ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く「奥の細道」(その34)倶利伽羅峠 (富山県) 2019.4.11


( 写真は、「倶利伽羅峠」(くりからとうげ)

   の「火牛の像」 )



今回は、平家の命運を決した「倶利伽羅峠(くりからとうげ)

の戦い」です。

それでは、先ずは、NHKの「100分で名著『平家物語』」

に沿って、「倶利伽羅峠の戦い」の歴史を復習して

おきましょう。

木曽の山奥から、都に向かって進軍するのは、後白河法王の

息子の以仁王(もちひとおう)から平家追討の命を受けた

「木曾義仲(源義仲)」、これに対し、京の都を出発して、

迎え撃つ平家の総大将は、平清盛の孫の「平維盛

(これもり)」です。
平維盛にとってこの戦いは、先の富士川の戦いで、鳥が

飛び立つ音に逃げ帰ってしまった、という汚名を挽回する

チャンスです。

両軍が激突したのは、越中の国(富山県)と加賀の国

(石川県)の国境に位置する標高277メートルの「倶利伽羅

峠」(くりからとうげ)でした。

維盛軍7万に対し、義仲軍は劣勢の3万です。
軍勢の数で不利な義仲は、計略を巡らします。


兵を小出しにしながら時間を稼いで日没を待った義仲は、

夜になると、上の図の様に、密かに軍勢を分け

(青色のコマ)、平家軍(赤色のコマ)の背後に

迫ります。



暗闇の中、平家の背後の義仲軍が一斉に鬨(とき)の声を

あげ、牛の角に松明(たいまつ)をくくりつけた数百頭の

牛を、平家軍に向けて放ち、平家軍を急襲しました。




 

源氏が背後にいるとは予想もしなかった平家軍は大混乱、

周囲から響く鬨の声にパニック状態になります。

源氏軍がいない方向へと逃げた先は断崖!!、次々と谷底

へと落ちていきました!



維盛軍7万の軍勢のうち、生き残ったのは僅か2千でした

・・・

この倶利伽羅峠の戦いののちは、木曾義仲の入京、平家の

都落ち、と運命の歯車が一気に加速していきます。


木曾義仲は、倶利伽羅峠で平家と戦うにあたり、戦勝祈願

のために「埴生護国(はにゅう ごこく)八幡宮」に立ち寄り

ました。

高岡を出立した芭蕉も、埴生護国八幡宮に参拝してから、

倶利伽羅峠へ向かいました。


我々のバス旅行も、倶利伽羅峠へ行く前に、倶利伽羅峠の

入口にある「埴生護国八幡宮」に立ち寄ります。







境内には、上の写真の「木曾義仲の騎馬像」と、

下の写真の富山の名水の「鳩清水」があり

ました。


 

また、「埴生護国八幡宮」の前にある「倶利伽羅・源平の郷」

の上の写真の建物は、「倶利伽羅峠の戦い」の資料館で、

下の写真の様に、詳しい資料が展示してありました。






埴生護国八幡宮を出た我々のバス旅行は、倶利伽羅峠の

中心部に着きました。

ここは、現在は、歴史国道「倶利伽羅越え いにしえの街道」

として整備されています。


江戸時代には、芭蕉もこの歴史国道を歩きました。


上の写真は「芭蕉塚」です。

”義仲の 寝覚めの山か 月悲し”

朝日将軍と謳われた木曾義仲の末路に涙して、越前の燧ヶ城

(ひうちがじょう)跡で、芭蕉が詠んだ句です。


(火牛の像)


歴史国道からは、前頁の写真と、以下2枚の写真の

紫色の矢印の方向へ、平家軍が逃れようとして

落ちていった谷底が見下ろせます。


 

次頁の写真の粗末な白い杭に書かれた説明によると、

この下に、義仲軍本体2万の陣があったそうです。





(平維盛の本陣跡)


(源平供養塔)


(「源平合戦慰霊之地」と刻まれた石碑)


(展望台)


医王寺、塩釜神社、平泉と、義経の追っかけファンだった

芭蕉ですが、ここ倶利伽羅峠で心変わりしたのでしょうか?



以降は、義経の追っかけファンから、義経に討たれて

しまった義仲のファンに乗り換えたみたいです。

その証拠に、芭蕉は、「奥の細道」の旅の5年後の1694年、

旅先の大阪で客死しますが、遺言により、滋賀県大津市の

「義仲寺」(ぎちゅうじ)に葬られ、現在、義仲の墓と

隣り合わせに静かに眠っています。


倶利伽羅峠を出た我々のバス旅行は、金沢駅から

15:55発の北陸新幹線で、東京へ帰りました。





ps.その後の義仲の末路について

都落ちした平家と入れ替わりに、義仲は、後白河法皇を

伴って京の都に入ります。
しかし、義仲は、ずつと木曽の山奥で育ったため、都流の

礼儀を知らず、公家たちの反感をかい、また、町中では、

途中から参戦したため義仲のコントロールの利かない

部下たちによる略奪が横行します。

やがて、都の人々は、平家の世の中の方がまだましだった、

と囁く様になります・・・
公家たちは、度々、義仲の悪口を後白河法皇に告げ口した

ため、とうとう後白河法皇は、義仲追討へ動きます。
しかし、戦上手の義仲は、この軍勢を打ち破り、後白河法皇

を幽閉してしまいます。

ここで、後白河法皇は、源頼朝に対し、正式の「義仲追討

の院宣(命令)」を出します。

 

院宣が出され、自分たちが朝敵となったことを知った

途中から参戦した兵たちは次々に離反していき、義仲軍は、

元から義仲を慕っていた2千のみとなります。
追討軍6万に追われる義仲は、自害を覚悟し、愛人の巴御前

を逃がします。

 

しかし、自害しようと馬を進める途中で、馬が足をとられた

ところを、追討軍に討ち取られてしまいました・・・


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コメント一覧

ウォーク更家
多勢に無勢でも
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、私も、現地へ行って地形を見て初めて、倶利伽羅峠の奇襲はこういうことだったのか、と納得しました。

まあ確かに、戦は不利とされる方は必至で戦略を駆使しますから、予想外の勝利を収めることも多いのでしょうね。

でも、平維盛は、富士川の戦い等も併せて考えると、多勢ゆえに油断したというよりも、ただ単に戦が下手だったとしか言いようがない気もします。

そう、芭蕉が義仲の隣に葬られているのは遺言だったみたいですね。

そうでしたか、芭蕉の義仲への憧れは、若いころからでしたか。

ええ、私も、自分が田舎者なので、真っ正直で情に厚い義仲には、共感を覚えるところがあります。

今月行くバス旅行で、「むざんやな甲の下のきりぎりす」が詠まれた場所に行くみたいなので楽しみにしています。(このブログでご報告しますね。)

朝日将軍と持ち上げられた義仲が頼朝の差し向けた義経に滅ぼされるという結末は、まさしく、”諸行無常”の「平家物語」の”おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。”そのものですよね。
tadaox
多勢に無勢・・・・だが
https://blog.goo.ne.jp/s1504/e/9d929403b5d350bac4dcb83ab299a610
(ウォーク更家)様、今回のバス旅ことのほか面白く読ませていただきました。
倶利伽羅峠の奇襲、地形図を見るとなるほどこういうことだったのかと納得させられます。

それにしても平維盛は、多勢ゆえに油断したのでしょうか。
戦は不利とされるほうがいろいろと戦略を駆使して、予想外の勝利を収めることが多いですものね。

ところで芭蕉は、若いころから木曽義仲にあこがれていたようですね。
芭蕉は没する前に「骸は木曽塚に送るべし」と遺言していたそうですから、真っ正直で情に厚い義仲に共感を覚えていた節があります。
更家さんが挙げていた「・・・・月悲し」の句のほかに、「むざんやな甲の下のきりぎりす」など思い入れが感じられます。

一時は朝日将軍と持ち上げられた義仲も、まもなく頼朝の差し向けた義経に滅ぼされるという結末を見ると、世の中の哀れひとしおとしか言いようがありません。
鎌倉幕府の背後で操ったものの存在は、一枚上手だったのでしょうか。

ウォーク更家
倶利伽羅峠は狭い
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
確かに、倶利伽羅峠の木曾義仲本陣は狭い場所でした。

全体としても、こんなに狭い場所に、ホントに源氏3万とか平家7万とかがひしめいていたのだろうか?、と思わず首をひねってしまいましたよ。

そうですね、歴史は義仲を田舎者の一言で片づけて冷たいですが、その田舎者の故に、庶民には根強い人気があるみたいですよ。

なるほどね、長い日本の歴史の中で、連綿と続いて今も国民の支持を得ているのは、確かに天皇家だけですね。

次回は、アドバイスに従い、雷門前と駅前以外の場所に浅草のお祭り見物に行ってみます。
もののはじめのiina
倶利伽羅峠 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/a714be71746bd1f175efaf2369d72bd7
倶利伽羅峠の木曾義仲本陣は、狭い場所ですから戦場の惨状を生々しく感じました。
歴史は、義仲を「田舎者」の一言で片づけますが哀れでした。
                            その後、鎌倉幕府も滅びました。
対して、天皇家はしたたかでした。なにしろ、今に連綿とつづいてiinaを含む国民の支持を得ています。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/d2e9bbd8b2629631e8fa221cfec38ec8


> 人混みを避けられる場所もある・・・そのエリアがどこなのか、見当もつきません・・・
「百聞は一見に如かず」と申します。気後れして行かなければ、何事もはじまりません。
                 釈迦に説法でした。旅好き更家さんらしくありませんょ。
浅草寺の街全域にみこし百基が分散してますから、雷門前と駅前を除けばドコでも楽々気安く見物できます。



ウォーク更家
hide-sanさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうでしたか、hide-sanは、奥の細道を歩き始めたきっかけが、倶利伽羅峠でしたか。

倶利伽羅峠は、色々な歴史小説、映画、ドラマなどで出てくるのですが、どの様な場所、どの様な風景なのか、なかなか具体的なイメージが湧かないままでした。

その様な訳で、私も倶利伽羅峠へ行くのが長年の夢だったので、今回、願いが叶って嬉しかったです。
ウォーク更家
はるみんさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
お久しぶりです。

そう、くりから峠は、耳ではよく聴く地名ですが、漢字では難しくて書けません。
なかなか倶利伽羅とは、書けないですよね。

ブログを愛読いただきありがとうございます。

これからも、有名な名前のスポットを詳しくご紹介していこうと思いますのでお楽しみに!
hide-san
倶利伽羅峠
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
倶利伽羅峠へ行きたくて、奥の細道を歩き始めたのですが、
もう行くことが出来そうにもありません。

沢山の写真をありがとうございました。
峠までバスで、あと一時間かけてふもとまで歩く予定をしていました。
ありがとうございました。
はるみん
くりから峠❗️耳では聴いたことがある地名ですが、漢字では倶利伽羅と書くのですね☺️更家さんのブログでは名前しか知らないところが紹介されていていつもおもしろく拝見しています✨ありがとうございます‼️
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