ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

甲州街道を歩く( 28-3:鶴瀬宿から勝沼宿へ②)(山梨県甲州市) 2021.6.23 

(写真は、柏尾古戦場跡の近藤勇像)

 

 

鶴瀬宿を後にして、歩道が無い長柿洞門の脇を抜け、

国道20号を歩いて行きます。

 

次頁の写真の観音トンネル西の信号を右折して、国道20号

から分かれて旧甲州街道に入ります。

旧甲州街道の左手の崖の中程には、私がY字路の分岐を

間違えたために行けなかった、あの観音堂から下りてくる

狭い山道が見えます。

旧甲州街道は、上の写真の様に、ここから右に大きく円形状に

回り込み、次頁の写真の様にして、先程通って来た国道20号

の下をくぐります。 

 

左手に「古跡・武田不動尊」の標柱と「石燈籠」があります。

標柱の説明によると、ここは、織田信長の家臣の滝川一益に

追い詰められた武田勝頼が、もはや最後と観念して、

肌身離さず持っていた大切な不動尊を里人に託した場所

なのだそうです。

 

    

 

この崖の下にある「武田不動尊の祠」を見ようと、標柱の脇の

急な石段を下りようとしますが、上の写真の様な倒木が石段を

塞ぎ下りられません・・・

 

諦めて日川の渓谷に沿って更に進むと、共和バス停の脇に

次頁の写真の「共和地区」の碑がありました。

 

旧甲州街道を更に進むと、右手に写真右端の「旧甲州街道」の

標柱がありました。

標柱には、「甲州道中鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶこの横吹の

古道は、往時の面影を今に伝えています」とあります。

 

往時の面影を今に伝えるという「横吹集落」を進むと、

右手に写真の「丸石道祖神」や「一石六地蔵尊」が祀られて

いました。

 

 

横吹集落を抜けると、急な上り坂になり、国道20号に

合流しました。 

 

国道20号を進んで行くと、下の写真の様に、ガードレール

の脇に、「旧甲州街道一里塚跡」の標識がありました。

 

ここから下を覗き込んでみると、確かに「横吹一里塚跡」の

標柱の上の部分(赤丸印)が見えました。

横吹一里塚は日本橋から30里目(120キロ)、片方のみの

塚で、塚木は榎でした。

  

国道20号に戻り、ひたすら歩いて行き、上の写真の深沢入口

交差点で、深沢川に架かる柏尾橋の手前を右に入ります。

 

「柏尾橋」の脇には、刀を持って鉢巻を締めた「近藤勇之像」

があり、「近藤勇 柏尾 (かしお)古戦場跡」の標柱が

立っています。

 

「近藤勇」が率いる「甲陽鎮撫隊(新選組)」は、官軍に

占拠された甲府城を奪還するために、一旦、この先の勝沼宿

まで進軍します。

 

これに対して板垣退助率いる「東山道軍(官軍)」は、

新選組を圧倒し、ここ柏尾まで後退させ戦闘になりました。

 

この柏尾の戦いを一目見ようと、見物人が集まり、何と!

屋台まで出たそうです。    

 

いや~、それにしても、戦いに巻き込まれて流れ弾に当たる

かも知れないのに、昔の人々の野次馬根性は凄いですね~。

 

現代人は、如何に野次馬根性があっても、暴力団同士の銃撃戦

になったら、見物に出たりしないで家に籠ってますものねえ。

 

剣に自信のある新撰組でしたが、この柏尾の戦いでは、

近代装備の官軍には歯が立たず、1時間程で総崩れになり

ました。                   

 

「柏尾古戦場跡」の標柱を右に入ると下の写真の

「馬頭観音」があります。

 

1836年に、勝沼宿の脇本陣家が建立したというこの馬頭観音

は、3面に馬頭観音の像が刻まれています。

 

 

馬頭観音の前の「ころび石坂」を下り切った奥に、ちょっと

見ずらいですが、上の写真中央に、木々の間から、江戸時代の

柏尾橋の橋脚の一部が残っているのが見えます。

 

説明版によると、江戸時代、柏尾橋は、両岸に橋脚をおろした

幅3メートル、長さ22メートルの板橋だったそうです。


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コメント一覧

ウォーク更家
tadaoxさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
いつもコメントありがとうございます。

ええ、旧甲州街道歩きは、江戸時代からの旅籠に宿泊しながら巡る中山道と比べると、派手さのない忍耐の発見歩きですが、逆に、マイナーな史跡の発見の連続で、これはこれで結構楽しいです。

特に、今回は、股関節炎再発の爆弾を抱えながら、汗と痛みの珍道中です。

いえいえ、5街道踏破のスタートの東海道を読んでいただければわかりますが、歴史に対する無知が丸出しでお恥ずかしいです・・・(-_-;)

5街道を歩いているうちに江戸時代の歴史に色々と興味が湧いて来て、この10年間の街道歩きで、少しづつ知識を積み重ねて来ました。

とは言え、ブログの史跡の説明は、ほとんどが現地の説明版の丸写しです・・・(-_-;)
tadaox
知らないことばかり
https://blog.goo.ne.jp/s1504/e/97b626ae5fe20ccaaaf09f0af5d548c2
旧甲州街道歩きは、派手さのない忍耐の発見歩きですね。
出発から勝沼宿に至る道中は、 (ウォーク更家)さんの汗と痛みで出来上がった貴重な記録で、読んでいても緊迫感を感じます。
街道歩きについて行けないのと同様に、更家さんが調べたり、実際に現地で確認したりの知識に、ついて行けないもどかしさを感じます。
安易に割り込んだり、聞きかじりを披歴する勇気がありませんので、いつもまっとうなコメントができず申し訳ありません。
これからも楽しみにしています。
ウォーク更家
武田勝頼と近藤勇の哀しい物語
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、武田勝頼が大切にしていた不動尊も武田家を護ってはくれなかったという哀しい物語です。
その不動さんを納めた祠を何とか見たかったのですが、巨大な倒木が下りの石段を完全に塞いでいて祠まで行けませんでした。

柏尾の戦いの見物人を目当てに、屋台まで出たという話は可笑しさが込み上げてきますが、屋台の商魂のたくましさにも驚きます。
もののはじめのiina
武田勝頼と近藤勇 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/07f23da2a73ad52f255bcb19c8e10e9f
武田勝頼が、大切にしていた不動尊も武田家を護ってはくれなかったようです。そのお不動さんを納めた祠も哀しいですね。

「甲陽鎮撫隊(新選組)」×「東山道軍(官軍)」の柏尾の戦いに見物人が集まり、屋台まで出て賑わったというのも必死の戦い
に可笑しさが交叉しています。

武田勝頼と近藤勇が滅びゆく哀れさが漂うのに、一方の板垣退助は勝ち戦の前進です。


> 種類の違う稲を植えて、細かいところまで立体的で精巧に作るのはかなり難しそうです。
田んぼアートの設計図に添って、高台から縄を幾筋も張って田植えするのをテレビで見たことがあります。

ウォーク更家
歳でも未だ・・・
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
毎回、丁寧に読んでいただき、ありがとうございます。
やはり、開発から取り残された山道沿いの集落が、往時の面影を今に伝えています。

街道歩きのお師匠さんのhide-sanさんに、もう無理などと言われると寂しくなりますよ・・・

私も、今回、笹子峠越えで初めてタクシーを利用しましたが、部分歩きを工夫すれば、お師匠さんも未だ大丈夫だと思いますよ。
hide-san
往時の面影
https://goo.blog.ne.jp/hidebach
>往時の面影を今に伝えています
今回は、「往時の面影を今に伝えています」ね。

この部分を歩いて見たくなりましたが、
もう無理ですね。
残念!

次回を楽しみにして居ります。
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