加しました。

また、ホームページ(「東海道五十三次を歩く(完全踏破の
一人旅)」
)もありますので、こちらも併せてごらん下さい。

今後予定している奥州街道/甲州街道や横浜東京近辺の
ウォーキングは、引き続きこのブログ「ウォーク更家の散歩」
(http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie)でご覧下さい。
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日光街道を歩く(21:鉢石) 栃木県日光市 (2017.1.4)

2017-02-06 14:20:03 | Weblog

(写真は、「鉢石宿」の地名の由来となった「鉢石」)



昨晩宿泊したJR日光駅前の「日光ステーションホテル
クラシック 」で朝食をとり、ホテルの直ぐ近くの
「鉢石(はついし)宿」に向かいます。

日光街道には、21の宿場が設けられ、「鉢石(はついし)
宿」は、最後の21番目の宿場でした。

鉢石宿も、日光街道の”地名ルール”の通りに、日光に近い方
から順に、上鉢石、中鉢石、下鉢石の順に並んでいました。
鉢石宿は、本陣2軒、旅籠19軒で、人馬継立問屋は中鉢石宿
に1か所ありました。


完訳 日本奥地紀行1―横浜―日光―会津―越後 (東洋文庫)
イザベラ・バード
平凡社

英国の旅行家であるイザベラ・バードは、「日本奥地紀行1」
の中で、明治11年の鉢石宿について、以下の様に書いています。

「勾配のきつい屋根と深い庇(ひさし)を持つ家々が続き、
色合いが暖かく、所々に段差のある急勾配の道をなす
「鉢石」の長い表通りにはスイス的な美しさがある。
この町の通りは息が詰まるほどに清潔だ。」

(バードの見た鉢石宿 :「聖地日光へ」(隧想舎)から)

鉢石宿の中を通る街道は、日光山に向けて、少しずつ上って
います。


街道沿いには、両側に土産物屋が並びます。


街道を暫く歩いてから、右手に入って行くと、写真の
「竜蔵寺」があります。

境内には、上の写真の「畠山重慶の墓碑」があります。

1213年、日光山・座主の弁覚は、重慶が謀反を企てていると
鎌倉幕府に訴え出ます。
将軍実朝は、重慶のこれまでの功績を勘案、事実をよく調査
するつもりでしたが、先走った下野国の長沼五郎が、重慶の首
を切って鎌倉に届けてしまいます。
怒った実朝は、弁覚らを責めて再調査をさせ、その結果、謀反
が誤解であったことが判明します。
弁覚は、自分の誤解から起きたこの事件を悔い、この「竜蔵
寺」を建てて、重慶を供養したそうです。
この「畠山重慶の墓碑」の横には、戊辰戦争で戦死した下の
写真の「芸州(広島)藩八戦士の墓」もあります。

葬られているのは、ほとんどが20代の若者で、最年少は
17才だそうです・・・
竜蔵寺の奥の稲荷神社に、写真の「西行戻し石」があります。

籠を背負い鎌を持ってこの石の上にいた子供に、西行が「小僧
どこへ行く?」と聞くと、子供は「冬萌(ほ)きて 夏枯れ草
を刈りにゆく」と答えました。
(麦は、冬には青々としていて、夏に収穫の時期を迎えるので、
麦のことを「冬萌きて夏枯れ草」と言うそうです。)

西行はその意味が分からず「それは何だ?」と聞くと、「世に
あまねく知れる麦という草を知りたまわずや?」と笑われて
しまいます。
西行は「手強い相手だ。歌比べでは勝てそうにない。」と、
名もない子との問答に負けた自分が恥ずかしくなって、
この場で黒髪山を拝して、日光を見ずに引き返したそうです。

「西行戻し石」の隣りに、次頁の写真の「西行法師歌碑」が
ありました。
”ながむながむ 散りなむことを きみも思え くろ髪山に
 花さきにけり”
(じっとよく見て、桜が散ってしまうのを感じなさい。
くろ髪山(日光山)に桜の花が咲きましたよ。)



日光街道に戻って少し歩くと、上の写真の「そば処 魚要」
がありますが、ここが「入江本陣」の跡地だそうです。

そして、その先の街道沿いの青空駐車場の裏の本陣だった
「高野家」の庭に、芭蕉句碑が少しだけ垣間見えました。

上の写真の様に、何故か、芭蕉句碑は、この個人のお宅の
庭の中です・・・

更に、街道の右手の脇の坂を少し下ったところに、写真の
「鉢石」がありました。


「鉢石」は、鉢を伏せた様な形状の直系2メートルの石で、
「鉢石(はついし)宿」の名前もここから来ています。

日光山の開山の祖である「勝道上人」が、この石に托鉢の鉢を
置いて一休みしたのが、この「鉢石」の由来だそうです。

「はちいし」ではなくて、「はついし」と読みます。

日光街道に戻ると、その先に「鉢石山 観音寺」の案内板が
あったので、急な石段を上って行きます。

この観音寺は、弘法大使の開基と伝えられ、石段を上り詰めた
山門からは、日光街道の鉢石宿が一望出来ます。





日光街道に戻ると、上の写真の”日光の美味しい水”「磐裂
霊水」(いわさくれいすい)がありますが、この辺りまでが
鉢石宿でした。

日光街道(日光道中)のゴールです
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日光街道を歩く(20:今市)栃木県日光市 8km (2017.1.3)

2017-02-05 23:17:09 | Weblog

(写真は、戊辰戦争のときの官軍の砲弾が当たった跡が残る「砲弾打込杉」)

早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、JR宇都宮駅へ
向かいます。

JR宇都宮駅で、JR日光線に乗り換えて、上の写真のJR今市
駅で下車します。
前回のゴールだったJR今市駅の近くの「追分地蔵」へ向かい
ます。

「今市宿」は、1868年の「戊辰戦争」の兵火により町並みの
ほとんどが焼失してしまい、江戸時代の宿場町の雰囲気は何も
残っていません・・・

「日光街道」は、「追分地蔵」のあるここ「追分」で、
「例幣使(れいへいし)街道」と合流します。

「例幣使街道」は、朝廷の勅使が日光社参するための街道で、
中山道の倉賀野宿が起点で、この追分が終点です。




(追分地蔵は赤丸印、日光街道は赤色線、例幣使街道は水色線、
国道119号は黄色線、日光街道の杉並木は上の2本の茶色線)

一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)
アーネスト サトウ
岩波書店

幕末の英国外交官だったアーネスト・サトウは、著書
「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:上下各840円)
の中で、「例幣使(れいへいし)」について以下の様に
書いています。

例幣使の家来達は、僅かな権威を笠に、自分達に敬意を
払わなかったという口実で、金銭を強要するのが常だった。
例えば、品川宿で、敬意の表し方が足りぬと、18人の人々を
捕らえて罰金を科した。
例幣使は地位が高く、大名すら駕籠からおりて土下座しな
ければならず、庶民はもちろん、下級武士ですら例幣使の
通る道筋を避けていた。
その様な状況下、アーネスト・サトウに、警護の侍が、
「この先で、”野蛮人ども(例幣使一行のこと)”に遭遇
するかも知れません」と警告します。
すると、その夜、宿場の宿屋に、例幣使の家来が、”毛唐を
出せ!”と叫んで乱入し、アーネスト・サトウを切ろうと
しますが、警護の侍に撃退されます。
この撃退劇を聞いた宿場町の人々は、手を叩いて喜びました。 
 例幣使が如何に人々に嫌われていたか、よく分かります。
その後、この英国外交官の殺人未遂事件について、幕府は、
英国大使からの強硬なクレームに対処せざるを得なくなり、
この例幣使の家来を死刑に処する決定をします。
サトウは、処刑に立会って確認するかと幕府から聞かれます
が、その必要はない、幕府を信用している、と処刑の立会い
を断ります。
この殺人未遂事件については、後日談があります。
このとき、サトウを守った警護の侍は、会津藩士・野口富蔵
でしたが、サトウは命の恩人として、野口を4年間ロンドン
大学に私費で留学させました。
この事件後、間もなく明治維新を迎えたため、サトウが遭遇
した例幣使一行は、歴史上、最後の例幣使となりました。




例幣使街道との追分には、上の写真の「追分地蔵」が祀られて
います。 
追分地蔵は高さが2メートルもあり、石のお地蔵様では関東一
の大きさです。

この地蔵は、元々は東照宮の付近に祀られていたのですが、
大洪水で、今市まで流されて、半分埋もれていました。

石工が、地蔵の肩を叩いたところ血を流したので、彫り出して
今市の如来寺に祀りました。

しかし、毎晩夜泣きしたため、故郷を見渡せる現在の場所に
移したところ泣き止んだそうです。

この追分の少し先で、街道を右折して、細い道に入り、「二宮
尊徳」を祀る「報徳二宮神社」を参拝しました。


徳次郎宿で説明しました様に、二宮尊徳は、小田原藩で財政
再建に手腕を振るいました。

更に、その後、諸国の農村を再興させたことにより、老中・
水野忠邦に認められて幕臣となり、1852年に日光神領で
あったこの地に赴任しています。





そして、日光での農村復興のため力を尽くしましたが、
1856年、ここ今市宿で70歳でその生涯を閉じました。
尊徳は、”墓石は建てるな”との遺言を残しましたが、
尊徳を慕う人達によって、境内に前頁の写真の「二宮尊徳
の墓石」が建てられました。
報徳二宮神社に隣接して、日光社参時に将軍が休息した下の
写真の「如来寺」があります。

また、如来寺は、先程説明しました様に、日光から洪水で
流されて来た追分地蔵が最初に祀られた寺でもあります。


上の写真は、街道沿いの「今市宿市縁ひろば」です。

この広場には、食堂や、日光市観光協会の観光案内所などが
あり、土産物も販売しています。


お昼過ぎだったので、ここで「日光ゆば蕎麦」(1,250円)
を食べました。


上の写真は、街道沿いに設置されている「いまいちの水」
で、”ご自由にお飲みください”とあります。

”今市の水は美味しい”と言われ、この様に数カ所に水が
飲める場所があります。



いまいちの水の先の左手に、大きな杉の玉を下げた1842年
創業の前頁の写真の「渡邊佐平商店」がありました。


上の写真は、街道沿いの名物”日光みそのたまり漬け”を売る
「上澤梅太郎商店」です。

私はこの店で、お土産に写真のたまり漬けの詰め合わせを買い
ました。


上の写真は脇本陣跡で、玄関の前に、フクロウの上に猫が
乗っている石像が2体立っています。


更に街道を歩いて行くと、宿場町の外れに、前頁の写真の
今市宿の総鎮守の「瀧尾神社」があり、江戸時代には、
ここに今市宿の出口の木戸がありました。

瀧尾神社は風車を祀る神社でもあり、写真の様に、奉納された
風車が並べられています。

瀧尾神社の辺りから、日光街道の最後の宿場町である「鉢石
(はついし)宿」へ向けて、再び、長~い杉並木が始まります。




上の写真は、今市宿の外れの杉並木の入口で、左端は杉並木と
並行して走る国道119号です。

ここから、杉並木と東武日光線の間に挟まれた「杉並木公園」
が、1キロにわたって続きます。


「杉並木公園」の道の横に沿って、とても綺麗な小川が流れて
います。


公園の入口近くには、上の写真の「朝鮮通信使 今市客館跡」
の碑がありました。
朝鮮通信使の日光社参の際に接待するために、ここに館を
設けたのだそうです。


更にその奥には、「大水車」や、そば粉を挽くための「水車
小屋」もありました。



そして、公園の更に奥には、前頁の写真の名主の家
(旧江連家)が復元されていました。

「杉並木公園」の左側には、写真の杉並木が続きます。





杉並木公園が終わると、瀬川村に入ります。


瀬川の集落を抜けると、左手に、下の写真の「瀬川の大日堂」
があり、その前に石仏群が並んでいました。

ここでは、信仰の厚い村人によって、念仏供養や庚申が盛んに
行われたそうです。

日光街道は、行けども行けども巨木の杉並木で、荘厳さに圧倒
されます!

更に、杉並木を歩いて行くと、右手に「砲弾打込杉」の案内板
がありました。

戊辰戦争のときに、日光へ退却する大鳥圭介率いる幕府軍と、
この地まで追撃して来た谷干城率いる官軍とが、この地で
熾烈な戦闘を展開しました。

この激戦の際に、官軍の砲弾が当たった跡が杉に残って
います。

更に、美しい杉並木が続きます。

所々に、車の通行ができる区間もありますが、ほとんどが
歩行者専用で安心して歩くことができます。



やがて、右手に、写真の「野口の薬師堂」がありました。




 
ここは、竜蔵寺跡の薬師堂で、上の写真の大きな石の釣鐘が
地面に置いてありますが、これは、奉納されたときに龍頭が
壊れてしまったために、現在まで放置されたままになって
いるそうです。

上の写真は、ここ七里村の総鎮守の「生岡(いくおか)神社」
と生岡大日如来の道標で、生岡神社はここから奥に入った
ところにあります。

やがて、日光街道は、国道119号線に合流すると、車の量が
多くなる上に、歩道は狭くて歩きにくくなります。
間もなく、右手に、杉並木の中で、一番大きくて姿が美しい、
と言われる「並木太郎」がありました。

胴囲5メートル余り、高さ38メートルの巨杉ですが、
これまでに見て来た他の杉も巨木なので、飛び抜けて
大きい、という印象は受けません。


並木太郎から杉並木を暫く歩くと、上の写真の「明治天皇
七里御小休所跡碑」がありました。
明治9年の東北巡幸の帰途の小休所だそうです。


更に、国道119号線を進んで行くと、上の写真の様に、
日光連山と東武鉄道の線路が見えてきます。



JR日光線のガードをくぐり、再び杉並木の歩道に入ると、
間もなく、下の写真のJR日光駅に到着しました。



JR日光駅の先には、東武日光駅があります。

上の写真の東武日光駅の前に広場があり、この広場の辺り
に、次の「鉢石(はついし)宿」の「木戸」がありました。

今晩は、JR日光駅の前の下の写真の「日光ステーション
ホテルクラシック 」に宿泊します。
(1泊2食付き:16,500円)


この日光街道踏破を通して唯一の宿泊です。
     



 
このホテルで、今晩、日光街道踏破の前祝い
してから、明日、最後の宿場の「鉢石宿」と「日光東照宮」
を見物する予定です。

今市宿から鉢石宿までは、約8キロです。
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日光街道を歩く(19:大沢) 栃木県日光市 8km 2017.2.6

2017-02-04 22:47:35 | Weblog

(写真は「並木ホテル」?!)

杉並木寄進碑を左手に見ながら杉並木を暫く歩くと、次の
大沢宿に入ります。

大沢宿は、度重なる大火のため、現在は宿場町の面影は全く
ありません・・・

大沢の地は、源頼朝が狩りに訪れた際に、広大な荒地だった
のを見て、4人の家来に開拓・居住させたのが始まりだそう
です。



大沢の町並みに入って少し進むと、直ぐ右手に、源頼朝を
祀った上の写真の「王子神社」があり、その境内の大銀杏は
樹齢200年だそうです。

王子神社から暫く歩いて行くと、下の写真の「水無(みず
なし)の一里塚」(別名・大沢の一里塚)がありました。




一里塚の少し先で、杉並木が途切れますが、ここから先が
「水無」の集落です。

ここの名主の清兵衛の庭に生っていた梨の実の水気が多かった
事から、村人が「水梨」と呼んでいたのが「水無」の地名の
由来だそうです。


水無の集落に入ると、街道の左手に地蔵堂があり、その横に、
上の写真の様に、数体の供養石が並んでいました。


水無の集落を過ぎると、通行量の多い車道は杉並木の左側に
外れるために、街道は、車のほとんど通らない静かで鬱蒼
とした杉並木になります。

行けども行けども杉並木で、心が弾みます!

そして、通行量の多い車道の更に左側には、写真の日光名物・
甚五郎煎餅の工場などが点在しています。



この快適な杉並木道を暫く歩いて行きますが、やがて街道は
国道と合流し、杉並木は途切れて森友の集落に入り、下森友
のバス停があります。

下森友のバス停から先からは、再び、快適な長~い杉並木道に入ります!

杉並木の整然とした美しさと、江戸時代からの長い時間の
重みに圧倒されます!

その長くて鬱蒼とした杉並木をどんどん歩いて行くと、写真の
「並木ホテル(七本桜の一里塚)」がありました。

右手の「七本桜の一里塚」の塚の上には、大杉が生えており、
その根元が腐って大きな空洞になっています。

この空洞部分は、高さと幅が2メートルくらいあり、大人が
4人くらいは入れそうなことから「並木ホテル」と呼ばれて
いるそうです!

ええっ!、”ホテル”というのは、この空洞のことなの?
私は、「日光街道には有名な並木ホテルがある」と聞いていた
ので、この大杉が目印の「並木ホテル」という名前のホテルが
実在するのだとばかり思い込んでいました。

とんだ早とちりでした・・・

並木ホテルの内側が黒く炭化しているのは、昔、村の若い衆が
雨宿りしたときに、焚火をしたためだそうです。




その並木ホテルを過ぎると、大きな道路と交差し、更にその先
で、東武日光線のガードをくぐって歩き続けます。



やがて、上の写真の「追分地蔵」のお堂が見えて来ました。

この辺りから、もう次の「今市(いまいち)宿」です。

大沢宿から今市宿までは、約8キロです。

夕方になったので、ここ追分地蔵の近くの下今市のバス停
から、路線バスでJR宇都宮駅へ向かいます。

JR宇都宮駅に着くと、勿論、今回も、帰りの電車の乗換えの
待ち時間を利用して、駅構内の餃子屋に入ります。

やはり、本場の餃子は、大きくて、香りも良くて、ジューシー
で美味しい!


写真の餃子(290円)を満喫出来て大満足でした。


ps.
ここで、今回の「日光街道歩き」の交通機関についてまとめて
説明しておきます。

東京都内から宇都宮宿までは、常に、東武かJRが、本数も
多く、ずっと平行して走っていたので、中山道に比べると
各段に楽勝でした。

しかし、宇都宮宿から日光の手前の今市宿までの間は、並走
する鉄道がないので、今回唯一、踏破計画が必要な区間でした。

しかし、バス路線図を調べてみると、それは杞憂であることが
分かりました。


これから、日光街道を踏破予定の皆さま、ご安心下さい!

何と!、宇都宮宿から日光までの間、バス路線は、ほぼ1時間
毎に、ピッタリと旧日光街道沿いに走っているのです!
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日光街道を歩く(18:徳次郎)栃木県宇都宮市 9km 2017.1.10

2017-02-03 07:47:43 | Weblog

(写真は、「うらない地蔵」)

日光街道の18番目の宿場町「徳次郎(とくじら)」に入り
ました。
ちなみに、徳次郎の交差点の信号は、「とくじら」では
なくて、「とくじろう」になっていました。

どうも行政上は「とくじろう」になっているらしいのですが、
一般的に昔から読み方は「とくじら」に統一されており、
地元の人は実際には「とくじら」と読んでいるらしいです。

そして、日光宇都宮道路の徳次郎インターチェンジの看板は、
ずっと「とくじら」でしたが、最近になって「とくじろう」に
変更されたらしいです。

「徳次郎」の地名は、この地に居城を構えていた宇都宮氏の
家臣の「新田(にった)徳次郎」に由来するそうです。

徳次郎宿も、日光街道の”地名ルール”の通りに、日光に
近い方から順に、上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎宿
の順に並んでいます。
徳次郎宿は、この三宿で一宿を形成し、問屋場は各宿にあり
ました。
そして、宿場町としての人馬継立の業務を、月の上旬を
中徳次郎宿、中旬を上徳次郎宿、下旬を下徳次郎宿が
各々務めたそうです。

江戸時代には、「下徳次郎」バス停の辺りから、下徳次郎宿の
町並みが、中徳次郎宿へとずっと続いていたそうです。

しかし、現在は、本陣や問屋場などの宿場町の痕跡は何も
無く、大谷石の家や蔵が点在する程度です。





下徳次郎バス停の先の左手に、上の写真の「薬師堂」の門が
あり、その奥に「薬師堂」の本堂と「薬師堂の石仏」があり
ました。「薬師堂の石仏」は3体あり、前頁の写真の左端は、
1731年に造られた宝塔造りの「六面憧(どう)六地蔵」で、
その右側は、「十九夜塔」で、正面上部に「如意輪観音」
が彫られています。

上の写真は、右端の「馬頭観音」の側面で、「右 山道 
左 氏家・白沢道」(赤線部分)と刻まれ道標を兼ねていた
そうです。


薬師堂の道路向いに、「徳次郎城跡」の看板があったので、
矢印に従って、鬱蒼とした寂しい林の中へ入って行きます。



「徳次郎城」は、宇都宮城の北方の守りとして築城され、
宇都宮氏の家臣・新田徳次郎の居城でしたが、1597年の
宇都宮家の滅亡と共に廃城になりました。
現在は、内堀・外堀とそれに伴う土塁が残っています。

徳次郎城跡から、旧日光街道に戻り、冨屋小学校を右手に
見ながら進み、中徳次郎バス停、徳次郎交差点を過ぎると、
写真の「智賀都(ちかつ)神社」がありました。

この神社は、778年に、日光三社の分霊を勧請したもので、
徳次郎の鎮守です。

ここで夕方になったので、智賀都神社の近くの中徳次郎バス停
から、路線バスでJR宇都宮駅へ向かいます。


JR宇都宮駅に到着。

JR宇都宮駅で有名なのは、駅のコンコースにある上の写真の
「餃子の像」です。

以前にJR宇都宮駅に来たときには、この像は、バス停の端の
分かりづらい場所にありましたが、現在は、上の写真の
目立つ場所に引っ越ししています。
(昔の「餃子の像」については、2013/1の「JR烏山線の
 沿線散策」
を見てね。)

この”餃子の像の引っ越し”の際に、委託を受けた業者が
クレーンで像を持ち上げようとして、地面に落として
しまい、餃子の像は真っ二つに割れてしまいました!!

当時のTVニュース等で、「この”宇都宮の聖体(?)”が
真っ二つに割れるという不吉な事件で、これから先、宇都宮
にどんな災いが起こるのだろうか?」と大きな話題になり
ました。


私はと言えば、このところ、宇都宮餃子にすっかりハマって
しまい、帰りの宇都宮駅での餃子とビールを楽しみに、日光
街道を歩く様になってしまいました・・・

今回も、帰りの電車の待ち時間を利用して、JR宇都宮駅の
構内の餃子屋に入ります。

やはり、本場の餃子は、大きくて、香りも良くて、ジューシー
で美味しい!

写真のW餃子(12個550円)を満喫出来て大満足でした。


翌日、早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、
JR宇都宮駅へ向かいます。

JR宇都宮駅の前のバス停から、路線バスに乗って、前回の
ゴールだった「中徳次郎」(なかとくじら)へ向かいます。
    

前回は、ここ中徳次郎バス停の近くの「智賀都(ちかつ)
神社」を参拝しました。

入口の2本の大欅は、樹齢700年の「長寿の夫婦ケヤキ」で、
県の天然記念物です。

智賀都神社を通り過ぎて、次に、街道の両側に民家が並ぶ
「上徳次郎」(かみとくじら)の狭くて歩きにくい歩道を
進んで行きます。

上の写真の1軒の民家の表札を見ると館野とあります。
案内本によると、この辺りが館野本陣の跡となっているので、
この家にお住まいの方は館野本陣のご子孫かも知れません。

やがて、上徳次郎宿の町並みの外れに「上徳次郎」バス停が
ありますが、この辺りまでが「徳次郎宿」でした。

徳次郎宿を抜けると、やがて車道よりも一段高い歩道が
続きます。

その歩道上に、1840年に建てられたという「十九夜塔」の
観音の石仏がありました。



そして、十九夜塔の道路向いに、上の写真の「石那田の
一里塚」の碑が見えました。



更に進むと、1655年創建の上の写真の旧石那田村の鎮守の
「石那田八坂神社」 があり、案内板によると、厄除けの
天王祭が毎年7月に行われているそうです。



少し歩くと、道路の反対側の脇に、「二宮尊徳先生遺跡 
石那田 堰(せき)」の案内看板が見えました。

歩道から車道へ下りて、その看板の矢印に従って脇道に入って
行くと橋があり、その下を流れる川に堰と取水口がありました。

川岸には、お馴染みの薪を背負って読書する「二宮金次郎碑」
が建っています。
案内板によると、二宮金次郎は、幕府の命により、1852年
に、日光神領であったこの地に赴任しています。

金次郎は、この川に堰を設ける等して「六郷用水」を築き、
この辺りの6地区の田を潤すなど、日光の荒地の開墾に
尽くしたそうです。
えぇ~!、そうだったんだ!
二宮金次郎は、我が地元の神奈川県の二宮町で活躍した人だと
ばかり思い込んでいました・・・
こんな所で、大々的に荒地開墾のための用水造りなどをして
活躍していたなんて、全く知りませんでした!

ここ「石那田」(いしなだ)は、昔は、石が多くて耕作が
困難な荒地だったので「石灘」と書いたそうです。


旧日光街道に戻り、右手に、次頁左の写真の「金勢様」の
祠を見ながら、道路より一段高い歩道を歩き続けます。



石那田バス停、海老王子バス停、松本バス停と歩き続けると、
歩道の脇に、下の写真の「うらない仏」がありました。


説明版によると、この石仏は、1730年、八代将軍吉宗のとき
に疫病が流行したために作られたそうです。

病の箇所と石仏の同じ箇所に赤い布を巻くと回復するとして、
信仰を集めたそうです。


石仏の前には、三個の丸石が並べてあります。

石仏に願をかけ、3個の丸石のどれか1個を持ち上げて軽く
感じれば願いが叶うとの言い伝えがあり、「うらない地蔵」
と呼ばれているそうです。

私も持ち上げてみましたが、簡単に持ち上がりました。

「うらない地蔵」から、たいぶ歩いてから、丸石を持ち上げた
ときに肝心の願掛けをするのを忘れた事に気付きました・・・
私は、願掛けのために丸石を持ち上げたのでは?
う~ん、これは認知症の始まり?・・・


やがて、上小池のバス停と過ぎると、右手の林の中に
「新渡(にわたり)神社」があり、この神社を過ぎると、
間もなく、宇都宮市から日光市に入りました。



気持ちのいい田舎道を歩いて行き、山口のバス停と過ぎると、
街道はY字路になりますが、旧日光街道はこのY字路の右の
脇道に入って行きます。


このY字の中央奥に、次頁の写真の中央の「杉並木寄進碑」
がありました。

この寄進碑は、日光神領と宇都宮藩の境界の境石(さかい
いし)だったそうです。

寄進碑の説明版によると、ここの杉並木は、川越城主の松平
正綱・信綱(別名”知恵伊豆”)の親子が、1625年から、
二十数年をかけ紀州熊野から取り寄せ、20万本余りを植栽
したものだそうです。

この杉並木寄進碑を左手に見て暫く歩くと、間もなく、次の
大沢宿に入ります。


徳次郎宿から大沢宿までは、約9キロです。
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日光街道を歩く(17:宇都宮)栃木県宇都宮市 9km 2017.1.7

2017-02-02 14:39:18 | Weblog

(写真は、将軍家光の暗殺計画の舞台となった「宇都宮城」)

宇都宮城見学の前の予備知識として、有名な「宇都宮城
”釣天井”(つりてんじょう)事件」について、説明して
おきます。

三代将軍・徳川家光が日光東照宮を参詣した帰り道、宇都宮城
に1泊することが決まりました。

これを知った宇都宮城主・本多正純(まさずみ)は、釣天井
(吊り天井)を落として、家光を押し潰して暗殺しようと
企てます。

その工事のために集められた大工の中に与五郎という若者が
いました。
釣天井が出来上がると、秘密が漏れることを防ぐため、大工達
は全員殺されました。

すると、与五郎の恋人・お稲の枕元に、与五郎の亡霊が
あらわれ、殺されたいきさつを告げました。

お稲は、悲しみのあまり、与五郎から告げられた内容を手紙に
残し身投げ自殺をします。

この手紙を、父の籐右衛門が発見し、宇都宮城へ向かう将軍
家光の行列に直訴します。

そのため、家光は、急遽、宇都宮城に泊まらずに、強行軍で
江戸に帰り、命拾いしました。

暗殺計画は失敗に終わり、正純は自害して果てました。
  


(宇都宮城ものしり館の絵物語から)
これが、講談や歌舞伎でお馴染みの「宇都宮城”釣天井”
事件」のストーリーですが、これは後に作られた創作です。

しかし、これが荒唐無稽な創作だと笑えない様な、以下の
歴史上の”事件”が実際に起きています。

1622年、二代将軍・徳川秀忠が日光社参のために江戸を出発
しました。(創作では三代将軍家光に変えてあります。)
秀忠は、往復共に宇都宮城に宿泊する予定でしたが、帰り道、
急に予定変更して夜通しの強行軍で江戸に帰ってしまいます。

一方、本多正純は、山形藩改易の城受取りのために、幕府の
命により山形に出向いていました。
そして、何と!この正純の留守中に、突然、正純は宇都宮城を
取り上げられてしまいます!
このこと自体は、秀忠による家康死後の旧勢力の追い落とし
策の一環だと思われます。
(本多正純は家康の側近として仕えていました。)

このとき幕府は、宇都宮15万石から出羽由利郡5万石に正純
を減俸しようとしますが、正純がこれを固辞したため、幕府
の怒りを買い、正純は横手に生涯幽閉されてしまします。

この秀忠の突然の宿泊予定変更と、正純の幽閉の二つの不可解
な事件が重なったため、後に、有名な「宇都宮城釣天井事件」
の創作を生むことになりました。

さて、話しを日光街道歩きに戻します。
日光線の小さなガードをくぐって宇都宮宿に入ります。

直ぐ右手に、前頁の写真の「蒲生君平(がもうくんぺい)
勅旌(ちょくせい)碑」が建っています。

この碑は、蒲生君平が明治維新に大きな功績があったので、
明治天皇の勅命で建てたそうです。
尊王論のさきがけだった蒲生君平は、宇都宮生まれの学者で、
荒廃した歴代天皇陵を調査、前方後円墳の名付け親でもある
そうです。


蒲生君平勅旌碑の少し先の西原三丁目バス停を右折して、
旧日光街道から外れ、住宅街の中を、東の方向へ向かいます。

歩くこと約10分で、宇都宮城に着きました。










城内に「宇都宮城ものしり館」があり、宇都宮城の模型などが
展示されています。

(「宇都宮城ものしり館」の中の宇都宮城の模型)

説明のボランティアのおじさんに、早速、「宇都宮城
”釣天井”事件」について質問します。
”釣天井の部屋は、この模型の中のどの建物だったの
ですか?”
”ご覧の様に、宇都宮城は全て平屋なので釣天井はありません
でした。”
”えぇ~、釣天井が見たくて来たのに、もともと無かったん
ですか?”
”宇都宮市が、地域興しのために復元した釣天井が繁華街に
飾られていたのですが、反応がいまいちだったので、現在は、
市の北部にある動物園の中に展示しています。”
”えぇ~?、釣天井が動物園の中に!?”


(旧幕府軍の攻撃と城下町の焼失状況:宇都宮城のパンフ
 レットから)

また戊辰戦争の際の宇都宮の様子についても質問してみます。
”戊辰戦争で新政府軍の宇都宮城は何故落城したのですか?”

”宇都宮城をめぐる激戦では、旧幕府軍の新選組・土方歳三
らが、宇都宮城の弱点である南東方面から猛攻撃をしたため
に、お城は落城し、城下町は焼け野が原になってしまい
ました。”
宇都宮城の前のバス停から、バスでJR宇都宮駅へ向い、
JR宇都宮駅から、上野東京ラインで、乗換えなしで
横浜へ帰りました。

しかし、宇都宮と言えば、やはり”宇都宮餃子”!!

帰りの電車の待ち時間を利用して、JR宇都宮駅前の餃子屋に
入ります。

やはり、宇都宮まで来て餃子を食べずに帰る訳にはいき
ません。
う~ん!、本場の餃子は、大きくて、香りも良くて、
ジューシーで美味しい!

下の写真は「12種食べ比べセット」(1,200円)で、
チーズ、ニラ、エビ、椎茸、舞茸、肉など12種類の
餃子を、1皿で満喫出来て、大満足です。



翌日早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、JR宇都宮
駅へ向かいます。

JR宇都宮駅の前のバス停から、路線バスに乗り、西原三丁目
で降ります。

前回は、ここ西原三丁目のバス停から旧日光街道を外れて、
”釣天井事件の宇都宮城”を見に行きました。


再び、旧日光街道を歩き始めると、直ぐ左手に、上の写真
の「台陽寺」があります。



台陽寺の入口には、上の写真の「子育て地蔵」があり、境内
には下の写真の「子安地蔵」がありました。



台陽寺の並びには、下の写真の「熱木(ねぎ)不動尊」が
あります。

熱木不動尊の中は、暗くて見えませんでしたが、1059年に
宇都宮氏が戦勝祈願して彫った木像が安置されているそう
です。

やがて左手の奥に、次頁の写真の「一向寺」があります。





一向寺の参道に、上の写真の”汗かき阿弥陀”の説明板が
ありました。

それによると、世の中に異変が起きると、その前兆として、
この寺の阿弥陀様が、身体全体から汗をかくのだそうです。

関東大震災の前日にも汗をかいたとあります!
驚き!

一向寺の北西の道路向いに下の写真の「報恩寺」があります。

報恩寺の珍しい茅葺きの山門は、1639年の創建当時のまま
だそうです。

戊辰戦争では、旧幕府軍の攻撃で、新政府軍の宇都宮城は落城
しますが、その後、新政府軍の応援部隊が到着します。

この報恩寺の辺りの寺は、宇都宮城の南を固める防御線の役割
を果たしていたので、再びこの辺りで激戦となりました。

報恩寺の境内には、この激戦で戦死した新政府軍の墓があり、
「戦死烈士之墓」と刻まれています。(上の写真)


また、前頁の写真は「戊辰 薩藩 戦死者墓」で、新政府軍の
応援部隊で戦死した薩摩15名、長州2名、大垣3名の名前が
墓石の下の台座の陶板に書かれています。



報恩寺を出て、旧日光街道を歩いて行くと、裁判所前交差点の
T字路に突当ります。
このT字路を右折すると、郵便局の先に、上の写真の「日光
・奥州道中追分」があり、これを左折するのが「日光道中」、
直進するのが「奥州道中」です。
従って、ここまでの「旧日光街道」は、正しくは「日光道中・
奥州道中」です。

つまり、日本橋からここまでの旧日光街道は、「日光道中」と
「奥州道中」の共有だった訳です。

その追分の近くに所に下の写真の「本陣跡」の標識が建って
います。

「貫目改所」もこの辺りにあったそうですが、本陣と共に、
その痕跡すら残っていません・・・

郵便局の先の追分で、奥州街道と分かれて、狭い道の旧日光
街道へ入って行きます。

狭くなった旧日光街の直ぐ右手の坂道を少し下ったところに、
次頁の写真の「延命院」があります。
「延命院」では、明治維新に大きな功績があった蒲生君平が
6才の頃から学んだそうです。

延命院の境内の参道の石畳に沿って行くと、下の写真の
「霊験初音の墓」がありました。

説明板によると、初音は、生家が貧困で、若くして病で頭が
侵されたため、猛烈な頭痛に悶え苦しんだそうです。

初音は、この様な苦しみを世の人々から取除くことを祈り
ながら、18才の若さで、明治15年に息を引き取りました。

この初音観音に祈願すれば、”頭痛・ノイローゼ根治に霊験が
ある”と、今も線香が絶えないそうです。

この「霊験初音の墓」の前に、下の写真の栃木県の「県木・
栃の木」があります。
樹齢350年以上とされる珍しい巨木で、市の天然記念物です。



延命院を出て、坂道を旧日光街道まで戻ると、「宇都宮追分の
一里塚跡」の説明版がありました。
(うっかりして通り過ぎそうになりましたが、一里塚の説明版
は、上の写真の赤丸印です。


その一里塚跡の右手に、上の写真の「桂林寺」があります。

桂林寺には「蒲生君平の墓」があります。


江戸時代には、この桂林寺の辺りに木戸があり、ここが
「宇都宮宿」の外れだったそうです。

旧日光街道は、宇都宮宿を抜けると、直ぐに大きく左折して、下戸祭(しもとまつり)に入ります。



暫く歩くと、Y字型の分岐点があり、旧日光街道は右手へ進み
ますが、この分岐点に次頁の写真の「勝善神(そうぜんしん)
の碑」があります。



「馬頭観音」が馬の健康や死んだ馬の冥福を祈るものに対して、
「勝善神」は名馬の誕生を祈願するもので、「蒼善神」とも
書くそうです。


    
左手に右上の写真の茨城県体育館を見ながら、更に歩いて
行くと、左に曲がる細い路地があり、その奥に次頁の写真の
「高尾神社」がありました。

高尾神社の敷地内には、円墳状の塚「妙吉塚」があり、その塚
の上に、1387年に建てられた下の写真の供養塔「宝篋印塔」
(ほうきょういんとう)があります。

この「妙吉塚」は、南北朝時代の僧・妙吉の墓だそうです。



また高尾神社の敷地内には次頁の写真の「安産子育 地蔵尊」
もあります。

昔、ここ戸祭(とまつり)村に、「新田の四郎」と呼ばれる
大男が住んでいました。

四郎は、自分の背丈を後世に残そうと、上の写真の自分の高さ
と同じ1丈の高さの石柱を建てたそうです。

高尾神社を出て、大きな交差点を過ぎると、上戸祭に入り、
桜並木が始まります。




その桜並木を暫らく歩いて行くと、左手に上の写真の
「上戸祭の一里塚」のヒノキがあり、右手には下の写真の様に
塚だけが残っています。



旧日光街道は、中央に車道があり、両脇に桜と杉の並木、
そして、更にその外側の両方に車道よりも一段と高い歩道
があります。
暫くの間、桜や杉の大木の並木が続きます。
単調な宇都宮市の郊外の住宅地から、江戸時代の旧日光街道の
雰囲気を残す緑に包また情緒ある道に一変しました!

左手に上の写真の宇都宮文政短大を見ながら、更に並木道を
歩いて行くと、その並木が途切れた左手に次頁の写真の
「光明寺」がありました。

ここ光明寺は、将軍の日光社参の際の休息所になっていました
が、寺の前には、立場(たてば)があったそうです。

東北自動車道の高架をくぐると、もう次の「徳次郎
(とくじら)宿」に入り、「下徳次郎」のバス停があります。

宇都宮宿から徳次郎宿までは、約9キロです。
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日光街道を歩く(16:雀宮) 栃木県宇都宮市 8km 2017.1.7

2017-02-01 23:00:15 | Weblog

(写真は、「雀宮」の地名の由来となった「雀宮神社」)


「雀宮(すずめのみや)宿」とは!、”舌切り雀”のお宿を
イメージしてしまう様なファンタスティックな宿場名です!

本陣1、脇本陣1、旅籠38の「雀宮宿」は、日光街道が
開かれたときに新しく作られた宿場です。

そして「本陣職」を務めていた「小倉家」は、もとは宇都宮氏
の家臣で2万石を領していた名門の旧家でした。

雀宮宿に入ると、左手のコンビニの駐車場の脇に、次頁の写真
の「雀宮本陣跡」(小倉家)の碑がありました。

本陣跡の石碑の写真を撮っていると、高齢の上品な2人の女性
の方が、私に話しかけてこられました。

「ここの本陣の小倉家は、このコンビニなどのこの辺りの土地
の所有者で、土地を業者に貸していらっしゃるんですよ。」

「でも、小倉家を守ってきた子孫の跡取りの方が、46才の
若さで、最近亡くなられたんですよ。」

「小倉家が絶えてしまって・・・」

多分、ご親戚の方か、ご近所の方なのでしょう、悲痛な表情
で、上記の様な説明をして下さいました。


「雀宮本陣跡」は、JR雀宮駅入口の交差点の左手前にあり
ますが、交差点の右手前は下の写真の「雀宮脇本陣跡」です。

「本陣跡」は石碑のみしか残っていませんが、「芦谷家脇本陣
跡」は、上の写真の様に、立派な建物を残しています。

「芦谷脇本陣跡」は、写真の様に、現在、改修工事中でした。

脇本陣の先の右手に、「雀宮宿」の地名の由来となった「雀宮
(すずめのみや)神社」がありました。

日光参社の際、将軍はここ雀宮神社に参詣するのが慣例
でした。


「雀宮」の地名の由来については、以下の様な伝説があります。

平安時代の歌人として知られた藤原実方(さねかた)は、宮中
で、藤原行成(ゆきなり)と言い争いをした際に、カッと
なって行成の冠を投げ捨ててしまいました。

これに怒った一条天皇は、実方を陸奥守(むつのかみ)に左遷
してしまいます。

実方の妻の綾女は、後を追って、夫の実方が赴任した陸奥へ
向かう途中、この地に来たところで病死してしまいます。

これを憐れんだ村人は、綾女が持っていた宝珠をこの地に
埋めて祀りました。

ところが、その後、夫の実方も、任地した陸奥で亡くなって
しまいます。

すると、何と夫の実方の霊魂が雀になってこの地に飛来
しました!

そこで村人は、綾女と実方の2人を合祀して「雀宮神社」と
称したそうです。

(「雀宮神社」の由来は諸説あります。


雀宮神社を出ると、この先は余り見るべきものも無く、単調な
旧日光街道(国道4号)を、延々と歩いて行きます。




やがて、「寿鶴(すず)薬師堂」のバス停が見え、バス停の
右手の奥に、上の写真の紫色の「寿鶴薬師堂」がありました。

寿鶴薬師堂の先には、江戸時代には「江曽島(えそしま)の
一里塚」があったらしいのですが、現在は、その痕跡すら
ありません。




しかし、その場所の信号とバス停には、「一里」の地名が
残っていました!



真っ直ぐな国道4号をひたすらに歩いて行きますが、この辺り
は、各社の自動車販売店が続きます。

やがて、「不動前」の信号で、旧日光街道は、国道4号から
分かれて、左へ入って行きます。


「不動前」信号の分岐点の角には、下の写真の
「不動堂」がありました。




お堂の中を覗くと写真の不動明王の石像が収められて
いました。

旧日光街道を少し進むと、前方に東武線のガードが見えて
来ました。
この東武線のガードの辺りは、もう「宇都宮宿」だったみたい
です。

雀宮宿から宇都宮宿までは、約8キロです。
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