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世襲坊主の独り言

世襲の事情から会社退職後に真宗寺院住職に転身した男が、自分の信心もないのに他人さまに信心を語る苦しさを白状する記録です。

ちょっと間が開いた言い訳

2006-08-10 22:47:19 | Weblog
 広島の日を最後に新しい書き込みができていません。ついに長崎の日も過ぎてしまいました。ちょっとこのページの趣旨とは外れることを、言い訳のために書き残しておきます。

 実は私の主たる生活の場は東京の自宅にありますが、寺の住職の仕事をするために近江の寺との間をそれぞれ2,3週間の間隔で行ったり来たりしているわけです。そうした都合で私のパソコン環境は東京自宅にあるパソコンを母艦として使い、近江の寺に滞在中は寺に置いたパソコンから東京自宅のパソコンのスイッチを遠隔投入し、リモートデスクトップという機能で、寺にあるパソコンに東京自宅のパソコンのディスプレイ画面を映し出す、という仕組みを作っています。こうして、近江の寺にいながらあたかも東京自宅のパソコンを使っているようにしているわけです。

 そこで、きょうの言い訳につながるのですが、インターネットの技術を使って電話を安く使う技術にIP電話というのがあり、近江の寺と東京自宅との間の電話も安く使えるようにしようとしたのです。ところが、上記の仕組みと東京側のIP電話の仕組みがどっちかを活かすと片方がうまく働かないということで、NTT東日本やNTTコミュニケーションや装置のメーカさんにメールを打ちまくっておりました。

 これで、5日間も費やしたのに未だ解決していません・・・
 そういうわけで、仏教関係の勉強はスッカリ頭から抜けておりましたので、ブログには何も書き込めなかったのです。

 ただ、お盆も近くなって、檀家さんからのお参りの依頼も少しずつ入り始めております。IP電話の件は少し横においておかないと、読経の後の法話のネタも思いつきません。まぁ、このブログに書いたことなどをネタにして長くならないように気をつけながらお話をさせていただければ、一応格好は付くのですが...

 法衣(ころも)を着てお坊さんの格好をし、お経を読む、というところまではもう慣れたのですが、法話はやはり私にとっては大変です。ずっとお坊さんをやってこられた方は、上手にお話になりますねぇ...

広島の日

2006-08-06 11:28:41 | Weblog
 きょうは広島に原爆が落とされて61年の追悼の日です。犠牲になられた多くの方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 「冥福」とか「お祈り」とか浄土真宗の学者の方々は何かおっしゃるかもしれませんが、私は戦争犠牲者の方々の「霊」に向かって、このような言葉しか知りません。ただ、ただ、深く頭を垂れて、黙祷するばかりです。

 「いま私たちが平穏に暮らせるのも、皆さま方の犠牲のお蔭を蒙っていることを決して忘れません。」


命濁(みょうじょく)

2006-08-03 09:52:41 | Weblog
 昨日のこのブログで、近年子供が極端に減ってきたと書きましたが、それでふと思い付いたことがあります。五濁の第五番目、命濁(みょうじょく)のことです。

 五濁については以前に書きましたが、末法の世にはびこる世の中の五つの汚れのことです。その五番目が命濁で、仏法が廃れるに従って世間の人の命がだんだん短くなる、というものです。私は他の汚れについてはほぼ理解できたつもりでしたが、この命濁の「だんだん命が短くなる」つまり寿命が短くなるということがよく分かりませんでした。何故なら、現に食生活や医療技術の発達によって人の寿命は未だかって無いほど伸びているからです。そこで、私は戦争などの悪が人の寿命を短くするということかなぁ程度の理解でとどめていました。

 昨日、近年子供の数が・・・と書きながら、新生児が減って人口が減少に転じたということは、統計上は兎も角、寿命が短くなるということと理屈は同じではないか、と思い至ったわけです。

 新生児が減少している理由は、若い人たちが子供を産みたがらないことにくわえ、最近の研究で何らかの原因で男子の精子の数が減少していて妊娠しにくくなっているという報告があるそうです。子供を産みたがらないのは、男女平等とか男女同権とかの体制に社会が不慣れでこなしきれていないという諸問題が背景にあると思います。これは決して社会悪ではないのですが、仏法の智慧もお借りしながら解決を図る必要があると思います。

 もう一つの精子の数の問題は、環境公害や食の問題が絡んでいるような気がします。経済効率や利便性ばかりを追求する現代社会のなかに秘かに進む大自然のしっぺ返しなのかも知れません。人間の諸活動が進歩するのは、それはそれで結構なことではあるのですが、あまりに競争などを重視して手柄を焦ると、影(マイナスの効果、悪い影響)の部分を見落とします。自然には仏の教えがびっしりと詰まっていることを忘れてはならないと考えます。仏法では、悉有仏性(しつうぶっしょう)といって、森羅万象あらゆるものは悉(ことごと)く仏の性質を有す、と教えています。あらゆるものから仏の教えを読み取ることができるはずなのです。何かを人間の利便に供するには、そこから仏の教えを読み取ってからにしたほうがよいのではないでしょうか。

 哀しいかな、今の世の中は経済効果を優先し、問題が起こってから手直しをするというのが普通になっています。これでは、誰かが儲けるために衆生(民衆)をモルモットにしているということになるではありませんか。

お盆

2006-08-02 18:19:59 | Weblog
 八月になりました。私のお寺のある関西ではお盆は旧暦(または月遅れ)の行事となっており、八月の15、6日ごろに送り火となります。

 ただ、一般的に営まれる「お盆」の概念には、迷信的な霊魂観が含まれていますが、浄土真宗ではそういう考え方をしないように教えています。しかし、だからと言って、浄土真宗にはお盆はないのだと決めつけているわけではありません。

 お盆は日本の古くからの伝統行事であり、働く人も休みをとり、遠くの親戚も故郷に帰って墓参するなど、気持ちのなごむ行事となっています。特に普段は仏の教えからも遠くにいる現代の人々が、先祖のご縁で仏法の話を聞くよい機会でもあります。

 以上は、月並みの「お盆」の解説でした。

 話は変わりますが、私の寺のある街は京都に近く、京都の街々と同じように「地蔵盆」という行事が営まれます。おおかた町内会が主催するのですが、町内にお寺があればお寺の境内に、なければ町内の適当な敷地に、普段は祠か何処かに祀ってあるお地蔵さんを持ち出して飾り付けます。赤い提灯を一列に掛け、テントを張って、お地蔵さんへのお供えを並べ、その前に2,30人が屯(たむろ)できるコーナーを作ります。お供えは、駄菓子、西瓜、果物、缶ジュースなどで、行事が終わったら町内で分配して持ち帰ります。飾り付けができると、町内会長さん以下皆さんが集まって、お寺のお坊さんに来てもらってお経を読んでもらい、それが終われば、子供の天下です。行事は2日間で、2日目には百万辺(ひゃくまんべん)と称する数珠廻しの行事があります。10数人、子供なら20人程度が輪になって一つの大きな数珠を膝の前で持って、「百万ベ~ン、ナンマイダ」と繰り返しながら回すのです。この間、町内会長さんは町内の物故者の名前を鉦を叩きながら称えます。

 私は自分の寺の境内で行われるこの地蔵盆の行事を、毎年見ていますが、近年、子供の数が極端に減って、こういう行事もやりにくくなってきたようです。飾り付けが終わると、大人は皆帰ってしまいますが、そのあとに響くはずの子供の声はありません。お供えも烏に荒らされないようにビニールが掛けてありますが、実に侘しい光景です。

 よその町内や京都や大津の街ではどのようにされているのかなと、気のもめることです。

父母孝養の念仏

2006-07-31 21:26:29 | Weblog
 「親鸞は父母の孝養のためとて、一返(いっぺん)にても念仏申したること、いまだ候らわず」云々。

 私は自分の父母の祭壇をお内仏の側に作っており、寺に居るときは朝夕のお勤めの後にはその祭壇の前に座って、偈文と呼ばれる短いお経を読誦します。別に意味はなく、習慣のような、亡き父母へのあいさつのようなものですが、そうしたときに、必ず思い出すのが、親鸞さまがおっしゃったという上記の一文です。

 これは親鸞さまの晩年にずっと付き添われた唯円坊が書き残したといわれる『歎異抄』にある一文です。この後にその理由が二つ書いてあります。

 すべての生き物は因果の理によって、生まれては死に、また生まれ代わる、を繰り返しているから、その長い繰り返しの中で或るときは親子になり、また或るときは兄弟になったりということがあるかもしれない。だから、今生で父母であった特定のかただけの孝行のために念仏を申すというのは仏の教えに反する...これが第1の理由です。

 第2の理由は、念仏によって善行を積んで、その善行の功徳を父母の供養に振り向ける、という考え方があるが(追善供養)、自力で何らの善を積むこともできない身が、ひたすら阿弥陀仏の本願力(他力)を頼んで称える念仏は、自分の極楽往生を願うだけが精一杯の念仏である。阿弥陀仏によってお浄土に迎えられて、自分も仏に仲間入りさせていただいてからでも、父母兄弟を含むみんなの済度の作業に参加できる...ということです。

 何という厳しい信仰心ではないか、と息を呑むばかりです。なるほど、しっかりとした仏の道を歩くこともできない私が念仏を称えたからといって、地獄に苦しんでいるかもしれない亡者が突然極楽に、などということはある訳がないですねぇ。

 しかし、私などは、父母の存命中は好き勝手なことをさせていただき、親不孝もここまで徹底するかというほど、親に冷たく接してきた気がします。今も父の遺していった貧乏寺を継ぎ、半分恨み節の混じったお経を読んで、それでいながら、仏壇の中の父母に「御免なさい。きちんと住職やってるから、どうぞ安心して極楽においでください。阿弥陀さまには私からもよろしくお願いしておきますから...ナムアミダブツ」と語りかけています。一度だけではありません。父母の祭壇の前に座ると、その都度、毎朝毎晩です。

 こんな調子だから、親鸞さまのような信心には、なかなか近付けないのでしょうねぇ。