ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

日光街道を歩く(00:日本橋) 9km 2016.7.29


(江戸時代の日本橋の様子を描いた「熈代勝覧」絵巻 ) 

東海道、中山道のスタート時に続き、三度目の日本橋です。

このところ猛暑日がずっと続いていますので、少し暑さが
和らぎそうな日の午前中を選んで、日本橋からの日光街道
歩きを、細々とスタートしました。

日本橋界隈は、江戸で一番人出の多い盛り場だったので、
日本橋の袂には、「高札場」と、罪人の「さらし場」が
ありました。

(高札場跡)
「さらし場」は、現在の交番の辺りにあり、主殺しや心中者の
かたわれ等、処刑3日前の罪人が首かせを掛けられて晒されて
いました。

(さらし場があった辺り)

ちなみに、下の広重の「東海道五十三次」では、橋の右の
袂は、犯罪者をさらしの刑にした晒し場だったので、木戸で
覆い隠して、2匹の犬で暗示しています。




「日本橋」の橋柱には、五街道の起点の象徴として「一里塚の
松と榎」がデザインされています。

(松と榎のデザイン)

日本橋の橋の上の国道を品川方面へ向かうと東海道です。

東海道と反対方向の神田方面へ歩きだせば中山道ですが、
少しの間、中山道と日光街道は共通の道です。




次頁の浮世絵は、名所江戸百景の「する賀てふ」(駿河町)で
左手が呉服商の「三井越後屋」、右手が両替商の「三井」
です。

下は、浮世絵と同じ位置からの現在の写真で、左手が「三越」
で右手が「三井本店」です。


地下鉄・三越前駅の地下コンコース壁面には、次頁の写真の
様に17メートルにわたる「熈代勝覧(きだいしょうらん)」
絵巻が設置されています。





この絵巻には、江戸で一番賑やかだった頃の日本橋の町人の
様子が、生き生きと描かれており、当時の日本橋の息づかい
が伝わってくるようです。

また、日光街道の右手には、鰹節の「にんべん」や、海苔の
「山本山」等の江戸時代からの日本橋の老舗が並んでいます。



これらの老舗の並びには、新たに「COREDO室町」ビルが
完成し、最近、この辺りの街が、更に活気を帯びてきました。


(COREDO室町)


(COREDO室町)

中山道と日光街道は、日本橋の先の千疋屋と新生銀行の角
(室町三丁目信号)までの約400メートルが共通の道です。



中山道は、この信号を直進しますが、日光街道はここを右折
して、本町通りに入ります。本町通りを直進すると、日光街道
は直ぐに昭和通りに当たるので、地下道を利用して反対側に出ます。



更に直進すると、右側の有料駐車場の隅に、うっかり
見落としてしまいそうな、写真の「旧日光街道 本通り」
の石碑が建っていました。
 

やった!、この通りが日光街道で間違いありません!
側面には、「江戸名所図絵や 広重の錦絵に画かれて著名な
この地は 将軍御成道として繁華な本街道であり 木綿問屋が
軒を連ねて殷賑を極めた。」と彫られています。

そのまま直進すると、日光街道は大伝馬本通りとなり、地下鉄
「馬喰横山駅」を右手に見ながら信号をります。

次の通りの入口には「横山町問屋街」の大きな看板が建って
おり、衣料品の卸問屋が軒を連ねています。


上の浮世絵は、名所江戸百景の「大伝馬町 木綿店」です。

江戸時代には、この辺りには木綿問屋が軒を連ねていました。






殆んどのお店には、写真の様に「小売 お断り」の張り紙が
してあります。


この横山町の問屋街を直進して、突当りの大通りを左折する
と、浅草橋の交差点に出ます。


浅草橋の交差点を直進すると浅草橋です。


浅草橋の左手前の小さな公園に、次頁の写真の「関東郡代の
屋敷」跡の説明版が立っています。


説明版によると、明暦の大火以降は、関東郡代がここに屋敷を
構えて、幕府直轄地の年貢徴収、紛争処理などを行ったそう
です。

浅草橋の橋の上からは、屋形船がたくさん見えます。




浅草橋を渡った左手の植え込みの中に「浅草見附」跡の石碑が
ありました。

「浅草見附」は最も東の端に位置する江戸城の外堀の城門です。
「見附」とは、城門の外側に置かれた番所のことで、江戸城
には、この浅草見附の他にも、赤坂見附、四谷見附など、
36カ所の見附が置かれていました。

浅草橋を渡ると、その先は、有名な”人形の街”です。
久月、善徳などの大手がビルを連ねます。


やがて日光街道は江戸通りとなって蔵前橋通りと交差します。
蔵前は、江戸時代、幕府の米蔵が軒を連ねていた所です。

日光街道(江戸通り)沿いに歩いて行くと、左手に上の写真の
”ポケモンGO”の任天堂ビルがあり、その右隣に、次頁の
写真の江戸時代から続く「駒形どぜう」が見えます。

(「駒形どぜう」については、2011/8の「散歩の寄り道:
  どじょう鍋」を見てね。)

更に進むと、駒形橋交差点で、江戸通りと雷門へ向かう道との
分岐点です。

この交差点の右手に、馬頭観音を本尊とする次頁の写真の
「駒形堂」があります。

江戸時代、舟で浅草寺に参詣に来た人達は、先ず、隅田川沿い
の駒形堂で船を降りて、駒形堂にお参りしてから浅草寺へと
向ったそうです。


駒形堂の脇には、下の写真の「浅草観音 戒殺(かいさつ)
碑」が建っています。

その説明版によると、「浅草寺の霊地である当地では、魚鳥の
殺生を禁ずる」旨が碑に彫られているそうです。

駒形堂を見てから、江戸通りを外れて、駒形橋交差点を
左斜め前に進んで、浅草雷門へ向かいます。

有名な「浅草雷門」の前は、大勢の外国人の観光客と、日本人
の”お上りさん”でごった返しています。

ちなみに、門の脇に立つ雷神像が雷門の由来だそうです。
江戸時代の旅人は、旅の安全を祈願して、浅草寺に寄って
から、日光街道を進んだのでしょう。
日光街道は、雷門に突き当たると右折し、東武浅草駅の右側の
道を進んで行きます。





日光街道は、隅田川に並行しているので、ビルの切れ目から
は、スカイツリーと隅田川が見えます。

間もなく、言問橋西の五差路の信号がありますが、この信号の
左斜めの道が日光街道(吉野通り)です。


日光街道(吉野通り)を少し進むと、右手に、写真の「待乳山
聖天」(まつちやま しょうてん)があります。



昔は、この聖天のある隅田川沿いの小高い丘から周囲が
見渡せたので、江戸名所として浮世絵にも描かれ、近隣の
吉原などの花街からの参拝で賑わったそうです。


上の写真は、BS「歴史の道・歩き旅」から、広重の「東都
名所・三囲堤・真乳山遠望」で、三囲神社から待乳山聖天を
望んだ絵です。

以前は、この吉野通りは山谷通りと呼ばれていましたが、
「山谷」は”ドヤ街”として有名になってしまったので、
「吉野」に変更したらしいです。

吉野通りは、下の写真の吉野橋で、写真の「山谷掘公園」の
遊歩道と交差します。



案内板によると、江戸時代、山谷掘は隅田川へ注いでおり、
吉原へ向かう猪牙舟(ちょきぶね)が堀を上っていたそうです。

”ドヤ街”の名残りでしょうか、吉野通りには、2,000円~
2,500円くらいの安い旅館やビジネスホテルが軒を連ねています。



この低料金が受けて、最近は、外国人のバックパック旅行者に人気だと聞いたことがあります。

やがて、吉野通りは「泪(なみだ)橋」交差点に出ます。

昔は明治通りは川だったので、日光街道は、ここに架かって
いた「泪橋」を渡りました。

江戸時代、この先の小塚原刑場で処刑される罪人が、ここで
家族と別れをしたのが「泪橋」の由来だそうです。

また、泪橋は「あしたのジョー」の舞台でもあります。
(「あしたのジョー」のフィギアについては、2014/8の
 「吉原界隈散策」を見てね。)


「泪橋」の交差点を渡ると、日光街道は、間もなくJR常磐線
・地下鉄の「南千住駅」の左脇に出ます。





歩道橋で線路を越えて、南千住駅を右手に見ながら、左手の
JR常磐線の線路脇の「小塚原回向院」へ向かいます。


回向院(えこういん)のお寺を探しますが見当たりません?


よくよく見回すと、何と!ビルの1階が回向院でした!

小塚原の回向院は、両国の回向院が手狭になったため、両国の
別院として創建されました。

ビルの1階の入口の壁には、次頁の写真の「観臓記念碑」が
はめ込まれています。

これは、杉田玄白、前野良沢らが、ここで刑死者の解剖を見学
して、「解体新書」を翻訳出版したのを記念して作られたもの
です。



寺の右奥の小さなお堂は、安政の大獄で捕らえられ処刑された
橋本左内の墓です。




また、寺の一番奥の大きな墓は吉田松陰で、”松陰二十一回
猛士墓”と彫られています。


他にも、次頁の写真の様に、安政の大獄で処刑された大勢の
志士達や、ねずみ小僧次郎吉らの墓もあります。

回向院を出て、すぐ左のJR常磐線のガードをくぐると、
下の写真の「小塚原刑場」跡の「延命寺」があります。
江戸時代、ここ「小塚原刑場」は、品川の「鈴が森」刑場と
共に、二大刑場といわれました。
(「鈴が森刑場」については、2011/9の「東海道を歩く
  ・品川宿」と、2012/3の「バスで行く東海道・第一回」
   を見てね。)

明治になっても斬首が行われ、明治12年には”明治の毒婦”
と呼ばれた「高橋お伝」がここで斬首されました。
刑場の一角には、刑死者の菩提を弔うための写真の「首切り
地蔵」が建てられています。
  
また、首切り地蔵の手前には、上の写真の大きな「題目石」が
あり、”南無妙法蓮華経”と刻まれています。
小塚原刑場が開創されてから220年の間、埋葬された遺体
は、何と!、20万人余だそうです!

実は、”埋葬”とは名ばかりで、浅く穴を掘りその上に
薄く土を掛けただけだったので、雨水に洗われて手足が
土中から現れ出ることがよくあったそうです。

怖っ!ぞ、ぞ~・・・

「小塚原回向院」の前の国道4号(日光街道)を横切って、
JR常磐線の「南千住駅」前に戻ると、写真の芭蕉像が
ありました。

その横の地図によると、旧日光街道は、南千住駅前から
少しだけ国道4号(日光街道)と並行した後に、国道4号
に合流しています。


旧日光街道を少し歩いて国道4号に合流した地点の向い側に、
上の写真の「素盞雄(すさのお)神社」がありました。

上の写真は、赤ちゃんの初宮詣の際に奉納する「子育ての祈願絵馬」です。

下の写真は、昔、母乳の出ない婦人が、皮を煎じて飲んだ
という「子育てのイチョウ」です。

「子育ての祈願絵馬」を奉納して、このイチョウの木に掛けて祈願するのだそうです。

素盞雄神社から少し進むと、間もなく、千住大橋を渡ります。

千住大橋を渡ると、左手の脇に小さな公園があり、そこに写真
の「奥の細道 矢立初めの地」の石碑がありました。

石碑には、
「千住という所にて舟を上がれば、(みちのくの)前途
 三千里の想い胸に塞がりて、幻の(様にはかない)巷に
 離別の泪を注ぐ。
 ”行く春や 鳥啼き 魚の目は泪”

 是を矢立の初めとして、行道なお進まず。 人々(弟子
 たち)は、途中に立ち並びて、(芭蕉の)跡影の見ゆる迄は
 と見送るなるべし。」
と、奥の細道の一節が刻まれています。

芭蕉は、住んでいた深川の庵から、小名木川を舟で千住まで
来て、千住から「奥の細道」の歩きをスタートしました。

矢立初めの石碑の横には、葛飾北斎の富嶽三十六景「千住花街
より眺望の富士」の浮世絵とその説明板が建てられていました。

更にその小さな公園から、川沿いの遊歩道に下りて行くと、
護岸の壁には、写真の絵がペンキで描かれていました。
それは、芭蕉とその弟子の曾良の「奥の細道 旅立ちの地」の
旅姿でした。

川沿いの遊歩道から国道4号に上がります。
国道4号は、千住大橋を渡った最初の信号を直進ですが、
千住宿は、右手の「千住宿 奥の細道」と、茶色の上に
黒色で大きく書かれた巨大な横看板のある狭い道に入って
行きます。


日本橋から千住宿までは、約9キロです。

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コメント一覧

更家
日光街道、頑張ります
ありがとうございます。
日光街道、頑張ります。

確かに、日光、奥州街道は、そちらからは厳しいですよね。
私も、西国街道を考えたことがありましたが、経済的に無理でした。

そう、私も四国88箇所は夢ですが、今のところ、着手目途はたっていません・・・

しかし考えてみると、”旧街道run”でトレーニンク゛するというのは、ユニークで壮大な計画です。
コスモタイガー
日光街道
http://blog.goo.ne.jp/cosmotiger_1968
お!日光街道スタートですか!
楽しみに拝見させていただきます。

実は私も中山道完走後、甲州街道を途中まで走っているものの、長々と放置状態。
(ブログにアップするかどうかは未定)
続きをやらなきゃ、と思いつつ、何せお金と時間がね・・・。

東海道・中山道は、地元(若しくは地元周辺)を通るため、親しみもありますし、コースによっては拍子抜けするぐらい気軽に走れ(歩け)ますけどね。
残りの3街道は、わが街名古屋をかすることもありません。
全コース、完全なアウェー状態!
とにかくお金が掛かります(涙)

それでも甲州街道は、中央本線や身延線、中央道特急バスなどを駆使すれば、(金銭面は別にして)何とか日帰りは可能かもしれませんが。
奥州街道なんて絶対無理です!

屈ブログにも記述しましたが、宿泊となると、走る装備が膨大に増え、事前準備に時間をかなり割くことになります。

現在、東海道57次を何回かに分けて走るイベントも行われているようですが、かなりの重装備の上、仮眠だけして、夜通し走ったりしてるようです。
今頃やってるんだ、俺なんて8~9年前にとっくに走ったぞ!という優越感もあったりしますが、それよりせっかくの旧街道を真夜中に通過するだけなんて、もったいなさ過ぎて魅力を感じません。

「競う」ことはまた別のところでやって、旧街道runはトレーニングの一環として、自分のペースで気ままに、というスタンスを崩したくはないのです。

いずれ5街道run+四国88箇所は制覇したい!なんて思いつつ、実行するには時間もお金もあまりにも足りません。
会社勤め卒業後の楽しみにでもするしかないのかな~。
更家
さらし場
日本橋の袂の交番の前の「さらし場」跡には、特に説明版もないので、見落とすのは仕方ないと思います。

確かに、10年前の2006年のiinaさんのブログに浅草見附が出ていました。
iina
(更家)  さん へ
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/57c8f0aa1f9a2458007b0ce68516b858
日本橋に罪人の 「さらし場」があったとは見落としました。「高札場」をいい加減に読んでいるからだと思います。^_^;

浅草見附、 みっけ でした。

iinaも、ブログに採り上げたかなと思ったら、ちょうど10年前に間接アップしていました。しかし、どんなセミナーだったか記憶にありません。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/3ce04fb17f76289986cc913e8683c864

>今晩はペルセウス座流星群を見られそうですね。昔見た流星群の感動が忘れられません。
2日間夜空を見上げましたが、たかだか5分ほどでは流れ星は観れなかったです。辛抱が足りませぬ。

更家
日光街道のガイドブック
ありがとうございます。
面白いブログになる様に頑張ります。

私が使っているガイドブックは、大高利一郎著「日光街道を歩く」(創英社/三省堂書店)です。
2009年発行なので、記載内容が少し古いですが便利です。
(例えば、本の記載は、「旧日光街道本通りの石碑」はホテルの前となっていますが、実際は有料駐車場の隅にありました。)
Komoyo Mikomoti
日光街道
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
日光街道の記事、楽しみです。

ところで質問ですが、
日光街道には、ウォーキングマップとか参考書はあるのでしょうか。
更家
hide-sanさんへ
これからは、日光街道を先行するhide-sanさんの後を追いかけて行くことになりました。

私はhide-sanさんの様に正確な歴史解説は苦手ですので、私なりの楽しい、美味しい街道歩きにしたいと思っていますので宜しくお願いします。

更家
船橋原人さんへ
ありがとうございます。
年齢を考えて、熱中症にならない様に、無理のない計画に心掛けます。

東海道、中山道に比べると、日光街道完歩は楽勝?ではなかろうかと思っていますが、果たしてどういう珍道中記になりますやら・・・
ご期待ください!
hide-san
歩く人が違うと
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
歩く人が違うと視点が変わり、素晴らしい街道歩きとなりそうです。

いずれボクも追い越されそうですね。
船橋原人
「日光街道」無事達成を!「
いよいよ「日光街道」に挑戦、無事完歩されることを祈ってます。途中の写真やコメントを楽しみにしています。
身体に十分配慮して無理のないように!!
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