( 写真は、小布施の葛飾北斎の天井絵「八方睨み
の鳳凰」: 小布施・岩松院のパンフレットから )
今年のお盆休みには、以前から、一度は訪れたい
と思っていた長野県の「小布施(おぶせ)」へ
行って、その先の「湯田中温泉」で一泊して
来ました。
東京(9:04) →(長野新幹線・あさま)
→ (10:39)長野(11:04) →(長野電鉄)
→ (11:39)小布施 (17:16)
→(長野電鉄・スノーモンキー号)
→(17:29)湯田中
長野駅で新幹線を降りて、長野電鉄の長野駅から
小布施駅へ向かいます。
(長野電鉄長野駅)
小布施町は、長野県の北東、千曲川の東岸に位置
する人口約1万人の町です。
江戸時代には、幕府直轄の天領だったこともあり、
交通と経済の要所として栄えていました。
この町の豪商の高井鴻山(こうざん)は、江戸
から葛飾北斎をここ小布施に招きました。
そして、小布施には、小林一茶など、様々な
文化人が訪れました。
小布施は、今もなお、江戸時代の面影を残す
風情ある町です。
また、モンブラン、栗きんとん等のスィーツ、
栗ご飯など、小布施名産の栗を使用した食べ物
の楽しみも沢山あり、若い女性で賑わっています。
長野電鉄の小布施駅で降りて、町の中心部分へ
歩いて行きます。
駅から少し歩いて右折すると、下の写真の
「皇大(こうたい)神社」があり、この神社の
境内を抜けると、もう小布施町の中心部分です。
下の写真の石碑の絵は、葛飾北斎が、最初に
この鳥居から小布施の町に入ったことを現して
いるそうです。
(皇大神社の境内のセミの抜け殻)
「小布施」の観光スポットとなる町並みは、
小布施駅から徒歩10分位の一角で、狭い
エリアにコンパクトにまとまっています。
先ず、その狭い観光エリアの一角にある写真の
「北斎館」に入ります。(1,000円)
浮世絵師「葛飾北斎」の作品が展示されている
美術館です。(撮影禁止)
北斎の肉筆画の展示、企画展示、映像ホールなど
があります。
肉筆画の展示は充実しており、迫力ある絵の
数々に圧倒されます。
また、葛飾北斎が描いたという、下の写真の”龍”
と”鳳凰”の「東町祭屋台」、”男浪”と”女浪”
の怒涛図の「上町祭屋台」も展示されて
います。
(前頁の写真は、 順に、「祭屋台」、
「龍」、「鳳凰」、「男浪」、
「女浪」:北斎館のパンフレットから)
「北斎館」を出て、次の「高井鴻山記念館」へ
向かいますが、この両館を結ぶのが写真の
「栗の小径」です。
僅か1~2分の距離ですが、栗の間伐材を敷き
詰めた小道で雰囲気があります。
写真の「高井鴻山(こうざん)記念館」に
入ります。(300円)
(高井鴻山像)
江戸末期の豪商で、文化人でもあった「高井鴻山」
の資料館です。
また、敷地内には、鴻山の書斎や、北斎のために
鴻山が新築したアトリエ「碧い軒(へきいけん)」
などが修復工事されていて、当時の面影を
残しています。
鴻山は、佐久間象山や勝海舟などの幕府要人との
関わりもあり、また、「葛飾北斎」を小布施に
招いて創作の援助もしました。
館内には、鴻山が描いた様々な書画や、関連資料
などが展示されており、鴻山の足跡を辿ることが
できます。(撮影禁止)
お昼時になったので、上の写真の「北斎亭」で、
下の写真の小布施名物「北斎御膳(栗おこわ)」
を食べます。(1,760円)
最後に、高井鴻山記念館の前から、シャトルバス
で、古刹の禅寺の「岩松院」(がんしょういん)
へ向かいます。(終日バス周遊券:300円)
シャトルバスの終点の「岩松院」に着きました。
岩松院の天井に描かれた葛飾北斎の天井絵
「大鳳凰図」は、”八方睨みの鳳凰”とも言われ、
どこから見ても、自分が睨まれている様に
見えます。
(大鳳凰図:岩松院の観光案内から)
本堂の21畳の大広間の天井いっぱいに描かれた
「大鳳凰図」は、葛飾北斎の晩年の最大の作品
です。(撮影禁止)
私は、この北斎の天井絵が一目見たくて、長野県
の小布施の岩松院まで、はるばるとやって来た
のです!
絵具には、当時、中国から輸入した鉱物性の
高価な顔料が使われているそうで、160年以上
の年月を経た現在でも、今、描いたばかりの様に
色鮮やです!
その顔料は、現在の価格で約2億円もしたそう
ですから、やはり、豪商・高井鴻山の援助が
あったからこそ、この絵が描けたのでしょうね。
また本堂の裏庭には、「小林一茶」の有名な
”やせ蛙 負けるな一茶 これにあり”の
前頁の写真のその「蛙合戦の池」や、下の
写真のその句碑もあります。
更に、本堂の裏山には、前頁の写真の戦国武将
「福島正則」の霊廟があります。
正則は、豊臣秀吉の”七本槍”の一人と言われた
名将で、数々の武功をたてました。
そして、関ヶ原の戦いでは東軍に味方、その功績
で50万石の広島城主となりました。
しかし、豊臣恩顧の大名だった正則は、その後、
豊臣秀頼を擁護しようとしたため、徳川秀忠に
煙たがられ、大坂の陣では参陣が認められません
でした。
その後、広島城の無断改修を口実に、正則は、
50万石から5万5千石に減封されて、長野の
この地に国替えになりました。
そして、この地で死去、ここ岩松院に葬られ
ました。
しかも、葬られた際に、正則の家臣が、幕府の
検死役が到着する前に遺体を火葬してしまった
として、福島家は取り潰しとなりました・・・
小布施見物を終えて、小布施駅へ戻り、駅の構内
で、栗のソフトクリームを食べてから、長野電鉄
のスノーモンキー号に乗って終点の湯田中駅へ
向かいます。