(写真は上田城)
真田幸村は、”日本一の兵 (ひのもといち の
つわもの)”と言われています。
そう、私もホントにそう思います。
ええ、私は真田幸村のファンです。
今年のお盆休みは、長野県の松代温泉に1泊して、
真田氏ゆかりの上田城と松代城を訪ねて来ました。
以前から、NHK大河”真田丸”のフィーバーが
一段落したら、ゆっくりと、上田城と松代城を
見物したいと思っていたからです。
東京駅から長野新幹線で1時間半の上田駅で下車
して、上田城へ向かいます。
「上田城」は、1583年、真田幸村(信繁)の父・
真田昌幸によって築城されました。
上田城は、以下の第一次上田合戦と、第二次上田
合戦の二度にわたり、徳川の大軍を見事に退けた
ことで知られています。
「第一次上田合戦」(1585年)
武田氏の滅亡後、関東地方では、徳川家康と
北条氏直が領地争いをしますが、間もなく、
条件付きの和睦が成立します。
その和睦の条件とは、当時、徳川方だった真田
昌幸の領地の沼田(群馬県)を、北条方に
引き渡すことでした。
しかし、昌幸が「沼田は真田の固有の領地である」
と主張してこれを拒絶したために、家康と昌幸は
「第一次上田合戦」に突入します。
徳川勢7,000人の大軍は、真田領へ攻め込み
ます。
これに対し、上田城に籠る真田勢は僅か1,700人
でしたが、地の利を生かし術策を駆使して戦って、
徳川軍を大混乱に陥れ勝利します。
この勝利により、真田の武名は、一躍、天下に
鳴り響くこととなりました。
「第二次上田合戦」(1600年)
関ケ原の戦いでは、父・昌幸と次男・幸村は
西軍に、長男・信之は東軍に味方します。
(「犬伏の別れ」)
昌幸と幸村は上田城に篭城して、関ヶ原に向かう
徳川秀忠軍の38,000人に対し、戦っては退き
退いては戦って、僅か3,000人で大軍を足止め
しました。
結局、秀忠軍は、上田城を攻略することが出来ず、
肝心の関ヶ原の合戦に間に合わないという大失態
を演じてしまいます。
しかし、関ヶ原の合戦では西軍は破れてしまった
ので、西軍の昌幸と幸村は九度山に流刑となり、
東軍に味方した長男・信之が上田の領主となり
ます。
その後の大坂の陣では、九度山を脱出した幸村が
大活躍し、家康の首を取るまであと一歩と迫り
ますが、不運もあり、ここで戦死してしまいます。
そして、上田城は、家康によって、直ぐに破壊
されてしまいます。
そうですよね、にっくき真田の上田城のために、
2度も痛い目に遭わされた徳川としては、
徹底的に上田城を破壊してしまいたいですよね。
徳川方に付いたお蔭で、長男・信之は上田城の
城主になりますが、上田城は、家康に破壊された
ままなので、城主・信之は、上田城の脇の館
(現在の上田高等学校)で執務をとりました。
その後、信之は上田から松代へ移り、”松代・
真田家”の礎を築きます。
上田では、新たに領主となった仙石氏が、
破壊された上田城の復興工事を行い再建します。
以後、上田城の城主は、明治維新まで、仙石氏
(3代)、松平氏(7代)と続きました。
(明治初期の上田城:上田城の櫓門内部の展
示パネルから)
JR上田駅の駅前の緩やかな上り坂の大通り
を、徒歩10分の上田城へ向かいます。
(真田十勇士の立て看板)
坂の途中の左側の奥に、真田信幸が城主のときに
執務を執った居館の門が残っていました。
居館跡は、現在は、上田高等学校になっており、
信幸の居館の門が、そのまま高校の正門になって
います。
信幸の居館跡の堀に沿って、更に進むと、上田城
の正面に出ましたが、その交差点の右手前に
写真の「上田市観光会館」がありました。
観光会館の2Fでは、上田が撮影のロケ地と
なったゼロの焦点、犬神家の一族、男はつらいよ、
たそがれ清兵衛、サマーウォーズなどの数々の
映画が紹介されています。
お城の入口で、勤務を終えて?帰宅途中の真田
幸村に遭遇しました。
カメラを向けると、「拙者は真田幸村でござる。」
と言って、次頁の写真の様に、ポーズをとって
くれました。
私一人のための撮影を終えると、幸村はリヤカー
を引きながら横断歩道を渡って行きました。
観光会館の前の交差点を渡り、二の丸橋から城跡
に入ると、右手が次頁の写真の「上田市立博物館」
(上田城櫓との共通券:500円)です。
歴代の上田城主の甲冑、織田信長所用の革胴服
(重文)、上田地方の中世以降の歴史資料の他、
日本ではじめて製作されたという下の写真の
反射望遠鏡(国重文)も展示されていました。
博物館を出て、お城の正面の櫓門(やぐらもん)
へ向かいます。
上の写真の東虎口の櫓門は、平成6年に復元
されました。
また、櫓門の両脇の南北の櫓は、民間に払い下
げられて遊郭として使用されていたものを、
市民が買い取って、昭和24年に復元した
そうです。
上の写真の櫓門の巨大な「真田石」は、信之が、
松代城への移封にあたり、父・昌幸の形見として
持って行こうとしたところ、微動だにしなかった
そうです。
櫓門と櫓は、前頁の写真の石垣の石段を上って
建物の中を見学出来ます。
櫓門と櫓の建物を出て、写真の本丸を囲む堀の
土塁の上を歩いて一回りします。
上田城の東虎口の櫓門の奥には、歴代の上田城主
(真田氏・仙石氏・松平氏)を御祭神とする
「眞田神社」があります。
境内には、抜け穴になっているといわれる
上の写真の「真田井戸」があります。
(真田神社のおみくじ)
真田神社の奥には、次頁の写真の「西櫓」が
ありますが、この櫓は、上田城で江戸時代から
現存している唯一の建物です。
西櫓の脇の急な階段をゆっくりと歩いて下りると、
かつては、上田城の南側を流れていたという
千曲川の川縁の「尼ヶ淵」です。
NHK「ブラタモリ」では、タモリが「上田城の
南側は、河岸段丘を利用した天然の要害で、更に、
当時は崖の下を千曲川が流れていたので、敵の
侵入を拒むことが出来た。」と説明していました。
次頁の写真の石垣が無い部分は、崖が張り出し
ているために、もともと石垣がなかった場所
だそうです。
尼ヶ淵から、お城の崖の下をぐるりと回る
「けやき並木遊歩道」を歩いて、最初に入って
来た入口の方向を目指します。
この「けやき並木遊歩道」は、かつての
「二の丸の堀」跡で、堀が二の丸を鍵の手状に
囲んでいました。
驚くことに、この「けやき並木遊歩道」は、
かっては、電車が走っていました。
二の丸橋を下から見ると、その電車の架線の痕跡
が前頁の写真の様に残っています!
お城見物のあとに城下町の雰囲気を残す「柳町」
へ立ち寄る予定だったのですが、余りの暑さに
カットしました。
JR上田駅に戻り、駅の構内の観光案内所で、
真田氏本城跡、真田氏歴史館、長谷寺などを
タクシーで回る「真田の郷」巡りを申し込んだ
のですが、案内をできる運転手が出払って
しまつている、とのことで断念、次の機会と
しました。
しなの鉄道で、上田駅から長野駅へ向かいます。
長野駅前からホテルの送迎バスに乗り、松代温泉
のロイヤルホテル長野へ向かいました。
ホテルの温泉にゆっくりと浸かって、猛暑の中を
歩き回って疲れた身体を癒します。
ホテルの夕食(宿泊料金:1泊2食付きの
お盆料金で20,650円)
(信州ハーブ鶏の朴葉焼き と 茄子射込み焼き)
(信州米豚のタジン鍋)
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