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世襲坊主の独り言

世襲の事情から会社退職後に真宗寺院住職に転身した男が、自分の信心もないのに他人さまに信心を語る苦しさを白状する記録です。

法然さま

2006-07-13 15:45:37 | Weblog
 親鸞さまは比叡山での修行では自分の煩悩を克服できず、救いを得ることができないと悩まれ、法然上人の教えを受けて、念仏に帰依されました。では、法然さまはどなたに導かれたのでしょう。気になって調べてみました。

 法然さまはご存命当時は智慧第一と謳われた学僧であったそうですが、その法然さまがご自分を振り返られて、「仏法は戒定慧(かい・じょう・え)の三学より構成され、戒定慧にも小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧などがある。しかるに、この身においては一戒も持たず、禅定の一つも得られない。このように戒定慧の三学の器ではない自分の心に相応する法門はないのか、わが身が堪えられる修行はないのか、と多くの智者や学者を訪れたが、教えていただく方も道を示してくださる方もいらっしゃらなかった。」と嘆かれたそうです。

 そして四十三歳のとき、善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』という著作にある「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住座臥(ぎょうじゅうざが)に時節の久近(くこん)を問わず、念々に捨てざる者これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」の文に遇われて、阿弥陀仏の本願による救いの道を見出された、と伝えられております。一心にただ「南無阿弥陀仏」の念仏をとなえて、寝ても起きても念仏を捨てない人は、まさしく往生が定まる業因を得た人である。何故なら、阿弥陀仏の願に順じた行為であるから...という意味でしょう。阿弥陀仏の願(がん)というのは、阿弥陀仏が仏となられた時に願をたててお誓いになられたその願のことで、汚れに満ちた社会の中で生きている罪深き衆生も、南無阿弥陀仏の名を呼び救いを求めるものを分け隔てなく救い取るという意味です。

 現今、自らはわが身を振り返ることもせず、自らの愚かさの程度もそこそこに、救いだけは他人さま並みに追い求めております。こういう有様では、真剣に救いを求め、悩みぬかれたのちに、念仏という救いの道に到達された法然さまや親鸞さまのお教えを、自分の肌身で理解することは難しく、それどころか、お教えそのものが信じられずに疑いをはさんでしまう始末です。

 他力だ、易行道だと言っても、自らを観て、自分の愚かさを知ることをスキップしては何が救いなのかも、到底分かりません。


お坊さん的な語り口

2006-07-11 21:42:20 | Weblog
 このブログを読んだ家内が「はじめのころと違い、だんだんお坊さんのもの言いになってきたみたい...」といいました。 若干、耳に痛いところがあります。

 死とは何か、苦とは何か、などと考えながら、どこかの仏教書を読み、誰かの法話を聞きかじり、未消化の言葉で分かった風なことを書いているような気がします。まさに世間様にゴミを撒き散らしているようで、申し訳ないことです。ただ、私としては、勉強し、自分の頭で可能な限り消化し、公開ページに自分の言葉で書いてみて、確認させて頂いているようなつもりなのです。確認と言っても、決して誰かからの賛同をえたいとか、そういう考えではありません。自分の書いた絵を自分で眺めて、自己満足でもよいから、勉強の足跡を残したいだけなのです。

 私は、糖尿内科の先生のお世話を戴いているほか、10年ほど前に狭心症でバルーン施術を受けましたが、その後はお陰様で病状が悪化したということはありません。ですから、大病を患って死と対峙した経験は幸いなことにありません。

 しかし、親戚や親しい知人の中に、癌を患って、少なからず気持ちの上でショックを受けた方、余命はどの程度、などの宣告を受けて残された日々の大切さを...と葉書に書いてよこした方、などがいらっしゃいます。この人たちのお気持ちは、側で見ている以上に辛いに違いない、と思いながら、自分がこのような立場に立ったときに、何を信じ、何が語れるのか、と考えさせられます。そうなったときに、別のことを言い出すとすれば、今考えていること、今信じていることは絵空事に過ぎません。勉強が進むにつれて、考えも変わることはあるでしょうが、自分が厳しい立場に立った時にもうろたえることなく信じるところが語れるか、これはいつも自分の性根に据えて置かなければならない重大事だと考えております。

 お坊さん的な語り口も、迷える修行僧的ならば許してもらいたいのですが、説教調に聞こえるとすれば、大いに反省します。

仏さまの系図?

2006-07-10 15:10:09 | Weblog
 仏教セミナーの席上でのことです。お釈迦さんと阿弥陀如来はどっちが先生で、どっちが弟子ですか? という質問が飛び出しました。わかったつもりで聞いていても、法身とか応身、報身とか、こんがらがってよく分からない、というのです。

 お経は、お釈迦さまが行われた説法の記録の形となっていますが、お釈迦さまが、その説法の中で阿弥陀如来と阿弥陀如来のお創りになったお浄土のことを、紹介されています。そして、阿弥陀さまがどういう教えを垂れたのかをお釈迦さまの口を借りてお話しになっているのです。

 こういう説明になってくると、ますます分からないというお顔の方がいらっしゃいます。何故、仏さんにはお釈迦さんや、阿弥陀さんや、観音さん、などなど、たくさんいらっしゃるのですか? 系図みたいなものはないのですか?

 講師の先生は、仏教の仏はたくさんいらっしゃる。キリスト教やイスラム教のような一神教では、絶対的な神様がただ一人ということだが...とおっしゃっていました。そう言えば、キリスト教の場合には、ただ一人の神様、キリストという預言者、そして必要な時に世に出た聖者たち、ん~、なるほど系譜みたいなものが描けますねぇ。こういう構図を期待した質問なのかしら?

 私はそのセミナーの先生ではなかったものですから、適当にしゃべって、適当に黙って(?)いましたが、この辺りの質問には、私も自分の頭を整理しておく必要がありそうです...

 こういう質問を笑って過ごしてはいけないのでしょうねぇ。せっかく仏教に興味を持たれてお出でになったのです。仏法を学ぶ入口はたくさんあるはずです。

祈り、その2

2006-07-07 16:13:15 | Weblog
 私は40歳頃から人に「人生とは?」と聞かれると、「祈りだ」と答えることにしてきました。ここで私が「祈り」と呼んできたのは、私の「祈り」であると同時に、神仏が生きとし生けるものすべてのために祈っていただいている「祈り」を含めて使ってきました。

 私は何のために生まれてきたのか、を私なりに考えると、先ず第1には子供をつくり、生命を将来に向けて繋ぐことです。生命を次の時代に繋ぐためには、そうして生んだ自分の子供を始めとする若い命を育てることも含まれます。次に第2には、私が先祖から受け継いだいろいろな思いを若い世代に伝えることです。このようなことができた上で、第3には、子孫のために新しく何かを残してやれるように自らできることをすること...。このように考えてきました。

 私は、このようなことを託されてこの世に生を受けていることを、いつの日からか意識してきたように思います。これを私は「祈り」と呼んできました。

 実は、数年前から年老いた父に代わって寺の仕事をせざるを得なくなり、あまり気乗りのしなかった住職ゴッコを始めたのですが、頭の中では私自身の強い「祈り」意識と、親鸞さまの説かれた教えが整合するのかどうかということが、気になっていました。 最近は、どうやら大きな矛盾はなさそうだ、などと考えていますが、さて...

祈り

2006-07-06 22:47:40 | Weblog
 前回の日誌で、浄土真宗には「祈り」はないと言われていると書きました。宗教だから祈るのは当り前、と考えている人が聞くと、ちょっと理解できないでしょうね。

 浄土真宗に本当に「祈り」はないのでしょうか? 他の仏教の宗派のお寺や神社、キリスト教だって祈っている人を普通に見かけますねぇ。

「祈り」はないということをいう人がいるのは何故か、を考えたほうが理解が早いのかもしれません。世間一般では「お祈り」するという言葉は、健康を祈願、合格祈願、商売繁盛、など現世でのご利益を「祈る」ときによく使われます。世の中にはもっと曲がった心根の「祈り」さえあります。真宗の教えはこのような現世での利益を願う「祈り」を排斥しているのです。何故ならば、こういう祈りは神仏に祈っているような形をとっていますが、実は自分を中心とした、自分が得をする自分の計らいが実現しますように...という自力の祈りだからです。

 キリスト教でも、「神を試す」ことは神を冒涜することであると厳しく咎められています。片方では、苦難に遭遇した場合には、試練、つまり神がその人を試していると考えます。つまり、絶対的な信仰心を要求するのです。こういう厳しい信仰の世界では、現世の利益を期待する祈りは、結局、神を試すことにつながります。

 仏教では絶対神の存在は考えられていませんでしたから、ここまでの信仰心が要求されることはありませんでした。しかし、法然上人によって見出された阿弥陀佛信仰は、自分の計らいを遠ざけて、阿弥陀仏のお力、つまり他力本願を信じる教えです。この教えをより深く追求して純化した親鸞聖人によって、浄土教は阿弥陀仏に絶対の信仰を捧げる一神教的な香りを持つまでになったように感じられます。

 浄土真宗のお坊さんたちは、「祈り」はいけない、「願い」ならよい、いや、それは言葉のすり替えだ、では「念じる」はどうだ、と言葉にとらわれた議論をされています。わたしは、言葉ではなく、何を「祈る」のかが問題だと思います。

 自分の利益や他人を貶めるようなことはいけない、それも大事なことでしょう。私は『自分のための何かの見返りを期待する「祈り」はいけない』と理解すればよいのではないかと思います。唯一つ、極楽往生を願うことを除いて...