(写真は、満開の「曽我梅林」)
毎年、この時期の観梅には、だいたい地元の
三渓園か大倉山へ行きますが、時には湯河原や
水戸辺りへも足を伸ばしています。
(これまでの観梅については、鎌倉・円覚寺、横浜
・大倉山、横浜・三渓園、水戸・偕楽園を
見てね。)
昨日(3月3日)は、晴天と梅の便りにつられて、
近場の小田原市の「曽我梅林」(関東三大梅林の
ひとつ)へ行ってきました。
曽我梅林の最寄り駅は、JR御殿場線の下曽我駅
です。
JR東海道本線・横浜駅 → 国府津駅 → JR御殿場
線・下曽我駅 →(徒歩約8分)→ 曽我梅林
(JR御殿場線については、以前に、御殿場線・
山北駅でご紹介しました様に、同じ神奈川県内の
JRであるにも拘わらず、Suicaが使えません。)
JR御殿場線の「下曽我駅」で下車します。
この下曽我駅の周辺は、「曽我の里」と呼ばれ、
”日本三大仇討ちの一つ”で有名な「曽我兄弟の
仇討ち」ゆかりの地です。
と言う訳で、「曽我梅林」に向かう前に、下曽我
駅から、先ず、曽我兄弟の墓がある「城前寺」へ
お参りに行きます。
(「五郎力餅」のお菓子の包装紙から)
「曾我兄弟の仇討ち」とは、源頼朝が行った富士の
裾野の”巻狩り”(当時の軍事演習)の際に、
曾我十郎と曾我五郎の兄弟が、父親の仇である
工藤祐経(すけつね)を討った事件ですが、以下に
そのあらすじをご紹介しておきます。
1193年5月28日、曾我兄弟は、父親の仇の工藤
祐経を、富士の裾野の祐経の宿営地の寝所で
討ち果たします。
騒ぎに気付き取り囲んだ武士たちを相手に、兄弟
は10人斬りをしましたが、やがて、兄の十郎は
討たれ、弟の五郎は取り押さえられます。
頼朝は、兄弟の孝心に感じ入り助命を考えますが、
仇の工藤祐経の遺児の反発があり、やむなく斬首
を命じます。
その時、兄の十郎は22才、弟の五郎は20才
でした。
兄の十郎には、東海道の大磯宿に、恋仲の
「虎御前」がいました。
(バスで行く東海道・大磯宿をご参照ください。)
仇討ちの後、虎御前は、兄弟の遺骨を持って、
長野の善光寺に向かい出家しました。
その後、虎御前は、兄弟の仇討ち話を語り継いで
いきますが、この話が次第に世間に広まり、後に
「曽我物語」としてまとめられました。
そして、江戸時代に入ると、歌舞伎、謡曲、
浄瑠璃等で、”曽我物”として演じられ、人々の
心をとらえました。
また、武士社会においては、仇討ちの模範と
される様になりました。
下曽我駅から徒歩7分の曽我神社の脇の「城前寺」
に着きました。
下の写真は、城前寺保育園の塀に描かれた曾我
兄弟です。
曽我兄弟の墓参りをします。
「曽我兄弟の仇討ち」は、深夜だったため、兄弟
は、傘を松明代わりに燃やしました。
その故事から、毎年5月28日には、曽我氏の
菩提寺であるここ「城前寺」で、兄弟の供養の
為の「曽我の傘焼まつり」が行われています。
傘焼まつりでは、松明行列、武者行列、奉納相撲
などが行われるそうです。
「城前寺」を出て、いったん下曽我駅に戻り、駅の
脇の「小田原市梅の里センター」で、曽我梅林の
散策地図を貰ってから、徒歩8分の「曽我梅林」
へ向かいます。
「曽我梅林」は、中心となる別所、原、中河原の
3つの梅林からなり、35,000本もの梅の花を満喫
出来ます。
曽我梅林の観梅会は、2月3日から3月5日
(明日)迄で、下曽我の特産品販売店や屋台の
飲食店などが出て大賑わいしていました。
(五郎力餅の詰め合わせ:970円)
上の写真は、曽我物語の曽我兄弟の十郎に由来
する梅干用の「十郎梅」で、小田原の曽我で
生まれた小田原オリジナル品種だそうです。
他にも、紅梅、小梅、南高、白加賀、蝋梅、
枝垂れなどがほぼ満開でした!
それでは、以下、満開の曽我梅林をお楽しみ
ください。
帰りは、曽我梅林の奥の「別所梅林」バス停から、
富士急湘南バスでJR国府津駅に出て、そこから
東海道線で横浜へ帰りました。
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