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世襲坊主の独り言

世襲の事情から会社退職後に真宗寺院住職に転身した男が、自分の信心もないのに他人さまに信心を語る苦しさを白状する記録です。

お坊さんって、何者?

2006-07-28 17:16:18 | Weblog
 昨夜、もう10年以上も以前に一緒に欧米に出張した仲間が青山のレストランに集合して懇親会を開きました。出席は8人でしたが、私がお坊さんになったというので、珍しい存在というわけか、みんながいろいろな質問をぶつけてきました。その中に、高野山での修行から帰って住職になったばかりの若いお坊さんに仏教の言葉について質問したら、えらい高飛車に叱られてしまった。お坊さんというのはそんなに偉いとは知らなかった・・・。そういうものですか? という質問がありました。前後の事情が分かりませんが、そのお坊さんはきっと何か、自分の立場と相手の立場を勘違いされているのでしょうねぇ。そう言えば、私も田舎の街角で同じ浄土真宗ですが、他派のお寺の住職に捕まって、訳の分からない理屈に付き合ってしまったことがありましたっけ。お坊さんにも変人というのは何処にでもいるのでしょうね。

 何宗でも、修行は自分のためにするもので、修行したから偉くなったということはありません。偉いかどうかは周りが慕ってくれるかどうかで決まります。会社ではないのですから... 会社などの実業の世界では、訓練を受けて資格を取ると、ランクが上がって給料も上がるということはありますが。

 しかしよく考えてみると、お坊さんの世界にも世の中から誤解されるような仕組みが何百年の間にたまった湯垢かヘドロのようにこべりついているような気もします。世の中の誤解だけではなく、その若いお坊さんのように本人がすっかり思い違いをしてしまうくらい世の中とずれてしまうこともあるようですね。

 私の勉強させていただいたお坊さんの姿は、修行は自分のための修行であり他人に誇るものではない、そして修行の結果として何かを得ることができたなら、その効果を自分以外の人々に振り向けて人々のお役に立てること、です。これがすべてです。

 お坊さんといえども、今の世の中を生きていくには場合によってはこのような純粋な姿ではやっていけないこともあるかもしれません。しかし、原則をキチンとわきまえていないと、俗世に流され、勘違いもしてしまうことになるのだろうと思います。私も肝に銘じなければ、と考えています。

 この日の懇親会では、このあと、お坊さんの顧客満足度とかの話になって、たいへん勉強になりました。

五濁悪世

2006-07-26 12:21:43 | Weblog
 94歳の義母がテレビを見ていて言いました。「母親が幼い子供を殺すなんて世の中はどうなってしまったの。それに、子供が親を傷つけるとか、殺すとか、おかしいよ本当に。」

 ほんとうにお義母さんの言うとおり、最近親子の間での殺傷事件が次々と報じられ、また、その他の気が重くなる多くのニュースに接して、世の中は悪くなったなぁ・・・と思います。

 昔にも凶悪な殺傷事件ということもあったのでしょうけれど、最近の事犯は動機が単純で、その表現も「うざいから」などと何だか地獄から聞こえてくるような響きのことばです。

 仏の教えに、末世の世は五つの濁りで汚れる、というのがあります。末世とは仏教の教えが衰退し、世が乱れることを言います。五つの濁りとは、「五濁(ごじょく)」と呼ばれ、「劫濁(こうじょく)」「見濁(けんじょく)」「煩悩濁(ぼんのうじょく)」「衆生濁(しゅじょうじょく)」「命濁(みょうじょく)」の五つです。このうち、劫濁とは時代の汚れで、社会悪のことです。見濁は間違った見解が栄えること。煩悩濁は貧、瞋などの様々な精神的悪徳であふれること。衆生濁は心身ともに衆生(我々のことです)の資質が低下すること。最後に命濁とは、人間の寿命が短くなることです。

 世間でも「世も末(すえ)だ」などと言いますが、私も、訳のわからない事件の報道に遇うと「世も末だ」、「五濁悪世だ」などと言いたくなります。

 しかしこういうことを言うと「だからどうなの?」という冷めた反発の声も聞かれます。日本の仏教はこの末世思想を中心として、「もののあわれ」や無常観を育てたといいます。仏教に親しむことがない日常生活の中で、突然、五濁悪世などという言葉を聞いて違和感を感じるのかもしれませんが、神仏を大切にして自然の中に暮らしてきた昔の人が観れば、今の世の中の汚れ具合をこそ嘆かれるのではないでしょうか。

煩悩の闇の中

2006-07-24 12:41:33 | Weblog
 自分にも仏さまの光が射しているのに、それが分からないのは、煩悩の暗雲に覆われているからだ、という言い方がよくされます。私が仏の教えを勉強させていただいても、半日もたたないのに自分の行動を反省しなければならないというのは、余程私の煩悩が強いのでしょうか。

 昨日までの3日間、本山での「安居(あんご)」が終わりました。安居とはいわば住職研修会のような催しで、お釈迦さまが雨季には遊行(地方を回って説法されること)をお休みされ、1箇所に留まって修行僧たちに説法されて過ごされた伝統を継承したものです。 安居の最終日の行事は午前中まででしたから、雨の中を自坊にかえり、普段の俗生活に戻りました。まぁ、簡単に言えば夕食の材料だとかの買い物その他です(家内は安居前に東京に帰りました)。

 こうして気が付いたら8月のお盆が目の前に近づいています。少ない檀家さんですが、お盆のお参りは集中する可能性があります。梅雨の間には境内には雑草が我が物顔に伸びてきます。檀家さんたちは誰も来てくれません。... という訳で、私の煩悩は全開です。 さしずめ、キリスト教なら神が与え給うた試練だ、などということになるのかなぁ、と独りでぶつぶつ言いながら、仏さまの試練(?)に耐えています。つまり試練かと疑うことはあっても、仏さまの光はぜんぜん感じられないのです。安居で聞かせていただいたお話とは、まるで違う日常が待っています。

 それでも、信心がほしい、阿弥陀如来の光を頂きたい、と本気で願っております。

南無阿弥陀仏

2006-07-19 17:48:19 | Weblog
 南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に南無する(=帰依する)ということです。字面(じづら)から意味を解説するとそういうことになります。その場合には阿弥陀仏を向こう側に、自分をこちら側に置いて、こちらからあちらを拝む格好になります。

 しかし、南無(帰依)の意味をもっと真剣に考えてみますと、より深い意味を持っているようです。わが身を預ける、自分の運命も何もかもお任せする、いや、お任せするなどは、まだ自分の意思が残っています。すべてを無条件に捧げる、身も心も投じる、ということでしょうか。浄土真宗では普通は行いませんが、床(ゆか。トコではありません)に座って肘と頭を床につけて礼拝する礼拝方法が伝わっています。原型はチベットなどに伝わる五体倒地と同じです。南無阿弥陀仏を姿勢で表現するとすれば、こういうかたちになるのだろう、と勝手に思っていました。

 ところが、親鸞さまは、もっともっと深い意味を教えて下さっています。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀佛を呼ぶ私の声は、阿弥陀佛からの呼びかけのはたらきなのだ、というのです。

 身も心も私と一体になりなさいという阿弥陀仏からの呼びかけが、身も心も阿弥陀仏と一体になりたいという私の願いを生んでいるのでしょうか。

 信心が足りない私の「南無阿弥陀仏」でも...? などと疑うことは、即ち、阿弥陀仏からの呼びかけを疑うことになりますねぇ...

 南無阿弥陀仏

信心を獲ること

2006-07-16 21:43:21 | Weblog
 前回の続きです。自分の心を振り返ることもなく信心を得ることは難しい、ということについて考えてみました。

 よく、他所のお寺の方からお手紙を頂戴すると「慈光照護のもと、皆さまにはご健勝のこととお慶び申し上げます」と書いてあります。「慈光照護のもと」は慣用句のようにお使いになりますので、何時しか私も使うようになりました。その意味は「仏さまの慈悲の光に護られて」ということでしょう。仏教、特に浄土宗、浄土真宗などでは、阿弥陀仏などの仏さまが私ども衆生を導いてくださる徳の力を光に譬えます。本当の光は影を作りますが、仏さまの光は影を作らず、時空を越えてどんな遠方にも届くと言われています。そしてその光がもたらす徳とは大きく分けると、慈悲と智慧なのですが、詳細には十二種の光などの呼び方がされています。

 さて、信心を得るということは、この「光」を信じるということです。
 もう少し具体的に言えば、こういう「光」が自分に届いていることを本当に感じるか、ということです。

 うちは先祖代々ナムアミダブツを信じてるから、慈悲の光は当然自分をも照らしていると信じている、という方は幸せです。しかし、先祖代々という理由でなく、信心を中心に考えて本当に「光」は届いているか、を問題にしているのです。つまり、法然さま、親鸞さまの信心に近い確信を持てるか、という問題なのです。

 きょうは長くなるので書けませんが、やはり自分をしっかり見つめなおして、わが身の至らないこと、自我にとらわれて自分の利益ばかりを考えていたこと、保身のために人の心を傷つけていたこと、などなどについて本心から内省し、自分がお浄土どころか、地獄にしか往きようがないことを知るべきなのです。そういう自分であることを気付かせていただくのが仏の智慧の光であると教えていたいております。智慧の光が自分の本当の姿を浮き彫りにして見せてくれるといいます。そして、地獄にしか往きようが無い自分であることが分かったとき、そういう自分にも慈悲の光が射していることに気付くならば、初めて本当の信心が得られるのかもしれません。

 私はものの本を読んで、こういう理屈を書いていますが、自分が往くのは地獄だ、とまではどうしても考えられず、したがって地獄の闇が実感できず、結局は仏さまの光が私を照らしているのかどうかも、未だ確信できない...のです...